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朝田 辰兵衛

深草館からの転戦です…🐾 (2025/09/15 訪問)

谷戸城は深草館とは違い,しっかり整備されています。すぐ向かいに北杜市考古資料館があるからかもしれませんが…。北杜市考古資料館の2Fには,クマとシカのはく製がありました。エレベーターの扉が開くとビックリするかもしれません。他にも見どころがありましたが,実際に訪れて発見してみてください。楽しみやワクワク感を奪いたくないので。

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カズサン

移築門廻り (2025/10/21 訪問)

 高森町の松岡城及び支城・属城、市田陣屋、高森町歴史民俗資料館を訪ねて時間が1時間程有ったので、飯田城の移築門である経蔵寺の山門、民間に払い下げて移築復原されてる二の丸八間門、飯田図書館横の赤門、建物は無いのですが水の手御門跡の石垣も眺め、訪ねました。
 二の丸は現在飯田市美術博物館、同館の前に江戸ヒガン桜の大木樹齢400年(安富桜)は桜の時期に見学しましたが其れは見事な咲振りです。
 サラッと現存の門、門跡石垣を写真投稿します。
 現存門の場所はネットで調べて回って下さい。
   

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カズサン

【信濃 松岡古城】長野県高森町 安倍貞任次男松岡氏当初の館 (2025/10/21 訪問)

 松岡城から北に500~600m程の所に一本杉(樹高25m、幹周6m、樹齢約600年)が立ち、松岡古城標柱、松岡古城と一本杉の解説板が設置されています。

 住所:長野県下伊那郡高森町上市田
 駐車場:近くの幅広道に一時路駐、松岡城専用駐車場から北の広域農道を越えて徒歩500m程。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 平安末期安倍貞任の次男仙千代が信濃市田郷に逃れて郷民に押されて地頭に成り、松岡氏を名乗り「松岡平六郎貞則」と称した。これが市田松岡氏の始祖と言われる。松岡本城に移るまでの約300年を古城後に館を構えたと思われる。

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トク

発掘調査現場にて (2025/10/23 訪問)

発掘調査中の福岡城の天守台へ行ってきました。

その前に、福岡城の三ノ丸の広大な平和台球場跡地の前を通ると、跡地は柵で閉鎖され、鴻臚館(こうろかん)の復元工事が、突然始まっていたのにはビックリでした(写真⑤⑥)。昭和の西鉄ライオンズで沸いたこの場所は、実は鴻臚館という奈良から室町時代にかけて、隋や唐から来た要人たちを接待する施設(迎賓館)があった場所でした。いったいどのように復元されるのか、何やら楽しみです!

そして本丸で6月から始まった、福岡城に天守が本当にあったかどうかの証拠を探す発掘調査は、2カ月かけて天守台周辺を掘ったようですが、何も出なかったようで(写真④)、ならばと9月からは、天守台内部の穴蔵を掘り始めているようです。よって現在は、天守台入口までは行けますが、その先の天守台に入る事はできません(写真①②)。調査は12月まで続けられる予定のようです(写真③)。市長が文化庁まで巻き込んだこの意地の戦い、果たしてあと2ヶ月で逆転サヨナラホームランは出るのでしょうか?

野球といえば、ここ天守台入口からはPayPayドームが見えます(写真⑦)。さあいよいよ明日は、あのドームで日本シリーズ第1戦が行われます。商店街や百貨店はどこもホークス応援セールが行われ、福岡の街は今とても盛り上がっています!(でも阪神は強そうだな🤔)。
 

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しんちゃん

空にそびえるくろがねの櫓 (2025/09/28 訪問)

戦は弓・槍・刀が良いですな。
戦艦大和やタイガー重戦車も良いですが、この間には境界線を引いときたい。現在アプリで絶賛合戦中です。
イオさんが設楽原古戦場のレポートをされてますね。私は「東三河を歩こう」というサイトを参考に三河各地を回りました。東三河の名所や城跡、神社仏閣などを詳細に紹介しているサイトです。長篠・設楽原周辺のことも詳しくのっているんですよ。
楽しいですね古戦場めぐり・・。大河ドラマなどでははしょられ気味ですがもっとねちっこくやってほしいですね。長篠城を廻っていて、なんとなく鳥居強右衛門の可動フィギュアが欲しくなってきました。グッドスマイルカンパニーあたりがfigmaで出さないかな~「走る強右衛門」「泳ぐ強右衛門」「磔にされる強右衛門」「脱出する強右衛門」とか・・なんかステマぽくなってきた。
吉田城鉄櫓は夏場は見学時間は極端に短いようです・・こまったものだ。私はいつでも散歩できるが遠方から来た人は一度は入って見たいだろうに。鉄櫓が閉まっている間は続百名城のスタンプは三の丸跡のある豊橋市役所の展望室(東館13階)に設置されているようだ。たしかエレベーターが設置されているはずなので困った際にはこちらまで。
本丸の四方には櫓が設置されていて石垣も残っています。昔は石段で石垣の上を自由に歩けたのだが、今はどこも封鎖されている。ちょっと残念だ。

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カズサン

松岡城支城属城探訪の締めで松岡本城を2年振り登城 (2025/10/21 訪問)

 ユーチューブ大丸山砦動画に触発されて秋の城探訪の足慣らしにと南信濃城散歩へ、高所の市田陣屋、東に下がる方向で、大丸山砦、高森町歴史民俗資料館、古御屋城、吉田城山城、吉田本城、吉田古城、吉田南城、松岡古城と廻りましたので、松岡本城を飛ばす訳にも行かず、2年振りに成りますが市田柿の実った頃の登城をサラッと致しました。

 駐車場:松岡城専用駐車場、松源寺専用駐車場を利用。

 松岡城の歴史をじっくり読み込んで無かったのですね、高森町歴史民俗資料館では松岡城及び支城・属城の解説一覧が有り、松岡本城、南城のジオラマ模型も設置されて居り、歴史を読んで居ましたら、松岡城の松岡氏は平安の時代前九年の役で源頼義、義家に敗れた安倍貞任の次男仙千代が信州市田郷に落ち延び郷民に押されて地頭に成り松岡氏を名乗ったと有りました。ここに安倍貞任が出て来るとはびっくり、再認識しました。
 又松岡氏の最後は、本能寺の変後秀吉、家康の勢力範囲が定まらに時期に、家康方の高遠城を小笠原氏が攻めた時に味方し敗れたが、井伊直政が親の直親の恩義を感じ松岡氏の助命嘆願するも松岡城所領没収改易と成り直政預かりとなり、500年の支配を終えた。
 井伊直政の親の恩に報いる行いも感じ入りますが安倍貞任の血筋がここに500年栄えつづいたことにも感動ものです。
 

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イオ

設楽原古戦場 (2025/06/21 訪問)

予定では、長篠城とその周辺、医王寺山本陣と周辺の陣地に続いて武田五砦をめぐった後、設楽原古戦場の両軍の陣跡や史跡をめぐるつもりでしたが、設楽原に着いた時点で予定を2時間ほど超過しており、設楽原をめぐり尽くすには全く時間が足りないので、とりあえず今回は定番の決戦場と設楽原歴史資料館に行きました。

長篠の戦いは歴史番組やドラマでも大きく取り上げられる合戦だけに、自分なりに思い描くイメージはありましたが、いざ現地に立ってみるとやはり感慨はひとしおでした。特に再現された馬防柵の存在感は大きく、ほんの一部の再現であるとしても連吾川越しに馬防柵が見えてくると「おお、あれが…」と思わされますし、内側に入ってみると単に柵が立てられているだけでなく、織田軍と徳川軍で馬防柵の攻口の設け方に違いがあったり、堀と馬防柵と土塁を組み合わせて構築された「鉄砲構え」が復原されていたり、これまで知らなかった備えを目にすることができ、大変興味深い経験でした。鉄砲構えの近くには土屋右衛門尉昌次戦死之地の石碑があり、昌次(昌続)ほどの猛将でも三重の馬防柵は突破できなかったのか…と考えると、戦国最強とうたわれた武田騎馬隊を打ち破ったのは単なる大量の火縄銃の力だけでなく、その力を最大限に発揮するための備えがあればこそだったんだな、と実感。馬防柵はさらに北まで続いていたようなので行ってみると、石碑や説明板は見当たらないものの馬場信房、土屋昌続らと、水野信元、佐久間信盛、丹羽長秀らが戦った名高田前激戦地、そして馬防柵左端(北端)に古戦場いろはかるたが立てられていました。

最後に設楽原歴史資料館を見学。設楽原の資料館だけあって様々な火縄銃が展示され、設楽原だけでなく長篠城や鳶ヶ巣山砦での戦いを含めた長篠の戦い全般について解説されています。屋上からは古戦場が一望! …できることを期待しましたが、樹木にさえぎられて眺望はいまいちでした。そして資料館を出て帰宅する前に、駐車場に掲示されている「いろはかるたでめぐる設楽原の戦い古戦場」を眺めながら、次の機会には設楽原をとことんめぐる! との思いを新たにしました。ちょうどしんちゃんさんが設楽原古戦場の陣跡等について詳しくレポートしておられるので、その際には参考にさせていただきますね。

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カズサン

【信濃 吉田南城】長野県高森町 松岡城支城群家臣吉田氏の城 (2025/10/21 訪問)

 吉田本城・古城、竹ノ内家住宅を終えて南へ約400mに吉田南城が在ります。北側のスロープ登城口に標柱が立っています。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田1406
 駐車場:無し、吉田南城西側の通路側溝蓋幅の広い所を選び北に幅寄せし路駐(35°33'31"N 137°52'54"E h=520m)、右交通幅確保。
 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 吉田本城、吉田古城同様に東に突出た丘陵先端崖を利用した城郭で松岡城主松岡氏家臣吉田氏の城郭群の一つ、現在北側の登城路スロープに吉田南城跡の標柱が立つのみ、スロープを上がると「私有地立入禁止」の立札がり、進行を躊躇させる、余湖図コレクションの俯瞰図を参考にするが堀跡も消滅し果樹園などに成っており、遺構は良く分からない。
  

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todo94

秋田ドライブの終わりに (2025/10/12 訪問)

今回のドライブの最初に訪れた塩越城、仁賀保インターで降りてすき家で朝食をとった後、国道7号を南下してアプローチしたのですが、その折、白瀬南極探検隊記念館の近くを通過していました。雨が降っていても差し支えないスポットだったので、帰路の途次に立ち寄っていくことにしました。日本人の南極探検の先駆者・白瀬矗には以前から興味を持っていたので、オーロラの映像も含めて展示は興味深いものばかりでした。大阪関西万博の日本館に展示されていた火星の隕石に比べるとかなり小さなものでしたが、ここにも火星の隕石があるとは思いませんでした。

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シャンシャン

フクヤマニメ8 (2025/10/18 訪問)

福山駅周辺で開催されたフクヤマニメ8に参加。
福山城と共にARでオシロボットを撮影して、限定のオシロボットカードをGET!
駅周辺には多数のコスプレイヤー達が集結していた。

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シャンシャン

秋の大阪お城巡り④:初代天下人が築いた大規模山城 (2025/10/17 訪問)

織田信長以前に畿内や四国東部を支配していた、初代天下人とも言うべき三好長慶が築いた西日本有数の巨大山城。
夕方からの登城で駆け足となったが、安土城よりも先駆けて築かれた大規模な石垣や堀切跡、虎口跡など様々な遺構を楽しむことができた。
四条畷神社から登ったところ、登城路はハイキングコースとして整備されているため登りやすいが、途中かなり急な階段もあり体力は相当削られる。でも、途中の展望台や山頂からは雄大な夕陽を拝むことができて、疲れも吹き飛んだ!大阪一帯が見渡せて、これぞ天下人の景色!と感慨深い気持ちになった(^^)
四條畷市立歴史民俗資料館と大東市立歴史民俗資料館にも立ち寄って、御城印・城カード・続100名城スタンプもGET。

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しんちゃん

荒尾成房 (2025/10/15 訪問)

牛久保城は享禄2年に牧野成勝によって本宮山麓の河岸段丘に築かれたとされています。現在はなだらかな丘地になって要害の雰囲気は全くありませんが、往時は複数の入り組んだ台地を利用した堅城であったようです。現在はJR飯田線牛久保駅や宅地となり開発によって遺構はほぼ残っていません。忠魂碑の置かれた土盛りがかつての土塁の一部とされています。
豊臣秀吉が天下を統一した後に吉田城に入った池田輝政の家臣・荒尾成房の居城となり牛久保城は吉田城の支城になりました。
成房は池田恒興に仕え若森城の城主となり、恒興の死後は輝政に仕え、牛久保城代、龍野城代(1万石)を歴任しました。成房の嫡男の成利は鳥取藩家老・米子城代を務めています。じわじわステップアップしてますね。

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カズサン

【信濃 竹ノ内家住宅】長野県高森町 重要文化財大梁切妻造住宅 (2025/10/21 訪問)

 吉田本城の南約100m程の所に重要文化財建物「竹ノ内家住宅」が有り寄ってみました、個人住宅地に成っており南手前の解説板と南側の道より眺めて終了。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田
 参考資料:高森町歴史民俗資料館で頂いた資料、グーグルマップに依る。
 駐車場:南から入る道が有り解説板手前約20mにジャリ駐車場?あり。

 現在15代目当主の方がお住まいです、棟札に寛政11年(1799年)が確認されて居る。
 竹ノ内家の造りは、桁行8間・梁間7間半の切妻造り妻入りで南東向きに建てられている。
 本建物には正面の梁間は全幅にわたって大梁を通し、妻壁は白壁で見事に仕上げてある。家の内部は現在南東隅寄りに1室と土間をとり他は桁行き3列に8室を並べてる。(案内板より)
 珍しい切妻造建物です。
   

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カズサン

【信濃 吉田本城・吉田古城】長野県高森町 吉田本城本丸切岸空堀見応え抜群 (2025/10/21 訪問)

 吉田城山城より東へ約1.2km行くと、吉田本城、吉田古城、竹ノ内家住宅、吉田南城が在る。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田、西の通りに案内板が有る。
 駐車場:無し、西の通りから東入50mのやや畑に幅寄せし車通路確保し路駐(35°33'45"N 137°52'58"E h=520m)
 参考資料:余湖図コレクショングーグルマップに依る。

 路駐から東30m程で吉田本城の出曲輪、角から北に50m程に吉田本城・古城の想像復元図付き案内板と標柱、更に北50m程進むと一段高くなって吉田古城の曲輪が在る、果樹園に成って居る。
 戻って出曲輪内部を探訪し、出曲輪を出て東へ50m程吉田本城二の丸、竹林伐採されて虎ロープで散策路が出来ている、進むと本丸の高切岸が目に飛び込んでくる、本丸周囲の高切岸、周囲の深い空堀は圧巻である、土橋が有るが深いので鉄パイプを数本束ねた橋が架かって居り揺れながら渡る、本丸虎口はスロープ虎口、虎口には左右土塁が走って居り、北東角に祠小屋が櫓の様、周囲は崖で落ち込んで深い、本丸は結構広い。
 吉田本城・吉田古城は松岡城主松岡氏の家臣吉田氏の城と言われている。
   

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しんちゃん

吉田城本丸 (2025/08/28 訪問)

吉田城は地味です。
続百名城にも選ばれているし、東海道の要の城の一つでもあるから城域も広い。石垣や土塁、堀も残っている。でも浜松城や岡崎城に比べるとどうしても地味な印象が有る。天守が無いからね。
アリーナが出来たら吉田城周辺の駐車場も埋め尽くされてしまうだろう。訪問するなら今のうちですぜ?
相変わらず豊川に近すぎる本丸が気になる。ちょっと無防備じゃないかな? 東と西に枡形が築かれていて、それなりに防御力が高いが川から攻められると弱そうだ。ちなみに本丸御殿は宝永4年(1707)の地震で倒壊し、たぶんそのあと建てられていない。そう思うと石垣と櫓でぐるりと囲まれた本丸が大きな枡形に見えて来た。うっかり本丸に飛び込んだら四方八方から矢が飛んでくる。いたたたた・・
実際は藩主は二の丸に住んでいたから、本丸が空っぽでもそんなに問題は無い。
江戸時代初期は大砲などは、ほぼ普及して無いので近世城郭の存在意義は有ったけど、幕末になってくると射程3.1kmのアームストロング砲や2.5kmの四斤山砲などが現れてくる(記憶で書いているので詳細の差異はご容赦を)。
こんなものが出てくると城郭も大砲陣地としての意味合いが大きくなって来てなんとも味気が無い。やはり戦は弓・槍・刀で戦うのが一番だ。火縄銃まではギリOKだ。

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カズサン

【信濃 吉田城山城】長野県高森町 城山公園として整備 (2025/10/21 訪問)

 大丸山砦・大丸山公園探訪後高森町歴史民俗資料館に入館、閲覧後、北へ大島川を渡った丘陵先端の吉田城山城(城山公園)、松岡城主松岡氏の家臣吉村氏の城郭を探訪。

 住所:長野県下伊那郡高森町吉田725
 駐車場:同上に専用駐車場(35°33'30"N 137°52'21"E h=560m)10台位は可能、公園トイレ有、元小学校跡
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 城山公園平場は本丸で元小学校の跡地なのか?西側に一段高い平場が有り中央に東屋が有る、西に一段高い神社、祠の有る平場は二の丸、更に西、堀切通路で二の丸と墓場神社エリアと分かれている、東の崖下は光専寺が有る、高森町歴史民俗資料館の松岡城及び支城属城の解説展示では東の光専寺から北西に約200m連郭式成って居た様です。北側、南側は崖下で舌状丘陵。
  

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原資料館 コロミツ坂 竹広表の戦い (2025/10/05 訪問)

飯田線鳥居駅をやや西に行った丘陵に織田信長が長篠城主奥平貞昌の功績を讃えたと伝わる「コロミツ坂」が有ります。ここで信長は貞昌に「信」の字を授け、以降貞昌は信昌と名乗るようになったそうです。
案内板によると徳川家康は起請文の通りに翌年の天正4年に長女の亀姫を貞昌に輿入れさせたとのこと。そういえばイオさんの投稿に長篠の戦いの後に金森可近が長近に名を改めているとありました。ひょっとしたらコロミツ坂で一緒に・・は無いかな?
この場合は奥平や徳川を立てて、自分の家臣は後になるのでしょうな・・

竹広の交差点の南側に「竹広表の戦い」の案内板があります。元亀2年「1571」武田信玄が遠江、三河への侵攻を図り秋山信友・山県昌景の侵入を受け野田方三人衆(菅沼氏・西郷氏・設楽氏)らが竹広で合戦に及びました。菅沼定盈や西郷清員らの奮戦で秋山勢を一時的に退けることに成功しましたが「お愛(後の徳川秀忠の生母)」の夫である西郷義勝がこの戦いで討死してしまいました。
この7年後の天正6年(1578)にお愛は徳川家康の側室として浜松城に入り「西郷の局」と呼ばれ翌天正7年4月に秀忠を産みました。

設楽原歴史資料館には多数の火縄銃や大筒の展示が有り「最大級の大鉄砲」や信玄を狙撃したと伝わる「信玄砲」の展示があります(撮影可)。周囲の地形は天然の堀のようにもなっている・・ようにも見えますね。

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yoda 1253

立派な石垣が残っています (2025/10/18 訪問)

1608年から1874年まで270年間威容を誇っていた

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yoda 1253

横着してリフトで登城 (2025/10/18 訪問)

リフトを降りても城跡まで約20分かかります
人質櫓跡にある約10mの高石垣は圧巻です

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yoda 1253

悲運の城 (2025/10/17 訪問)

関ヶ原の戦いを密約によって毛利家と自国を守った吉川広家は岩国に減封され岩国城を築城
その7年後一国一城令により取り壊し

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