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todo94

北海道&東日本パスで青森の城めぐり⑦ (2025/08/17 訪問)

島守館からの転戦です。説明板や案内表示は見当たりませんでしたが、トーダイさんの投稿や城郭放浪記さんのページを拝見してここで間違いないという確信は持てています。空堀遺構を確認することができました。トーダイさんも脚を伸ばされている庚申塚のあるあたりまで歩いてからここを後にしました。

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小城小次郎

日野江藩はあるが原藩は存在しない (2025/01/27 訪問)

原城に移転しなかった(できなかった)有馬家は実はずっと日野江藩で、松倉家は日野江から島原に移っているので原藩というものが存在しないことに今さらながらに気がついた。石垣の残り具合は意外なくらいによい。

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しんちゃん

万葉公園・足柄峠 (2024/12/29 訪問)

神奈川県と静岡県の県境にある足柄峠は東国と都を繋ぐ要路でした。古事記には日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰路に、海神に身を捧げた弟橘姫を偲んで「あづまはや」と叫んだと記載があります。
奈良・平安時代に官道が通っており万葉集にも多くの足柄の歌が詠まれています。公園内には万葉集から抜粋した歌碑が立ち、ゆかりの植物が植えられています。この辺りは足柄城のすぐ近くで、坂田金時にゆかりのある場所も多くあります。

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平馬

北条流堀障子 (2025/09/03 訪問)

なんと言っても見所は障子堀になりますが、自然災害のせいか崩れている箇所が見られました。
それでも戦国北条氏の特徴である障子堀を現在も見ることができるので貴重な城跡です。

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「来し方行く末 天守見守る 洲本城」
(こしかたゆくすえ てんしゅみまもる すもとじょう)

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にのまる

【赤色立体地図かるた】

「石垣も 曲輪も盛り盛り 飯盛城」
(いしがきも くるわももりもり いいもりじょう)

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平馬

本丸からの景色 (2025/09/03 訪問)

石垣は全体的に崩れていますが、井戸曲輪がよく残っています。
本丸跡の物見台から見る小田原城下と相模湾は一見の価値があると思います。
駐車場には一夜城ヨロイヅカファームがあり地元野菜やスイーツが楽しめるようです。御城印もここで購入できます。
火曜日・水曜日が定休日です。

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しんちゃん

土肥氏館跡・城願寺 神奈川県湯河原町 (2024/12/29 訪問)

土肥館は神奈川県の湯河原駅から城願寺の付近に有ったとされ、湯河原駅には館址の石碑と土肥実平夫妻の銅像が立っています。実平は小早川氏の祖とされ、源頼朝の挙兵に早くから応じ、石橋山の戦いで敗れた頼朝がわずか主従七騎で落ち延びた時にも、共にいたとされています。その後も、宇治川の戦い・一ノ谷の戦いと源義経に従って戦い、その後は源頼範の進軍を支援したとされます。
城願寺は駅よりもやや小高い地にあり、境内には66基の墓石があり、土肥一族の墓所となっています。後世、石橋山の合戦の故事にちなんで七騎堂が立てられ、近くには実平お手植えとされる樹齢800年以上のビャクシンが立っていて、国の天然記念物に指定されています。

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しんちゃん

松田氏 (2024/12/30 訪問)

現地案内板によると松田城は旗矢沢、天神沢という二つの沢を天然の要害として利用した連郭式山城になります。本曲輪の前後に曲輪が設けられ、堀や土橋が残っているようですが、見た限りでは判別が難しいです。道沿いに曲輪らしき跡を確認できますが、城址に入ることは出来ないようです。
波多野氏の系譜である松田頼秀・顕秀・憲秀の時代に使われ、憲秀は小田原北条氏の筆頭家老であり、松田城にはその弟新次郎康隆の持城であったとされています。

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しんちゃん

出雲大社 (2013/10/05 訪問)

出雲大社は大国主大神を祀る神社で、伊勢市の伊勢神宮と並んで二大神社と呼ばれることもあります。創建については日本神話の国譲りの伝説に由来があり、大国主が出した国譲りの条件に従って「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」が築かれたとされています。境内は広く、参道もとても長いです。
神楽殿に架けられた大注連縄は長さ13m、重さ5.2トンにもなり、隣町の飯南町で造られ、数年に一度張り替えられています。三度近くまで寄って二度は参拝したのですが、一度スルーしています。なにしろ広いですからね。

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朝田 辰兵衛

ようやく… (2025/06/29 訪問)

みなさんの投稿を拝見して,ようやく工事が完了した確認がとれたので,スケジュールに組み入れました。暑かったのでサクッと撤収。道頓堀方面にはとても行く気になれませんでした…。

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トク

【宮本武蔵】(4)岩石城(小次郎伝説-その2) (2025/09/01 訪問)

宮本武蔵の続き(4)です。

小次郎の豊前説が残る「岩石城」を訪れました。

岩石城は添田町にある標高454mの頂上にありました。JR添田駅からまず見上げます(写真①)。駅から徒歩2時間ほどで山頂本丸まで登れるようですが、この日は1時間程登ったところで気温が30°を超えバテてきたので、山頂本丸まで無理して登るのは断念し、途中の展望台(標高200m付近)で折り返して下山しました(写真②③)。途中には模擬天守がありました(写真④)。またその下にある添田ジョイは温泉施設のようです(写真⑤)。

岩石城は、1158年に平清盛の家臣の大庭景観が築いたのが始まりとされ、戦国期には大友氏との争奪戦の末に大内氏が支配しますが、大友氏が奪い返し、さらに島津配下の秋月種実が奪って秋月氏の出城となります(本城は古処山城)。しかし豊臣秀吉の九州征伐で種実は敗北、豊前中津に入った黒田官兵衛の支配下となりました。登山口には豊臣との戦いで討ち死にした、種実の家臣の墓がありました(写真⑥)。

この山は、元々は英彦山(ひこさん)の山伏の修験場であったようで、この頃から添田の土豪の佐々木雅楽介(うたのすけ)の一族が住み着くようになり、その一族(流派)は山の名前から「岩流」と呼ばれていたようです。いかにも修験場というような気味の悪い岩もあり、ぞっとする雰囲気でした(写真⑦⑧)。

1587年豊前国に黒田官兵衛が入ると、城井城の宇都宮鎮房は、豊前は渡さぬと反旗を翻したため、鎮房は黒田長政に謀殺されてしまいます。雅楽介は種実や鎮房に従っていましたが、敗れた後は岩石山に籠り、その後もなかなか官兵衛には従わなかったようです。

関ケ原後の1602年には代わって豊前に入国した細川忠興の所領となりますが、この頃になると、雅楽介に代わり小次郎が一族の棟梁的存在になっていたようです。1609年小倉城が完成した後も、忠興はなかなか従わない岩流の一族には手を焼き、そこで何とか従わせるため、小次郎の腕前を高く評価しているので、小倉城の剣術師南役にならないかと誘いをかけ、一族を取り込もうとします。

この豊前説は、吉川氏の小説が発表された昭和10年頃にはまだ存在していなく、ここ最近になってこの地域の歴史背景や英彦山高田家文書の発見から、新たに浮上し始めた説のようです。さらに何とこれを機に、添田町役場には小次郎の銅像が昨年建立されました(写真⑨⑩)。添田町はこれで何か町おこしをしたいようです。添田町の像は岩国市の像とはかなりイメージが違っていました。若くてイケメンではなく、中年でたくましい感じの像でした。いったいどっちが本当の小次郎なのでしょうか🤔? 小次郎論争、これからもますます面白くなりそうですね!😱~。

次は、武蔵の生誕地とされる、播磨「高砂」に続きます。
 

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じゅんじん

桜とお城 (2025/04/07 訪問)

だいぶ木が伐採されました

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じゅんじん

新井白石 (2025/03/22 訪問)

小ぶりな模擬がよきです。

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じゅんじん

改修中 (2025/03/22 訪問)

高校もお城の一部で井戸や城門があります。

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じゅんじん

森の中は (2025/03/22 訪問)

展望台が特徴ありますが森の中には戦国時代が詰まっています。ちょこっとだけ拝見いたしました。

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じゅんじん

高藤山城 (2025/03/22 訪問)

鎌倉大河で悲劇の武将 上総介広常(平広常)の居城とつたわります。上に記念碑がありました。

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じゅんじん

武道場 (2025/03/22 訪問)

治めた加納家は吉宗のお目付け役ですね

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じゅんじん

桜と静岡まつり (2025/04/05 訪問)

今年も満開の桜の下で静岡まつりが開催されました。

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橋吉

京都府立園部高等学校 (2025/08/28 訪問)

園部城跡は、現在学校として使われているので関係者以外駐車できません。
しかし、すぐ隣に園部総合公園駐車場があるので、そこにとめるとよいでしょう。

城郭様建築が目立ちますが南丹市国際交流会館であり、園部城ではありません。
さらに、その前が堀のようになって橋が架かっています。
その堀もよく見るとプールだったりしてこれはこれで面白いです。。

国際交流会館の隣にある博物館で園部城を含めこのあたりの歴史について学習しました。

園部総合公園の南には、京都府立園部高等学校があり、ここは園部城の主要部分跡です。
現在は校門として使われている櫓門,土壁,巽櫓がみられます。

また、園部高校から700m離れた京都家庭裁判所園部支部には土塁が残っており総構えの名残を感じさせます。

さらに、南東10kmにある安楽寺には移築された太鼓楼が残されています。

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