別名「武州松山城」「武蔵松山城」とも呼ばれる吉見町にある「松山城」、室町時代に上田友直によって築城され、その後北条方の城として豊臣秀吉による小田原征伐の時、前田・上杉軍主力の大軍に包囲され落城しました。
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2024/02/04 09:52
2023/06/30 15:59
武蔵松山城 (2023/06/30 訪問)
バス通り側から本曲輪まで登ってわかった史跡になるだけのものはあると。
私が今まで見てきた城の中でトップクラスに遺構が残っている。
残念だった点は、連郭式の城で本曲輪から別のルートで降りて行こうとしたらしばらく誰も通ってないんじゃないかってくらいの蜘蛛の巣があり、雨の後でぬかるんでいたので滑りそうなのが怖くて私は断念。また別の機会にじっくり見ようと思います。(バス通り側からの登りは問題ないと思います)
虫も多かったし、山城(平山城)はそろそろ一時休戦時ですかね…
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2023/03/25 13:31
国指定史跡 比企城館跡群の一つ (2023/03/22 訪問)
説明板に、築城は山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背景とした15世紀後半という考え方が有力。その後、武田氏・後北条氏・岩槻太田氏・越後上杉氏の間で幾多の合戦が繰り広げられる。天正18年、前田利家・上杉景勝の包囲され落城、徳川の関東入国後は松平氏が入ったが、慶長6年(1601)に松平氏の移封に伴い廃城、と書かれている。
城跡の東入口から入ると、右に下草の刈られた小曲輪があり、堀を挟んで曲輪四へ。三ノ曲輪へは低い位置に土橋がある。堀底を北に行くと方形の枡形状虎口跡にでる。右に行けば根小屋へ、左は惣曲輪を通り、兵糧倉跡・本曲輪へ行く。
本曲輪は兵糧倉側虎口・二ノ曲輪側虎口の間が二ノ曲輪方向へ突き出ている。南寄りに神社?の基礎部が残り、参道を下がれば笹曲輪があり、堀状の道は西下の當選寺寄りの散策路に出る。二ノ曲輪は本曲輪の出っ張りを囲む形だが画像では伝わらない。三ノ曲輪は細長く狭い曲輪だが、周囲の堀はよく残る。西下(市野川)に岩室観音堂が建つ。背後の切通状の道が通行出来れば、惣曲輪の西端に出られそうだ。
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2023/03/20 23:30
空堀を幾重にも巡らせた迷路のような城 (2023/03/05 訪問)
北条氏康・氏政、武田信玄、上杉謙信などにより攻防戦が繰り広げられた城として有名で重要な城です。
大きな空堀を幾重にも巡らせ、各曲輪の間に入り組ませ防御されています。
迷路のような凄い縄張りです。
本曲輪とニノ曲輪の間の空堀は巨大ですが、散策路沿い以外は薮で見辛いです。
本曲輪の北東側・兵糧倉の東側の薮の堀へ降りてみると肉眼では見応えありました。
ニノ曲輪と三ノ曲輪の間、三ノ曲輪と曲輪4の間の空堀も大きいです。
散策ルートと各曲輪はよく整備されていて見学し易くありがたいです。
空堀がよく残された城ですが、3月上旬でも薮の箇所が多いため、空堀も整備されることを期待したいです。
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分類・構造 | 梯郭式平山城 |
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築城主 | 上田友直 |
築城年 | 応永6年(1399) |
主な改修者 | 上杉朝定、北条氏康、松平家広 |
主な城主 | 上田氏、難波田氏、扇谷上杉氏、太田氏、桜井松平氏 |
廃城年 | 慶長6年(1601) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
指定文化財 | 国史跡(比企城館跡群) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山 |
問い合わせ先 | 吉見町教育委員会生涯学習課文化財係 |
問い合わせ先電話番号 | 0493-54-9111 |