よどじょう

淀城

京都府京都市

別名 : てん城、新淀城
旧国名 : 山城

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山城國淀城圖
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イオ

わずかに遺る痕跡 (2025/12/13 訪問)

(続き)

本丸跡に続いては、京都府教育委員会文化財保護課の淀城跡の地図と「山城國淀城圖」を参考に城下を散策しました。

淀の水車(京都市伏見区淀本町)
淀城には桂川から二ノ丸居間と西ノ丸庭園に水を引き入れるため2基の大きな水車が設けられていて、淀城の名所として「淀の川瀬の水車、だれを待つやらくるくると」と歌われ、葛飾北斎の「雪月花淀川」にも描かれています。現在は水車は失われていますが、県道沿いの二ノ丸側水車の跡地に石碑が立てられています。また、淀駅西側ロータリーに淀の水車のモニュメントが設けられていました。

藩校明親館(京都市伏見区淀池上町)
跡地は小学校になっていて石碑や説明板なども見当たりませんでしたが、明親館の名は小学校に受け継がれていて(明親小学校)、時代を経ても変わらず学びの場であり続けているんだな、と妙な感慨がありました。また、戊辰戦争では幕府軍の陣が置かれた地でもあるようです。

大坂口門(京都市伏見区淀池上町)
城下を通る京街道に設けられた門で門自体は失われていますが、駐車場の奥に往時のものとされる石垣がわずかに遺っています。

孫橋(京都市伏見区淀新町)
大坂口門から京街道沿いに新町を抜けたところの巨椋池からの水路に架けられていた橋で、現在は土橋になっていますが、水路に往時の区画を感じることができました。なお、孫橋の少し先には木津川に架かる淀大橋がありましたが、木津川の付け替えにより宅地化していて何の痕跡も見られません。

淀小橋(京都市伏見区納所町)
京街道を北に進み京口門を出た先の宇治川に架かる橋で、幕末には淀城への入城を拒まれた幕府軍により焼き落とされています。その後、再建されるも宇治川の付け替えにより撤去され、跡地には石碑と説明板が立てられていました。

唐人雁木(京都市伏見区納所町)
朝鮮通信使は大坂で川船に乗り換えて淀川をさかのぼり、淀城下で上陸して陸路で京都そして江戸へと向かいましたが、その上陸地は唐人雁木と呼ばれました。宇治川の付け替えにより唐人雁木は失われ、跡地には石碑が立てられています。

城下に遺構はほとんどないものの、歩き回ってみるとそれなりに痕跡はあるもので、わずかばかりにでも往時の雰囲気を感じることができました。
 

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イオ

天守の移築元は… (2025/12/13 訪問)

江戸前期に徳川秀忠の命により松平定綱が宇治川・桂川・木津川・巨椋池が合流する中洲に築いた城で、廃城となった伏見城に代わって京都防衛の役割を担いました。松平定綱が美濃国大垣に移ると永井尚政が入り、木津川を付け替えて城下を拡張しています。そして、石川氏、戸田松平氏、大給松平氏と譜代大名が次々と入れ替わった後、稲葉氏が明治まで12代続きました。幕末には鳥羽伏見の戦いで敗れた幕府軍の入城を拒否し、戦いの趨勢を決した一因ともなっています。明治には廃藩に伴って廃城となり、本丸の一部を除いて遺構のほとんどが失われました。

京阪本線・淀駅から登城開始。本丸跡は淀城跡公園として整備されていて、5番出口を出て少し行くと天守台の石垣が見えてきます。天守台へ続く門は開いていたので天守台には登れましたが、穴蔵への門は閉ざされていました。天守台には伏見城の天守が移築される予定だったのが二条城へ移築されることになったため、代わりに二条城の天守が移築されています。その二条城の天守は大和郡山城の天守を移築したものとされ、郡山城天守台で確認された礎石と淀城天守図面の柱の配置が一致するんだとか。

天守台から多聞櫓なり塀なりが設けられていたであろう本丸南辺の石垣の上を南西隅の月見櫓跡へ。石垣外周には本丸南辺から西辺にかけて内堀が続いています。本丸西辺の石垣内側には淀城址の石碑が、本丸北西隅の丹波櫓跡には明治天皇御駐蹕之址の石碑が立てられていました。丹波櫓に隣接していた枡形虎口は失われていますが、廊下橋があったとされる内堀あたりは埋め立てられて、石垣の石材が並べられていました。その他、公園として整備されている本丸跡には淀城の説明板や「山城國淀城圖」、稲葉氏の家祖とされる稲葉正成(春日局の夫)を祭神とする稲葉神社が祀られています。

さて、本丸跡はこんなところで、続いては巨椋池の干拓により失われた淀城の痕跡をたどって城下を散策してみるとしましょう(続く)。
 

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橋吉

鳥羽・伏見の戦いのキーポイント (2025/08/28 訪問)

京都の淀城に行ってきました。
京阪電鉄のガード下にある京阪パーキング 淀駅前に駐車しました。
眼前に天守台が見えます。

淀城は、本丸から右回りに二の丸、三の丸と曲輪を並べてゆく渦郭式の縄張りで、桂川と木津川が合流する水陸の要衝の地に築かれた平城です。
今はすっかり埋め立てられて、本丸の内濠と石垣の一部しか残っていません。
本丸址は現在公園で、与杼(よど)神社と藩祖の稲葉正成を祭神とした稲葉神社の境内も含まれます。
なお、豊臣秀吉が於茶々(後の淀殿、淀君)のために築いた城は淀古城址とよばれ区別されています。
位置も徳川の淀城より北にあったようです。

1868(慶応4)年1月に起きた鳥羽・伏見の戦いにおいて、敗走する幕府軍は淀城に助けを求めました。
しかし、淀藩は幕府を大きく裏切り城門を開けませんでした。。
当時の藩主であった稲葉正邦(まさくに)は、江戸幕府の老中を務めていたにもかかわらずの裏切りです。

しかし薩長軍から見れば勝利に大きく貢献したようで、このため、わずか数ヶ月後に明治天皇の宿泊にも使われています。

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しんちゃん

京都防御の城だったのだけど (2013/09/07 訪問)

淀城は宇治川・桂川の合流点に近い川中島に築かれ、伏見城の廃城に伴い、それに代わる京都防御の役割を担わされたものとされています。元和9年、松平定綱は徳川秀忠の命により淀入部を命じられ、城郭は寛永2年(1625)にほぼ完成したとされます。
本丸の北に二の丸を配し、その周囲を内堀で巡らし、西丸と三丸の周囲を外堀で護っていました。多くの櫓を備え、北と西側には揚水用の水軍が設けられていたようです。
寛永10年に永井尚政が10万石で入って以来、多くの大名が6万石で入りましたが、鳥羽伏見の戦いで敗走する幕府軍を城内に入れず、官軍の勝利に貢献してしまったようです。
訪問時、天守台が立ち入り禁止だったために天守台の穴蔵を見ていません。

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城郭情報

分類・構造 梯郭式平城
天守構造 連立式望楼型[5重5階地下1階/1623年築/焼失(落雷)]
築城主 松平定綱
築城年 元和9年(1623)
主な改修者 永井尚政
主な城主 松平氏、石川氏、稲葉氏
廃城年 明治4年(1871)
遺構 曲輪、石垣、天守台、横堀(水堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 京都府京都市伏見区淀本町(淀城跡公園)
問い合わせ先 京都市産業観光局観光部観光企画課
問い合わせ先電話番号 075-222-4130