「烏山城 『栃木だっぺ』と スルーする(からすやまじょう とちぎだっぺと するーする)」
ここは鉄道でも盲腸線となっており,50城の中で最も意識の薄い城でした。私みたいな人に共感が得られるかどうかはわかりませんが…。
※赤い城さんに続き,50城すべてエントリー完了です。夏休みの宿題を終えることができました…<笑>。
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2025/08/21 21:25
【赤色立体地図かるた】
「烏山城 『栃木だっぺ』と スルーする(からすやまじょう とちぎだっぺと するーする)」
ここは鉄道でも盲腸線となっており,50城の中で最も意識の薄い城でした。私みたいな人に共感が得られるかどうかはわかりませんが…。
※赤い城さんに続き,50城すべてエントリー完了です。夏休みの宿題を終えることができました…<笑>。
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2025/08/21 21:15
【赤色立体地図かるた】
「死角なし 縄張設計 丸子城(しかくなし なわばりせっけい まりこじょう)」
長大な横堀に,Y字の麓までダイレクトの竪堀。丸馬出とも組み合わせ,徹底的に死角をつぶしている印象です。その印象のまま詠みます。
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2025/08/21 20:12
寺田屋 (2013/09/07 訪問)
寺田屋は幕末の京都伏見にあった船宿です。幕末の鳥羽・伏見の戦いで炎上しますが、後に再建されました。文久2年4月23日(1862年5月21日)に薩摩の急進派・有馬新七らが同じ薩摩の藩士達に襲撃されました。薩摩藩主久光の命とされ、同郷の薩摩藩士同志が斬合う惨劇となり7人が死亡し、2人が切腹を申し付けられました。これらは寺田屋事件と呼ばれています。
後の慶応2年1月23日(1866年3月9日)には坂本龍馬と護衛の三吉慎蔵が伏見奉行の捕り方に襲撃されました。この際、龍馬は拳銃で捕り方2人を射殺し、薩摩藩邸に逃れました。
幕末を揺るがした事件の現場ではありますが、龍馬の方がイメージが良いらしく、庭には坂本龍馬の銅像が建っています。再建建物とはいえ、かつての龍馬の宿泊した部屋や、当時の刀傷も再現されています。
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2025/08/21 19:56
法勝寺城跡~【絶景の城 米子城跡】から南へ約10キロ(約10分) (2025/08/21 訪問)
【絶景の城 米子城跡】から南へ約10キロ(車で約10分)の、法勝寺城跡の攻城を試みたが、草が生い茂ったため出来ず。
登城口を載せます。
桜の名所らしいので、その頃攻城しようと思います。
10月22日頃の【絶景の城 米子城跡】のダイヤモンド大山
9月27日~10月19日【国宝 松江城】のすいとうろにお越しの際に、立ち寄られても良いかもしれません。
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2025/08/21 19:16
竹田城 (2013/09/21 訪問)
「朝霧が 幽玄を醸す 竹田城(あさぎりが ゆうげんをかもす たけだじょう)」
これ岡城でやったやつのセルフパクリです。竹田城は赤色立体地図のかるたに今の所、入ってはいないので「おてつき」ではありませんぞ。ちょうどTVのコマーシャルで竹田城が有名になってきたころで、朝から人が大勢来ていました。
けっこう石垣の端まで人が寄せてますね。この後、誰かが石垣から落ちてロープを張られたこともあったかな。
人が多いと不慮の事故が多くなります。竹田城のオーバーツーリズムが深刻化している最中でも、しつこくCMで流し続けていたグー〇ルも良くないと思うんですけどね。
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2025/08/21 18:56
【赤色立体地図かるた】
「竪石垣 尾根筋のびる 清水山城(たていしがき おねすじのびる しみずやまじょう)」
大雨警報発令中のため攻城しておりませんが,登城口までは行っております。一の丸~二の丸~三の丸が尾根筋に配され,東西約500mの竪石垣によってつながっております。厳原港を監視でき,晴れれば壱岐まで見えるそうです…👀
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2025/08/21 18:37
【赤色立体地図かるた】
「光秀の 集大成なり 周山城(みつひでの しゅうたいせいなり しゅうざんじょう)」
実は,2018年7月の西日本豪雨の時に計画していました。当然攻城を見送りました。以降,再計画せずにズルズルと来ています。ここは明智光秀の最高傑作ともいえると思います。早いうちに再計画したいと思います。
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2025/08/21 17:40
【赤色立体地図かるた】
「小田原城 城びと跳ね出す 大堀切」
おだわらじょう しろびとはねだす おおほりきり
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2025/08/21 17:36
【赤色立体地図かるた】
「そこここに 畝堀トラップ 河村城」
そこここに うねぼりトラップ かわむらじょう
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2025/08/21 15:35
【赤色立体地図かるた】 (2015/10/02 訪問)
「御主殿の滝 悲劇を伝える 八王子城」(ごしゅでんの ひげきをつたえる はちおうじじょう)
10年前の10月上旬、その当時横浜に居た娘夫婦宅へ孫の運動会見学を兼ねて、滝山城、八王子城を初探訪、車は八王子城跡ガイダンスの駐車場を利用し、ガイダンスを見学して、山頂までは無理なので主殿跡を中心に探訪。
ガイダンスから管理棟の手前にある八王子城野外地形立体模型を見学して、城山川を渡り大手枡形曲輪?へ大手古道を進んで曳橋を方向へ、八王子城の紹介写真では曳橋が中心でしたので是非見たいと願って居たのですが、その当時初期復元の曳橋は事前の水害で流失しており、新しく架け替える前の両岸の基礎工事中で通行止め。戻って大手桝形曲輪?から城山川の北側の道を御主殿へ入る、その前には御主殿の滝が目に入って来ました、御主殿に入って、建物跡の礎石、木造で平面復元建物、御主殿大手の櫓門は冠木門、木製柵が復元され、大手の石階段、腰巻石垣なども修復復元されていました。
小田原征伐の時には対豊臣戦対策として、滝山城から少人数でも守れる八王子城に移っており、城主は北条氏照、しかし氏照は小田原城に詰めて居り、八王子城を守るは城代はじめ3,000人の将兵、豊臣北国軍の前田利家、上杉景勝等の猛攻により1日で落城し、諸将、婦女子が自刃して御主殿の滝に身を投げた、血で赤く染まったと云われている。
曳橋はその後2代目が復元されて居り、初代も2代目も見て居ませんので機会が有れば再登城して見学したいものです。
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2025/08/21 14:43
わかりやすい (2025/08/19 訪問)
道路から入ってすぐです
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2025/08/21 14:20
2025/08/21 14:01
【赤色立体地図かるた】
「雨男 高いハードル 長岩城(あめおとこ たかいはーどる ながいわじょう)」
ここは雨が降ってしまったら,安全最優先で登城見送りになると思っております。
しかも,九州遠征では約60%の確率で雨。大雨警報で航空機欠航になった対馬。筑後川と球磨川の氾濫でも九州にいました。高速バスで大分から天神に向かう途中,鳥栖ジャンクションの大渋滞も経験しました。私が大雨を連れて来たわけではありません。
できれば中津のホテルに泊まり,合わせて城井ノ上城も攻めたいと考えているのですが…。
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2025/08/21 13:54
【赤色立体地図かるた】 (2015/10/02 訪問)
「武蔵野に 技巧凝らした 滝山城」(むさしのに ぎこうこらした たきやまじょう)
10年間の10月上旬、その当時横浜にいた娘夫婦宅へ孫の幼稚園運動会を見学兼ねて八王子城、滝山城を初探訪、車は滝山観光駐車場が滝山街道と都道166号線交差点脇に在り利用した。
駐車場からは案内に従い北側の鬱蒼とした山に入る、入れば直ぐに山城の遺構がムンムンと入って来る、横堀に切岸、堀切興奮状態が続いて行きます、小宮曲輪下、三の丸下、堀底道、千畳敷、クランク横矢道、角馬出、その間にも壕や曲輪がそこかしこ、二の丸、中の丸、曳橋を渡って本丸枡形へ、本丸内部、本丸基壇、本丸搦手から降りて、曳橋を堀底道より眺める。まだまだ未踏のエリアが有りましたがここで終了、土の城の面白さを実感しました、高低差もあまりなく私的には探訪しやすい城郭でした。
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2025/08/21 12:05
【赤色立体地図かるた】 (2011/06/19 訪問)
①「荒川と 断崖活かす 鉢形城」(あらかわと だんがいいかす はちがたじょう)
②「中世の 馨り豊かな 鉢形城」(ちゅうせいの かおりゆたかな はちがたじょう)
③「豊臣を 一ヶ月も耐えた 鉢形城」(とよとみを ひとつきもたえた はちがたじょう)
14年前の6月日帰りで川越城、杉山城、鉢形城を探訪し鉢形城へは仕事の関係で知り合っていた藤井尚夫さん著書「復元ドキュメント戦国の城」河出書房新社発行の書籍に触発されて訪ねた次第。
先ず鉢形城歴史館に車を駐めて歴史館へ、藤井さんの書籍に鉢形城の復元にて木製実物大の大櫓門の写真と設計図含めて記載されて居ましたので是非実物を見てみたいと思っており、入館すると欅材の大櫓門が殿と設置されていて、下から、上の階からと眺めまわしました、櫓部、門は透かし門、見ごたえが有りました、鉢形城立体模型も周囲から眺めて、荒川断崖に添った曲輪群、中を流れて荒川に注ぐ深沢川、に囲まれた鉢形城が良く表現されて居ます。
歴史館から深沢川を渡って本曲輪へ、荒川の断崖を覗き込み、二の曲輪へ、馬出を経て三の曲輪、二の曲輪と三の曲輪間には大きく広い壕が横たわっている、三の曲輪は復元整備が進んで居て、会所建物、庭園、復元石積土塁が西側に長く守っている、南面には模擬城門と続き土塀が復元されている。草刈もされて居て大変探訪し役く成って居ました。
豊臣氏の小田原征伐時には前田利家、上杉景勝の北国軍約35,000人対3,000人鉢形城側北条氏邦の攻防戦一ヶ月持ち堪えるも開城した。
歴史館も有り駐車場完備、各曲輪群は発掘調査の上整備復元されて居り日々の草刈保存整備も行きとどき探訪見学しやすい城跡です。
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2025/08/21 07:08
2025/08/20 23:02
【赤色立体地図かるた】 (2015/01/13 訪問)
「石垣が 幽玄を醸す 岡城址(いしがきが ゆうげんをかもす おかじょうし)」
幽玄と言ってもテンテンちゃんでも、キョンシーでもありません。「もののあはれ」を受け継ぐ美的観念をあらわしているようですが、中世の山城は無常感が満ちていて、雰囲気に会っていると思います。これが総石垣の平城だと、あまり雰囲気が出ない。総石垣の山城に朝霧などかかっていると言うことが無い、竹田城とか津和野城などはいい感じですね。
以前 竹田城を訪問した時は朝5時から登って、城址に着いた時は6時くらいでした。朝霧が出ていて、まさに幽玄の世界でしたね。がっつり朝霧が見たかったら、もう少し早い方が良さそうだけど。
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2025/08/20 22:36
【赤色立体地図かるた】
陣城の 野面に積みし 石垣山
(じんじろの のづらにつみし いしがきやま)
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2025/08/20 22:23
【赤色立体地図かるた】 (2014/01/28 訪問)
「弓一丁 本領復帰 河村城(ゆみいっちょう ほんりょうふっき かわむらじょう)」
河村城の城主・河村義秀は石田氏山合戦で平氏に味方したため、所領を没収されますが、鎌倉で源頼朝に流鏑馬を披露し、本領に復帰できたと伝わります。赤色立体地図で見ると周辺にやたらと腰郭が多いように見えるけど、これはいったい何なのだろう。
「名瀑と 鉄道公園 河村城(めいばくと てつどうこうえん かわむらじょう)」
山北駅付近に鉄道公園があり、展示されているD52は月に一回動く姿が見られるそうですが、コロナ前の話なので現在は不明。
ハイキングコースが整備され「美しい日本の歩きたくなるみち500選」に「河村城址と洒水の滝へのみち」が選ばれたそうですが、500ってけっこう多いですな。
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2025/08/20 21:21
【赤色立体地図かるた】 (2014/05/17 訪問)
「浅井家の 血脈繋ぐ 小谷城(あさいけの けつみゃくつなぐ おだにじょう)」
「御屋敷を 城山が包む 小谷城(おやしきを しろやまがつつむ おだにじょう)」
小谷城落城に際して、当主・浅井長政は切腹、父久政も前日に切腹しており、長政の嫡子・万福丸は処刑され、もう一人の男子・万寿丸は幼かったため、後に主家させられました。
これで浅井家の嫡流は途絶えてしまったのですが、長政とお市の間に生まれた三人の娘が、豊臣家・京極家・徳川家に嫁いで行きました。
長女・淀殿(茶々)は息子の秀頼と大阪夏の陣で自刃し、京極家に嫁いだ次女の初も子供を授かることはありませんでした。
三女・江は二度目の夫との間に娘を授かり、その後に再婚した秀忠との間に2男5女を授かり、その血脈は今の天皇家に続いているという話です。実は愛知県にも浅井長政に関わる伝説があり、小谷城の落城の際に側室の八重の方が長政との子供・七郎を連れて美濃へ逃れ、そののち今の愛知県春日井市に移って来たということです。その縁で春日井市の名鉄・間内駅前に浅井長政の銅像が建っています。浅井家は滅びるも、三姉妹や庶子が子孫を残し、その血脈は公家や皇室にまで及びますが、その根幹は小谷城にあると思います。
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