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半端ない切岸に圧倒された (2025/03/15 訪問)

 トーダイさんが2019年8月に山の西から進入して、小社がある西端の郭に到達されているものの、あまりの切岸と夏場の藪回避とで、撤退されています。私は、北側の入り口から参りました。こちらは、ちえぞーさんの城いこまいによると「石仏がある民家左わきから背後に回り込んでいくと山への道が続いている」とあります。写真1です。トーダイさんが認識された場所よりも少し東寄りです。言葉で説明するのは難しいですね。
 北から尾根に取りつくと、すぐに平削地が現れます。平削地(郭)を5段たどっていくと、目の前にどーんと巨大で切り立った切岸が現れました。高さ15mほどもあります。行永城の前に訪問した八田城もなかなかの切岸、急斜面でしたが、それをはるかに上回っています。直登は無理です。回り込んで薄い道痕をたどって上へと行きます。主郭および帯郭の切岸もすごいです。特に西側。山の南面は、与保呂川が浸食した急斜面です。
 西の尾根を下っていくと、竪堀を超えて、トーダイさんが撤退した切岸の上に至りました。下の方にお社が見えます。直降も無理です。右手に薄い道があり、下ることができました。
 これにて、城びと登録の京都府のお城をコンプリートしました。行永城にはあまり期待してなかったですが、結果的に最後にふさわしい登城になりました。

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カズサン

【駿河 光鏡院】静岡県静岡市 瀬名氏菩提寺と梶原一族古戦場 (2025/03/10 訪問)

 余湖図コレクションの瀬名氏館鳥瞰図に魅せられて数年後やっと訪ね、周辺を探訪散策撮影しました。

 光鏡院住所:静岡県静岡市葵区瀬名1丁目38-36
 梶原一族いくさの跡案内板住所:静岡県静岡市葵区瀬名1丁目32-14(光鏡院山門の南山道沿いに有ります)
 駐車場:光鏡院山門前に数台の参拝者駐車場有り

 光鏡院は瀬名氏初代一秀の菩提寺です、瀬名氏は今川氏の一族です、今川義忠の遠江横地城、勝間田城討伐戦で討伐したものの残党に不意を突かれて流れ矢に当たり遠江塩貝坂で討死、嫡子龍王丸(後の氏親)家督争いに遠江の今川一秀が加勢補佐し瀬名に移り住み、瀬名氏を称する、二代氏貞、三代氏俊、四代氏詮と今川氏重臣として継承。
 龍王丸の家督争いに義忠夫人北川殿、北川殿の兄弟伊勢新九郎(北条早雲)の名前も重きを占めています。今川氏は氏親の後に義元と継承されて桶狭間の戦いを迎える。
 光鏡院を訪れた時期は紅梅白梅が咲、河津桜も咲いていました、石垣造りの境内で西から山門、山門には阿吽の仁王像、裏手に風神雷神像が安置されて立派な山門です、石段を昇り90度北に石段スロープ状の参道が両脇石垣付きで素晴らしい、南向きに本堂だ有り屋根には今川の二両引き家紋と五三の桐紋が瓦が付いている。光鏡院の北に龍泉院(三代)、南に松寿院(二代)の菩提寺も有り、寺院が砦出城の構かと思われます。

 梶原一族のいくさの跡大看板(グーグルマップに史跡マーク梶原山案内所として有り)
 光鏡院山門の南側、梶原山の登り口に梶原一族のいくさの跡と題して梶原一族の戦場ごとに地図と解説、梶原氏が自刃した梶原山と一本松公園遊歩道案内の大看板が一体と成って設置されています。
 じっくりと地図と解説文を読ませて頂きました、難所の薩埵峠を越えて清見寺の在る清見ヶ関から庵原、瀬名(大内、矢崎、矢射タム橋)、自刃の梶原山と分けて解説がしてあります。源頼朝が亡くなった後の政権争いに敗れてた梶原一族が西国の領地を目指しての西行に幕府の命を受けた地侍の待ち受けに遭い清水、瀬名一帯で戦い、戦いに利あらず一族梶原山に逃れて自害した。梶原塚が有り地元の方々に祀られている。
 大変勉強に成りました。
 

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トク

知覧城(1/3):武家屋敷 (2025/02/23 訪問)

ちょうど私の少し前に、偶然にのまるさんも訪れられていたようで、少しダブった投稿になってしまい申し訳ありません。私は逆で、武家屋敷の方から入り知覧城を通ってミュージアムの方へ抜けて行くルートを選びました。

知覧城は、島津氏庶流「佐多氏」(=知覧島津氏)の居城で、113ある外城の中では規模も大きくまた保存状態もよいので、島津の城造りの特徴が大変よく分かる城だと思います。

バスを降りて脇道へ入ると武家屋敷群があります。身分の高い武士(佐多一族)は普段ここで暮らしていたようで、ここは伝統的建築物保存地区となっています。石積に高い垣根でわざと敵から家の中が見えないようにし、入口も喰い違い虎口にして敵の進入を防ぐなど、様々な防備がなされていました。いざという時には、家も砦として使えるようになっていたという事ですね。徳川幕府とはいつ一戦交える事になるかわからない、そういった危機感が薩摩藩には常にあったと思います。よって表向きの鹿児島城は天守のない平城にして幕府に恭順の意を示すふりをし、裏では幕府にばれぬよう113の外城を作り、その外城では藩士や家族にまでも危機意識が共有されていた。これらの家を見るとその事がよく分かります。

次はここからは県道の坂を登り、知覧城の本丸を目指そうと思います(2/3へ続く)。
 

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イオ

麒麟がくる紀行(明智光秀生誕地)

大河ドラマ「麒麟がくる」にあわせて明智光秀ゆかりの地をめぐろう、と始めた麒麟がくる紀行でしたが、コロナ禍で思うように進められないなどもありながら、昨秋の田中城で「ここは絶対に外せない」と考えていたところは全て訪れることができました。とはいえ、始めてから5年以上も経っていると最初の頃に訪れたところなどは半ば忘れてしまっていますし、この5年あまりに訪れたゆかりの地を光秀の生涯に沿って再構成して振り返ってみたいと思います。

まずは「明智光秀生誕地」から。前半生不詳であり出自にも諸説ある光秀だけに生誕地とされる地も6か所あります。

1 明智長山城(岐阜県可児市)
2 落合砦(岐阜県恵那市)
3 一日市場館(岐阜県瑞浪市)
4 中洞白山神社(岐阜県山県市)
5 多羅城(岐阜県大垣市)
6 十兵衛屋敷(滋賀県多賀町)

桔梗紋を家紋とする土岐氏支流の明智氏の出とする説が有力とされますが、大河ドラマでも岐阜県可児市の明智長山城を居城とする土岐明智氏として描かれていました。明智長山城北麓の天龍寺には明智氏歴代の墓所があり、明智荘には光秀の産湯の井戸跡(未訪)もあります。

明智の地名が残る岐阜県恵那市の落合砦も光秀の生誕地と伝わります。落合砦には産湯の井戸があり、近隣の明知城周辺には生母とされる於牧の方の墓所や、天神神社に明智光秀公学問所、八王子神社の柿本人麻呂社に明智光秀公手植えの楓、龍護寺には明智光秀公御霊廟があるなど、ゆかりの地が数多くあります。ただ、光秀が土岐明智氏の出だとするならば、明智遠山氏代々の居城(明知城)の周辺で生まれ育ち、明智遠山氏の菩提寺(龍護寺)に祀られているのはどう解釈すればいいんだろう…と思っていましたが、龍護寺の説明板の系譜によれば、光秀の叔父の明智光安が養子として明智遠山氏の家督を継いで遠山景行となったとのことで、その説に基づくとこの地が光秀生誕地であり、叔父のもとで若い頃を過ごした地ということになるようです。

岐阜県瑞浪市の一日市場館跡(一日市場八幡神社)も光秀の生誕地のひとつに数えられています。鎌倉初期にこの地に入った源光衡が本拠として一日市場館を築き、地名にちなんで土岐氏を称したことから土岐源氏発祥の地とされますが、光秀もこの地で生まれて一日市場館の井戸で湯浴みし、2歳で叔父の明智光安に引き取られたとの言い伝えがあるようです。境内には土岐源氏発祥の地の石碑や初代・光衡公の銅像に加えて、「明智光秀公ゆかりの地」の石碑と光秀の石像が建てられていました。

岐阜県山県市の中洞地区を光秀の生誕地とする伝承もあります。土岐元頼と中洞の豪族の娘との間に生まれ、やがて明智光綱の養子になったとのことで、中洞白山神社には産湯の井戸が、近くの武儀川には光秀を身ごもった母が「たとえ三日でも天下を取る男子を」と祈ったと伝わる行徳岩があります。近くには光秀の母が住んでいたとされる庵の跡もあるようです。

岐阜県大垣市にあった多羅城を光秀の生誕地とする説もあります。明智光綱(光隆)の妹が多羅城主の進士信周に嫁いで男子を生みましたが、兄に子がなかったため兄の養子とした二男が後の光秀である、とのこと。甥っ子を跡継ぎとする、なるほどありそうな話ではありますね。多羅城の所在地は特定されておらず、西高木家陣屋や城ケ平城、樫原城などが候補地とされていますが、城ケ平城や樫原城には「明智光秀生誕の地 多羅城」と記されたのぼり旗が堂々と翻っていました(笑)

岐阜県だけでなく隣接する滋賀県多賀町にも光秀の生誕地(出身地)とされる十兵衛屋敷があります。光秀が近江出身というとトンデモ説のように思えますが、江戸前期に彦根藩井伊氏に献上された「淡海温故録」の記述と地元に伝わる口伝に基づく説であり、曰く、美濃の土岐成頼を離反した明智十左衛門が六角高頼を頼ってこの地に住むようになり、その二、三代後に生まれたのが光秀なんだとか。十兵衛屋敷には光秀と見津五人衆らのイラストボードが立ち並び、十兵衛屋敷跡の標柱、説明板、さらに十兵衛茶屋には光秀多賀出身説の資料が多数展示されていました。

…いくら前半生不詳といっても生誕地が6か所はやりすぎだろ、とは思いますが、それぞれ出自は違っても明智光綱なり光安なりに引き取られている点はほぼ共通しており、幼少期から青年期を美濃で過ごしたと考えてよさそうです(ただし多賀説では多賀から美濃を経ることなく越前に行っています)。大河ドラマで描かれたように斎藤道三に仕えたかどうかは諸説あるものの、美濃在住時に妻木氏の熙子を妻に迎え、その後に越前に移り住んだと考えられます(続く)。
 

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todo94

姫路城プレミアムナイトツアー翌朝の攻城① (2025/03/09 訪問)

姫路城プレミアムナイトツアーの終了は21:30。22時過ぎの新幹線に乗車しましたが、この日のうちに帰着できるわけがありません。新大阪にて途中下車し、泊をとって、翌日、朝駆けに勤しんでみました。JRで長居駅にアクセスしてまずは真光寺の説明板を目指しました。それから皆さんが投稿されている神須牟地(かみすむち)神社へと向かいました。長居駅から西に伸びる商店街の道の突き当りが神須牟地神社ですのでこちらの方が分かりやすいでしょう。グーグルマップの寺岡砦のポイントは真光寺についていますが、あさんの投稿の通り、なかなかわかりにくい場所に位置しています。

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赤い城

成羽陣屋 岡山県高梁市 (2025/02/23 訪問)

備中松山城の次に向かったのは鶴首城。
高梁市成羽美術館に車を置いて、と思ったら素敵な石垣があります。
説明板も立っていてここが山崎豊治により造られた成羽陣屋であることを知ります。
山崎豊治は丸亀からここに入り旗本となりました。

この美術館と成羽小学校周辺が陣屋跡で石垣が良く残っています。
美術館の入口が大手門、美術館は書院跡。小学校は御庫跡となります。
裏手に回ると石垣に横矢がかかる部分もありました。

事前準備不足でノーマークだっただけに得した気分。
颯爽と鶴首城へ向かいました。

【見どころ】
 ・旗本陣屋としては屈指の高石垣
 

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しんちゃん

榊原康政 (2025/03/16 訪問)

館山城は戦国時代に赤井氏によって築かれたとされるが、定かではないようです。その後、上杉氏と北条氏の間で争奪戦が繰り返されますが最終的には北条氏に従い、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに際して落城しています。
その後は徳川家康の関東入封に伴い、榊原康政が10万石で入り近世城郭として築き直しました。本丸跡には向井千秋記念子供科学館が建ち、周辺は「館林城ゆめひろば」になっていて、土塁らしきものもありました。館林市役所も城域に含まれ、北西には千貫門跡の碑が立っています。三の丸西端あたりには土橋門が再現され、土塁も残っており、塀も再現されています。遺構は殆ど残っていないのですが、門と土塀が再現されているだけで、周囲には近世城郭としての雰囲気が漂っているので不思議なものです。

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小城小次郎

少しずつ見どころが増えていく (2024/05/11 訪問)

2022年に博物館が新設され、2023年にはガラス製の鑑賞施設が設けられた。少しずつ手が加えられ、少しずつ見どころが増えているのが嬉しい。昨年5月が三度目の訪問で、晴れたのは初めて。

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しんちゃん

飛騨道中・金龍権現  (2025/03/09 訪問)

某アプリで「金龍権現」の異名を求めて飛騨国・高山市を彷徨いました。もう暖かくなってきたし、牧戸城と向牧戸城でも登城してやろうかな、と考えていましたね。甘かったですね、雪国を少し舐めてましたね。
高速を降りてあちこち走ってると、なんか雪が多すぎて除雪するのがめんどくさい、みたいな空気すら感じます。牧戸城登城口・・どんだけ雪が積もっているのか・・ここを登ろうと考えていたんですね・・甘かったな~。
高山城も登るつもりでしたが、周囲を走っているうちに雪に乗り上げJAFの御世話に・・この日の経験と翌日の日宮城での経験から、車に除雪用のスコップを搭載しました。だんだん車に変なものが増えていくなあ。
高山市の金龍神社は、芝郡代が金森長近の法号にちなむ「金龍権現」の神号で、東照宮境内に勧請したものとされています。(戒名:金竜院殿要仲素元)
これでこの日は無事に「金龍権現」の異名を獲得。半日で外されたとはいえ「日本一の兵」の異名も大事に持っていますよ。
イオさんのアドバイスが無ければ「風雲児」で良しとしていただろうから‥感謝してます。
とはいえ、この異名204人も持っている人がいる。今年で城びとが14年目として、月に一人として計算が合わない。どこかでバラ撒いているのかな? 個人的には100人台くらいがレア感があっていいんだけど贅沢な話だろうか。


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芝のもこもこが素敵 (2025/03/09 訪問)

 芝がきれいに刈られて、土の造形が角のない柔らかい輪郭を見せます。主郭の周りは、三方を切岸/土塁/横堀/切岸/土塁が囲み、横堀が帯郭状になっています。横堀の一部に塹壕状あるいは障子堀状に深く掘られた部分が目を引きます。主郭以外に多くの郭があり、もこもこと土の造形が素敵です。石垣の城、福知山城が間近に見え、好対照です。

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しんちゃん

如意の渡し 伏木台場・富山県高岡市木綿町 (2025/03/10 訪問)

伏木台場は嘉永3年(1850)に加賀藩によって築かれ、大砲を5門備えていたとされています。港からは夕景の立山が見えそうですが、立入禁止なので入ることは出来ません。そこから程なく南西に進んだところに源義経と弁慶にゆかりの深い「如意の渡し」があります。
山伏に扮した義経と弁慶主従の像が有り、台座に由来が書かれています。
それによると、歌舞伎の「勧進帳」に安宅の関で、疑いを晴らすために弁慶が義経を金剛杖で打ち据える場面がありますが、それは室町時代の軍記物語「義経記」で「如意の渡し」で弁慶が義経を打ち奉るとの事という挿話を脚色したものとされています。
私は予備知識なしで、ここに来たので、この像を見た時にデジャブを受けました。この人たちはきっと各地で嫌疑をかけられるたびに、こんな小芝居を打っていたのかな・・と思いましたね。弁慶はあまり手加減をしてくれないだろうから、そのうち義経さん、パンチドランカーになっちゃうんじゃないかと勝手に心配しました。こっちがオリジナルだったということなんでしょうか?

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しんちゃん

安田城 本丸 (2025/03/10 訪問)

安田城は天正13年(1585)豊臣秀吉が富山城の佐々成政を攻める際に本城となった白鳥城の支城として整備された城とされています。慶長2年(1597)前田利長が富山城へ入ると、家臣の岡嶋一吉と片山延高が始めに白鳥城へ富山城の支城として入り、後に安田城へ移ったようです。史跡は遺構が良好に残っています。本丸の土塁は登り口が付いて周遊できるので、再現された部分も多そうです。
水堀は基本的に繋がってるようですが、土橋で区切られた部分もあり、右郭周辺は良く水を湛えていますが、本丸と二の丸の間は湿地となっています。

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ぴーかる

久永氏陣屋 (2025/01/12 訪問)

【久永氏陣屋】
<駐車場他>あずま水生植物公園駐車場20台分程あり。
<交通手段>車

<感想>1泊2日栃木・群馬旅、ラスト6城目。現地説明板によると久永氏陣屋は領地が領地が点在する禄高3200石の旗本久永源兵衛重勝の領地でした。ここ東小保方村は石高1182石で村の支配のためにここに陣屋を設けました。明治維新後陣屋跡は小学校になり、現在は周辺の神社を合杞して大東神社がおかれています。南池の南端と西池の東端にわずかに面影が残されているとのことでしたが、よく分からなかったので周辺を散策して終了しました。これにてこの旅終了。1183㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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栃木西方城

西方町公民館内にてパネル展を開催します!! (2025/03/18 訪問)

 栃木市西方町公民館内にある西方城ラウンジ(西方公民館北側ロビー)にて西方城跡のパネル展を開催します。そのほかに西方城模型や西方公民館文化財室に保存されている実際に使用されていた本物の武者甲冑もあわせて展示しておりますので、西方城ラウンジにあるソファにゆったりとすわり戦国時代の余韻に浸りながらいにしえの旅へ出かけてみませんか?
 まただんだん暖かくなり行楽シーズンですね…ぜひ現地の西方城跡にも訪れてみてくださいね!お待ちしております🌸

主催:西方地域づくり推進課公民館係(公民館担当)
会場:栃木市西方町公民館西方城ラウンジ(西方公民館北側ロビーにて)
ご住所:栃木市西方町本城1
西方地域アシストネット本部HP
https://www.city.tochigi.lg.jp/site/culture/7537.html
お問い合わせ
栃木市文化課文化財係
〒328-8686
栃木市万町9-25栃木市役所4階 文化課
TEL:0282-21-2497 FAX:0282-21-2690
栃木市文化課H.P
https://www.city.tochigi.lg.jp/soshiki/57/

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駿府城

3月21日(金曜日)発掘調査現場の見学ゾーン北側入場制限のお知らせ

3月21日(金曜日)は9時から12時まで水中ポンプ撤去のため、発掘調査現場内の見学ゾーンの北側を入場制限します。12時以降は通常通り見学できます。
ご迷惑をお掛けしますが、ご理解ご協力のほど宜しくお願い致します。

※赤塗りの範囲を9時から12時まで入場制限します
※12時以降は通常通り見学できます。

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駿府城

駿府城公園が生まれ変わる!?再整備の全貌をチェックしよう!

駿府城公園の再整備に関する説明看板が、公園内の各所や関連施設に設置されました。
この看板では、駿府城公園の歴史やこれからの公園の姿をわかりやすいイメージ図とともに紹介しています。整備後の公園は、「歴史遺産」「市民の憩い」「防災拠点」をテーマに、訪れる皆さんが歴史を感じながら楽しめる空間へと生まれ変わる予定です。

看板は、駿府城跡天守台発掘調査現場「発掘情報館きゃっしる」や駿府城公園内の施設、静岡市歴史博物館にも設置されています。お散歩の途中や公園を訪れた際には、ぜひチェックしてみてください。

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にのまる

木曜日はお休み (2025/01/23 訪問)

佐土原城から路線バスで宮崎市街に戻り、次に目指すのは綾城です。
バスの乗り換えまでに30分くらいあり、じっと待っているのもつまらないので行けるところまで進もうと歩いていたら宮崎神宮に着いたのでお詣りしました⛩️

綾城は「綾待合所」バス停から徒歩で行けます。
ところが……、
坂道をどんどん登り、着いたー!と思ったら休館日でしたΣ(゚д゚lll)
木曜日だったので大丈夫だろうと油断していました。完全に下調べ不足です。
こんなことなら佐土原城のあと、2択で迷った都於郡城へ行けばよかったかな……と一瞬思いましたが、まぁそんなに落ち込むことでもありません。現実を受け入れるのみです。
せっかくここまで来たので天守を遠望できるところはないか探してみると、吊り橋からいい感じで見えたので今回はOK🙆‍♀️です!

九州城めぐりひとり旅6日目。
少々疲れてきたので、後半戦を乗り切るために、増えてきた荷物を宅急便で自宅に送りました。身軽がいちばん😊

この日の遅いお昼は宮崎駅のごぼううどん。
ずっと外食(ほぼ携行食)ですが、しっかりしたものを食べに行く元気もないので、
夕食は、東横イン最上階の眺めのいい部屋で、
カルシウムを摂ろう!→牛乳
繊維質が足りない!→野菜スティック
肌荒れ防止に!→ビタミンウォーター
コラーゲンでアンチエイジング!→チョコマシュマロ
にしました😄

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todo94

プレミアムナイトツアー③ 今年初公開の「井郭櫓東室」 (2025/03/08 訪問)

天守から出て備前丸では、やはり並び立つ西小天守と大天守の写真を撮影したくなります。10人の貸し切りですから、それこそ撮り放題。そして、これまた今年初公開の井郭櫓東室へ。井戸周りの板を踏み抜かないよう、一人ずつ、案内されました。最後はぬの門の石落としから足軽に扮したスタッフめがけてボールを落として当てるイベントでした。夜の姫路城内をたっぷりと楽しんで迎賓館に戻ると、地物素材で作られた軽食の提供、そして解説員の工藤茂博さんとのお城談義で締めとなりました。17:00の受け付け開始から21:30の終了まで、トイレに行かずに済んだことに我ながら非常に驚いています。歳をとってトイレがかなり近くなってきていましたので。トイレのことを忘れるほど楽しかったということにしておきましょう。

収入が激減している中でこんな贅沢をしてよいものかとも思いますが、70代、80代になった時、こういうイベントを楽しめる健康状態(例えば、現存天守の階段を上り下りするための足腰の保持とか)である保証はありません。退職金を取り崩してでも60代の今、楽しめることはしっかり楽しんでおこうと思っています。

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赤い城

大松山城 岡山県高梁市 (2025/02/23 訪問)

備中松山城は小松山城とも呼ばれ、元々は中世の山城。
備中兵乱後に毛利氏の支配となり、近世城郭へ改修されました。
元はさらに奥、秋葉三郎重信により築かれた大松山城より始まります。

小松山城の背後、土橋と呼ばれる堀切を過ぎて進むと相畑城戸跡に着きます。
備中兵乱の古戦場といわれ、広場のようになっています。
さらに進むと天神の丸跡、臥牛山の最高所にあたります。

堀切を通り進んで行くと大松山城への分岐に着きますがまずは大池へ。
水は無く発掘調査中でした。
なので石積もしっかり見学できます。
ここで首や刀を洗ったと伝えられ、「血の池」とも呼ばれています。

大池の先を下ると展望台方面への吊り橋に。
雲海が望める展望台に続いています。
今回は渡らず左に進み切通と番所跡を見学して引き返しました。

ようやく大松山城へ。

説明板を読んで進むと井戸があります。
右手に主郭、二郭との間には浅くなった堀切があります。
二郭と三郭の間には明確に分かる堀切が残り、この堀切は発掘調査により箱堀状だったとのこと。
その先はさらに段になって曲輪が続いています。

皆さんのレポートにあるように夏の登城は厳しいかもしれませんが是非ここまで足を伸ばして欲しいです。

【見どころ】
 ・相畑城戸跡
 ・天神の丸の堀切
 ・大池
 ・大松山城の曲輪と堀切

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Tokyobay

田安、清水に比べて一橋は・・・ (2024/10/20 訪問)

あらためて「一橋」の痕跡を確認。もはや「一橋」と言えば「御三卿」ではなく「大学」というイメージだが、「国立」にあるのに「一橋」を名乗るのもどうかと思うし、そもそも一橋大学は銀座に発祥の碑があるしと思って歴史を調べたら、既に関東大震災後に国立に移転したにも関わらず、戦後に学生投票で「一橋大学」になったとか。なんじゃそりゃ???
それにしても田安門・清水門はある意味「ガチで健在」なのに、一橋門の無惨な姿はなんなのか。これも江戸城に最も近い「立地の良さ」ならではの結果なのか。まあ、全ては東京五輪の再開発のせいなのかと。日本橋もその「犠牲者」だろうが、首都高地下化で「日本橋には空がある」世界に期待。でも、一橋は無理か。丸紅がカネ出して復元すればいいと思うが。そもそも地下鉄すら通さない皇居に首都高通すって何事なのかと。「北の丸は皇居じゃない」と舐めてるとか?その辺の経緯は都市開発の歴史として興味深いので別途考察したいテーマではあるが。

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