ひらいし(ひらいわ)じょう

平石城

大阪府南河内郡

別名 : 平岩城
旧国名 : 河内

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イオ

楠木正儀の十七支城 (2025/03/23 訪問)

南北朝期に在地土豪の平岩茂直が楠木正成の挙兵に応じて築き、後醍醐天皇を迎えようとしたと伝わります。その後、楠木正儀の十七支城のひとつとして改修されるも、北朝方の畠山国清らの猛攻により落城しました。現在見られる遺構は戦国期に改修されたもので、畠山氏の内紛において活用されたと考えられます。

駐車場はないので、府道沿いの邪魔にならなさそうなところに路駐して登城開始。乗合タクシー停留所脇の案内表示に従って峠道を進むと此山頂平石城址の石碑があり、その少し手前から山中に入って約5分でハイキングコースの分岐(案内表示あり)に至ります。分岐から尾根道を少し行くと平石城です。

平石城は単郭の山城で、分岐からの北西尾根を堀切で遮断しています。堀切を越えて階段を上った主郭は北西から北東に折れるL字型をしていて、中央部に平岩氏の墓所と城跡碑、説明板があります。主郭の周囲には横堀状の帯曲輪がめぐっていて、北東と南東の支尾根の付け根では浅い堀切となっています。そのまま主郭の周囲をひとめぐりすると、ところどころに主郭の切岸と帯曲輪が見られました。

周囲をひとめぐりしても所要15分程度の小さな城ですので、何かのついでにどうぞ。
 

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しんちゃん

楠木十七支城 (2024/11/02 訪問)

平石城は地元の豪族の平岩茂直が楠木氏の赤坂挙兵に応じて築いたと現地案内板に記されています。元弘元年(1331)茂直はこの城で河内に侵入してくる北条の軍勢を防いだとされています。正平14年(1359)楠木正儀は17の城を整備し、平石城も楠木十七支城の一つとして河内に攻め入った足利勢を防いだとされています。
府道から北上して行くと集落の建物の間から城址に向かう道が有ります。付近には車を停めるスペースは無いので注意が必要です。
標柱の有る場所から城址に向かって入っていくと、堀切がかかっていてその上の丘が主郭になります。主郭はそれなりに広く、西側にも腰郭が有りました。周囲の山で平になっている場所に出丸もあったようです。

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平岩茂直 (2024/05/09 訪問)

 平岩茂直が楠氏挙兵に応じて築いた城です。
山頂部の曲輪と帯曲輪が確認できます。その場所だけでは狭いのですが、説明板によると周囲の山で平らになっている所が出丸の跡と書いてありました。
 河南町平石地区の大阪府道704号竹内河南線沿いに平石城を示す標柱があります。その道を入って行くと左手に草に埋もれていますが平石城への標識があります。その一本奥の道の側に石碑があり、そこからも行くことができます。両方の道は合流し10分くらいで城址へ行くことができます。

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ぴーかる

平石城 (2023/03/04 訪問)

【平石城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.494804, 135.654269>の交差点は広いです。
<交通手段>車

<見所>曲輪・切通
<感想>現地説明板によると平石城は1331年に楠木正成の挙兵に応じたこの地の豪族平岩茂直が築城し北条軍と戦って防戦しますが討死します。1359年に楠木正儀がこの城を整備して足利軍を防ぎ楠木十七支城の一つとなります。
 城びと登録の大阪府最後の山城攻略となりました。登城口は<34.496675, 135.657216>から入ります。少し進むと枡形のような削平地と奥が切通しになっている遺構かどうかちょっと分からない場所があります。進んで案内板の通り左手に入り込むと長い土塁と並行して進み主郭部分に至ります。主郭手前に堀切があり、主郭は円形の単郭で全体を高く削って切岸にして周囲を帯曲輪で囲んでいます。一見単郭の城のようには見えましたが城跡の範囲が判然としませんでした。

<満足度>◆◆◇

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 平岩氏
築城年 南北朝時代
主な城主 平岩氏
遺構 曲輪
指定文化財 府史跡(平石城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 大阪府南河内郡河南町平石
問い合わせ先 大阪府教育委員会事務局文化財保護課文化財企画グループ
問い合わせ先電話番号 06-6210-9900