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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:普門寺城 (2024/10/05 訪問)

摂津富田駅から徒歩15分ちょっとで、普門寺山門入口(34.829507、135.593189)に着き、その後、土塁遺構(34.830662、135.592391)に向かいました。

普門寺は1390年(明徳元年)説巌によって開かれた寺院です。
1561年(永禄4年)に管領細川晴元は三好長慶と和睦し、剃髪したのち隠棲したのがこの普門寺で、城郭化されて普門寺城とも呼ばれていました。1563年(永禄6年)晴元はこの普門寺城にて没しました。
1566年(永禄9年)足利義栄は三好三人衆に擁されて普門寺城に入り、十四代将軍宣下を受けましたが、在任期間はわずかでした。

普門寺は枯山水の庭園が有名で、その一角に細川晴元の墓と伝える宝篋印塔があるそうですが、時間の都合でパスしました。
普門寺城は現在の普門寺境内一帯に築かれていました。
土塁遺構は境内の北西部分にあり、これは外側の道路沿いからでもフェンス越しに見ることができますが、 ただどれほどの規模の土塁なのかははっきりしません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=茨木城を目指す為、富田駅から電車で茨木市駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:芥川城 (2024/10/05 訪問)

高槻駅から徒歩15分くらいで、城址碑前(34.852947、135.608568)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に芥川氏によって築かれたと云われています。
芥川城は平城であるこの芥川城と、三好山に築かれた山城があり、一般的に後者を芥川山城と呼んでいます。
芥川氏の成長と共に城も拡大を繰り返し、南北朝時代には相当な地域へ拡張したと思われるそうです。
しかし、応仁の乱で芥川氏は西軍の軍門に降り、その後摂津国人一揆が細川政元による鎮圧でこの地域の国人が没落したことからか、芥川本家は歴史から名を消してしまいます。
1490年(延徳2年)細川政元は衰退していた芥川宿を再建し、能勢因幡守頼則を芥川城主としました。
1516年(永正13年)には芥川山城を築城し、芥川城は平時の居館として活用されていたという説もあるそうです。

付近の道路は狭く、宅地となっており、石垣のある邸宅の南側に城址碑があります。
歩いてみましたが遺構はありませんでした。
攻城時間は1~2分くらいでした。次の攻城先=普門寺城を目指す為、高槻駅から電車で摂津富田駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:高浜台場 (2024/10/05 訪問)

水無瀬駅から徒歩10分くらいで、観音堂近くの石碑前(34.873781、135.670743)に着きました。

高浜台場は1866年(慶応2年)に梶原台場の関門機能強化のために徳川幕府により築かれました。
1868年(慶応4年)鳥羽伏見の戦いでは梶原台場・高浜番所守備の伊勢藤堂藩が新政府方に寝返り、淀川対岸の楠葉台場の旧幕府軍と砲撃戦を行い旧幕府方を敗走させています。

高浜台場(番所)は、淀川堤防側にある高浜公会堂前にある観音堂前に台場の石碑が立てられています。
実際の台場(番所)は、堤防を越えた淀川河川敷にあったそうです。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=芥川城を目指す為、島本駅から電車で高槻駅に向かいました。

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赤い城

仲村城 香川県善通寺市 (2024/11/03 訪問)

甲山城のあと城びと未登録の仲村城に立ち寄りました。
城跡には香川氏の祖である鎌倉景政を祀る景政神社が鎮座します。
神社を囲むように土塁が残っていますが大部分は農耕地と住宅地になっています。

仲村城から少し離れた場所に四国第七十七番札所の金倉寺があります。
弘法大師の甥で天台寺門宗の開祖、智証大師生誕の地とされます。
この日は七五三でお参りの親子連れも多かったです。

金倉寺の前には釜揚げうどんの有名店、長田in香の香があります。
午前中なのに広い駐車場も満車、長い行列ができていました。
この日は食さず、写真は以前行ったときのものです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:今西家土居屋敷 (2024/10/05 訪問)

服部天神駅から徒歩10分くらいで、石碑前(34.761799、135.481491)に着きました。

今西家土居屋敷は奈良の春日大社の社領を管理するための、お代官様が居住していた屋敷だそうです。
歴史は古く、鎌倉時代の終わりには早くもこの地に居館を構えていたようです。現在残る建物は江戸時代のもののようです。

このお屋敷は現役で、今も今西家のご家系がお屋敷を守られているそうで、現役の住居のため見学禁止です。
屋敷内には入ることが出来ませんが、表門などの江戸時代中期の建物の確認はできます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高浜台場を目指す為、服部天神駅から電車で水無瀬駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:原田城 (2024/10/05 訪問)

曽根駅から徒歩5分ちょっとで、原田しろあと館入口(34.772991、135.463292)に着きました。

築城年代は定かではないようです。 1547年(天文16年)には細川晴元の軍勢30,000騎が攻め寄せて落城しました。
1578年(天正6年)有岡城主荒木村重が織田信長に叛くと、有岡城攻めの付城として織田信長の家臣が在城したそうです。

遺構は残っていないようで、旧羽室家住宅付近で案内板と標柱を確認しました。
原田しろあと館の開館は土日の12時~16時です。(本日は土曜日ですが、時刻は朝の7時45分です)
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=今西家土居屋敷を目指す為、曽根駅から電車で服部天神駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:麻田陣屋 (2024/10/05 訪問)

十三駅から蛍池駅に着きました。そこから徒歩2~3分くらいで、蛍池駅前の石碑と案内板前(34.794053、135.448677)に着きました。

1615年(元和元年)青木一重によって築かれました。 青木氏は美濃国安八郡青木発祥の土豪で、今川氏真、豊臣秀吉、秀頼に仕えました。
大坂の役の前に駿府の徳川家康のもとに和議の使者として赴いたが、帰路徳川方に捕縛され出家して宗佐と号しました。
同年、徳川家康に出仕して摂津国豊島郡・伊予国・備中国において12,000石を領して麻田陣屋を築き、弟重家に2,000石を分与しました。その後も青木氏が代々続いて明治に至るそうです。

螢池駅の西側に石碑と案内板が設置されています。
遺構は残っておらず、 藩主屋敷表玄関が報恩寺、門が民家に移築されて現存しているようですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=原田城を目指す為、蛍池駅から電車で曽根駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:三津屋城 (2024/10/05 訪問)

堀城から徒歩15分ちょっとで、光専寺入口(34.727555、135.471934)に着きました。

三津屋城は楠木正行によって築かれた城で、その後、三好長慶が一時本拠にしたとも伝っています。
現在城址推定地には光専寺とひかり保育園があり、周辺は宅地化されており遺構は残っていません。
城跡である光専寺に併設されている保育園は、"無断で立ち入るべからず"とあるので、山門の中には入らず退散しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=麻田陣屋へ行く前に、一旦ホテルに戻り朝食を食べる為、ここからホテルまで徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)14日目:堀城 (2024/10/05 訪問)

ホテルでの朝食前に堀城と三津屋城を攻城しました。
ホテルから徒歩5分ちょっとで、武田薬品工場正門前(34.722440、135.480788)に着きました。

築城年代や規模、正確な位置については定かでないようですが、細川氏によって築かれた城です。
現在の十三公園のあたりが城址だったと推定されています。線路沿いの武田薬品工場正門横に案内板がありました。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=三津屋城へは、ここから徒歩で向かいました。

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シャンシャン

姫路城ドローンショー (2024/11/09 訪問)

500機のドローンが姫路城をバックに夜空を彩る!
いったいどういう仕組みで動いているのかまったくわからないけど、多くのドローンが一糸乱れぬ動きで次々と夜空に絵を描いていく。
わずか10分くらいのショーだったけど見に来て良かった!

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シャンシャン

坤櫓 秋の特別公開 (2024/11/09 訪問)

現存三重櫓12基のうち明石城に坤櫓と巽櫓の2つが残る。
2つの櫓を含む東西の幅が380mあるという高石垣は圧巻の一言!まるで万里の長城

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シャンシャン

広大な山城 (2024/11/04 訪問)

沼田川を挟んだ新高山城と共に国指定の山城。
新幹線のトンネルが2つの山を貫いている。
登山道はあまり整備されておらず、本丸跡までは何とかたどり着いたけど、その先は藪がひどくて進めず・・・
所々石垣が残っているけど、当時のものか登山道を造った時のものか不明。

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シャンシャン

集え!岡山城 (2024/10/12 訪問)

岡山城のイベントで訪問。
武将隊の演出などもあり人出も多くて大盛況。
イベントメイン会場の本丸本段南東の高石垣は見事!
地中に埋まった部分も含めると15m以上あり、関ケ原以前の築かれた石垣としては屈指の高さとのこと。

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天守無しがアツい

名古屋城の御城印帳を買う (2024/11/02 訪問)

過去に名古屋城を訪れた際は…日本100名城スタンプというものを知らず…御城印がまだ無かった頃でした。その補完という意味合いが強い今回の訪問🏯

耐震性度が弱い…という理由で天守閣が閉鎖されてました。まずは入場門入ってすぐの場所にある100名城スタンプを(スタンプ帳に)捺印

それからお土産店に行き…小倉トースト風フィナンシェと一緒に、御城印(1枚目)と御城印帳(2枚目)を購入

御城印は(1枚目の)右側が御城印帳を買うとおまけで付いてくる特別版…左側が通常版(日付入り) 最初店員に尋ねた時は「御城印帳に御城印は付かない」と言われたから通常版のを一緒に買おうとしたのですが、特別版のも付けているのが目に入ったので、どういうわけか尋ねたら「御城印帳に日付入りの御城印は付かないという意味…(だったかな?とにかくよく分かんない説明)」と言われ…一瞬どうしようか迷いましたが…出た結論は「全部買っちゃえ😂」

両方の御城印を購入後、店内の隅っこで早速(記念撮影するために)2枚を印帳の中に入れました…柔らかい和紙で出来た御城印…性質的に抵抗力が乏しいため、ページと表面ビニールの間をなかなか通っていかない…だから両方とも苦戦しました

通常版の台紙として後ろに付いていた紙は少し硬めだったので…両方ともそれと一緒に差し入れて…奥まで達したら(御城印が表面ビニールにすっぽり入った(1枚目の)状態で)後ろの紙だけを引き抜く

そうやって何とか…両方とも(1枚目の姿に)収めました…ただ…特別版が収納されたページの右上がちょっと剥がれちゃいました😅 でもこの印帳は名古屋城の…なので先頭にここの御城印を持ってきたかったのです…だから…「このくらいは気にしない」

二の丸に(3枚目の)史跡がありました。説明書を読んでみると…かつてこの辺りには名古屋城の前身である那古野城があり、今川氏親によって大永年間(1521-28)に築かれて今川家を城主としていたが、織田信秀(信長の親父)がそれを奪い、別の城に鞍替えすると息子信長に…信長も清洲城に引越してからは別の織田一族に引き継がれ…やがて廃城となったらしい

(3枚目の)案内板の後ろにある岩は…当時の名残りなのでしょうか?🪨

この城に着いた頃…実は100名城スタンプと御城印、御城印帳を入手したら次の目的地に行く予定でした。けれど…たとえそれでより多くの城を巡ることができても…そんなゆとりの無い「はい次はい次」をしていては…旅のクオリティが下がる⤵️

「そんなタイトなスケジュールは一旦破棄!まずはメシ食おう🍝」と考えた私は…金鯱横丁店のアンカケタロウという店で、(名古屋名物)あんかけスパゲティのスペシャル(4枚目)をいただき、無料Wi-Fiで歩数計アプリのゲージ消費もして、しばらく身体を休めたのでした😊

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しんちゃん

サンド~バッグに~ ♪ (2024/09/15 訪問)

国神城は矢吹町の国神に築かれていました。‥どうせなら矢吹城がよかった。
「立て!立つんだジョ~!」とか「燃え尽きたぜ‥ 真っ白にな‥」とか、やりたかったのに。
それは置いといて、興国年間(1340~1345)石川九郎光幹が国神城に入り「中畠氏」を称したとの伝えがありますが定かではないようです。防御面において不安があったと見られ、やがて中畠氏は観音山館(現中畑根宿)に拠点を移したとされています。
現在は畑地の中に小さな丘陵がぽつんと残されています。かつての櫓台のようで、残されている遺構はこれだけのようです。角度を変えてみると何かの耳に見えませんか? またトトロつながりだったりして。

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HKISD

障子ヶ岳城散策 (2024/11/09 訪問)

味見公園駐車場迄めちゃくちゃ狭く大変でしたが
登山道から山頂迄整備されており登りやすかったです。
本丸では360°見渡せる風景に感動しました。
とても良かったです。

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キンヤ

黒田時代の石垣がよく残る水城 (2024/10/12 訪問)

1588年(天正16)、豊臣秀吉から豊前六郡18万石の所領を与えられた黒田官兵衛(孝高)が築城しました。
1600年(慶長8)、黒田官兵衛・長政は関ヶ原の戦いの功で筑前福岡52万石へ国替えとなり、その後は細川氏、小笠原氏、奥平氏が代々居城としました。

大河ドラマ「軍師官兵衛」が放送されていた2014年に行きましたが、続100名城に選定され再訪しました。

河口付近に築かれ、堀には河口の水が引きこまれた水城で、日本三大水城にも数えられます。
西側に中津川が流れ、対岸から見ると水城らしい眺望です。

本丸の石垣がよく残っていて、1番の見所と思います。
北側では黒田時代から細川時代への石垣の変貌を見ることができ、西側の川沿いの石垣も黒田時代で黒田氏が持ち込んだ古代山城の神籠石の転用が見られます。
南側の石垣は、発掘調査により黒田時代の石垣は今よりも低く幅は狭いもので、細川時代に高く幅広く造り替えられたことが分かったそうで、綺麗に修復・整備されています。

模擬天守は1964年(昭和39)に萩城天守の古写真をもとに建てられたものですが、黒の下見板張がカッコよく立派で、個人的に好きな模擬天守です。

前回は巡っていなかった城下を囲む総構えの「おかこい山」と呼ばれる土塁にも行きました。
中堀沿い1ヶ所、外堀沿い2ヶ所を巡りましたが、南西の外堀内側の自性寺に土塁がよく残されており、高く長大で見応えがありました。

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しんちゃん

柳生定食(日)柳生陣屋 (2024/11/02 訪問)

柳生陣屋は今川を挟んで旧柳生城の対岸(西側)の小高い丘の上に築かれていて、無人駐車場(300円)からすぐの階段から登ることが出来ます。柳生新陰流の創始者・柳生宗厳の子・宗矩が父の菩提を弔うため柳生城の跡地に芳徳寺を建て、引き続き3年の歳月をかけ寛永19年に、この地に陣屋を築いたとされています。
柳生一刀石の投稿で、宗厳と天狗の対決がありましたが、近くの神社には鬼の角のようにも見える岩がありました。剣豪の故郷である柳生の里には、そのような神秘的な存在がいても不思議ではないのかもしれません。‥と思ったら陣屋の背後にある小山の上の木が、まるで鬼の角のようにそびえたっています。やはり、柳生の里には鬼がいるのか? というか、これトトロに似てないか?

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しんちゃん

陶器左衛門尉の居城 (2019/06/16 訪問)

今日はちょっと古い写真を載せさせていただきたいと思います。実は現在、奈良・大阪へ遠征中なのですが陶器城は遺構の部分に入れない状況が変わっていないので再訪先から外しています。いずれまた新しい写真を撮ったら掲載させていただくかもしれません。

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mae

南側段郭石積 (2024/11/10 訪問)

南側の段郭先端の西側、東側には石積が残ります。

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