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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 君ヶ伏床砦 (2025/10/05 訪問)

君ヶ伏床砦は五砦の中では最も東(右翼)に位置しています。標高180m・比高130mの浅間山の山頂一帯に築かれているので山城とほぼ変わりません。まだ暑い中えっちらおっちら登ります。少し涼しくなって来たので今頃なら気分よく登れるかな。
山頂に守将の和田兵衛信業にまつわる「君か臥床和田兵衛陣地」の石碑があり、小さな立札がありますが、特に案内板は無い。どうやら多くの人は比較的楽に回れる設楽ヶ原の方に行ってしまうらしい。そういえば昔から五砦を回って人に会ったことが無い・・たまに鳶ヶ巣にいるくらいかな?
いつの時代の扁平地かは分からないけど君ヶ伏床砦の周辺は結構広いです。南側には腰郭のような扁平地があり、北にかけ数段の扁平地が続き、アスレチック場になっている広い扁平地があり、周囲を良く俯瞰できます。
そこにおわすはドラゴン?・・はたまた謎の黒い麒麟か・・はっ!麒麟が来る! 急がねば(大丈夫)
西側にも扁平地があり鉄塔が立っています。尾根沿いに西に行った先は出丸のようになっているけど、とりあえずここまで。残念ながら明確な堀や土塁などは見当たらなかった。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 姥ヶ懐砦 (2025/10/05 訪問)

いやいや、イオさんがまったり投稿できるように先に五つの砦をピュピュッと投稿しちゃいます。
長篠周辺は歴史を体験するには良い場所ですね。熊もほぼいないし・・でも「城びと」の城が二つしか無い。医王寺周辺なんか探せばいろいろ出てきそうなんだけどね。
姥ヶ懐砦は鳶ヶ巣砦に行く途中の道沿いにあります。今回は砦の写真は外観のみで背後(東側)の丘陵を攻めてみようと思います。位置や形状から、ここも砦を構成する一部ではなかったかと考えてます。
姥ヶ懐砦は鳶ヶ巣砦を守る役割も有り、中腹に据えられていたため敵の襲撃を察知するのが遅れたとされています。本多広孝の襲撃を受けますが守将の三枝昌貞(二十四将の一人)はじめ守備隊は良く奮戦し敵を防いだとのこと。やがて君ヶ伏床砦を落とした松平清宗らが攻め手に加わり落城し、昌貞らは討死しました。
付近には三枝兄弟の墓が有り、昌貞と共に討死した弟の守義の名も墓碑名にきざまれています。墓碑に刻まれている守友は昌貞のことを指しています。他にも弟の守光も討死しているようです。
三枝兄弟の墓は今回は訪問していません。以前訪問しているはずですが、入る場所を忘れてしまいました・・けっこう長篠周辺も開発が進んでいます。

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イオ

郭めぐり (2025/06/21 訪問)

(続き)

帯郭から古城跡踏切を渡って野牛郭へ。線路で分断されていますが、線路の東側にも本丸土塁がわずかに遺っています。土塁の先の野牛郭には物見櫓や井戸があり、発掘調査で貯水施設も確認されています。南端には土壇があり、土壇の脇から下りていった先の宇連川は驚くほど綺麗な流れでした。

帯郭まで戻って、今度は弾正郭へ。弾正郭に向かう道中、通りの北側の住宅地の一角に家老屋敷趾の標柱が立てられていました。標柱から南に進むと右手の石垣(たぶん後世のもの)の脇に弾正郭趾の標柱があります。この先だな、と突き当りを右に曲がろうとすると…民家の中庭!? 建物はあっても野牛郭のような郭跡が広がっているんだろうと勝手に思っていましたが、これではとても立ち入れません。写真を撮るのも憚られるので、すぐさま回れ右して今度は東側の郭へ。

駐車場から道路をはさんだ北側、第2駐車場になっているあたりが二の丸跡とされ、糧庫趾や倉屋敷の標柱が見られます。また、江戸中期に長篠の地を与えられた一色直興が二の丸跡に長篠陣屋を構え、林高英が代官を務めたことから林藤太夫高英屋敷跡の標柱も立てられている…はずですが、笹藪に沈んでしまっていてほとんど見えませんでした。駐車場の北東側には巴城郭、さらに北東には瓢郭があったようですが、それぞれ空き地に標柱が見られるくらいです。

長篠城の周辺には様々な伝承にまつわる地があるので、郭めぐりと並行して史跡めぐりもしています(続く)。


ところで……例によって4か月遅れの投稿のため登城した時期はかなり違うものの、しんちゃんさんの一連の長篠の戦い関連の投稿と投稿時期も内容的にも丸かぶりになってしまいますが、ご容赦ください。それにしても久間山砦から北側に下山するところまで同じだとは…(笑)
 

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 久間山砦 (2025/10/05 訪問)

久間山砦は武田勝頼が長篠城を包囲した際に築かれた五つの砦の一つで中山砦歴史公園の南に位地する丘陵の上に築かれています。西に豊川が流れ県道443号線のわき道を登って行くと朽ちた小屋が有ってその脇から入って行きます。この入口、非常にうっそうとした雰囲気で、まず普通の人は入って行かないと思います。「城好き」でもちょっと躊躇しそうですね。良く見ると足元に小さく「久間山砦」と書かれた標柱が立っています。あまりウェルカムじゃない?
道は途中から踏み代程度になりますが、尾根に登って西の先端部に進むと、城址碑がありそこが主郭になります。構造としては単郭の砦に近いですが主郭はそこそこの広さが有ったと思います。帰り道は別のルートで北側から麓に降りて行きました。
一度訪問してしまえばいずれのルートからでも登れそうですが、私有地の可能性を考えると南のわき道から入って行った方が良いのかもしれません。
久間山砦は標高150mの丘陵上に築かれ、和気善兵衛宗勝・大戸民部直光・倉賀野秀景・原胤成ら300騎が守っていたとされています。
和気善兵衛宗勝の墓(供養塔)は鳥居強右衛門の墓がある新昌寺にありました。

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makkin

天守から (2024/05/21 訪問)

見た目の派手さはないですが、広くて高くてとても落ち着いた佇まいでした。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 中山砦 (2025/10/05 訪問)

中山砦は長篠城を取り巻く五砦の一つで、鳶ヶ巣山砦からそのまま車道が続いています。途中分岐があるので、ここを右に進めば中山砦まで車で行くことが出来ます。ちなみに左に進むととんでもない道に行きます。久々に行ったので「のぼり」につられて左に行ってしまいました。なんとか展開して戻って来ましたが、道が途中から崩れています。
中山砦は新東名に隣接していて周囲の地形は改変されていて残念ながら砦の雰囲気はあまり残っていません。現地に石碑があり、それを参考にさせていただくと、中山砦は天正元年(1573)に徳川家康が長篠城攻めの際に付城として築いたのが始まりになるようです。
長篠城を見下ろすことの出来る位置にあり、天正3年に武田方によって再利用されました。尾根の頂部に土塁と堀切が残っているらしいですが、削り取られた山肌を覆うコンクリートの壁(擁壁ってやつか?)を見て攻めるのをやめました。
後ろの方の写真は新城市大野にある「鳳来館」の写真です。大正造りの旧大野銀行を利用したカフェで名物のサイフォンコーヒーは一見の価値が有ると思います。ギャラリーには竹下夢二の作品もあり、食事やデザートも楽しむことができます。ちなみに鳳来館の写真は2018年のものです。あれから7年もたったのね

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 鳶ヶ巣山砦 (2025/10/05 訪問)

武田勝頼が長篠城を攻略した際に医王寺の本陣などの他に五ヶ所の砦を築きました。鳶ヶ巣山砦はその中核を担う砦で主将は武田勝頼の叔父・武田兵庫信実とされています。それなりに城域は広いはずですが、地形が変わっていたり駐車場になったりしているようです。
主要部周辺に案内板や戦死者達を弔う石碑(供養碑)がありますが、西側の斜面にも臨時の腰郭の様なものが複数あります。いつの時代のものかはっきりしませんが、ちょっと斜めっているところが即席の砦っぽい。
設楽ヶ原古戦場周辺は案内板や「いろはかるた」などがあって賑やかな雰囲気ですが長篠の五砦は少し地味な印象が有りました。堀や土塁などの遺構もあまり無かったと思います。案内板などがあると嬉しいですが、いろいろ事情が有るのかな?
イオさんも長篠の五砦を回っているようですね。お先に投稿させていただきました。ちなみにここを攻めても「めぐり」のリア攻めはつかないです(残念)。似てるようで微妙に違うんですよね。

大久保彦左衛門の通り名で有名な大久保忠教は徳川三代に仕え旗本の中心的な存在となり「天下の御意見番」と呼ばれています。酒井忠次が豊川を渡り鳶ヶ巣山砦を始めとする五砦に奇襲をかけたのは有名な話ですが、この戦いは忠教の初陣でもあり、後の世の講談では、忠教はことあるごとに鳶の巣文殊山での武勇伝を持ち出してくるそうです。
場所は変わりますが新城市の作手にも文殊山城があり、尾根続きに塞之神城へ行くことが出来ます。長篠・設楽ヶ原との関わりは不明です。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 武田勝頼観戦地・才ノ神本陣 (2025/09/28 訪問)

武田勝頼の観戦地とされる才ノ神本陣は頂部に広い郭があり、周囲にも扁平地が広がっています。すべての郭を合わせるとそれなりの数の兵を駐屯することが出来るでしょう。北側には土塁や堀は見当たりませんが切岸のようになっています。
ウッドチップの敷き詰められた道を下って元の分岐に戻り、先へ進むと武田三武将の墓があり常林寺に戻って来ます。三武将とは
川窪詮秋
土屋直規
望月重氏
の三人で、土屋直規は土屋貞綱のことを指しているようです。貞綱は岡部氏の一族で、伊丹康直と共に水軍を率いて今川氏に仕えていました。やがて今川氏の没落と共に武田氏に仕え、武田軍の水軍大将を務めたようです。
望月重氏は望月氏の一族で、退却戦のさなか落武者狩りに会って落命したという逸話があるようです。川窪詮秋については詳細が分からないのですが、三人とも長篠・設楽ヶ原の一連の戦いで命を落としているようです。

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イオ

本丸周辺 (2025/06/21 訪問)

戦国前期に菅沼元成が築いた城で、長篠菅沼氏の居城となりました。武田信玄の東三河侵攻により武田氏に従うも、信玄が病死すると徳川家康に攻められて開城し、奥平信昌が入って武田軍の侵攻に備えて現在見られる縄張に改修しています。そして武田勝頼率いる1万5千の大軍に包囲される中、織田・徳川連合軍の来援まで持ちこたえたことが、設楽原での勝利につながりました。長篠の戦いの後は、奥平信昌が新城城を築いて移ったことにより廃城となっています。

帯郭跡に設けられた駐車場から登城開始。長篠城址史跡保存館は前回に入館しているのでスルーして本丸に向かうと、眼前に広がる折れのある内堀と本丸土塁! これほどの備えをしてあったからこそ武田軍の包囲を耐え抜くことができたんでしょうね。そして土橋を渡って本丸へ。本丸土塁に上ると長篠城址の石碑が立てられていました。土塁上から見下ろすと折れを設けて横矢掛りになっていることがよくわかります。土塁の突端には城藪稲荷社があったようですが、文化財保存のため大通寺境内に移転したとのこと。この後、大通寺にも行く予定なので、その時にお参りするとしましょう。

本丸土塁を下りて本丸を見渡すと、南西辺は豊川の断崖、北西辺は矢沢川の断崖になっていて不忍の滝も見られます。豊川の対岸は鳥居強右衛門が磔になった地であることから、強右衛門に関する説明板や案内表示がいくつも立てられていました。南東辺はJR飯田橋の線路になっているあたりに土塁が設けられていたようです。線路の向こう側が野牛郭で、宇連川の対岸には武田五砦と呼ばれる武田軍が長篠城を包囲するために築いた砦群が見えています。この後、鳶ヶ巣山砦をはじめとする武田五砦にも行きましたが、その際に渡った牛渕橋から眺めると豊川と宇連川の合流点に築かれた長篠城の後堅固ぶりがよくわかりました。

本丸をひとめぐりした後は周辺の郭をめぐるとしましょう(続く)。
 

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todo94

3連休の秋田ドライブでの攻城⑥ (2025/10/11 訪問)

羽川新館からの転戦です。標柱はすぐに見つかったのですが、登城口が分からず難渋しました。城郭放浪記さんのページを現地で熟読して何とか登城することができました。バス停名にもある通り白華公園として整備されているのかと思いきや、登城路も郭内も雑草がかなり繁茂していて、ヌスビトハギには相当悩まされました。朝田辰兵衛さんの攻城時とは全く様相が異なっています。整備の手が入らなくなったのは山中にやみくもに人が入り込んで熊による被害が出ることを防ぐ目的があるのではと勘ぐってしまいます。とりあえず、堀切は確認できたし、説明板にもたどり着けたので満足です。

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赤い城

久千田城 徳島県阿波市 (2025/08/15 訪問)

城びと未登録の城です。
県道12号線から少し北側に入ったところにあります。
路肩が広くなった場所に車を置き細い道を進むと水田の中にこんもりとした小さな丘があります。
ここが城跡の中心部、下草元気な畦道を進んで近くまで行きました。
石碑と説明板がありますが盛夏の訪問ではいずれも草で覆われていました。

元は三浦氏がこの辺りの地頭として築城。
その後安房伊予守、小野寺氏が居城としました。
ここも長宗我部氏に攻められて落城しています。

夏なので平城、と思ったのですがそれはそれで草ぼうぼう。
やっぱり城は冬に攻めるのが良いですね。

【見どころ】
 ・水田の中の丘状の城跡

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天守無しがアツい

豊臣石垣館 (2025/10/07 訪問)

大阪城のミュージカルショップで(大阪城の)御城印を買った際に「豊臣石垣館」の存在を知り…まずはその入館記念証を買う。天守の見学後に(まだ17時前だったので)そこへ向かう

まず映像紹介…豊臣秀吉によって建設された壮大なる大阪城…大坂冬の陣にて埋められる外堀…大坂夏の陣で陥落する城…石垣ごと埋められて新たに建てられた徳川版大阪城…火災により焼失した天守…戊辰戦争における徳川慶喜脱出の際に荒廃した城…昭和初期に再建された今の3代目天守…という流れ

地下に降りると豊臣政権下の石垣が…ここだけなら撮影OKとスタッフに回答されたので、館内はそこだけを撮影

思ったより展示数は少なく…後は地上の石垣をご覧下さいという案内文で終わり😅

もしかしたらまだ発掘途中なのかもしれない…もしくは徳川幕府により徹底破壊された?だからこんなにあっさりと終わってしまう?

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しんちゃん

野面積み最高 (2025/07/01 訪問)

山頂に近づくと黒井城の主要部の石垣が出迎えてくれます。東曲輪跡から三の丸の野面積みの石垣を堪能します。ここの石垣は良く形状を保っていますね。個人的には野面の石垣が一番好きです。いかにも戦国時代らしくて良いですね。石垣積むのにそんなに時間をかけてられないよ・・てな感じがすごく良いです。戦国時代最高です。
東から東曲輪・三の丸・二の丸・本丸と綺麗に曲輪が続き、それぞれの曲輪に石垣が残っています。折曲がり虎口をもう少し楽しみたいけど、遺構の保全との兼ね合いもあるので、こんな感じかな。こんなご時世なので、できれば複数で楽しく登ってほしいですね。良い山城は出来るだけ多くの人に楽しんで欲しいですな。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 武田勝頼観戦地・才ノ神本陣 (2025/09/28 訪問)

設楽原歴史資料館を北上して内藤昌豊の陣のさらに北の丘陵に武田勝頼の戦地本陣があり「武田勝頼観戦地」の石碑が立っています。古くから「赤ハゲ」と呼ばれる地で、やや南西に行った所に敵陣である断上山があります。戦地本陣とはいえ、主郭の周囲には複数の郭があり、南側には土塁や堀切が残っています。特に手前の土塁は二重になっているように見え、簡易的な城を築いたようにも見えますが合戦の頃の遺構だろうか?
合戦のさなかに勝頼は内藤昌豊の陣が有る天王山陣所に移動して共に指揮を取ったと天王山陣所の案内板には書かれています。長きに渡って武田に対し劣勢であった徳川との力関係にも、この合戦で大きな変化が有ったと思います。

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しんちゃん

長篠・設楽ヶ原の戦い 武田勝頼観戦地・才ノ神本陣 (2025/09/28 訪問)

設楽原歴史資料館を北上して内藤昌豊の陣のさらに北の丘陵に武田勝頼の戦地本陣があり「武田勝頼観戦地」の石碑が立っています。古くから「赤ハゲ」と呼ばれる地で、やや南西に行った所に敵陣である断上山があります。戦地本陣とはいえ、主郭の周囲には複数の郭があり、南側には土塁や堀切が残っています。特に手前の土塁は二重になっているように見え、簡易的な城を築いたようにも見えますが合戦の頃の遺構だろうか?
合戦のさなかに勝頼は内藤昌豊の陣が有る天王山陣所に移動して共に指揮を取ったと天王山陣所の案内板には書かれています。長きに渡って武田に対し劣勢であった徳川との力関係にも、この合戦で大きな変化が有ったと思います。

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しんちゃん

くろ谷 金戒光明寺・新選組発祥の地 (2016/02/20 訪問)

金戒光明寺は京都市左京区にある浄土宗の大本山です。承安5年(1175)頃法然が当地に草庵を建てたことが由来とされ「くろ谷さん」の愛称で呼ばれているようです。境内の阿弥陀堂は慶長10年(1605)に豊臣秀頼によって再建されたもので、熊谷直実の鎧懸の松の他、徳川二代将軍秀忠夫人の崇源院(江さん)の墓も有ります。
寺院としては堅固な造りで江戸初期に黒谷と知恩院は徳川家によって城構に改められています。幕末に松平容保が京都守護職に就任すると会津藩の本陣が置かれ、当地で浪士組の芹沢鴨・近藤勇らが容保と謁見を果たしました。その後、8月18日の政変の日に「新選組」の隊名を拝領し市中取締の命を受けています。金戒光明寺も新選組とゆかりの深い場所で、「新選組発祥の地」とも呼ばれています。

明日から合戦です。ヨシ姫も良いのですが、個人的には戦闘員のお姉さんも登用したい。運に左右される要素も大きいですが。

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朝田 辰兵衛

丸太橋を比較してみた… (2025/09/15 訪問)

けっこうな確率で足止めされてしまっている,深草館の丸太橋。個人的な感覚にはなりますが,ちょっと比較してみました。
(難易度大)>(難易度小)
これで表現してみました…
平倉城(長野県)>深草館(山梨県)>中里館(山形県)>井川城(長野県)
こんなカンジです。
平倉城(長野県)は,私を含めて3名のみ。他に,todo94さんといんげん丸虫さんです。ここは,引き返したら何のためにここまで足を運んだのかわからなくなるので,意を決して…というのが本音だと思います。落ちたら高い確率でケガします。
まだまだあるよ~という意見もいただけたら幸いです。

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いわきの陣屋めぐり② ~湯長谷陣屋~ (2025/05/04 訪問)

 JR湯本駅から徒歩40分。バスの場合は、湯本駅からいわき駅行のバスで「常磐扇田」下車し徒歩18分。
 陣屋跡は、大部分がいわき市立磐崎中学校の敷地になっていて、学校内に石碑があります。
 学校敷地外の南東側には、L字の水堀、土塁の遺構が残されています。土塁と水堀そばの道路脇に説明板や当時の様子の配置図が設置されています。初夏ということもあり、草が生き生きしていましたが、それでも土塁と水堀は見ごたえがありました。
 湯長谷藩は、「走っぞ!!」でおなじみの映画『超高速!参勤交代』の藩としても知られています。訪問前に映画を見ましたが、湯長谷をスタートして高萩や取手などを通って行ったり、さらには水戸様まで出てきて、いわきというよりも、道中の茨城色が強くて地元民としては親近感が湧き、とてもおもしろかったです。
 映画を見てからだと、ここから陸前浜街道、水戸街道を通って参勤交代したのか…とちょっと感動しました。

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いわきの陣屋めぐり① ~泉陣屋~ (2025/05/03 訪問)

 JR泉駅から徒歩7分。小名浜を観光した帰りに立ち寄りました。
 泉陣屋は内藤氏、板倉氏、本多氏が治めた泉藩の藩庁です。
 陣屋跡は、泉公民館、泉西公園になっています。泉公民館の北東側の歩道そばに泉城阯碑、説明碑、「赤玉本多」のモニュメントが設置されていました。赤玉本多の由来は、泉藩本多家二代藩主の本多忠籌が寛政二年(1790)に老中に就任し、江戸登城の際に持ち槍二本が許されました。そのうちの一本の槍には、太陽をあらわす「朱天目」、俗にいう「赤玉本多」が飾られたことにちなんでモニュメントとなったようです。泉西公園には、公園北側に陣屋の土塁が残されています。
 そして陣屋門も残されており、陣屋跡から東に500mほどの所にある民家に移築されています。陣屋跡から西に目を移すと、700mほど西に泉藩主本多家墓所もあります。

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浜通りの有力領主 岩城氏の居城 (2025/05/04 訪問)

 JRいわき駅から徒歩20分ほどです。
 城跡は、常磐線と磐越東線が合流する地点のすぐ近くの山です。雛壇状に曲輪が配置されていて、登城路の途中に帯曲輪と思われるものも見受けられました。二ノ郭に「飯野平城跡-大館-」の石碑があります。石碑のそばから本郭に向かう坂には石積みが確認できます。(当時のものかは不明)。本郭は二段になっており、高くなっている部分には、戦没者慰霊碑が設置されています。二ノ郭には石碑のそばに、神社の鳥居があり、鳥居から道なりに進むと本郭東下に着きます。ここに湯殿山神社があり、曲輪が残されていました。
 城主の岩城氏は、相馬氏と並ぶ福島県浜通りの戦国期の二大勢力の一つです。戦国初期は常陸の佐竹氏の内紛に介入するなど、全盛期を迎えました。しかし徐々に衰退し、佐竹氏の南奥進出によって、佐竹方に属します。関ケ原の合戦でいったん改易となりますが、大坂の陣での活躍で、信濃川中島を与えられ、最終的に出羽・亀田藩主になります。岩城氏の改易ののちは、大館城には鳥居忠政が入り、磐城平城を築城した際に廃城となったようです。

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