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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑪ (2025/10/12 訪問)

小友館からの転戦です。太平地区コミュニティーセンターに駐車させていただきました。郵便局から反時計回りに一回り。北側の堀切からちょこっと主郭部分を遠望して引き上げました。この後は、予約を入れておいた秋田県赤十字血液センターの献血パークるうぷにて血漿成分献血。強めの雨が降ってきてしまったので午後に予定していた攻城はすべて見送り、帰路に着きました。

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yoda 1253

毛利元就の愛した吉田郡山城 (2025/10/16 訪問)

郡山の地形を巧みに利用し石垣で本丸二の丸三の丸等を配置

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原古戦場 豊田藤助屋敷跡・墓所 (2018/02/04 訪問)

豊田藤助とは長篠・設楽ヶ原の戦いの際に酒井忠次らを案内して鳶ヶ巣山砦での勝利に貢献した人物です。新城市の吉川に子孫の方が暮らしていて庭に立派な「豊田藤助屋敷跡」の石碑があるのですが、個人の家になるので案内板だけの記載にさせていただきます。
少し北に行った金龍院には藤助の墓が有ります。

残りの写真は7年前の丸山激戦地の写真になります。ここで佐久間信盛と馬場信春らが激戦を繰り広げたのですが、今よりだいぶあっさりしています。本来ならこんなに見通しが良いのですね。季節の違いもありますが、良く言われるように日本が亜熱帯化して来ているように感じます。今は何処に行ってもうっそうとしている感じです。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原古戦場 勝楽寺前激戦地 山本勘蔵信供 (2025/10/05 訪問)

豊川と連吾川の合流地のやや東の地に勝楽寺前激戦地があります。川沿いに北に進んで行った先には竹広激戦地があります。勝楽寺前激戦地は徳川軍の最右翼になりますが、このあたりは馬防柵が設置されておらず、ここを抜けようとする山県昌景隊と大久保兄弟の間で激戦となりました。

勝楽寺前激戦地のやや南東に山本勘蔵信供の墓があります。信供は武田軍の武将(軍師とも)山本勘介晴幸の子で長篠・設楽ヶ原の戦いで20歳の若さで討死しました。
案内板によると、信供は始めは高坂昌澄らとともに長篠城の監視役として布陣していたが、勝頼の命で竹広の山形高地に転戦するも、すでに味方は総崩れとなっており、単騎で徳川本陣目指し斬りこみ、渡辺半蔵守綱との戦いで討死したとのことです。
ちょっと誇張が入っているような気がするし、高坂隊も長篠城西岸の戦いで敗れたという説も有るので実際の所はわかりません。
長篠城の西、長篠橋を越えて北にいくと山本信供戦死之地の石碑と二代山本勘介信供隊奮戦玉砕之地の石碑があります。酒井隊に襲われ討死したのであれば、この石碑の位置も合っていることになるので、諸説あるあるですね。

最後は某所で食べた鹿カレーの写真です。でも、ほとんどシカ肉が入っていない。1200円くらいでも良いのでシカ肉をたらふく喰いたいですぞ。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 五味与三兵衛貞氏の墓・小幡信貞の墓 竹広激戦地 (2025/09/28 訪問)

急に寒くなりましたね~。ちょうどいいは無いんかい? 冷房の次は暖房ですわ・・光熱費が。
武田勝頼の才ノ神本陣の北側の道沿いに五味与三兵衛貞氏の墓があります。道沿いから山に向かって階段が続いているので、車を付近の駐車可能な場所に置き歩いて向かいました。古戦場の周辺には武田方の武将の墓がたくさんあるのですが、中には素性の分からない者の墓も多くありました。研究が進んで来たのか調べると有る程度事情がわかるようになってきましたね。
五味与三兵衛貞氏は元は越後の国の浪人で兄の長遠と共に武田信玄に仕えるようになったようです。合戦に際しては長篠城を取り囲む五砦の一つ、中山砦を守っていたようですが酒井忠次率いる奇襲部隊の攻撃を受け討死しました。

設楽ヶ原の古戦場から信玄塚に向かっていく坂の途中に小幡上総介信貞の墓があります。信貞は実際にはこの戦いでは死んでおらず武田氏滅亡後は北条氏に仕え、北条氏が滅んだ後は真田昌幸の下へ身を寄せたとされています。この墓は合戦で討死した信貞の父の小幡憲重のものとも伝わっています。

竹広激戦地は徳川家康本陣と武田方の山県昌景の陣の中間にある、まさに激戦地です。ここに山県昌景らの攻撃が集中し最大の激戦地になったとされています。現在は牧歌的な光景が広がり血生臭さとは無縁です。このあたりに住んでいる人たちも、ずっと古戦場の中で暮らしているんですね。なんかすごいな。

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トク

城びとサイトを快適に見る方法(広告が邪魔で困っている方へ)

1年くらい前の事ですが(その時に対策して現在に至っているので最近はどうかわかりませんが)、私のPCやスマホから城びとサイトにアクセスすると、その頃からポップアップ広告がとても多くなり、「みんなの投稿」がまともに読めない、「いいね」を押そうとすると広告が邪魔をして、押したくても押せないなどという現象がよくありました。そんな事が、皆さんにはありませんでしたか?(これは私のPCやスマホだけだったのでしょうか?🤔)。

そこで私は、広告ブロッカーをインストールする事にしました。いろいろ種類があったので無料お試しで試した結果、私は「AdGuard」を選び購入しました。永久版の購入がオススメで、6000円くらいで3台までインストール可能だったので、私はパソコンとスマホ両方にインストールしています。これで全く広告がポップアップされなくなった(全く広告が現れなくなった)ので、城びとサイトをとても快適に閲覧でき、皆さんの投稿をゆっくり気持ちよく読めるようになりました。通信量も減るのでPCやスマホも全体的にサクサク動くようになり一石二鳥です。ただスマホではインストール後も数日おき定期的にまた広告が現れる事があるので、その時はスマホ上のAdGuardアイコン(写真)を1回開く(クリック)してすぐまた閉じるだけでまた現れなくなるので、そうすれば全く問題はありません(それでスマホは自動バージョンアップがなされているようです)。

以上で1年経ちましたが、特に現在まで問題も無く、快適に城びとサイトを閲覧する事ができ続けています。皆さんはこのような問題はなく、城びとサイトを最初から快適に閲覧できているのでしょうか?🤔 もし私と同じような問題を抱えている方がいて、御参考になるのであればと思い投稿しました。これにより城びとサイト側で広告収入が減るなどの弊害があるのであればお詫びいたしますので、その場合はこの投稿は城びと側で削除して下さい。

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朝田 辰兵衛

晴れました…🌞 (2025/10/19 訪問)

ホテルグランシェール花巻から徒歩で散策です。晴れたので良かったです。赤色かるたになったらどうなるのか,イヤでも起伏を意識せざるを得ませんでした…<笑>。特徴のひとつとしては,鐘搗堂前御堀かなぁ…と。ま,仕上がりが楽しみです。

todo94さんへ…
小友館,展望所から三角点までつづく道に入り,数十m進んだところから左に入ります。登り切ると四阿が見えます。もう一段上部に四阿はあります。なお,三角点からヤブこぎでも入れます。バラ科の植物が群生しておりますので,ヤブこぎはおすすめできませんが…。もしかして,私が訪城した時よりもヤブ化が進んでいて,わからなくなっていたのかも知れませんね。
今回のtodo94さんのレポートはとても興味深いです。雀館の道を挟んだ体育館側は全くスルーしていたエリアでした。また,羽川館の畝状竪堀は,草ボーボーで形が認識できないほどでした。春と秋では一長一短がありますね。クマ出没が整備の手を躊躇させているのかもしれませんが…。

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カズサン

【信濃 市田陣屋】長野県高森町 白河藩安部氏陣屋 (2025/10/21 訪問)

 住所:長野県下伊那郡高森町上市田原町、伊勢神社/上市田交流センター南一帯が陣屋跡で現在遺跡は住宅、畑で消滅。
 唯一グーグルマップ史跡マーク地に「史跡 市田陣屋跡」の白い標柱が立っている、畑の南面に石垣が残って居るが草に覆われている。

 歴史は標柱の横に記載されて居り「弘化3年(1846年)6月白河藩安部氏によって築かれた、信濃伊那領13,874石管理するために設けた陣屋、23年幕末明治まで治めた。陣屋は上下二段約1900坪、高森町歴史民俗資料館に市田陣屋の解説展示とジオラマが展示されて居り、往時の陣屋を垣間見る事が出来る。
 高森町歴史民俗資料館:長野県下伊那郡高森町下市田2243 (縄文、弥生、古墳、高森町の城跡の解説も展示されている)

 標柱は紫式部草花に覆われて解説文が読みずらい、南通り面奥に遺構の石垣が草にお居られている、他は民家に畑、標柱の北側に伊勢神社、大塚古墳、上市田交流センター(地区公民館)が有る。東の県道15号線三州街道まで参道が伸びて居る、参道の第二鳥居下に陣屋橋の石碑がひっそり立っている。

 一帯は市田柿の産地で干し柿の市田柿で有名です。
 4ヶ月振りに城探訪城散歩に国道151号線で1000m超新野峠を越えて南信州を飯田市高森町を探訪しました。

 駐車場:三州街道沿いで上市田郵便局北東約60m東半ロータリ空き地(35°33'23"N 137°51'39"E h=590m)?、と伊勢神社/上市田交流センターの境内に一時駐車可能?
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
 
  
 

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イオ

武田五砦めぐり (2025/06/21 訪問)

武田五砦は、長篠の戦いにおいて長篠城包囲のために宇連川南岸に築かれた武田軍の五つの砦の総称で、鳶ヶ巣山砦を中心に久間山砦、中山砦、姥ヶ懐砦、君ヶ臥床砦に約3千の兵が布陣しました。鳶ヶ巣山砦には武田(河窪)信実が主将として入り長篠城に睨みを利かせましたが、酒井忠次・金森長近ら織田・徳川連合軍別動隊の奇襲を受けて五砦ともに陥落しました。

集落の自主防災会の倉庫脇が麓からの登城口(案内図あり)ですが、「車で行けます!」との案内表示に従って林道を車で上って行き、ベンチが設置された駐車スペースから登城開始。林道からの登城口を入ったところに金刀比羅神社があり、そこから登城道の右手に曲輪と思しき削平地が続いています。登城道左手には竪堀(?)が落ちていました。削平地の突端が主郭と考えられ、戦没将士の墓碑が建ち、鳶ヶ巣の戦いの説明板の背後には土塁と堀切(らしき地形)が見られました。

主郭から北西方向に下って行くと、尾根沿いに曲輪が展開し、鳶ヶ巣山砦ののぼり旗がひるがえっています。北西尾根の曲輪には階段状に多くの腰曲輪が設けられ多くの兵を収容できそうです。また北西尾根の曲輪からは眼下に長篠城を見下ろし、右手に大通寺山陣地、奥には医王寺山本陣を見渡し、今朝から歩き回った長篠城と武田軍陣地が一望の下です。そして墓地になっている北西尾根突端の曲輪で鳶ヶ巣山砦をひとめぐり。ここからあと少し下りれば麓からの登城口に至るはずですが、車を上に駐めたままなので、来た道をまた上って引き返しました。隅々まで見て回るつもりなら、麓から歩いて往復したほうが早いように思います。

ところで、武田五砦への奇襲戦では、酒井忠次率いる徳川軍2千と織田信長から金森長近に預けられた鉄砲隊5百を含む織田軍2千(徳川軍3千、織田軍5千とも)により別動隊が編成されたとされますが、長近は忠次と同等以上の兵を率いながらその役割は「検使」にとどまり、奇襲戦の功績はほとんど忠次独りのものとして語られています。しかしながら、長篠の戦いの後に長近は信長の名から一字拝領して「可近」を「長近」に改めていることからも忠次に劣らぬ戦功があっただろうことは疑いありません。思うに、後の徳川の天下においては、徳川四天王筆頭の忠次と外様の一大名に過ぎない長近の戦功を同等に扱うわけにはいかないでしょうし、三方ヶ原の戦いで武田軍に完敗した徳川軍としては、長篠の戦いで武田軍を打ち破ったのが織田軍であっては格好がつかない、けれど設楽原での大勝が織田軍の鉄砲隊によるものであることが動せないのなら、せめて武田五砦への奇襲戦は徳川軍の手柄でなければ…というような意識が働いたのかな、とも。さらに、長近という人物はそういう意識を踏まえた上で自らの戦功をひけらかすタイプではないようにも思いますので、後世には忠次の功績のみが語られるようになった、と。…勝手な妄想ですが(笑)

さて、せっかくの機会なので鳶ヶ巣山砦だけでなく、ほかの四砦もめぐってみるとしましょう(続く)。

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑩ (2025/10/12 訪問)

三連休中日の日曜日のスタートは、前日雨が降ってきてスルーした小友館です。秋田市内とはとても思えない山奥です。朝田辰兵衛さんが投稿されている展望所と三角点は確認できたのですが、標柱と郭内の四阿はどうしても見つけることができませんでした。三角点は地理院地図で確認したところ、標高193.8mの館山となっていたので、場所は間違いないとは思います。これで「行った」をポチるのはいかがなものかとは思いますが、なかなか足を伸ばせる場所ではないのでポチってしまうことにいたしました。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 高坂源五郎昌澄の墓 大久保兄弟布陣跡 (2025/10/05 訪問)

設楽ヶ原の古戦場の徳川軍の最右翼・南端あたりに大久保忠世と忠佐の兄弟が布陣した跡地が有り、いろはかるたの看板が立っています。忠世と忠佐の兄弟は共に徳川十六神将として後世の人々に称えられています。また、この合戦での働きを織田信長から「良き膏薬のごとし」と賞賛されています。弟の忠教は鳶ヶ巣文殊山での戦いで初陣を果たし武功を挙げたと、講談で語られることが多いようですが、どうやら脚色された部分が多いようですね。
大久保兄弟の陣所跡には特に遺構は残っていないみたいです。

陣所跡からやや北西に行った場所に高坂源五郎昌澄の墓が有ります。現地の案内板の記載では昌澄は武田四天王の高坂弾正昌宣の子で、設楽ヶ原の戦いの際には25歳の若さで2000の兵を率いて戦ったとあります。初めは長篠城を取囲む城監視隊長だったが、設楽ヶ原前線の信玄南坂に転線を命じられ、悪戦苦闘の末に単身連吾川を越え、徳川の本陣めがけ斬りこんだが、徳川の将・稲生次郎左衛門との戦いに敗れ討死したとのことです。
また長篠城の西岸の有明村で待機中に酒井忠次らの軍勢に攻撃され、兵力差を押し返せず討死したとする説もあるようです。諸説あるというやつですかね。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 柳田前激戦地・松平伊忠戦死の地 (2025/09/28 訪問)

設楽ヶ原の古戦場の武田軍と徳川・織田連合軍の間には連吾川が流れています。川に架かっている橋を良く見ると両軍のレリーフがはめ込まれていて見ていて面白い。東が武田方でまさに騎馬隊が敵陣に襲い掛かっている所ですが西側では鉄砲隊が待ち構えています。
この周辺が柳田前激戦地で、生き残った武田軍の部隊が合流して最後の突撃を行った場所とされています。ここよりやや東に行った先に甘利信康の碑があります。
場所は変わって、長篠の古戦場から豊川を渡って少し北に行った場所に「松平伊忠戦死の地」の石碑があります。伊忠は酒井忠次とともに鳶ヶ巣山砦を急襲し守将の武田兵庫信実を討ち取る武功を挙げましたが、追撃で深追いしすぎて小山田勢の反撃を受け討死してしまいました。伊忠らの奮闘で五砦を落とし武田軍の背後を押えることが出来たのですが、伊忠は徳川・織田方の武将で唯一と言って良い戦死者になってしまいました。おかげでそこはかとなく「うっかり者」のイメージがついてしまったような・・生きていれば大手柄武将だったのだけど、戦場では大胆さと慎重さの使い分けが難しいですな。南無・・

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 徳川家康物見塚 (2025/09/28 訪問)

設楽ヶ原古戦場の徳川家康の本陣の東にケッターパークへの入り口が有り「長篠設楽原決戦場碑」があります。私は「設楽ヶ原」の注記の方を良く使いますが、現地の表記では設楽原と書かれている場合が多いです。どっちもアリなのかな。
徳川家康の本陣とされている八釼神社の裏山の頂部に断上山10号墳が有り、周囲は広い扁平地になっており陣所の雰囲気があります。10号墳の東には9号墳があり、長篠設楽原決戦場碑のある場所から道が続いています。この9号墳のある場所へ徳川家康が移って戦場の指揮を執ったとされ「徳川家康物見塚」と呼ばれ石碑が立っています。

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トク

【宮本武蔵】(18)霊岩洞と武蔵塚(武蔵の最期) (2025/07/18 訪問)

宮本武蔵の続き(18)[最終回] です。

武蔵は晩年、細川忠利に客分として招かれ、熊本城そばの旧千葉城があった場所に屋敷を与えられます。現在の熊本年金事務所が建っている場所だそうです(写真⑧⑨⑩)。

細川忠利の客分として熊本に来た武蔵ですが、その忠利は翌年亡くなってしまいました。武蔵はそれから、金峰山の中腹にある雲岩禅寺(写真③)の中にある霊岩洞(写真①②)に籠ります。そして自らの兵法を「二天一流」と名付け、その心得などを記した「五輪の書」を完成させました。これは武蔵の人生の集大成と言ったものではないでしょうか。雲岩禅寺は、桜町バスターミナルから[U3-1]河内温泉センター行のバスに乗り30分、岩戸観音入口で下車し、そこから20分ほど坂道を登った所にありました(写真④)。五百羅漢に囲まれた洞窟で、夏なのに急にひんやりと背筋が寒くなるような、とても霊的な場所でした。

そして1645年、五輪の書を書き終えた武蔵は屋敷に戻りますが、その一週間後に亡くなったそうです(享年64才)。葬儀は忠利の子で2代藩主の細川光尚により盛大に行われ、その遺体は遺言により細川家の参勤交代を見守る場所に葬られ、現在は「武蔵塚」と呼ばれていました(写真⑤⑥)。JR豊肥線武蔵塚駅から徒歩15分、または桜町バスターミナルから[E3-3]光の森行に乗り、武蔵塚公園で降りた場所にありました(写真⑦)。亡くなる前に光尚から届いた手紙には、「江戸から間もなく参勤交代で熊本へ戻るので、その時に会えるのを楽しみにしている」と書かれおり、光尚も武蔵に会いたがっていたようです。

私は、武蔵が晩年に暮らし亡くなった屋敷跡の場所から、熊本城を見上げてみました。五輪の書を書き終えた武蔵は、間もなく尽きるであろう我が命を前に、ここからどんな思いで、この熊本城を見上げていたのでしょうか?(写真⑩)。

しかし、そこでふと疑問が🤔? 武蔵が人生の集大成として書いた「五輪の書」には巌流島の決闘や小次郎の事が一切書かれていません。それはなぜだったのでしょうか?

きっと武蔵は卑怯者と呼ばれ、人生最大の汚点となった巌流島での決闘を思い出し、密かにここから、小次郎の事を偲んでいたからではないでしょうか・・・

以上で宮本武蔵を終わります。途中間違った内容もあるかとは思いますが、そこは何卒御容赦願います。全18回長々と読んでいただき、大変ありがとうございました。
 

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イオ

武田軍陣地めぐり(医王寺山本陣) (2025/06/21 訪問)

(続き)

医王寺背後の医王寺山(新城市長篠碁石)には、武田勝頼が3千の兵で長篠城包囲戦の本陣を布きました。医王寺の駐車場から見上げると山頂部に物見櫓が覗いています。駐車場の南西側には山縣三郎兵衛息継ぎの井戸なんてのも見られました。本陣に出向く前に井戸水で一息入れたということでしょうか。医王寺をひとめぐりすると医王寺山武田勝頼本陣跡の説明板の絵図を参考に、東側の登城口から登城開始。

整備された山道を登ること5分で東曲輪に到達。南北に広がる大きな曲輪で駐屯地だったと思われます。東曲輪の南西辺には土塁が設けられ、西側の土橋を進んだ先が本曲輪です。本曲輪は南側と北側を切岸と帯曲輪で守っています。本曲輪の北東隅部はわずかに高く、南側には麓から見えた物見櫓が建てられています。物見櫓に上ってみると、右手前に天神山陣地、左奥に大通寺山陣地、二つの陣地の奥に長篠城を見渡すことができました。大通寺山の向こうがこの後に行く予定の武田五砦でしょうか。なるほど長篠城包囲戦の本陣を置くには絶好の地ですね。本曲輪西側の虎口を出ると北側に竪堀が落ち、西曲輪東辺の土塁の上に出ます。スロープ状になった土塁上を下りて行くと南側に西曲輪が広がり、登城道はそのまま西側の登城口に続いていました。

土塁も切岸も帯曲輪も竪堀も時季的に藪に覆われていたのは残念でしたが、長篠城包囲戦の全容が手に取るようにわかる眺望だけでも訪れる価値は大いにありました。さて、続いては宇連川対岸に展開する武田軍の陣地、武田五砦に向かいます。
 

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑨ (2025/10/11 訪問)

五城目城(砂沢城)からの転戦です。雀館公園として整備されています。公園を一巡りして道を挟んだ体育館側にある古代井戸の写真を撮影しようとしたところでデジカメのバッテリーが切れてしまいました。前の週の研修で記録撮影に使ったあと充電をすっかり忘れてしまっていました。こんな時に限って予備のバッテリーも家に忘れてきてしまっていましたので、この後は、スマホでの撮影に切り替えざるを得ませんでした。

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赤い城

高屋城 香川県坂出市 (2025/09/07 訪問)

城びと未登録城です。
高屋神社参道から登っていきます。
道は付いていますがミカン農家さんが使用される農道なので歩いて行くのが無難です。
登ってすぐにミカン畑が広がり、農家さんが作業されていました。
挨拶し、城跡へ行く旨伝えると予想通り「何もないよ」と。
坂道は急ですが車も通る道なのでそんなに苦にはなりません。
ただ暑い🫠

城跡とされる場所にはやはり遺構は見られません。
しばし眺望を楽しんで下山しました。
帰りに先ほどの農家さん、昔は下の方には遺構があったと思う、とのお話しがありました。
冬に行ったら何か発見出来るかもしれません。
麓にある遍照院も城跡の一部だったようです。

この周辺の山は五色台と呼ばれています。
陰陽五行説が由来で色の名前が付く5つの山があります。
黃ノ峰には石積が特徴的な黃峰城(城びと未登録)、白峰山には81番札所の白峰寺、青峰には82番札所の根香寺があります。
また、五色台ビジターセンターからの瀬戸内海の眺望も素敵です。

【見どころ】
 ・城跡からの眺望

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 真田兄弟・従士達の墓 (2025/10/05 訪問)

五反田川沿いの丘陵の中腹に真田兄弟の墓と、共に奮戦し討死した武田方の将士の墓があります。いろはかるたによると、ここは三子山というらしい。真田兄弟の二人は真田幸綱の長子・真田源太左衛門尉信綱と次男・真田兵部丞昌輝であの真田昌幸の兄にあたります。
設楽ヶ原の戦いでは馬場美濃守信春が最右翼に陣し、真田兄弟はその左側に陣していたようです。丸山激戦地では丸山と言う小高い丘を巡って佐久間信盛の部隊と馬場・真田の軍勢が激しい戦いを繰り広げたようです。
真田兄弟の墓の両脇に「設楽原を守る会」によって再建された鎌原筑前守之綱・常田図書春清・祢津甚平是広の墓が有ります。いずれも合戦で討死した将士で真田一族となんらかのゆかりがあると思うのですが詳細は不明です。AI先生に聞くといずれも真田氏に使える一族で関わりも深かったようです。たまに便利だわ・・AI先生。

丸山激戦地を西手に行って連吾川を越え、道沿いに南に下ると高森恵光寺快川の墓が有ります。甲州の恵林寺や信長の史料に設楽原で討死と記載のある人物で主従ともすべて討死したとされています。一説には初めの布陣は鳶ヶ巣山砦ともされています。
案内板には謎の武将とされていますが、武田家14代信重にルーツが有る家系で武田氏の一党にあたるようです。

県道21号線から雁峰山登り口を南に程なく行った新東近くの道沿いに米倉丹後守正継(重継)の墓が有ります。案内板によると武田方の智将で鉄砲の前面に「竹束を置く」のも米倉のアイデアだそうです。武川衆のリーダーで甘利信康の後見役も務めていたとのこと。合戦では連吾川上流部で馬防柵を破り半町ほど西の織田軍陣中で討死したそうです。

「くふう」と書くと「こう・ふ」と勘違いされてエラーがでます。なんなんじゃ、こっちのAIはダメダメじゃ

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 樋口兼周の塚・鑓畑と武田軍退路 (2025/10/05 訪問)

設楽ヶ原の古戦場跡から五反田川沿いに北上して行くと真田兄弟の墓があります。途中、樋口兼周の塚がありました。ここは武田軍の退路に近く、樋口氏は退却の途中に討死した武田方の将士のようです。墓は元は鳥居田の中にありましたが、圃場整備でここに移されたようです。真田兄弟の墓所の近くは道が狭いので注意が必要です。
付近には武田軍の退路があり浅谷地区に「鑓(やり)畑」の地名が残っています。敗色が濃くなった武田軍は設楽ヶ原を脱出し五反田川沿いに北上し甲州を目指しました。槍や旗が残っていたとしたら、この辺りで追撃や落武者狩りがあったのかもしれません。
近くには水田から兜が見つかった「甲田」伝説が残っています。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い  首洗池 (2025/09/28 訪問)

長篠の医王寺の陣の周りにはまだ見るべき箇所が有るかもしれませんよ。長篠山医王寺は永正11年(1514)に克補契嶽大和尚が開山となり創建されたとされています。戦国時代の寺は基本「城」なので守りに適した立地に築かれていると思います。
国道151号線・竹広の信号の北側に合戦の戦死者の首を洗ったとされる「首洗池」があります。当時はどれだけの大きさが有ったのかはわかりませんが、そりゃ池も真っ赤に染まると思います。主だった首だけでもかなりの数になりますからね。
池には八重のハスの花が咲き、彼岸花も咲いています。古戦場の周囲には武田軍の将兵の墓(供養塔含む)がたくさんあります。以前尾張の城めぐりをした際に城址碑ぐらいしか残ってない城が多く「お墓めぐり」をしているみたいだとボヤきましたが、古戦場ウォークは本当に「お墓めぐり」なんですわ。
まるで死地を求めるように散って行った武田軍の老将たちに思いをはせながら散策しますか。首洗池のすぐ西手の丘の上に本田玉発見地の標柱と岡部竹雲斎・岩手左馬之助胤秀の墓が有ります。いずれも武田方の武将と思われますが詳細が分からないんですわ。AI先生も分からないようですよ。

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