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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:小浜城 (2024/10/04 訪問)

売布神社駅から徒歩20分弱で、毫摂寺(ごうしょうじ)山門前(34.806866、135.364862)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1557年〜1570年)頃に一向一揆衆によって築かれたと云われています。
小浜御坊亳摂寺を中核とする寺内町が大堀川と南北東の三方に門を設けて城郭化したものだそうです。
1578年(天正6年)有岡城の荒木村重が織田信長に叛くと、信長方の武将が小浜城に置かれたそうです。

遺構として土塁、横堀(水堀)、門跡があるようですが、門跡以外、よくわかりませんでした。
売布神社駅から強雨の中、傘をさして巡った為、結構濡れました。
バスの時間が迫っている為、攻城時間は5分くらいで撤退しましが、バスは10分近く遅れたので、結果論ですが、もう少し遺構捜しをすればよかったと思いました。
次の攻城先=大原城を目指す為、小浜バス停から阪神バスとJRを利用してで新三田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:山下城 (2024/10/04 訪問)

山下駅から徒歩10分ちょっとで、登り口付近(34.898470、135.4085480)に着きました。

山下城は塩川氏の居城で、1541年(天文10年)に籠城する塩川国満らが、三好長慶の軍勢を撃退した「一庫城の戦い」の舞台です。
塩川国満が城主の1584年(天正12年)には、豊臣秀吉による九州征伐の先鋒として出陣した能勢頼次の留守を狙い攻撃したため秀吉の怒りを買い、国満は自刃することとなり、そのまま廃城となりました。
現在城址は古城山には登山道が整備されており、土塁や堀切などの遺構を確認することができるそうです。

登山口から少し登ると『松茸山 入山禁止10月1日〜11月15日 山下古城山管理委員会』という表示とロープがあり、入れませんでした。
松茸のシーズンで入山禁止はわかっていましたが、登り口付近まで行って攻城としました。
時間があったので、川西市郷土館に行ってみましたが開いてませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小浜城を目指す為、山下駅から電車で売布神社駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:池田城 (2024/10/04 訪問)

川西池田駅から徒歩30分くらいで、池田城跡緑道公園入口(34.827014、135.429558)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代初期に池田教依によって築かれたようです。 1508年(永正5年)城主池田定正は細川高国と戦い焼失、落城するが嫡子久宗が奪還しました。
1568年(永禄11年)織田信長に破れ池田勝正は降伏しました。 その後荒木村重が入りますが、伊丹城に移り廃城となりました。

朝早く(公園に着いたのは6時20分くらいでした)攻城した為、開いてませんでした。事前調査不足でした(開園時間は9時から19時でした)。
模擬天守や模擬城門、冠木門が見たかったのに残念です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=山下城を目指す為、池田駅から電車で山下駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:有岡城 (2024/10/04 訪問)

今日は移動距離が長く&攻城予定の城跡も多いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。(十三駅から伊丹(阪急)駅に向かいました。)
伊丹(阪急)駅から徒歩10分ちょっとで、有岡城跡緑道公園入口(34.780997、135.420993)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代には伊丹氏の居城であったそうです。 南北朝時代には数々の戦が摂津国で行われ、伊丹城でも数々の功城戦が行われ、時には落城しているようです。
1574年(天正2年)織田信長は茨木城主荒木村重に命じて、池田城主池田氏と伊丹城主伊丹氏を攻め滅ぼし、荒木村重を摂津国守護として伊丹城へ置きました。 村重は伊丹城を有岡城と改名して城の大改修を行いました。
1578年(天正6年)播磨国三木城主の別所長治が織田信長に叛くと、つづいて村重も織田信長に叛き有岡城に籠城しました。この時、黒田孝高が村重を説得するために赴いたが、そのまま捕えられて幽閉されました。
信長は池田・塚口・食満・加茂・倉橋・原田・刀根山に軍勢を配して有岡城を包囲し、長期戦に入りました。
1579年(天正7年)村重は近習を連れて夜陰に紛れて有岡城を脱し、尼崎城へ逃れました。城主が存在しないまま籠城を続けていたが遂に裏切り者が出て、周囲を固める砦が破られ1579年(天正7年)末に落城しました。
その後、信長は池田之助を城主に置きましたが、1583年(天正11年)美濃国へ転封となり羽柴秀吉の直轄領となって廃城となりました。

有岡城はJR伊丹駅の辺りに主郭が築かれていました。駅の西側に公園として整備されているのが主郭の一部で、土塁や石垣がありました。空堀跡を確認するのを忘れてました。
伊丹(阪急)駅から有岡城に向かう途中に、大溝跡と説明板を見つけました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=池田城を目指す為、JR伊丹駅から電車で川西池田駅に向かいました。

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まさお

小田原城 (2024/11/07 訪問)

石垣山一夜城から小田原城に移動しました。
正規登城ルートに従い、馬出門・二の丸・銅門・常盤木門・本丸広場を
通って天守閣に登城しました。
天守閣内は北条家に関する展示がされていて、最上階からは周囲の景観を楽しむ
ことができました。
平日のためか、お客さんは外国人とシニアが大半でした。

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まさお

小田原 石垣山一夜城 (2024/11/07 訪問)

今日は冬一番が吹いていますが晴天なので小田原方面に行くことにしました。
自宅から関越・圏央道・小田原厚木道路経由で2時間半ほどで到着しました。
思っていたより石垣が素晴らしかったですが、崩落が目立ちました。
本丸跡からの眺望は素晴らしいです。小田原城を探すのが意外に大変でした。
小田原市がフィリピン海プレートと北米プレートでのプレート境界上にあるとの
掲示があり、プレート境界を初めて見ました。
駐車場の隣には「一夜城ヨロイヅカファーム」があり、大変賑わっていました。

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赤い城

長宗我部氏の本拠 (2024/10/27 訪問)

この日も戻りガツオを求めて2週続けて土佐に。
やっぱり美味しい!と満足した後桂浜まで足を伸ばしました。
ちょっと曇っていたのが残念ですが波が高く迫力ありました。

裏手にあるのが浦戸城です。
少し歩いて西側の登城口から登りました。
三ノ段、二ノ段と曲輪が続き、その先に三重堀切があります。
全体的に残る遺構は少ないですがここが一番の見どころかと思います。
通路を挟んだ北側の斜面を覗くと竪堀となって落ちているようにも見えます。

さらに進んで龍馬記念館が建つ主郭へ。
井戸が残っています。
主郭の北側に天守台があり、小さな祠が二つ鎮座します。
手前には発掘調査で見つかった石垣が移設されていました。

長宗我部氏最後の居城で、秀吉配下になった後朝鮮出兵に備えるなどの理由で海上交通の利便性からここを拠点としたと考えられます。

朝田さん、やっぱり考えすぎでしたか。
城めぐりは自由に気の向くまま、が良いと思いますので気になさらないよう。
ただあのお寺、土塁っぽいのがありますが遺構なのかどうかは?です。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:寺岡砦 (2024/10/03 訪問)

長居西二丁目バス停から徒歩5分ちょっと、神須牟地(かみすむち)神社(34.611551、135.509870)に着き、その後、眞光寺山門付近にある説明板前(34.610358、135.509953)に向かいました。

寺岡砦は寺岡城とも呼ばれ、環濠集落から発展した砦と考えられるが詳細は分かっていないようです。
戦国時代、畠山、三好、細川、桃井各氏らの抗争が続く中で、寺岡付近でもたびたび合戦が行われ、その戦場となりました。
1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では徳川方がここに陣を構えたとされます。
また、夏の陣ののち、大阪城の多くの浪人が寺岡に集まり土民となったという伝承もあるそうです。

現在、跡地は神須牟地(かみすむち)神社となっています。
遺構などはなく、眞光寺山門付近に説明板があるだけです。
雨の中、攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に向かう前に、動物園前駅でコインロッカーより荷物を取り出し、本日の宿泊先の十三駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=30285歩、攻城距離=21.22Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:宇利和利城 (2024/10/03 訪問)

出戸駅から徒歩5分ちょっとで、花塚山古墳石碑前(34.605907、135.562551)に着きました。

宇利和利城(瓜破城)は、楠木正成の3男である楠木正儀の居城とされます。

現在、瓜破東小学校がある場所の西側が城跡と推定されますが、遺構などはまったく残っていなく花塚山古墳の石碑が建っているだけです。
雨の中、攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺岡砦を目指す為、瓜破(うりわり)東口バス停から大阪シティバスを利用して長居西二丁目バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:古河藩陣屋 (2024/10/03 訪問)

正覚寺城(畠山政長墓所)から徒歩20分弱で、平野小学校門脇陣屋石碑付近(34.626457、135.554102)に着き、その後、大念仏寺移築陣屋門(34.626536、135.551423)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、天明年間(1781年〜1789年)に下総国古河藩土井氏によって築かれました。
下総国古河藩土井氏の飛領地12,635石を管理するための陣屋でした。

古河藩陣屋は現在の平野小学校付近に築かれていましたが、ここには遺構はなく小学校の門脇に陣屋の石碑が建っているのみです。
遺構としては、かつての陣屋門が近くの大念仏寺に移築され現存してます。
雨の中、攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=宇利和利城を目指す為、平野(地下鉄)駅から電車で出戸駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:正覚寺城 (2024/10/03 訪問)

平野(関西本線)駅から徒歩10分ちょっとで、旭神社鳥居前(34.631220、135.558343)に着き、その後、畠山政長墓所(34.631662、135.561104)に向かいました。

正覚寺城は「応仁の乱」を引き起こしたともいわれる、畠山政長の最後の地として知られています。
1493年(明応2年)に起きた「明応の政変」における「正覚寺合戦」の舞台でもあります。
それに先立つ1477年(文明9年)に政長が正覚寺に陣を置き、畠山義就と争った際に城郭化されたものとみられています。

現在城跡には旭神社があり遺構は残っていませんが、境内の神木脇に城址碑が建てられています。
畠山政長墓所はフェンス等の中で、中に入ることはできませんでした。
雨の中、攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=古河藩陣屋へは、ここから徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:久宝寺城 (2024/10/03 訪問)

八尾城から徒歩15分くらいで、城址碑付近(34.629825、135.586510)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、畠山家国によって築かれたと云われています。 家国の子孫畠山満基の長子満貞は渋川郡を領して渋川満貞と名乗り久宝寺城に居城したそうです。
渋川満貞の子光重(光貞とも)は播磨国安井郷を領して移り安井氏を称しました。光重のあと、光長、光行と続き、安井定継のときに久宝寺城に戻ったそうです。
安井定継の子定重・定正兄弟は織田信長に仕えましたが、1577年(天正5年)本願寺の兵によって攻められ定重は討死、定正もこのときの傷がもとで没しました。
安井氏はその後も久宝寺寺内の支配権を有して江戸時代まで続いています。

久宝寺城は久宝寺寺内の一角に築かれていたそうです。
遺構はなく、細い路地脇に石碑と案内が建っているのみです。
電車の時間が迫っていたので、攻城時間は2~3分くらいで速攻撤退でした。次の攻城先=正覚寺城を目指す為、久宝寺駅から電車で平野(関西本線)駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)12日目:八尾城 (2024/10/03 訪問)

近鉄八尾駅前バス停から徒歩10分弱で、八尾神社鳥居前(34.630073、135.599692)に着き、その後、常光寺にある大阪夏の陣古戦場碑前(34.630598、135.598243)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、八尾別当顕幸によって築かれたと云われています。
顕幸は当初北朝方として小山城の志貴右衛門などと対立していましたが、1333年(正慶2年)頃には南朝方となり、敗れて八尾城は北朝方の城となったそうです。
その後の動向は定かではないようですが、1573年(天正元年)若江城主であった三好義継が織田信長の家臣佐久間信盛によって攻められると、若江三人衆の裏切りもあり若江城は落城しました。
この三人衆の一人池田丹後守教正が信長から八尾城を与えられています。1584年(天正12年)小牧長久手合戦では池田恒興に従って参加しており、合戦後は家督を継いだ池田輝政に従って美濃国へ移り八尾城は廃城となりました。

八尾城は現在の八尾神社から西の常光寺一帯に築かれていたと云われています。
遺構はなく、八尾神社に石碑、常光寺に「大阪夏の陣古戦場」石碑があるのみです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=久宝寺城へは、ここから徒歩で向かいました。

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にのまる

創建1300年おめでとうございます。 (2024/09/29 訪問)

2016年・2021年に続いて3度目の訪問です。
2021年はまだすっぽりとベールに包まれ、完成時を想像するだけだった南門。
みなさま方のご投稿で南門と築地塀復元の様子を時系列に拝見できるのが楽しくて、来春の一般公開を待ちきれずに行ってきました。

どのあたりまで近づけるのか?
果たして全容を見られるのか?
もしかしたらこっそり覗いて見るだけかも…?と、フライング訪問の不安を抱きつつだったのですが、そんな心配を払拭して余りあるかっこよさでした!
行ってよかった!!

被写体が素晴らしいので拘りのないiPhoneカメラでも、ものすごくかっこよく写ります。
立ち入り禁止なので私自身も入れなかったけれどまわりの皆さんも入れないので“人が入り込まない写真”が撮れたのもよかったです(笑)
ひっそりと佇んでいて初訪問時になかなか見つけられなかった多賀城碑が南門とリンクしたのも驚きでした。
終始ドキドキしっぱなし、ソワソワも止まらない感覚を存分に楽しみました。


前回訪問時に外郭西門~奈良時代の外郭東門跡まで3時間かけて見て歩いた感動と満足感が残っているので南門と政庁跡周辺を見たら今回こそ東北歴史博物館に寄ろうと考えていたのですが、久しぶりに仙山線に乗りたいという気持ちが抑えられず、またしても博物館はパスしてしまいました。

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小城小次郎

長野氏の性格によるものなのか (2024/03/02 訪問)

城の全域を200条以上の畝状竪堀が囲むという知る人ぞ知るクレイジーなお城だが写真映えはすこぶる悪い(腕が悪いせいもあるが)。平氏一門を称し長野の地にとことん執着した粘着質な長野氏の性格が城の姿に現れているような。

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しんちゃん

畑城・番外 脱出編 (2024/10/06 訪問)

奈良県山辺郡山添村の畑城の続きです。主郭の周辺をウロウロ歩き、石垣を発見しました。ぴーかるさんの投稿にあったやつですね。あさん、ぴーかるさん、情報感謝いたします。さあ、これで帰れるぞー。
元来た道を戻って行きます。土塁や堀切などの遺構を確認しつつ先に進みますが、ちょっと変則的な入り方をしてきたので、元来た道から逸れて、西の尾根先からズボッと外に出てきました。今のままだと、ちょっと危ないので、きれいに整備されたらまた来たいかな‥。

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しんちゃん

和歌山城遺構 時鐘堂・御台所 (2024/02/25 訪問)

和歌山城の南側、道路を隔てた岡の上に岡山の時鐘堂があります。正徳2年(1712)五代藩主・徳川吉宗の時に紀州藩によって設置されました。時鐘堂の梵鐘は大坂夏の陣の際に豊臣方が使用した青銅製の大筒(大砲)を梵鐘に改鋳したものとされています。
和歌山市大垣内にある光恩寺は紀州徳川家と縁があり、明治13年(1880)和歌山城から本丸御殿の一部を移設して庫裏を築いたとされています。城内の古絵図から本丸御殿の北西隅にあった御台所であったとされています。

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しんちゃん

柳生定食ライス追加 芳徳寺・柳生家墓所 (2024/11/02 訪問)

柳生城跡の北西に位置する芳徳寺は柳生一族の菩提寺で境内からは柳生家墓所への道が続いています。境内もかつての城址の一部とされ、本堂の背後には土塁が残っています。この土塁も、なかなかの厚さをもっています。
寛永15年(1638)に柳生宗矩と沢庵宗彭によって開かれたとされ、本堂には二人の像が安置されています。寺の中には資料館もあり柳生一族や柳生藩の資料を見ることが出来ます。

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しんちゃん

柳生定食(金)柳生城 (2024/11/02 訪問)

柳生城は戦国期の柳生氏の本城と見られ、北西の芳徳寺や西の柳生正木坂道場も城域に含まれると思います。
芳徳寺の背後には土塁が残り、境内には柳生一族の墓所もあります。城址西側から城域に入ることができ、最初に深い堀切にたどり着きます。北側に南郭(水道施設)があり、さらに北側に主郭があります。主郭の北側にも郭や堀切が存在するようですが、今回は未訪問です。
最初に見た堀切の南にも郭がありますが、かなり藪化が進んでいます。この日は小雨の中の登城だったので、比較的あっさりと済ませています。

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朝田 辰兵衛

パネルの向いている方向に絶景アリ👀 (2024/09/15 訪問)

鎌倉駅から「鎌40」系統のバスに乗り,小坪バス停下車。ここから逗子マリーナの前を通り,向かいました。
まずはパネルがあり,その向いている方向に絶景があります。富士山と江の島のコラボを楽しんでください。私の場合,富士山の冠雪シーズンではなかったので,ちょっと残念ですが…。
ショートカットになるのかわかりませんが,正覚寺を抜けて住吉神社へとたどり着きました。井戸ワキの抜け穴とされるヤグラですが,覗いてみたら光が差し込んでいましたので,抜けられそうです。足元の状態が確認できませんでした。ただ,ジメジメしていましたので,高い確率でヒルが生息していると思われます。
ここのパネルは無残にも倒れていました…。

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