岡城は瀧廉太郎、龍野城は三木露風、そうめんはやっぱり揖保乃糸。
城郭と音楽家の繋がりもまた一興。
前回訪れた際、時間の都合で登れなかった龍野古城(鶏籠山)へ。
後期赤松家の祖 赤松政則、その側室の子である村秀が初代城主とされます。赤松惣領家の義村(置塩城主)と、守護代の浦上村宗との対立において義村についた村秀が、村宗を味方した則貞(那波城主)をこの城で殺めたという史実が残っています。則貞は村秀の祖父にあたります。鶏籠 "ケイロウ" 山なわけですが、"敬老"とはこれ如何に、、
二代城主の政秀は、永禄7年(1564)正月に宿敵である浦上氏の本拠 室山城を攻めますが、のちに毒殺されます。三代城主の広貞、四代城主の広英はいずれも政秀の子であり、天正5年(1577)に始まった羽柴秀吉の播磨平定で、一族存亡の危機を感じた広英は戦わずして秀吉に降伏しました。のちに秀吉の下で功績を挙げた広英は竹田城主となります。
播磨平定後の天正9年(1581)には蜂須賀正勝が5万3千石で入城、その後は福島正則、木下勝俊、小出秀政、山口広貞と城主が変わっていきました。慶長9年(1604)、姫路城主の池田輝政は龍野城も支配していましたが、元和3年(1617)に本多政朝が入封、つづいて小笠原長次、岡部宣勝、京極高和らが藩主となります。
京極氏が丸亀に移ったのちの龍野は江戸幕府の直轄領となり、城や屋敷は放置されて荒廃していたと『播州揖西郡龍野志』に記されています。山麓に復元された近世の龍野城は、寛文12年(1672)に信濃国飯田藩から入った脇坂安政により整備されたといわれており、脇坂家は明治維新まで十代約200年続きました。
鶏籠山に残る龍野古城は、標高218mの本丸と、本丸から南に160mほど離れた標高200mの二の丸からなる連郭式山城です。本丸には北と南に石垣を用いた虎口を設けています。特に南側は櫓台が良好な状態で遺っており、喰違虎口を形成しているのがよく分かります。本丸北西隅の石垣は特に遺構状態がよく、秀吉に従った赤松広英が改修したと推測される織豊系技法が施されています。また、本丸下の八幡宮跡付近では石だたみの一部が確認できます。
龍野古城との出会いは、私が生まれる少し前に上梓された著書に載っていた石垣の写真を見た小学生のときです。あれから20年近く経ち、実際に足を運んでこの目で確かめてきましたが、石垣には緑緑しい化粧が自然の摂理により施されていました。往時から静かに揖保川を望み、時の流れに身をまかせ荒廃の一途を辿った鶏の伏せ籠ですが、そこに姿を晦ます遺構からは中世から近世初期にかけての軍事情勢などを想起することができます。
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