関ヶ原古戦場 平塚為広碑
(2024/04/14 訪問)
ネタが尽きて来ました・・というわけではありませんが(汗)
関ヶ原古戦場 平塚為広碑の投稿です。平塚殿の分身の方にはEXPO会場でお会いして暑い・・もとい熱いハグを頂きました。
どうせなら姫が良いのに~。。いやいや、いろいろな人に会えるのもEXPOならでは。
古戦場にあるのは陣跡の碑ではなく為広本人の碑です。関ヶ原では戸田勝成とともに約600の兵で藤川台に布陣し、病をわずらっていた大谷吉継の代わりに前線の指揮を託されていたと案内板には記されています。
関ヶ原の合戦に関しては後世の創作による部分も多いとされ、実際に大谷吉継が山中に布陣していたかどうかは定かではありません。合戦前に黒田長政や福島正則らが暗躍し小早川秀秋や吉川広家らをすでに凋落していたという説があります。
家康が秀秋をコントロール出来る環境が整っていた可能性もあるわけで、高橋陽介氏の「シン・関ヶ原」にあるように家康の命で秀秋が松尾山に陣を敷いたのであれば、石田三成・宇喜多秀家ら西軍は家康の策によって関ヶ原に釣りだされたとも取れます。
三成らは吉川広家が既に家康と和睦していることを知らないので、彼らが「秀秋が東軍に寝返った」と疑っているのであれば松尾山の秀秋と、家康が遣わす「東軍先手の武将達(豊臣恩顧)」に南宮山に布陣する毛利秀元らが挟撃されることを怖れると思います。
秀秋の真意も確かめる必要があるし、秀秋が翻意したのであれば即座に討ち果たす必要が有るので、歴史的に見て大谷吉継が山中に居る必然性は低いと思います。関ヶ原に関しては、まだわかっていないことの方が多いですね。
ヒロケンさんの投稿にあった吉田城の「山田」の刻印石。懐かしいですね・・修復のさいに家臣から持ち込まれた・・誰でしょうか?
朝日新聞のデジタル版の戸村登さんの記事によると「山田」は蜂須賀家家臣の山田織部佐(宗登)の刻印とされています。織部佐は大阪冬の陣で活躍し秀忠や家康から感状をいただいたとされる人物です(阿波の七感状)。
また仁宇城主である父の宗重の可能性も有るようです。
刻印石は名古屋城の築城には使用されず、採石地に残されていた石で、後に吉田城が改修される際に石垣に使われたとか。
まだまだ知らないこともたくさんあるし、訪れたい場所もいっぱいあります。四国もゆっくり回りたいが現状は厳しいな~
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