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にのまる

リュックひとつで九州一周城めぐり旅7日目スタート (2025/01/24 訪問)

初訪問のところが8城続いて頭の中が休まる暇がなかったのですが、この日予定の3城は全て再訪なので気持ちに少し余裕があります。
「旅名人の九州満喫切符」を投入したいところでしたが、延岡→佐伯の宗太郎越え区間が特急利用となるため普通乗車券を購入。途中下車しながら進みました。

延岡駅からは徒歩で延岡城跡公園へ。
現地に着くと、前回登城時にパンフレットを見ながら夢中で歩いた記憶がよみがえってきました。
そうそう、これこれ!
この石、この刻印、この井戸、この坂、この眺め……。
懐かしい。
お城の「痕跡」と「現在」を探す・見る・記憶するー。攻めも守りもせず只々歩くだけですが、その時間がありがたくもあり、幸せでもあり。


todo94さん、プレミアムな姫路城のレポートをありがとうございます。「るの門」を飛ばすレベルの姫路城🔰ですが、姫路城の奥深さ、魅力に興味が尽きません。

あさん、大阪・京都コンプリートおめでとうございます🎊
朝田さんのクイズ、一瞬東京駅?深谷駅?と思いました💦

3,000城コンプリートへの道。
貢献できるかどうかわかりませんが、みなさま方のお城愛に溢れる投稿を頼みの綱として新しいところにもチャレンジしていきたいです。

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赤い城

やめときゃいいのに (2025/02/23 訪問)

備中松山城、鶴首城と歩き、足はパンパン。
少し早いけど大返し、と思いつつ帰りに寄れる城は無いか、と探してしまう悲しい性。
備中福山城と幸山城は登城路も整備されているとのことなのでちょっと立ち寄って帰ることにしました。

清音ふるさとふれあい広場のグラウンド奥に登城口があります。
その後は案内板があるので迷うことはありません。
が、少し登ったところで脚があまり残っていないことに気づきます。
やめときゃよかった、と思いながも登ってしまいます。
登城路脇には畑の跡と思われる地形もありますが私有地で立入禁止。
ひたすら登ると幸山城への案内板があります。

まずは巨岩がお出迎え、その上が東の曲輪です。
さらに進むと広く深い堀切があり、その先が西の曲輪です。
幸山城は東西2つの曲輪から成っています。

戦国時代は吉備津神社の社務代だった石川氏が居城としましたが、石川久智が明禅寺合戦で戦死。
その子、久式も毛利氏と三村氏の戦いの中で自刃しました。
その後は毛利氏のものとなります。
最後の城主は清水宗治でした。

もちろんここまで来たら福山城を目指さないわけには行きません。
とりあえずさらに登ります。

【見どころ】
 ・東の曲輪下の巨岩
 ・西の曲輪からの眺望

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todo94

姫路城プレミアムナイトツアー翌朝の攻城③ (2025/03/09 訪問)

麻田陣屋からの転戦です。徒歩にてアプローチいたしました。グーグルマップで経路検索してアプローチしたので原田しろあと館の開館時刻が正午ということは承知しておりました。9時前に到着してしまったので入館は断念いたしました。機会があったら、旧羽室家住宅を見学してみたいと思います。

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すけきよ堂

切岸や堀切、土塁 (2025/03/20 訪問)

米原駅すぐの山城

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しんちゃん

もう一つの国の史跡のしらかわ城 (2024/09/15 訪問)

白川城は福島県白河市にある山城です。同じ白河市の白河小峰城と名前が似ていますが、こちらは区別のためか白川城と呼ばれています。文治5年(1189)結城朝光は源頼朝より白川の地を与えられ、その孫の結城祐広は当地に移り白川城を築き居住しています。
戦国期の白河結城氏と小峰氏の対立は諸説あるようなので割愛しますが、天正18年(1590)の奥州仕置で白川結城氏は改易され、白川城も自然的に廃城になったようです。
主郭のすぐ南まで車で行くことが出来、アクセスは容易ですが、主郭以外の郭は藪で覆われていたりして、移動が難しい箇所が有ります。主郭北側の土塁を確認し、西側の城域を確認するに留まっていますが、整備が進み移動が容易になれば、また来たいものです。この城に来るのは二度目なので、三度目があっても不思議ではありません。

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姫街道

二俣城整備に願う事 (2025/03/20 訪問)

二俣城は、「織豊期の軍事的機能に優れた城郭」と「戦国期の山城」の二面性が今でも同居している素晴らしいお城だ。
ただ、残念なことに「戦国期の山城」の遺構が、藪に隠れてしまっている箇所が多い。もっとも本丸西上段の西曲輪など危なくて整備すべきではないのもわかるが。せめて、本丸の北につく腰曲輪などは伐採だけでもやって欲しい。天竜川に落ちる竪掘に対して本丸北側の腰曲輪がいかに守衛したかが一目瞭然でわかるだろう。あと、最南の南曲輪の整備も期待したい。明らかに武田期の構造。山城の魅力が詰まっている。地権者の問題だろう。今は竹藪で入れない。

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後城付近 (2025/03/20 訪問)

 主郭のある後城に前城から歩いて行くと空堀が見えてきます。いい形状を保っています。主要部分はよく手入れされていて気持ちよく散策できます。
 縄張り図を見ると後城の西側には畝状竪堀が描いてありますが、標識もなくよくわかりません。楽しみにしていた所でもあり少し登城路を外れて彷徨い探してみるとそれらしい地形はありましたが、自信はありません。
 

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姫街道

石垣を楽しむ (2025/03/20 訪問)

鳥羽山城は、遊歩道や山留など公園整備に伴って近世詰んだ石垣と、織豊期・江戸期に積まれた石垣が混在していて「当時の石垣」はどれか?わかりにくい部分もある。今日は、本丸の案内看板から「同時の石垣」を散策した。意識して見れば公園整備で積まれた石はだいたいが丸石で整然としてるのがわかってきた。
「同時の石垣」で見所は鉢巻石垣と腰巻石垣だが、僕は大手道の石垣が一番魅力的に感じた。埋まってたのを発見したまま展示してあるところが素晴らしい!
さて、鳥羽山城の小字は本城山。社山城は人の動きまで見えそうなくらい近くに見える。城の歴史としたら斯波対今川の時代まで遡って考える事が出来る重要拠点だと私は考えている。

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前城付近 (2025/03/20 訪問)

 恒屋氏の城と伝わっています。北側の標高236mの後城と南側の標高198mの前城からなっています。南北に細長く尾根を利用した縄張りで、東側は急斜面ですが西側は比較的緩斜面で畝状竪堀と空堀が設けられています。tudo94さんと同じように前城付近と主郭のある後城付近と分けて投稿します。前城の竪堀群は標識もあり比較的わかりやすい所もありますが、藪になっていて見づらいところもありました。

 登城路は整備され散策しやくなっています。JR溝口駅より徒歩で登城口の駐車場まで30分くらいでした。

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美夢

温泉がお勧め♨ (2024/03/19 訪問)

皆様、温かいお言葉、ありがとうございます
m(_ _)m
私は、お城通な皆様のような素敵な投稿は出来ませんので、少し変わった、でも、お役に立てることもあるかもしれない、という角度からリポートさせていただきます
m(_ _)m

私にとって、冬は山城のスタンプが押しやすい場所に移動している事がある、ありがたい季節でもあります(笑)

あまりこういう事を書くと、城郭協会から認定していただけなくなりそうですが💦💦

その中でもとくに素晴らしいと思ったのが、鮫ヶ尾城の、神の宮温泉かわら亭様です

髙田城も近いので先に行き、宿泊先として神の宮温泉かわら亭に移動しました
スタンプは3月迄と書いてありますが、確か2024年は、私の行った3月19日がかわら亭にある最終日だったと思いますので
3月下旬に行かれる方は確認された方が良いかもしれません

こちらの温泉は、何と2種類ありまして
内湯はメタケイ酸たっぷりの「美肌の湯」
外湯は塩化物泉の「ほかほかの湯」
とっても最高でした♨

体に優しい朝食もほっとするお味で美味しかったです

日帰り入浴もされていますので、しっかりお城を見学される方も、帰りはこちらで汗を流されるのもお勧めです
(⁠^⁠∇⁠^⁠)⁠ノ⁠♪

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しんちゃん

主郭西の二重の堀 (2024/09/16 訪問)

高玉城は戦国時代に二本松氏の庶流・高玉氏の城として使用されています。天正17年(1589)伊達政宗の家臣・片倉景綱によって攻められ落城し、城主の高玉常頼は討死しました。また政宗の命により城兵全員が撫で斬り(全滅)にされたという凄惨な歴史があります。
愛宕神社のある丘陵全体が城址で、広い主郭に腰郭が複数付随しているようです。愛宕神社参道から登城し、愛宕神社は主郭の南東部に当たります。広い主郭の内部に複数の土塁もあり、西側には尾根を絶つ二重の堀切が有りました。

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しんちゃん

櫓と虎口門はもうじき公開 (2025/02/15 訪問)

上田城の本丸周辺の写真が残っていたので、投稿させていただきます。真田昌幸の時代には徳川の軍勢を二度に渡って良く防いだ名城ですが、関ヶ原の合戦で西軍が敗れると昌幸・信繁父子は九度山に流され、上田城は破却され堀も埋められています。
今残っている遺構は仙石氏の時代の物ですが、本丸の周囲を巡る水堀や再現された櫓や東櫓虎口門などは非常に見ごたえがあります。冬季は櫓の中を見学することは出来ませんが、隣接する上田市博物館は仙石氏の展示が充実しており、別館に飾ってある真田昌幸の鎧は六文銭を随所に彩っており、とてもカッコいいです。たしか4月ごろから櫓も公開が再開されるので、もうちょっとですね。

春季から公開される櫓は北櫓と南櫓の二基で、西櫓は通常非公開です。また残る4つの櫓と櫓門、土塀も木造復元される予定とのことなので進展が楽しみですね。

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ぴーかる

ありがとうございます_(._.)_

あさん、橋爪城詳細ありがとうございます。私、行ったのが一昨年でした。境内左手まで行ったのですが、柵があったので、躊躇してしまいました。丹波の黒枝豆の時期に行って再チャレンジしようかと思います。

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しんちゃん

本丸からの眺望 (2025/03/10 訪問)

白鳥城の投稿の続きです。標高145mの山頂とは思えないほど開けていて、この季節でも道路は完璧に除雪がされています。夕方に訪れた守山城は道が雪で閉ざされいて残念な思いをしたので、こうやって訪問できるのは有難いことです。いくら冬用の装備をしたところで、雪が何十センチも積もっていると、人も車も入れません。自然の前では、人はなかなか無力なものです。
今年は冬季の城攻めの経験値を積みたいと思っていたので、奥州・彦根・中国地方・北陸・飛騨を回ったのは良い経験になりました。
呉羽ハイツがすぐ近くに有りますが、城址は非常に良い状態で保存されています。眺望も素晴らしく、多くの人が徒歩や車で城址を訪れています。これは良い環境にありますね。
ちなみに守山城は富山の街並みと立山の絶景が眼前に開けていて、すばらしい眺望ですが、それ以上に夜景が素晴らしいです。横浜・長崎の夜景も綺麗ですが、富山守山城から見る夜景は迫力が違うんですよ。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「天神城」? (2025/03/01 訪問)

こちらの「天神城」は茨城県常総市で『この近辺のお城趾』とグーグル検索したらヒットしたので、向ってみました。
茨城県 常総市 大生郷町1234
住所をナビに入力し、向かうと『大生郷天満宮』でした。
この場所だけ高くなっていて城趾っぽいです。
しかし、社伝を読むと菅原道真公の三男、景行さんが塚を築いたようで、少し場所は移動したようですが《城》ではないような感じです。歴史が古いので、戦の最中に砦として借りたとか?

国歌『君が代』の中『さざれ〜石の〜♪』の、さざれ石
がありました。
この日は3月1日。もう少しで卒園卒業シーズン。涙声の『君が代』が歌われるんだろな、と、なんだか学友に会いたくなります。
大生郷天満宮は、梅の蕾が色づき始めて明るい印象を受けました。「天神城」かは分からないけど、来て良かったです。

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赤い城

三村家親の居城 (2025/02/23 訪問)

成羽陣屋の裏手の公園に登城口があります。
整備されていて歩きやすくなっています。
東屋のある太鼓丸から急坂となり、脚を使ってしまいます。
急坂を登り切ると左手に出丸、右手が本丸へ向かう道です。
この辺りから天気が急変、雪が降ってきました。
冬用タイヤを履いていないので不安を抱きつつ「戻っても同じ」という思いでとりあえず登ることに。

ようやく主郭部にたどり着きます。
主郭部は幾つかの小曲輪で構成され、石積もみられます。
南側の曲輪を進むと二重堀切がありました。
帰りは西側の畝状竪堀を見ながら、というルートをとります。
畝状竪堀も相変わらず写真にならないですが見ごたえある遺構でした。
ここから主郭まで直登で戻り下山しました。

戦国時代に三村家親、元親親子が拠点とし、備中制覇を目指した城です。
しかし、宇喜多氏や毛利氏との攻防の末落城。
その後三村親成、親信親子が入りましたが関ヶ原後に廃城となりました。

さすがに備中松山城(大松山城まで)の後と寒さで脚を使い切った感がありましたが行って良かった城でした。

【見どころ】
 ・主郭部に残る石積
 ・段になった主郭部
 ・主郭部南の二重堀切
 ・西側の畝状竪堀

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スミヤキ

芸術を愛でる城 (2025/01/31 訪問)

街中から不意にとびこむ平城の天守が、岸和田城です。
1954年(昭和29年)11月竣工した、3層3階の復興天守ですが、堀に囲まれた城郭は、どの方向から見ても様になる、見栄えのするお城です。

大手櫓門をくぐると、天守の前面に独特な石庭が表れます。よくお城の大名庭園に見られる、池のある基本スタイル「池泉回遊式庭園」に対して、「砂庭式枯山水庭園」と呼ばれる様式で、このお庭は平面的な視覚のみでなく、天守など上空から鑑賞される事も意図して、緻密に設計された物らしく、必然的に天守から、じっくり眺めないといけませんよね。

新しいお城の魅せ方、楽しむ方法として、町のシンボルとして羨ましく、素敵ですね。

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小城小次郎

緩めの普請が意味するところ (2024/05/12 訪問)

足羽川洪水に由来する波着寺(金沢に移転済)の裏山にあるが波着寺城ではなく成願寺城で、成願寺の名の由来がわからんとか。東郷槙山城とともに一乗谷の前面を守る城と位置付けられるが普請は緩めなのがむしろ特徴なのかも。

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トク

知覧城(2/3):本丸・蔵之城・弓場城・今城 (2025/02/23 訪問)

知覧城の続き(2/3)です。武家屋敷群を抜けて県道232号の緩やかな坂を30分程歩いて登ると、知覧城に到着です(写真①)。知覧城は主に本丸・蔵之城・今城・弓場城の4つの曲輪からできていました(写真③)。曲輪にもこのように城の名前をつけるのは島津の特徴です。またそれぞれが大きな堀切で遮断されていて、その大きさには圧倒されてしまいます(写真②)。発掘調査では本丸の堀切は7mあったそうです。しかもV(薬研堀)でなくほぼ垂直凹で深く掘られているのが分かると思います。このような掘り方も島津の特徴です。これでは敵は絶対に登れませんよね。さらにこの土はシラス(火山灰)でできているので、とてもよく滑ります。よごれてもいい靴で来られる事をオススメします。特に雨の日に来たら見事に滑りこけ、服も汚れますので御注意を!(笑)

本丸の階段を登ると、虎口は折れ曲がっていました(写真⑤⑥⑦)。本丸には顕彰碑が立っていて、回りは土塁で囲まれていました(写真⑧)。他の曲輪も同様に、全て折れ曲がった虎口で作られていました。

蔵之城は階段を登ると敵を欺く「行止まり虎口」になっていました(写真⑨)。つまり登ってきた敵はここで行き場を失い、そこで一網打尽! よくまあここまで考えつくものです。また大きな建物が建っていたようで礎石跡がありました(写真⑩)。その名の通り蔵があったのでしょうか? 発掘調査でここからは青磁器なども出土したようです。

次は(3/3)に続きます。スタンプ場所はここでは無いので、さらにそのスタンプ場所まで歩きます。
 

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イオ

麒麟がくる紀行(越前にて)

(続き)

美濃から越前に逃れた明智光秀は、称念寺(福井県坂井市)の門前で浪人時代を過ごしたとされます。越前での光秀の動静は定かではありませんが、門前に寺子屋を開くも日々の生活に困窮する光秀を見かねた称念寺の住職が朝倉氏家臣を招いた連歌の会を設定し、光秀の妻・熙子が自慢の黒髪を売ってひそかに用立てた資金で連歌の会は大成功、光秀の朝倉氏への仕官が叶う…という黒髪伝説が称念寺に伝わり、境内には黒髪伝説にちなんだ松尾芭蕉の句碑「月さびよ明智が妻のはなしせむ」が立てられています。黒髪伝説のとおりではなかったとしても、光秀は何らかの形で朝倉氏に仕官したものと考えられますが、称念寺近く(北に徒歩8分)にある舟寄館を居館とする朝倉氏家臣・黒坂備中守景久に仕えたとも云われています。

朝倉氏に仕官したことに伴い、光秀は一乗谷の大手筋にあたる東大味に移り住んだようです。朝倉街道に面する小字「土居ノ内」あたりが光秀の館跡とされますが(諸説あり)、土居ノ内にある明智神社には墨で塗りつぶされた小さな木彫りの光秀坐像が祀られており、「あけっつぁま」と呼ばれています。明智神社向かいの東大味歴史文化資料館には、光秀や東大味地区、一乗谷についての様々なパネルが展示されていました。称念寺とともに東大味は明智玉(後の細川ガラシャ)の生誕地と云われています。また、明智神社近く(西に徒歩3分)の西蓮寺には柴田勝家・勝定の二通の安堵状が寺宝として伝わりますが、これは勝家らが越前一向一揆と戦う際に、光秀が東大味の人々を戦火から守るべく勝家らに依頼して出させたものとされ、その恩からこの地では今なお光秀は慕われているんだとか。

福井県坂井市にある雄島の大湊神社には、光秀が朝倉氏に仕えていた頃に雄島を訪れて詠んだとされる漢詩の石碑が立てられています。正直、漢詩の意味はよくわかりませんが「源光秀」の文字は読み取れました。

ところで、光秀はこの後、朝倉義景を頼って落ち延びてきた足利義昭に一乗谷で(細川藤孝を通じて)仕えたものと思っていましたが、近年発見された「針薬方」によれば、光秀は永禄9年には義昭の檄文に応じて田中城(滋賀県高島市)に籠城していることが確実視されています。「針薬方」は光秀が田中城籠城中に語った金創や出産時の対処法を伝え聞いた米田貞能がまとめた医学書で、一乗谷城下町には医師の屋敷跡が確認されるなど、当時の越前は他国にも名の通った医療先進地だったことから、光秀も浪人時代に医術を身に付け、寺子屋でなく医師として生計を立てていたとも考えられます。

さて、光秀が永禄9年に田中城に籠城していたとなると、朝倉氏を出奔して馳せ参じたかどうかはともかくも、義昭が安養寺北麓に設けられた御所に滞在していた時点ではすでに義昭に仕えていたと考えられ、一向に上洛の兵を挙げようとしない義景を見限って織田信長を頼るよう義昭に勧めたというのも理解しやすくなります。そして、光秀(と藤孝)の仲介により立政寺の正法軒(岐阜市)で義昭と信長が会見し、上洛へとつながっていきます(続く)。
 

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