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ぴーかる

弘前城と桜 (2025/04/28 訪問)

【百名城79城目】
<駐車場他>弘前さくらまつり富士見橋臨時駐車場(無料)に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>現存櫓・現存門・天守・石垣
<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目4城目。今回の旅のメイン弘前城です。北側の一陽橋から入り、北門⇒二の丸丑寅櫓⇒有料区域の北の郭⇒本丸・天守⇒南から抜けて二の丸南内門・辰巳櫓・未申櫓⇒追手門⇒本丸東面石垣を見て⇒東内門⇒東門の順で巡りました。
 桜が有名な名城は数多くありますが、人の混雑が嫌で、桜の時期に行くことはありませんでした。2回目来れるかどうか分からない遠方でもあり、どうせ行くなら桜の時期と決めて、無事訪れる事ができて良かった。現存の櫓・櫓門と桜が見事に調和した光景は心に残りました。天守ももうすぐ元の位置に戻されて今の景色は見られないでしょう。沢山あるのに、天守しか現存建造物に入れなかったのが、少し残念なところでした。これにて現存12天守制覇です。

<満足度>★★★★★

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カズサン

江戸期は本堂氏陣屋が置かれた (2025/06/07 訪問)

 前年時間切れで探訪できなかった石岡城を終えて時間も有り、城びとで近く探し、西に約4km程の志筑城と定めて初登城しました。
 国道6号線を南に進行し恋瀬川を渡って西に進攻し、志筑城の西虎口坂道を登り、志筑城跡旧志筑小学校跡の校門より進入。車は元グラウンドと思われるエリアに駐車する。

 校門の石柱横に志筑城の案内解説板がある、反対側には立派な忠魂碑、通って来た道が1郭南の土塁、堀跡の道の様、案内板を読むと平成23年に移転して更地に成った。旧小学校の庭園と中心に楠木の大木が残って居る、根元には小さな志筑城址碑が在り、少し離れて伊東甲子太郎の碑文の刻まれた顕彰碑、伊東甲子太郎顕彰碑柱と解説板が楠木に覆われて立っている。

 伊東甲子太郎の名を見て幕末新選組の参謀伊東甲子太郎がなぜ此処に、本堂家家臣鈴木忠明の長男と記されている、水戸、江戸で学び伊東精一道場で北辰一刀流を極める、新選組に参謀として使える。映画ドラマでは新選組を離れて暗殺されましたが、ここの地が出身地だったのかと、歴史ドラマが甦りました。

 志筑城は案内解説板によると。
 志筑城は恋瀬川を望む半島状に台地上に位置してる。平安期末から鎌倉初期に下河辺政義にて築かれた、源頼朝から地頭職に任じられ、常陸南部を治める、政義以降その子孫は益戸氏を名乗り代々志筑城を治めた。南北朝時代の城主は国行で、小田氏の旗下で南朝方に属していた、北朝方の高師冬佐竹氏大掾氏に小田氏が負けると、志筑城益戸国行も開城し落ち延び廃城に成った様です。
 時は流れて、関ケ原後佐竹氏水戸から秋田へ国替えにて、出羽国仙北郡(秋田県仙北郡美郷町)本堂城主本堂茂親が常陸志筑地域(8500石)へ国替え慶長6年(1601年)、正保2年(1642年)から明治の廃藩置県まで本堂氏の陣屋が置かれた。

 グーグルマップ航空写真を見ると妻瀬川流域は干拓田圃整理が整い霞ヶ浦まで繋がっている、余湖図コレクションの情報では霞ヶ浦が昔は志筑城付近まで広がっていた、南側の池は堀であり、かっては川が城の周囲を流れていたととありますが、航空写真を見るとその様にも見向けられます。

 又志筑城校門から南へ500m程で県道138号線に合流しますが、その突き当りに志筑城移築陣屋門が在ります、走行中におや?民家の門にしては立派!と目視したのですが写真撮らず。

 歴史800年を重ねる志筑城、関ケ原後の国替え、幕末の擾乱が織りなしてる志筑城探訪でした。
   

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イオ

突出部のある館城 (2025/02/23 訪問)

築城時期等は不明ながら南山城の国人・草内氏の城館とされ、室町期には興福寺領の政所が置かれていましたが、応仁・文明の乱の終結後もなお続く畠山氏の内紛の舞台となり、山城国一揆でも畠山氏により活用されたと考えられます。

城跡には咋岡神社が鎮座し、鳥居前の空きスペースに駐車させてもらって登城開始。鳥居をくぐってすぐのところに草路城跡の石碑が立てられています。草路城は周囲を水堀で囲んだ方形単郭の城館ですが、西辺に突出部を設けて横矢掛りになっています。突出部から南辺にかけて土塁をめぐらせてはいるものの、高さはないので遠目にはよくわかりません。北辺の横堀は二重になっていて、内側の堀は境内に明瞭に遺っています。

境内をひとめぐりすると、今度は外周を時計回りに一周。北辺には境内で見た二重横堀の外側の堀の名残の水路が東西に走っています。東辺から南辺にも細い水路が続き(たぶん道も堀跡)、南辺の水路越しに境内を覗くと南辺の土塁がよく見えました。外側からは突出部南西隅の土塁もよく見えます。西辺の突出部の周囲では水路の幅が広くなり、往時の水堀に少しは近い感じでしょうか。

境内に遺る土塁や横堀だけでなく、外周を一周すると方形城館の雰囲気が感じられるので(時間が許せば)おすすめです。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:土居の内(大渕館) (2025/05/23 訪問)

細工所城(荒木城)城から車で15分ちょっとで、大渕福寿会館駐車場?(35.083061、135.254708)に着きました。
そこから徒歩2~3分くらいで、土居の内跡(35.082249、135.256451)に着きます。

史料には大渕古館とあるようです。室町時代に造られた在地土豪の居館跡で、天正期に地元の豪族畑氏(畑左近允能綱・同弾正守広)が築いたとされます。
当時、篠山市内の範囲にいくつも存在した館形式のようですが、現在、このような館跡はここだけになったようです。

自宅に石垣をめぐらせている家はありますが、水堀と高い土塁をめぐらせてみるというのはインパクトがあります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=沢田城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:細工所城(荒木城) (2025/05/23 訪問)

橋爪城から車で25分くらいで、荒木城趾駐車場(35.089395、135.317799)に着きました。荒木城登城口標識はすぐ横にあります。

1550年(天文年間末)頃に荒木山城守氏綱が築いた山城で、荒木城・井串城とも呼ばれています。
氏綱は波多野秀治に属し「丹波の荒木鬼」と恐れられましたが、1577年(天正5年)明智軍の猛攻をうけ落城しました。
氏綱は東本荘の館に隠退し、子の氏清ら一族は光秀に従い1582年(天正10年)の本能寺・山崎合戦・坂本籠城にも参加しました。

登城路後半は急勾配となりますが、鎖やトラロープが設置してあり、整備が行き届いていますので登城しやすいと思いますが、軍手&トレッキングシューズは必須です。
現在城址には曲輪や土塁、堀切などの遺構を確認することができ、主郭周りには、竪堀、貯水枡跡もあり、眺めも良いお城です。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=土居の内(大渕館)へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:橋爪城 (2025/05/23 訪問)

須知城から車で15分くらいで、常照寺手前空スペース(35.181461、135.386190)に着きました。

築城時期、築城者など詳細不明のようですが、三ノ宮城を本拠とした山内氏の城とされています。
山内但馬守盛豊は江戸時代に土佐藩の祖となった山内一豊の父とされます。

高台にある常照寺の下まで行き右手の小道を行きます。
常照寺の境内西側から山に入る道があり獣除けフェンスがあります。その先に墓地があり、これの背後を直登します。
墓地の斜め左手から登りますが斜面はそんなにきつくはないです。見上げると城壁が見えています。
主郭との間の虎口と思われる開口部には東側が土塁になってます。
主郭の北側下には切岸と堀切があります。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=細工所城(荒木城)に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:須知城 (2025/05/23 訪問)

御影山城から車で35分くらいで、玉雲寺入口付近駐車場(35.140786、135.434372)に着き、そこから徒歩5分くらいで、登城口付近(35.143171、135.433707)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に須知景光によって築かれたと云われています。
1579年(天正7年)織田信長の命を受けた明智光秀による丹波侵攻では、当初は織田方として参戦しますが、途中で離反したために光秀の軍勢に攻められ落城し、須知氏は滅亡しました。
その後は明智氏の丹波支配の拠点として利用されたそうです。
山麓の玉雲寺は須知出羽守慶吉が開山した寺で、落城の際に兵火で焼失したものを光秀が再興したそうです。

③写真の場所の上をさらに100m行くと登山道入口があるはずですが、自分にはみつけられませんでした。
15分くらいウロウロしましたが、断念しました。結構ショックです。高石垣みたかったのに。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=橋爪城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:御影山城 (2025/05/23 訪問)

亀岡駅でレンタカーを借り、車で10分くらいで出雲大神宮正面表参道駐車場(35.058351、135.578402)に着きました。

築城年代など定かでないようですが、京都で一時勢力のあった柳本伊予守が築城したとの説があります。
伊予守は1530年(享禄3年)播磨で討死し、その後は丹波守護代の内藤国貞が支配下に置いたそうです。
明智軍が侵攻した際は、国人衆が防戦したと伝わっています。

山頂付近は石積み、土塁、堀切等良い遺構が多くあるようですが、御影山全体が麓の出雲大神宮の御神体であるため入山禁止となっています。
出雲大神宮のお参りして撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=須知城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠9日目:亀山城関連(南郷公園) (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
亀山城関連として移築城門と聖隣寺、南郷公園を見学しました。
亀山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年2月8日に来ました。
亀山城関連(聖隣寺)から徒歩15分くらいで、南郷公園(35.014831、135.581724)に着きました。

~南郷公園での確認内容~
①明知光秀公築城碑➡確認できませんでした
②明知光秀公の像
③堀跡の南郷池
最悪です。亀山城の鯱瓦説明板の写真は撮っているのに、鯱瓦そのものの写真を撮っていませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=御影山城を攻城する前に、ホテルに戻って朝食を食べました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:亀山城関連(聖隣寺) (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
亀山城関連として移築城門と聖隣寺、南郷公園を見学しました。
亀山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年2月8日に来ました。
亀山城関連(移築城門)から徒歩30分くらいで、聖隣寺(35.008084、135.586132)に着きました。

~聖隣寺での確認内容~
①山門の袖塀に狭間が設けられている 
②達磨太子像が山門の左隅に立っている
③毘沙門堂の屋根に細川家の家紋「細川九曜」と豊臣ケ家紋「五七の桐」
④織田信長の五輪塔(供養塔)がある
⑤木造の毘沙門天立像がある➡確認できませんでした
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=亀山城関連(南郷公園)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:亀山城関連(移築城門) (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
亀山城は今回2回目の攻城です。1回目は2019年2月8日に来ました。
亀山城関連として移築城門と聖隣寺、南郷公園を見学しました。まずは移築城門です。
余部城から徒歩35分くらいで、保津大五区会議所前(35.022038、135.592882)に着き、新御殿玄関を見学した後、文覚寺山門前(35.023045、135.594954)の移築城門を見学しました。

保津大五区会議所の御殿玄関は公民館に転用されていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=亀山城関連(聖隣寺)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征9日目:余部城 (2025/05/23 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、余部城と亀山城関連(移築城門&聖隣寺&南郷公園)を見学しました。
ホテルから徒歩15分くらいで、城址碑前の階段(35.018644、135.571986)に着きました。

築城年代や築城者については定かでないようですが、1467年頃(応仁文明の乱の頃)には、中沢正綱(中沢因幡守正綱)が丹波・丸岡城主だったそうです。
1578年(天正6年)明智光秀が丹波へと兵を進めると、八上城主波多野氏に属していた城主福井貞政は、光秀に降らず余部城を攻められ自刃したそうです。

現在の西岸寺境内から西側の住宅地一帯が城跡で、西岸寺に至る坂道に大手門があったといわれています。
亀山城の移築城門(保津大五区会議所)に行く途中(宿泊ホテルの目の前です)、サンガスタジアムがありました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=亀山城関連(移築城門)に徒歩で向かいました。

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翡翠

高島城 (2024/07/15 訪問)

松本城に行く前に行って見ました。近くの無料の駐車場に停めて行きました。緑の木々がとても綺麗でした。

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しんちゃん

総石垣の城 (2025/04/20 訪問)

現在の赤穂城は正保2年(1645)に53500石で入封した浅野長直が近藤正純に命じて慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで13年をかけて完成させたとされています。縄張りは甲州流軍学によって成されたとされ、本丸の周囲に二の丸を配し、北に三の丸を配しています。
石高を上回る規模の総石垣の城として築かれ、かつては瀬戸内海に面した海城で有りました。今でも本丸・二の丸・三の丸の周囲に水堀が残っています。三の丸に三箇所(大手門・塩谷門・清水門)の枡形を有し、二の丸と三の丸の境目に一箇所、本丸の本丸門に一箇所と五つの枡形を有していました。二の丸にも二ヵ所の仕切を設け、事実上別の郭となっています。
本丸も12~13の辺をもつ複雑な形状をしていて、海側から攻めてきた敵は本丸門にたどり着く前に各辺に設けられた狭間から攻撃を受け、やられてしまいそうです。個人的には二の丸門と本丸門の間に、もう一工 夫が欲しい所です。

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しんちゃん

茅ケ崎城址公園 (2024/12/30 訪問)

茅ケ崎城は北に早淵川が流れる独立した丘陵上に築かれています。周囲が宅地として開発されている中で、これだけの遺構を備えた城が残されていることに驚かされます。城主などの詳細は不明ですが、北条氏の勢力下の城として小机城より古い時代に築かれたのではないかと考えられています。
中郭が主郭とされ、周囲に土塁が残っていて、特に南側の土塁は通路に沿って高土塁となっているようです。主郭の北の郭が城址公園の入口にあたり、土橋跡や井戸跡が残っています。主郭を訪問した後は虎口を経て、西郭を訪問し、南側の長大な通路を迂回して東郭を訪問します。各郭の間は堀切道となっています。

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しんちゃん

波多野氏の城址とされる。 (2024/12/30 訪問)

波多野城は波多野義景の居館とする説があるようです。東小学校の西側にある丘陵が城址とされ、周囲の田畑も空堀の跡であるようです。城址に道が続いていますが、見学できる範囲は限られており、小公園のようになっています。
道路を挟んだ南側の丘陵上も城址の可能性があるとして、一応訪問はしていますが、それらしい雰囲気は感じられませんでした。

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朝田 辰兵衛

クマの毛皮を見たければ,ぜひ🏰へ… (2025/05/24 訪問)

模擬天守の森林資料館には,クマの毛皮を展示しています。入館無料。柵があったり,ガラスケースに入っていたりもしてません。至近距離で見ることができます。ただ,この大きさだと子どもだと思いますが,一見の価値はあると思います。

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トク

有馬氏250年の面影が残る城 (2025/05/11 訪問)

久留米城はJR久留米駅からブリジストン通りを歩いて15分の所にあります。現在は、本丸御殿があった場所に篠山神社が建ち(写真③)、二の丸・三の丸はブリジストンの国内最大級の工場になっています。北は筑後川に守られ(写真⑦)、本丸の南に大手門を配し(写真②)、さらに南に二ノ丸・三ノ丸が続くという縄張りとなっていました。

実質的な最初の築城者は、秀吉の九州平定後の1587年に入った、毛利元就の九男「毛利秀包」です(写真④)。しかし秀包は関ケ原の戦いで、立花宗茂・筑紫広門とともに関ケ原へ向かうも、大津城で京極高次に足止めをされ、わずか1日の差で本戦に間に合わず、その後家康より改易されてしまいます。

代わって関ケ原後の1601年、久留米は「田中吉政」の領地となりますが、吉政は本城を柳川城としたため、支城の久留米城は1615年の一国一城令で廃城になりました。

その後、吉政の子の忠政に嫡子なく田中家は断絶。1621年、柳川には立花宗茂が復帰し、久留米にはが丹波福知山より「有馬豊氏」が入ります(写真⑤)。豊氏は廃城となった久留米城を近世城郭へと再建していきます。本丸の周囲を六つの三重櫓で固め、特に巽櫓は天守代用としていたようです(写真⑧左)。二ノ丸・三ノ丸と城下町を整備し、有馬氏は幕末まで250年続きました。

帰りに同じく河川敷にある久留米百年公園にも立ち寄りました。こちらは静かな久留米城と異なり、久留米市がずいぶんとお金をかけ、多くの市民が訪れやすい市民の憩いの場に整備されていました(写真⑨)。ならば久留米城も、せっかく続100名城にも選ばれたので、できれば写真⑧に残るような櫓を復元して、もっと多くの人に久留米の歴史を伝えられるような場所に、整備してほしいなと私は思いました。

最後に西鉄久留米駅構内の「清陽軒」で、久留米とんこつラーメンをいただきました。さすが久留米の味! 濃コクでした~😋(写真⑩)。
 

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イオ

城らしくない縄張の陣城 (2025/02/23 訪問)

室町期築城の津田氏の城とする説は江戸期以降に意図的に創作された史料によるもので、現在見られる城郭遺構は、三好三人衆と松永久秀らの抗争において両勢力の陣城として修験道の山岳寺院を改修したものと考えられるようです。

津田サイエンスヒルズ奥の道路脇に路駐して登城開始。よく整備された遊歩道を登って行くと、国見山東裾にいくつかの腰曲輪が展開し、その奥に主郭が設けられています。主郭は遊歩道で東西に分割され、東側は南辺から東辺にかけて北東にのびる尾根を土塁として削平しています。西側は山頂にのびる北西尾根を土塁に見立てて西辺の防御とし、北端には竹柵が設けられていました。もちろん模擬柵ですが、あ さんの投稿にもあるように、竹柵があるだけでもずいぶんお城感を感じます。主郭南西隅の山頂からの尾根と北東からの尾根が交わるところには虎口が開口し、虎口を出た先は両端が切り立った土橋になっていました。

虎口まで戻って、次いでは北東尾根へ。北東尾根は主郭の土塁として削平されていて、主郭東辺では広くなった土塁上が休憩所となっていました。さらに北東に進んだところで引き返すと、今度は山頂へと続く北西尾根へ。北西尾根は大土塁として西側からの侵攻を阻んでいます。北西尾根を登り切ったところが国見山の山頂で、曲輪といえるほどの広さはないものの、その名のとおり河内国、摂津国、山城国を一望する見事な眺望が開けており、物見台として機能したと思われます。そして、そのまま山頂から北に下って展望デッキや夫婦岩を経由して下山しました。

山岳寺院を改修したことによるものか城らしくない不思議な縄張の陣城ですが、遊歩道はよく整備されて訪れやすく眺望も素晴らしいので、これはこれで楽しませていただきました。
 

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昌官忠

(東海&関西)遠征8日目:塩貝城 (2025/05/22 訪問)

胡麻駅から徒歩15分くらいで、入口標識前(35.190012、135.471056)に着きました。
そこから、民家手前のネットのある墓地の裏に廻り込み少し登ると小屋掛けされた「塩見将監之墓」の墓所があります。
獣よけネットをめくってくぐって進みます。本丸まで500m~600mくらいです。

詳細は不明のようです。城主は塩貝将監晴政とその子塩貝将監晴道が伝えられ、麓に墓もあります。
1579年(天正7年)塩貝晴道は波多野氏に従っていましたが、織田の部将明智光秀によって攻められ落城したようです。

眺望はよくありませんが、城塁と竪堀は確認しました。堀切は見逃しました。
攻城時間は45分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、胡麻駅から電車で亀岡駅に向かいました。
歩行歩数=36904歩、歩行距離=25.8Kmです。

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