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亀ヶ頭

宇都宮城に行って来ました (2005/04/04 訪問)

宇都宮城に行って来ました、夜のお城は雰囲気が違いますね

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亀ヶ頭

姫路城に行ってきました! (2025/09/08 訪問)

姫路城に行ってきました!やっぱり現存する木造の城は迫力がありました!やっぱり違いますね!

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キンヤ

御殿の書院が再移築復原された陣屋 (2025/09/07 訪問)

三河十八松平の一家で、小島藩1万石の瀧脇松平氏が、宝永元年(1704年)に小島に陣屋を構え、明治維新まで164年間の居所としました。

御殿 書院が元の位置に再移築復原されました。14年前に訪れた際は国道沿いに移築され公会堂として使われてましたが、復原された書院は様変わりしてました。
外観は新しい部材が多いためか綺麗ですが、9割が江戸時代の部材を使われているそうで、内部は柱・天井板・欄間などで殆どが古い部材です。
1万石の小さな藩主らしく慎ましやかな佇まいですが、特に透かし彫りや格子欄間が見事です。
次の間にある紋様「蔦(つた)」の透かし彫り欄間は、内から見ると意匠が浮かび上がり美しいです。
同じく次の間にある紋様「二葉葵」の透かし彫り欄間の4枚の内、1枚は現存しておらず空欄です。残存する欄間は、二葉葵が4組・3組・2組のものがあるため、現存しない欄間は1組だったのではとのことです。
軒瓦・鬼瓦には瀧脇松平氏の家紋「桔梗」が施され、南・南西側には江戸時代の瓦が使われているそうです。
書院が現存する城や陣屋は非常に少なく、この書院は大変貴重です。

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天守無しがアツい

初めての天守台 (2025/10/04 訪問)

二の丸御殿の内部を見学
大政奉還がおこなわれた部屋
朝廷の使者を迎えた部屋…などを見学
(内部は撮影不可のため添付画像は無し)

二の丸御殿を見学後…庭園を歩く。その際、中学の修学旅行で撮影した写真を使って…美術の時間に絵を描いたのだが…それと同じ場所を見つける

橋を渡って本丸へ…天守台に登る…というか二条城にそれがある事を初めて知る🫢

江戸時代の途中までは天守が存在していたものの…1750年あたりに災害で焼失🔥🏯以降は再建されなかった

本丸にも御殿はあり、見学を検討したが「当日券だと待ち時間40分」とスタッフに案内されたので止める

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すけきよ堂

青地城の一般公開 (2025/10/04 訪問)

昨年から開催している一般公開で登城しました。
普段は小学校の敷地内の為、入れません。
小学校の校歌に、城のことが歌われています。

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しんちゃん

豊臣秀吉 (2023/04/09 訪問)

「人たらし」と呼ばれる豊臣秀吉ですが、ぶっちゃけ「たらし」だけで天下を取れるほど戦国の世は甘くないです。誰よりも才覚に溢れている人物だと思いますね。そんな秀吉ですが、信長と同じく残忍なエピソードは多いです。戦国大名なら誰でもあるとは思いますが、甥の秀次を死に追いやり、その一族を殺害した手法が特に残忍とされています。
秀吉の主君・織田信長も甥の万福丸を「串刺し」という残忍極まりない手法で処刑しています。命じられたのは秀吉で、さすがの秀吉も串刺しは止めてほしいと信長に頼みますが許されなかったようです。記憶で書いているのですが、このころに秀吉の中の何かが壊れたような気がしますね。晩年のエピソードが取り上げられることが多いですが、信長配下の時代にも見せしめとして敵方の女・子供を処刑して見せしめにしたことも有ったようです。
長浜城は坂本城と同じく琵琶湖に面した水城です。なんとなくエレガンスな感じがしますが、若い娘が人柱として埋まっているという伝説があります。築城を命じられた京極氏が近くの村から美人の娘を探し出してきたのですが、秀吉が知ったら勿体ないからやめろと言ったかもしれませんな。
さりげなく長浜城カレーの写真も入れておきます。以前、道の駅「浅野三姉妹の郷」で購入した青い「びわ湖ブルーカレー」を使いました。築城部材は魚肉ソーセージです(カルシウム入り)。ご飯が冷めるといやなので、あらかじめ天守等を組み立てておきます。
ご飯を整えて天守や櫓を移築。これぞ秀吉流一夜城・・カレーがサラサラしてるので船が沈んでる。
スプーンで櫓ごとすくっていただきます。オカンが不思議な物を見るような目で見ています。正直、自分でも何を食べているのかよく分からなくなってきた。

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じゅんじん

定期訪問 (2025/05/11 訪問)

関東の玄関口。近くに来たらよるしかありません。今回は古城もいきました。土木技術は圧巻です。

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しんちゃん

豊橋を代表する城郭の一つ (2025/09/28 訪問)

二連木城は三河湾を押えた戸田氏が田原から三河平野進出を目指して築いた城です。戸田氏は田原の本家と分家の二連木戸田氏に分かれ、田原の戸田氏が今川義元に滅ぼされた後に今川氏・徳川氏(松平)に使えました。
城址は大口公園になっていて主郭の周囲には土塁が残っています。北西部は地形の改編が有る可能性が有り、再現されたものの可能性があります。東の豊橋二連木老人福祉センターが二郭跡と見られ北側に土塁の一部が残っています。また主郭と二郭の間の堀は通路として転用されています。
元亀2年(1571)武田信玄が三河に侵攻して来た際に、武田軍の吉田城攻略に備えて酒井忠次が二連木城に入っています。二連木城は元々は戸田氏が牧野氏の吉田城攻略に使用したりしましたが、後に吉田城の支城の役割を果たすようになっていたようです。
家康が、からくも吉田城に入ったので忠次も吉田城に戻ろうとしますが、武田軍の攻撃を受け多くの犠牲を出してしまったようです。
家康と忠次が吉田城に籠って守りを固めたため、信玄も無理に攻めずに甲斐に引き返しています。この翌年、信玄は3万(諸説あり)の兵を率いて青崩峠より侵攻し、三方ヶ原の戦いに至ります。
天正3年(1575)に武田勝頼が三河に侵攻をしてきたときも付近を放火し(落城とも)、吉田城を包囲しています。こののち武田軍は長篠城攻略に乗り出し設楽ヶ原の決戦に至ります。

※内容を一部修正しました。

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イオ

歴史の大きな舞台 (2025/06/01 訪問)

室町前期に斯波義重が築いた城で、中期以降は守護所として尾張国の中心地となりました。長らく守護代・織田大和守家の居城でしたが、織田信友が織田信長に討たれると信長が入って小牧山城に移るまでの約8年間居城としています。本能寺の変の後は清須会議により織田信雄が城主となって大改修するも、豊臣秀吉による国替えに応じずに改易され、豊臣秀次領を経て福島正則の居城となりました。関ケ原の戦いでは東軍の拠点となり、戦後に正則が安芸国に移封になると松平忠吉が入りましたが、忠吉が病死すると徳川義直に与えられました。その後、名古屋城の築城に伴い城下町ごと名古屋に移されて(清洲越し)、廃城となっています。

信長に側近く仕えた金森長近にとっても清洲城はゆかりの深い城だろう、ということで金龍紀行の一環として約7年ぶりの登城です。清洲公園駐車場(無料)からまずは清洲古城跡公園へ。遺構はほとんど失われていますが、古城跡公園には本丸土塁がわずかに遺り、土塁上には信長を祀った社と2つの清洲古城跡の石碑が建てられています。土塁の裾には説明板もあります。堀代わりだった五条川沿いに出ると、河川改修時の発掘調査で確認された胴木を土台とした本丸石垣が復元されていました。

五条川越しに模擬天守を眺めながら、城跡を分断するJRの線路をくぐって清洲公園にも。信長は清洲城から桶狭間の戦いに出陣していることから、清洲公園には桶狭間に出陣する若き信長像が立てられています。後に出陣する信長を見守るように濃姫の像も立てられ、二人の愛と希望の丘として夫婦の絆・立身出生(原文ママ)・必勝祈願のパワースポットになっているんだとか。パワースポット云々はともかく、長近も信長に付き従って清洲城から出陣したんでしょうなぁ。また清洲公園には今川義元本陣の桶狭間山に模した築山も設けられています。

最後に大手橋を渡って模擬天守にも。桶狭間の戦いの戦勝により熱田神宮に奉納された信長塀が周囲に復元されています。そして庭園を抜けて天守に入る…つもりでしたが、閉館まであまり時間がなくじっくり見て回ることができなさそうなので、天守内はまたの機会に。金龍紀行としては天守は特に関係ありませんしね。

…ということで、さすがに歴史に大きく関わった城だけあっていろいろと見るところはあり、遺構はほとんどなくてもそれ相応に楽しませていただきました。また、この日はカメラ修理中でスマホのみでの撮影でしたが、慣れないながらも特に問題なく撮れたのも収穫でした。
 

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しんちゃん

八木家・新選組発祥の地 (2016/02/20 訪問)

京都市中京区壬生梛ノ宮町の八木家には新選組の屯所がありました。文久3年(1863)第14代将軍徳川家茂の上洛警備の為、清河八郎率いる浪士組が入洛し、壬生村の郷士・八木家が宿舎の一つとして使われました。
清河ら浪士組の大半は江戸に戻りましたが、清河と袂を分かった芹沢鴨・新見錦・近藤勇・土 方歳三らは京に残り、京都守護職・松平容保の下に属して新選組を名乗るようになりました。当初はここに「新選組屯所」の標札を掲げ隊士も少数でしたが、次第に増えて行ったので周辺の屋敷にも宿泊したそうです。慶応元年(1865)4月に新選組の屯所は西本願寺に移され、翌年には不動堂村に移り、鳥羽伏見の戦いの直前には伏見奉行所に入ったとのことです。


土 方は差別用語じゃねーって。あまり差別に敏感すぎると使える日本語が減って行くだけですぞ。

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しんちゃん

帰途 (2025/06/30 訪問)

ここの登城路は少しややこしい。藤長寺の住職さんに了承を得たうえで登城する必要があるが、まず谷間をまっすぐ進んで行くと尾根に向かう道が見えてくるはず。この最初の尾根から登ると直登に近く少ししんどい。良く見るともう一つ北の尾根に続く道が有るはずなので、それに沿っていくと登りやすい。尾根先は見張台のようになっていて、堀切も付いています。写真は帰路になるので順序が逆になります。登るときはさっぱりわからんかったが、帰りは道沿いに下って来たので正しいルートが確認できました。

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江戸城天守を再建する会ガイド解説付き皇居東御苑散策ツアー 10月9日(木)14.00~16.30 (2025/10/09 訪問)

集合時間・場所:10月9日13.50・皇居東御苑大手門内堀通り 参加費:一般3,000円 会員1,000円
申込先:江戸城天守を再建する会 info@npo-edojo.org   03-6423-1882 御城印販売 500円
振込先 ゆうちょ銀行 00120-9-578881 三井住友銀行光が丘支店 普通0851894

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千葉県立関宿城博物館 (2025/10/02 訪問)

 梁田氏の築城と伝わります。戦国時代には反北条氏の拠点となった城で、3度の関宿合戦が行われています。河川改修などの影響で遺構はほとんど残っていません。御三階櫓を模した模擬櫓が千葉県立関宿城博物館として建てられています。
 この日、千葉県立関宿城博物館は休館となっていました。

 越谷駅からバスを利用して関宿台町バス停下車。徒歩約10分くらいで千葉県立関宿城博物館に行くことができます。

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法宣寺 (2025/10/02 訪問)

 古河公方の 重臣・野田氏の居城であったと伝わっています。野田氏は古河城の城主でしたが、1455年第5代鎌倉公方・足利成氏が古河を本拠地としたため、自身は 栗橋城に移りました。その後、永禄年間に北条氏により城は接収され、北条氏照 の北関東攻略の拠点となっています。法宣寺付近の空堀を散策しました。

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小城小次郎

夜景がいい (2025/02/25 訪問)

再建時にはいろいろ言われた土塁だがかつての規模感を現実に味わえるのは有難いと思う。昼はともかくライトアップされた夜景はなかなかなもの。LRTもそうだが宇都宮市の何となく尖った市政は評価したくなる。

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正一位一色稲荷神社 (2025/10/02 訪問)

 古河公方足利晴氏、義氏に仕えていた一色直朝の居城と伝わります。遺構はありません。正一位一色稲荷神社に説明板がありました。
 
 幸手駅から徒歩5分くらいです。

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徳川家康 (2025/10/02 訪問)

 もともと土豪会田出羽の陣屋があった場所でしたが、放鷹時の宿泊所などのために徳川家康が増林にあった御茶屋御殿を移したものといわれています。遺構はありません。石碑と説明板がありました。

 越谷駅より徒歩15分くらいです。

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宇田長左衛門 (2025/10/02 訪問)

 大相模小学校付近が跡地ですが、平日ということもあり復元された長屋門がある花田苑へ行って行きました。

 越谷駅からバスに乗り花田苑入口下車。バス停から1分くらいで行くことができます。

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ナマズ

100城突破!

2年かけてやっと100個以上の城を行くことができました

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しんちゃん

主郭 (2025/07/01 訪問)

主郭の西側には堀切があり、主郭に入ると北側に竪堀が有ります。登った時とは別の麓に降りてきましたが、ここにも段々の扁平地が有りました。いずれかは居館跡ではないかと思うのですが標識も何も無いし、なんとも言えませんね。

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