きぬがさじょう

衣笠城

和歌山県田辺市

別名 : 衣笠山城、愛洲城
旧国名 : 紀伊

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主郭
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ぴーかる

ミカン畑の山頂に (2026/01/25 訪問)

【衣笠城】
<駐車場他>城跡まで車で上がれないことはないです。道が狭いので途中に墓地があるので墓地の駐車場(3台分程)に停めて徒歩がいい。
<交通手段>堀切

<見所>曲輪
<感想>1泊2日紀伊半島1周、山城攻略旅11城目。現地説明板によると衣笠城は鎌倉時代に愛州氏によって築城されたとされます。また畠山氏が守護を務めた紀伊国において応仁・文明の乱で衣笠城は激戦地になったとされています。
 城跡は主郭を中心に西下段に副郭があり、主郭の北側と東側にかけて広い帯曲輪があります。さらに北東側に竪堀が1条あります。副郭の西側に堀切があり遮断しています。主郭から南側を通って南西面は車両道が改変されていて、南西側にミカン畑の作業小屋がありこの辺一帯は城跡の一部であれば改変されているかもしれません。

<満足度>◆◆◇

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昌官忠

(東海&関西)遠征17日目:衣笠城 (2025/05/31 訪問)

峰山城から車で25分くらいで、建物北空スペース(33.748424、135.424592)に路駐しました。そこから、右に進むと衣笠山頂に着きます。

築城年代は定かではないようですが、文永年間(1264年〜1275年)に愛州八郎経信によって築かれたのが始まりと云われています。
愛洲氏は南北朝時代には南朝方として活躍し、龍松山城主山本氏らと共に57年間の永きにわたり吉野朝を支えました。
1476年(文明8年)紀伊国守護職畠山氏の内訌による戦いで、政長方であった愛洲氏に対して義就方の日置久木城主小山家長に攻め込まれ落城しましたが、その後奪い返しています。
1585年(天正13年)秀吉の南征軍に攻められ衣笠城は落城、愛洲氏12代当主綱俊は雑賀に逐電したそうです。

城跡までは農道を登り、主曲輪横の駐車場まで行くことが出来ます。
農道は狭く、みかん農家の方の車とすれ違います。自分も4度すれ違い、そのたびにどちらかが避難箇所まで車を移動しました。
主郭には土塁や空堀が残されており、中央に石碑と説明板がありました。
攻城時間は25分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に行く為、紀伊田辺駅でレンタカーを返却し、紀伊田辺駅から電車で新宮駅に向かいました。
歩行歩数=19636歩、歩行距離=13.7Kmです。

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イオ

山城シーズン最終 (2019/04/20 訪問)

ここしばらくは街中の城(跡)ばかりで山城(というか土の城)に行っておらず、みなさんの投稿をうらやましく拝見するばかりでしたが、本格的に草木が茂り、獣や蛇や虫が出てくる前に行っておきたい、ということで、白浜町での所用を済ませた後、近隣の衣笠城を訪れました。

県道216号線沿いの中の宮バス停付近から山頂手前の鉄塔を目指して農道を登っていき、鉄塔近辺の空きスペースに駐車します。農道は舗装されていますが、ガードレールは無く、道幅も狭く、随所にある待避所以外では対向できないのでご注意。もっとも、そう滅多に対向車は来ないと思いますけどね。

縄張りは、上段・中段・下段の曲輪と、上段中段の曲輪を取り巻く帯曲輪で構成され、上段と中段の曲輪には土塁(その北面下部には石積)が、中段と下段の曲輪の間には空堀と土塁が、下段の曲輪の南側には竪堀があり、北側の帯曲輪には溜池跡と伝わる窪地と井戸跡と思しき穴、西側帯曲輪の西側には堀切もあり、さらに上段の曲輪からの眺望は素晴らしく、白浜温泉の半島部越しに太平洋まで見渡せる(この日は遠くは霞んでましたが…)など、小さな城ながら山城の見どころが凝縮されており、久しぶりの土の城を充分に堪能できました。

ただ、草木は次第に茂ってきていますし、竪堀や堀切を探して藪こぎしていると、何度か藪の中で何かが動く音(小さな音なのでトカゲ?)がするなど、やはり山城めぐりに適した時季はそろそろお終いのようです。曲輪の周囲にはモミジが植えられていましたので、次は紅葉の頃に来たいですね。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 愛洲経信
築城年 文永年間(1264〜1275)
主な改修者 愛洲氏
主な城主 愛洲氏、小牧氏
廃城年 慶長20年(1615)
遺構 曲輪、帯曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 和歌山県田辺市中三栖
問い合わせ先 田辺市教育委員会文化振興課
問い合わせ先電話番号 0739-26-9943