光明寺の西側から墓地裏に廻り込んで行けます。ただ,光明寺にはパネルが設置してありますので見落とし注意です。ちょっと,境内を突っ切って,本堂の裏から…っていうのは気が引けます。
主郭を取り囲むように横堀が走っており,主郭からは眺望が開けています。光明寺のパネルだけで終わってしまってはもったいないです。
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2023/12/26 20:41
2023/07/09 21:53
北条の支城と聞いて勝沼城へ (2023/02/12 訪問)
小田原北条氏の手が加えられていると聞き、急遽2月に訪ねた東京都青梅市の勝沼城。
多摩川の山地部と平野部の境界エリア青梅。
その平地の北側、霞川を渡った先の比高20~30mの丘に、自然の谷を利用してつくられた城。堀は小規模だが、最近訪ねた城の中では小机城に似たタイプ。
江戸初期には石灰や材木の運搬および江戸と甲斐を結ぶ青梅街道青梅宿が整備されており、多摩川を含めてそれ以前から交通の拠点だったでしょうか。
築城時期や築城者は不明だが、この多摩川上流域(三田谷)を勢力としていた三田氏の居城。
1563年、北条氏照に滅ぼされると、その後は氏照家臣の師岡将景が修築したと伝わる別名師岡城。
現在は、三の丸が寺の墓地となっているものの、本丸と二の丸はスギやヒノキの林の中に遊歩道が通る土の城跡。
訪問時は光明寺から入城し、本丸を起点に二の丸と三の丸へ。
本丸には土塁が残り、その一部は櫓台のようにも見えるもの。
丘陵本体と尾根続きの二の丸北虎口は見どころの1つで、二の丸の突出部から土橋に横矢が掛かる構造。
三の丸内は立入禁止と書かれていたが、その南側の横堀と馬出は明瞭。
滞在時間は約2時間半。
もうすっかり暑くなりましたが、まだ少々の残雪が見られた勝沼城が私の城郭巡りの147城目でした。
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2022/05/01 15:23
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り③:勝沼城 (2022/04/30 訪問)
6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り3城目は勝沼城です。
藤橋城より徒歩35~36分くらいで光明寺入口(35.794323、139.273902)に着きました。
勝沼城は関東管領・山内上杉氏の重臣、三田氏の居城です。
山内上杉氏の勢力が衰退し、北条氏の勢力が関東に伸びてくると三田政定は北条氏康に従属します。
しかし1561年(永禄4年)に上杉政虎(謙信)が上杉憲政を奉じて関東へ侵攻してくると、三田綱秀は諸豪族とともに上杉氏に付き従いました。
謙信が越後へ引き上げると、ほかの豪族は再び北条氏に臣従しましたが、三田氏は辛垣城へ居城を移しながらも北条氏に抵抗しつづけ、1561年(永禄4年)から1563年(永禄6年)頃に、北条氏によって攻め滅ぼされました。
その後は北条氏照の属城となり、三田氏の旧臣で三田氏一族と伝える師岡将影が城主となり、城名も「師岡城」に改められたと伝えられています。
現在残る城跡は北条氏によって手が加えられたものと考えられています。
廃城となった時期や経緯は不明ですが、言い伝えによれば、1590(天正18年)に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした際、師岡城も落城し、廃城になったと伝えられています。
現在城址には土塁や空掘などの遺構を確認でき、また山麓の光明寺の入口付近に案内板が設置されています。
光明寺の墓地が山腹に広がっています。
住宅地を見下ろせる台地の上に、土塁で固められた広々とした一郭が広がっています。
二郭との間は横堀で区切られ、その下の通路も土塁があり雰囲気はありました。
攻城時間は25分くらいでした。
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分類・構造 | 平山城 |
---|---|
築城主 | 三田氏 |
築城年 | 鎌倉時代後期 |
主な城主 | 三田氏 |
廃城年 | 永禄6年(1563) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
指定文化財 | 都史跡(勝沼城跡) |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 東京都青梅市東青梅6-92、93他 |
問い合わせ先 | 青梅市郷土博物館 |
問い合わせ先電話番号 | 0428-23-6859 |