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イオ

御土居めぐり(鷹ケ峯南~大宮交通公園) (2025/03/08 訪問)

(続き)

大徳寺から西側の御土居跡のラインまで戻って、御土居めぐり続行。北大路通から眺めても紙屋川(天神川)と御土居跡の高低差はかなりのものがあります。御前通(ほぼ御土居跡のライン)には御土居の説明板があるようですが、見落としてしまいました…。

鷹ケ峯(南)御土居(京都市北区鷹峯旧土居町・国史跡)
公園として整備された御土居で、土塁頂部に上ることもできます。土塁上から見下ろし、また下から見上げることで土塁の高さを実感できました。なお、城びとでの御土居の位置情報は此処です。

鷹ケ峯(北)御土居(京都市北区鷹峯旧土居町・国史跡)
御土居の北西角、京の七口・長坂口の脇に柵で囲まれた土塁が状態良く遺っています。道向かいの和菓子屋・光悦堂で柵の鍵を借りて中に入れるようなので行ってみましたが、店主さん(たぶん)が接客から電話対応までお一人で忙しそうにしておられたので、余計な用事(鍵貸して)を頼むのも気が引けて、御土居餅を買っただけで店を出てしまいました…(根性なし)。赤えんどう豆の入った羽二重餅でこし餡を包んできな粉を振りかけた御土居餅は鷹峯名物をうたっていますが、なるほどこれは美味しい! 光悦堂で御土居の鍵を借りがてら、お土産には御土居餅がおすすめです(写真は撮り忘れました)。

ところで、これら二つの御土居は直線距離で約450mほど離れているところ、史跡名ではともに「鷹ケ峯御土居」なのは何故なんだろう? と思っていましたが、鷹ケ峯(北)御土居を角として南に約880m、東に約400m続く御土居跡の削平地は全て「鷹峯旧土居町」なんですね。町名が同じだから(地番は違うでしょうけど)同じ名称になったということでしょうか。御土居自体は失われても地図上にはっきり残る御土居の形状。ぜひGoogleマップで「鷹峯旧土居町」と検索してみて下さい。

大宮御土居(京都市北区大宮土居町・国史跡)
大宮土居町のほぼ全域に巨大な土塁と堀がそのままの姿で遺っています。柵で囲まれていて中には入れませんが、柵越しに見るだけでも大迫力! こんなもの凄い代物が22.5kmにわたって続いていたかと思うと、改めて秀吉の権力の絶大さを感じます。

大宮交通公園御土居(京都市北区大宮西脇台町)
国史跡指定は受けていませんが、交通公園の南辺に土塁が遺っています。両端には階段が設けられて土塁の上を端から端まで歩くことができます。土塁の北裾が窪んで見えるのは堀の名残でしょうか。

交通公園に着いたところで15時を過ぎ、残る国史跡は2か所のみ。北東角の紫竹御土居に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

白樫城(城びと未登録 和歌山県湯浅町) (2025/05/28 訪問)

久米崎王寺跡説明板前から徒歩10分くらいで、満願寺入口(34.031349、135.179940)に着きました。
満願寺裏山が白樫城跡で満願寺裏の墓地より登ることができるようです。

1520年(永正17年)畠山尚順が湯河・野辺連合軍に敗れた後、畠山氏家臣であった白樫氏が満願寺山に城を築き、湯浅5000石を領有したそうです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の南征軍に対して徹底抗戦を主張した湯河氏に対して、白樫氏や神保氏が秀吉に恭順を示しました。
両者は名島表(広川町)で湯河氏と戦い白樫氏が劣勢でしたが、秀吉軍が湯浅に迫ったため湯河氏は居城亀山城(御坊市)を焼き払い熊野に落ちていったそうです。

白樫城に登ってしまうと和歌山駅への帰りの電車に間に合わなくなるので、攻城は断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、湯浅駅から電車で和歌山駅に向かいました。
歩行歩数=46952歩、歩行距離=32.9Kmです。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:湯浅城と久米崎王寺跡 (2025/05/28 訪問)

湯浅駅から徒歩20分ちょうとで、登り口(34.034774、135.192450)に着きました。
その後、国民宿舎湯浅城(34.036399、135.193320)➡久米崎王寺跡説明板前(34.028112、135.183166)の順番で巡りました。

1143年(康治2年)湯浅宗重によって築かれました。
南北朝時代には湯浅氏は楠木氏や畠山氏とともに南朝方に与して戦いましたが、山名軍の猛攻撃を受けて落城し、湯浅氏も滅亡しました。
その後は楠木氏の残党が後村上天皇の孫・義有王を奉じて入城し、紀伊守護に任ぜられた畠山氏に抵抗しましたが、1447年(文安4年)に畠山氏がこの城を三度攻めてようやく落城させたそうです。

看板の下に連絡先が書いてあり、連絡をするとボランティアの方がいらっしゃって、鍵を開けてくれるようです。
自分は登り口についた時間を考えて、連絡するのを遠慮しました。

・久米崎王寺跡
 久米崎王寺は熊野古道の九十九王子のうちの1つです。かつて熊野詣をおこなった人々がここに立ち寄り、旅の無事を祈りました。
 現在は説明板があるだけです。

攻城時間は35分(久米崎王寺跡説明板前までの移動時間含み)くらいでした。次の攻城先=白樫城(城びと未登録 和歌山県湯浅町)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:藤並城 (2025/05/28 訪問)

海南駅前バス停から下津野バス停に向かうバス(有鉄バス)は1日2便&12名定員の小さなバスです。(定員オーバだと乗れません)
出発の15:43まで、海南駅で1時間20分待ちでした。ICは使えず、おつりも用意されていません。しっかり運賃分の690円用意する必要があります。(自分は700円だしておつり辞退しました)
下津野バス停から徒歩2~3分で、藤並城跡道標(34.065060、135.219591)に着きました。

築城年代、城主ともに定かではないようですが、湯浅党支配下にあった下津野三郎が城館を築き、湯浅氏一門である藤並氏、その後は湯川氏、玉置一族の堅田次郎八の居城となったようです。
堅田氏の居城として約300年つづきましたが、1585年(天正13年)に羽柴秀吉による紀州攻めで滅亡し、廃城になったそうです。

現在は果樹園になっていますが、周囲には土塁や水堀が残っています。案内板は北側の堀のところに建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=湯浅城へ向かう為、下津野バス停からバスで藤並駅に出て、そこから電車で湯浅駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:日方城 (2025/05/28 訪問)

日方バス停から徒歩30分弱で、市民の森分岐点(34.164936、135.220082)に着きました。
ここから、市民の森方向に進みました。

詳細は不明のようで、山名氏の大野城の支城と云われています。

最初、道を間違い下山方向に進んでいましたが、間違いに気づき市民の森まで戻りました。
グーグルマップの方向を頼りに深い草の中を西に進みました。
少し進むと平坦地に着き、朽ちた説明板を発見。うっすらと見える城の文字で日方城跡を確信。
さらに進むと草に埋もれたベンチを見つけました。
草が深く、主郭も傾斜していて城跡としての残存度合いは低い。
攻城時間は40分くらい(最初、道を間違えた時間含む)でした。次の攻城先=藤並城を目指す為、海南駅前バス停からバスで下津野バス停に向かいました。

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天守無しがアツい

五十間長屋 (2025/06/24 訪問)

五十間長屋で100名城スタンプをスタンプ帳に押下
御城印が2種類あり…なまこ壁・辰巳用水の両方を購入

長屋には出窓が付いており…そこから石を落としたりして敵兵の侵攻に備える造り…鉄砲を撃つための狭間もある

菱櫓…橋爪門続櫓…と階段で連結している
そのため味方兵同士での連携がしやすい

五十間長屋の後…本丸も散策…しかし現在ここは森で覆われており…天守があった頃の面影はまるで無い

天守は慶長7年(1602年)…初代城主前田利家の死後3年後に…落雷で焼失。その後中心機能は二の丸に移ったため再建されなかった

丑寅櫓という施設もかつてはあったが…宝暦の大火(1759年)で焼失🔥…そこも今は無く跡地のみ。そこから外の景色を眺める

ここ金沢城は城の規模がデカすぎて…一回で全て周るのは無理…なので今回は五十間長屋、本丸、丑寅櫓をという事で

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しんちゃん

えもいわれぬ (2025/01/02 訪問)

沖野城は現在住宅地・畑地になっています。城域は東西約400m、南北約300mとされ、住宅の一角に土塁が残っているようです。
戦国時代に伊達政宗に従った粟野大膳の出城とされているようです。16次に渡る調査の結果、方形の堀遺構も発見されているようです。

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しんちゃん

しんちゃんじょう(ポカッ) (2025/01/01 訪問)

新地城・・しんちじょう・・しんちゃんじょうですか!(違う)急にシンパシーが湧いてきましたね♪ 
永禄年間(1558~70)に相馬氏によって築かれたとされ、本丸を中心に東館・北館・西館の曲輪が配されています。東館跡に駐車場があり、南に堀切があり土橋がかかっています。本丸の周辺には土塁が残り、チューリップ園として市民の憩いの場所になっています。
良く見ると、周囲に遺構が残っており、南側には複数の腰曲輪が配されていたようです。
北方の伊達氏に備えていたとされますが、天正17年(1589)5月20日に伊達氏の軍勢に取り囲まれ、伊達氏は一斉に鉄砲を撃ちかけ新地城は陥落してしまいました。その後、相馬氏は新地城を奪還することは出来なかったようです。

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しんちゃん

発掘調査希望。 (2025/05/05 訪問)

尾根上を城山に向かって登って行くと、尾根に沿って堀切が続いています。これらの堀切がこの城の最大の見どころと言って良いと思います。尾根伝いに西の尾根の方向に向かうと、堀らしきものが付いています。今度は逆に東に向かって登って行くと、尾根上に複数の郭があるようです。それほど広くは無いのですが、最高所である標高187mのあたりが主郭では無いでしょうか。
これらの郭には土塁などの遺構は見当たりません。そのかわりに周囲の尾根や堀切がとても険しいため、防御は堅いと思います。東南の細い尾根を進んで行くと出丸のような郭があります。周囲では工事が行われていて、尾根上にはネットが張られています。東側からのルートは不明ですが、やはり連続堀切を堪能できる学校裏からのルートが良いと思います。いずれ山上の城跡も発掘調査などが進んで、全容が明らかになると良いですね。

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雨の羽茂城 (2025/06/16 訪問)

 フェリーで直江津港から小木港に到着。下船してすぐに他の観光客とは進む方向を違えて、羽茂城へ。城びと先人にならって、説明板がある三叉路を目指しました。
 雨の中、傘をさして散策。三叉路脇の北ノ城(郭)の進入口は藪化。東門から散歩道を城内へと進みます。説明板の縄張り図に「竹ヤブ」と書いてあるのは珍しいですが、現場はそのとおりです。雨に濡れてなんともしょうがないです。また、ご子孫の本間家も描かれてます。縄張り図にある庵原家や渡辺家もご子孫でしょうか。
 比高は小さいですが、町や反対側の本間家が急斜面の下に見えます。五社ノ城(本丸)にお社があり、石段がつけられてますが、左側にかつての道らしき坂がありました。竹藪以外にも畑になっている平削地も多くあり、まあまあの規模があります。

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トク

映画「引っ越し大名」の城 (2025/06/26 訪問)

永山城の築城者は「小川光氏」です。父の小川祐忠は、あの関ケ原では西軍に属し、大谷吉継の与力でありながら小早川秀秋の裏切りに呼応して吉継を裏切った男です。父の祐忠は家康から認められず改易隠居となりましたが、子の光氏は許されて豊後日田2万石が与えられ、1601年この地に丸山城の築城を開始します。

その後、光氏に嫡子無く、1616年大坂の陣の戦功で美濃大垣より「石川忠総」が6万石で入り、丸山城を永山城と改名し、現在のような城郭を築き、花月川に橋を架け街道と城下町(豆田町)を整備しました(写真⑦の二本の橋が街道、橋の先が豆田町、手前が陣屋跡)。しかし忠総は1633年に下総佐倉へ移封となります。これより日田は幕府直轄地(天領)となり陣屋と代官が置かれました。

現在の永山城跡は、本丸には伝天守台(写真④⑤)がありますがおそらく天守は建てられず、櫓台跡(写真③)に天守代用の櫓が建っていたものと思われます。二ノ丸には月隈神社があり(写真⑥)、三ノ丸は月隈公園と日田林工高校の敷地になっていました(写真⑧)。大手門跡の前には水堀が残っており、おそらく当時は四方が水堀に囲まれた縄張りであったのではないかと推測されます(写真①②)。

最も有名な城主は、その後1682年に播磨姫路より7万石で日田へ入った「松平直矩」です。しかし直矩は、わずか4年後に、またもや出羽山形へ移封となりました。彼の4年間だけは日田藩として復活しその後また天領に戻ります。

村上→姫路→日田→山形→白河、実はこの松平直矩が、あの映画「引っ越し大名」のモデルとなった殿様です。私も映画を見ましたが、舞台は姫路から日田への場面でした。引っ越し奉行に任ぜられた、主役の「星野源」さんの演技などは、とてもおもしろかったです!(写真⑩)。遠距離の引っ越し費用をどうやって工面するか、また彼は書庫番だったため段取りもよくわからず、禄高が低いため皆をまとめるのにも苦労し、この時に藩の石高が15万石から7万石に半減されるためリストラや倹約も任され、家臣たちからの不満の板挟みになりながらも、何とかこれを成し遂げて行くという物語でした。当時は本当にこんな風に、大名の引っ越しというものは大変だったのでしょうね。
 

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イオ

御土居めぐり(西ノ京~紫野) (2025/03/08 訪問)

御土居は豊臣秀吉が聚楽第の惣構として築いた総延長22.5kmに及ぶ巨大な堀と土塁で、洛中と洛外を区画する役割を果たしました。明治以降、宅地化によりそのほとんどが失われましたが、一部は現存し、うち9か所が国史跡指定を受けています。

6年前に雨のため中断したままになっていましたが、今度こそ御土居を一周(少なくとも国史跡の9か所は全て)めぐるべく、例によって西院駅で阪急レンタサイクルを借りて登城(御土居めぐり)開始。北野を除く西ノ京から紫野までの4か所は前回も訪れていますが、どうせ通り道なので再訪しました。

西ノ京御土居(京都市中京区西ノ京原町・国史跡)
市五郎稲荷神社の奥に土塁が南北に遺っていて、社殿脇から土塁に上ることもできます。鳥居が立ち並ぶ参道あたりが堀跡のようです。

北野中学校御土居(京都市中京区西ノ京中保町)
「御土居の袖」と呼ばれる西側張出部の土塁が北野中学校の敷地内に遺っています。中学校の周囲は目隠しフェンスで囲まれていますが、北辺の目隠しが途切れたあたりから見ることができました。

北野御土居(京都市上京区馬喰町・国史跡)
北野天満宮境内の西辺を流れる天神川(紙屋川)沿いに御土居が良好に遺っています。土塁の上から堀代わりの天神川を見下ろすとかなりの高低差があり、往時の規模を感じることができる…のは良いんですが、御土居があるもみじ苑は紅葉(例年10月下旬~12月上旬)と青もみじ(例年4月中旬~6月下旬)の頃のみの公開です。梅苑の公開時(例年2月上旬~3月下旬)にも土塁の上は歩けますが、川沿いに下りることはできません。また、北野天満宮の北門を出たところには北門前町延命地蔵菩薩と呼ばれる御土居から出土した石仏が祀られています。

平野御土居(京都市北区平野鳥居前町・国史跡)
天神川沿いの住宅地の中に芝が植えられ綺麗に整備された土塁が遺っています。南端部には御土居から出土した石仏が祀られていました。

紫野御土居(京都市北区紫野西土居町・国史跡)
天神川沿いの住宅地の一角に土塁がわずかに遺っています。西土居町という町名にも御土居の名残が見られます。西側を流れる天神川とは結構な高低差があり、自転車を走らせていると自然地形を活かして築かれていることを実感しました。

途中、聚楽第に寄り道しながら紫野御土居までの御土居をめぐり、船岡山城、大徳寺 龍源院に続いては、いよいよ初探訪のエリアに足を踏み入れます(続く)。
 

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todo94

国立東京博物館の特別展参戦前の攻城 (2025/06/08 訪問)

国立東京博物館の特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」をどうしても見たくて、6月7日、14日、15日と所用が入っている中、唯一、自由が利く6月8日にトーハクに行くことにしました。前泊して朝駆けしたのは練馬城址公園。トーハクの開館は9:30なので余裕です。早朝ということでハリポタ城の門扉は閉ざされていました。としまえん思い出コーナーのあるエントランス広場から石神井川に沿って花のふれあいゾーンまで足を伸ばしました。早朝にもかかわらず、ジョギングに勤しむ人をはじめとして多くの人々が城址公園に繰り出していました。グーグルマップの練馬城跡のポイントの近くに建つ「としまえん古城の塔」は城址公園の整備完了時には撤去されてしまうようですので、記念に写真を撮っておきました。ここから上野へは都営大江戸線を利用しました。西新宿五丁目駅で下車して太田南畝の水鉢を拝見。さらに牛込柳町で下車して大河ドラマ「べらぼう」の紀行で紹介された浄栄寺の甘露門も拝んでいきました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:雑賀城 (2025/05/28 訪問)

和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市)から徒歩10分弱で、津屋公園入口(34.191331、135.171900)に着きました。
そこから、城跡山公園へ向かいました。

築城年代は定かではないようですが、雑賀孫一(鈴木重秀)の父、鈴木佐大夫重意によって築かれた城のようです。
佐大夫は雑賀党の頭目を務め、本願寺顕如に与して織田信長と石山合戦で戦いました。
その後、1585年(天正13年)に豊臣秀吉が6万の大軍で紀伊に侵攻、いわゆる「紀州征伐」で落城しました。
1585年(天正13年)に和歌山城が築城される頃に廃城となったと思われます。

現在城址は「城跡山公園(津屋公園)」として整備されていますが、当時の遺構は残っていません。
丘陵の南端には妙見堂が祀られています。
バスが遅れていた為、一本前のバスに乗れました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=日方城を目指す為、和歌浦バス停からバスで日方バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市) (2025/05/28 訪問)

元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市)から徒歩45分くらい(ちょっと道に迷い時間がかかった)で、和歌浦天満宮駐車場(34.190893、135.164572)に着きました。

901年(延喜元年)御祭神 菅原道真公が大宰府に左遷させられる途中、風波を避けてこの和歌浦の地に立ち寄られました。
その後、橘直幹が康保年中(964年~968年)に和歌浦を訪れ、道真公を追慕し神籬をたてたのが始まりです(関南天満宮伝記より)。
現在の建物は、1604年(慶長9年)に当時の浅野幸長紀州藩主により造営され1606年(慶長11年)に完成しました。
社殿は紀州出身の掘内(へいのうち)吉政・政信親子により作られ、政信はその後、茨城県の鹿島神宮・東照宮の元和造営に関わり1632年(寛永9年)に全国の大工の頂点である、江戸幕府の初代作事方大棟梁に任命されました。

予定時間をオーバしている為、麓から天満宮を見上げて撤退しました。
観光時間は5分くらいでした。次の攻城先=雑賀城へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市) (2025/05/28 訪問)

雑賀崎台場から徒歩5分くらいで、番所庭園駐車場入口(34.190886、135.140984)に着きました。

紀州藩が沖を通る異国船等を監視するために遠見番所をここに設けたのが始まりで、鷹の巣山に移転したことから「元番所」と呼ばれています。
台場は1854年(嘉永7年)頃に和歌山藩によって築かれ、三浦長門守の持ち場とされました。

現在は番所庭園(ばんどこていえん)として観光スポットの1つとして、そして美しい景勝地として整備、保存されています。
入場料600円でした。
台場跡の様子を確認するのも現地の案内板に絵図が載せてありますので非常にわかりやすいです。
今は台場の雰囲気こそありませんが、西にせり出した地形を活かしたものであったことはよくわかりました。現在でも土塁が確認できる。
北に隣接している雑賀崎台場もよく見えます。
攻城時間は20分くらいでした。次の観光先=和歌浦天満宮(城びと未登録 和歌山県和歌山市へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:雑賀崎台場 (2025/05/28 訪問)

雑賀崎遊園バス停から徒歩5分ちょっとで、雑賀崎台場入口(34.191863、135.141969)に着きました。

1853年(嘉永6年)6月のペリー来航は、和歌山藩にも影響を与えていました。
和歌山藩では1854年(安政元年)頃から海防警備のための台場整備計画が始まり、友ヶ島や和歌山の加太から海南一帯に台場を築造する計画がたてられました。
しかし、雑賀崎台場は資料には登場せず、カゴバとして狼煙や番所の印が付けられているにすぎなかったそうです。

岬の先端でやや小高くなったところに土塁と石垣の遺構が残っていました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=元番所台場(城びと未登録 和歌山県和歌山市)へ徒歩で向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:弥勒寺山城 (2025/05/28 訪問)

JR和歌山駅バス停からバスで秋葉山バス停に着きました。そこから徒歩5分弱で、秋葉山プール入口付近(34.199323、135.170724)に着きました。
この付近で駐輪した後、階段を登り、徒歩で歴史と風土の丘(34.199243、135.173096)に向かいました。

1577年(天正5年)雑賀孫一によって築かれました。
弥勒寺山城は「雑賀合戦」の舞台となった城で、孫市が織田軍を迎え撃つために山全体を城塞化しましたが、信長は6万の大軍で攻め寄せ、最終的に降伏しました。
その後、1585年(天正13年)には羽柴秀吉による「紀州攻め」がおこなわれましたが、このときの史料には現れないため「雑賀合戦」の時点で廃城となったようです。

現在城址は「秋葉山公園」として整備されています。
明確な遺構や城跡碑はありませんが、秋葉山古戦場跡(雑賀合戦)の説明板などがあります。
山頂の展望台からは和歌山城が見えることを期待するも木が邪魔をして見えませんでした。。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=雑賀崎台場を目指す為、秋葉山バス停からバスで雑賀崎遊園バス停に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:和佐山城 (2025/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、秋月城と和佐山城を攻城しました。
千旦駅から徒歩20分くらいで、高積神社参道入口(34.234126、135.254390)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、延文年間(1356年〜1361年)に紀伊国守護の畠山尾張守義深によって築かれたと云われています。

道を間違え分岐点を反対に曲がってしまい、気が付いたら、神社についていました。後で調べたら、高積神社上ノ宮でした。
方向音痴の自分には登城口からの案内標識がほしいです。
分岐点まで戻り、このまま攻城すると電車の時間に間に合わない為、途中で断念しました。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=弥勒寺山城を攻城する前に、ホテルに戻り朝食を食べる為、千旦駅から電車で和歌山駅に戻りました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征14日目:秋月城 (2025/05/28 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、秋月城と和佐山城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩15分ちょっと走って、耕月寺入口付近(34.2299032、135.204850)着きました。
その後、秋月城跡付近(34.229896、135.204170)に向かいました。

延徳年間(1489年〜1492年)紀俊連によって築かれたと云われています。
その背景には雑賀党の勢力拡大があり、日前神宮と國懸神宮の社領を守るために土豪の飯垣周防守に守らせたそうです。
秋月城は太田城を居城とする太田党の支城でしたが、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めで落城し、そのまま廃城となりました。

城跡周辺、及び耕月寺周辺を歩きましたが遺構らしきものはありませんでした。
耕月寺は朝早い為、閉まってました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=和佐山城を攻城する為、和歌山駅から電車で千旦駅に向かいました。

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