淀城は宇治川・桂川の合流点に近い川中島に築かれ、伏見城の廃城に伴い、それに代わる京都防御の役割を担わされたものとされています。元和9年、松平定綱は徳川秀忠の命により淀入部を命じられ、城郭は寛永2年(1625)にほぼ完成したとされます。
本丸の北に二の丸を配し、その周囲を内堀で巡らし、西丸と三丸の周囲を外堀で護っていました。多くの櫓を備え、北と西側には揚水用の水軍が設けられていたようです。
寛永10年に永井尚政が10万石で入って以来、多くの大名が6万石で入りましたが、鳥羽伏見の戦いで敗走する幕府軍を城内に入れず、官軍の勝利に貢献してしまったようです。
訪問時、天守台が立ち入り禁止だったために天守台の穴蔵を見ていません。
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