むさしまつやまじょう

武蔵松山城

埼玉県比企郡

別名 : 城山
旧国名 : 武蔵

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主郭
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ぴーかる

武蔵松山城 (2025/02/16 訪問)

【武蔵松山城】
<駐車場他>吉見百穴駐車場
<交通手段>車

<見所>横堀・馬出・曲輪群
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画第3弾2日目、ラスト5城目。現地説明板によると松山城の築城は新田義貞説、応永年間初期の上田左衛門尉説、応永23年(1416年)頃の上田上野介などがある。城郭としての体裁を整えたのは太田氏が江戸・川越・岩槻の各城を築いた時期に近いと思われる。城をめぐっての上杉・武田・北条の合戦は有名である。のち豊臣勢に攻められ1590年落城します。歴代の城主上田氏滅亡後は松平家広は松山藩1万石で入城しますが1601年浜松に転封されたため廃城となりました。国史跡の比企城跡群の1つです。
 南の登城口から登りました。南の笹曲輪はちょっと藪化して平坦地がちょっと分からなかった。しかし梯郭式の曲輪群は各々横堀で囲んで馬出を取り込んでいます。横堀は繋がっている箇所も多く、堀底道を散策するのも楽しかった。城争奪の激戦地ということで、広い曲輪に大人数を入れて広い堀を防御に戦った様子が浮かびました。
 比企城跡群の御城印4城を購入すると「比企城跡群」御城印がもらえます。先週から続いて最後の4城目でGETできました。ちょっと嬉し。これにてこの旅終了。埼玉の百・続百名城と比企城跡群を攻め落としたので翔んで埼玉もだいぶ大阪化してきたかと思うねん。1178㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆
<吉見百穴>登城前に城跡隣にある吉見百穴に行きました。吉見百穴は古墳時代後期の横穴墓群の遺跡でここも国の史跡になっています。300円の有料ですが横穴石室が残り一見しても良い所でした。古墳カードなるものももらえます。お土産屋さんもあります。

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HARU

武蔵松山城 (2017/05/20 訪問)

別名「武州松山城」「武蔵松山城」とも呼ばれる吉見町にある「松山城」、室町時代に上田友直によって築城され、その後北条方の城として豊臣秀吉による小田原征伐の時、前田・上杉軍主力の大軍に包囲され落城しました。

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むらひろ

武蔵松山城 (2023/06/30 訪問)

バス通り側から本曲輪まで登ってわかった史跡になるだけのものはあると。

私が今まで見てきた城の中でトップクラスに遺構が残っている。

残念だった点は、連郭式の城で本曲輪から別のルートで降りて行こうとしたらしばらく誰も通ってないんじゃないかってくらいの蜘蛛の巣があり、雨の後でぬかるんでいたので滑りそうなのが怖くて私は断念。また別の機会にじっくり見ようと思います。(バス通り側からの登りは問題ないと思います)

虫も多かったし、山城(平山城)はそろそろ一時休戦時ですかね…

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イタさん

国指定史跡 比企城館跡群の一つ (2023/03/22 訪問)

 説明板に、築城は山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背景とした15世紀後半という考え方が有力。その後、武田氏・後北条氏・岩槻太田氏・越後上杉氏の間で幾多の合戦が繰り広げられる。天正18年、前田利家・上杉景勝の包囲され落城、徳川の関東入国後は松平氏が入ったが、慶長6年(1601)に松平氏の移封に伴い廃城、と書かれている。

 城跡の東入口から入ると、右に下草の刈られた小曲輪があり、堀を挟んで曲輪四へ。三ノ曲輪へは低い位置に土橋がある。堀底を北に行くと方形の枡形状虎口跡にでる。右に行けば根小屋へ、左は惣曲輪を通り、兵糧倉跡・本曲輪へ行く。
 本曲輪は兵糧倉側虎口・二ノ曲輪側虎口の間が二ノ曲輪方向へ突き出ている。南寄りに神社?の基礎部が残り、参道を下がれば笹曲輪があり、堀状の道は西下の當選寺寄りの散策路に出る。二ノ曲輪は本曲輪の出っ張りを囲む形だが画像では伝わらない。三ノ曲輪は細長く狭い曲輪だが、周囲の堀はよく残る。西下(市野川)に岩室観音堂が建つ。背後の切通状の道が通行出来れば、惣曲輪の西端に出られそうだ。

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城郭情報

分類・構造 梯郭式平山城
築城主 上田友直
築城年 応永6年(1399)
主な改修者 上杉朝定、北条氏康、松平家広
主な城主 上田氏、難波田氏、扇谷上杉氏、太田氏、桜井松平氏
廃城年 慶長6年(1601)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 国史跡(比企城館跡群)
再建造物 石碑、説明板
住所 埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山
問い合わせ先 吉見町教育委員会生涯学習課文化財係
問い合わせ先電話番号 0493-54-9111