ふくしままさのりやかた

福島正則館

長野県上高井郡

別名 : 福島館、福島正則屋敷
旧国名 : 信濃

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しんちゃん

フルネーム付城郭 (2015/08/30 訪問)

福島正則は元和5年(1619)広島55万石から高井野4万5千石に移封され、寛永元年(1624)7月13日、堀之内館で64歳で亡くなりました。
64歳と言うのは、おそらく「数え」で、死没は現在の暦だと8月26日になります。
豊臣家の滅亡後、すぐに家康公が亡くなり、少し自暴自棄になっていた気がします。場府から見ても危険な人物と思われていたのではないでしょうか。豊臣家と懇意だったり、いさかいを起こした徳川の旗本の首をしつこく要求したり・・はたから見てもヤバイよね。
館跡は通称「福島正則屋敷跡」で通っています。フルネームで登録されているのはここぐらいじゃ、ないかしら。
かつては103m×70mの郭の周囲に土塁や空堀を巡らせていたようですが、現在残されている石垣は高井寺の改修によるものらしいです。
他にも、小布施町の岩松院の「霊廟」と高山村の「荼毘所跡」も訪れています。ここでも幕府の検死を待たずに遺体を火葬したとして福島家は改易になってしまっています。まるで遺志の疎通が取れていませんが、幕府もかなり陰湿ですね。

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高井寺 (2023/10/12 訪問)

 安芸備後を治めていた福島正則が広島城の無断普請を理由に領地を没収され、この地に転封されたときの屋敷跡です。高井寺周辺が跡地です。土塁の一部が寺の北側に残っています。石垣が見られますが、高井寺が建立されたときに土塁や空堀を壊した後に作ったもので、屋敷があった当時のものではないとのことです。寺の方に案内していただき高井寺本堂内の福島正則の肖像画の掛け軸を見せていただきました。
徒歩5分くらいの所に福島正則荼毘所跡があります。

 須坂駅からバスがあり堀ノ内バス停下車。バス停のすぐ近くに屋敷跡があります。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)4日目:福島正則館 (2023/04/21 訪問)

須坂陣屋(城びと未登録 長野県須坂市)から転戦。高井寺入口(36.665752、138.348519)から進入し境内に駐車しました。
そこから説明板&門(36.665957、138.348004)➡堀之内御利屋前(36.665818、138.349085)と巡りました。

築城年代は定かではないようですが、江戸時代初期に福島正則によって築かれました。
安芸国広島藩主福島正則は、1619年(元和5年)洪水で破損した広島藩の石垣の無断改修を咎められて改易となりました。
その後、改めて信濃国高井郡に20,000石と越後国魚沼郡に25,000石、あわせて45,000石の捨て扶持が与えられ、高井野藩となります。
これにあわせて正則は家督を嫡子福島忠勝に譲っていますが、翌1620年(元和6年)に忠勝は早世しました。
1624年(寛永元年)福島正則が没すると幕府の検使団の到着する前に荼毘に付し、またも法令違反を起こしたとして高野井藩は改易となりました。

福島正則館は現在の高井寺の境内付近に築かれていたようですが、 現在はわずかに本堂の裏手に土塁を残っているだけです。
周囲の石垣は寺の建立のときに築かれたものだそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=高梨氏館に向かいました。

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小城小次郎

福島正則の「名」が持つ大きさ (2020/08/09 訪問)

福島正則の配流先みたいに言われているが正則は死ぬまで高井野藩4万5千石の藩主だった。それでもここが高井野陣屋ではなく福島正則屋敷と呼ばれるあたりに福島正則という「名」の大きさが感じられないだろうか。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 福島正則
築城年 江戸時代前期
主な城主 福島氏
遺構 土塁
指定文化財 県史跡(福島正則屋敷跡)
再建造物 碑、説明板
住所 長野県上高井郡高山村高井八幡添195-イ
問い合わせ先 高山村役場
問い合わせ先電話番号 026-245-1100