あまり知られてないとは、思うのですが、鎌倉市にあるお城です。北条早雲や本多正信の関係です。近くのお寺に詳しい説明がある歴史館が、あります。
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2023/06/10 19:41
2023/03/24 16:53
どうする正信 (2017/03/21 訪問)
三河を去った本多“松山”正信。しばしお別れですね。「伊賀越え」あたりでまたひょっこり顔を出してくれるでしょう。さて、話題はちょっと未来へ。
場所は相模国・玉縄城址(神奈川県鎌倉市)。北条早雲による築城、あるいはそれ以前から砦があったとされる平山城は小田原防衛ラインの一角。残念ながら、遺構の多くはマンション建設で破壊され、史跡指定も難しい状態だとか。通りすがりの私は革靴だったこともあり、今回は山登りも途中まで。
ご覧の通り、行政はもっぱら北条推し。場所柄、決して珍しくありません。故にあまり知られていませんが、この地は家康の関東移封後、本多正信 が拝領します。わずか2万石(1万石説も)。側近中の側近とは思えない少なさ。
正信はその後、一切の加増も望まなかったというのが多くの方が指摘するところ。他の三河家臣団と一線を画した大参謀と家康の関係はやはり特殊なようで、石高では測れない何かがあったのでしょうね。2人の関係性、最後まで丁寧に描かれることを期待したいと思います。
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2022/06/25 21:26
2022/03/06 20:40
住宅地に溶け込んだ玉縄城 (2022/01/08 訪問)
本年最初の城巡りは神奈川県鎌倉市の玉縄城。
遺構の少ない城ですが、北条氏の主要な支城として興味のあった城。
鎌倉幕府滅亡後も、鎌倉公方が置かれるなど関東の中心都市であった鎌倉。
その外側北西部の大船は、相模湾と繋がる柏尾川の水運拠点だったとのこと。
そして川の北西に位置する玉縄は鎌倉街道上道と中道に挟まれたエリアで、水陸交通の要衝だったと窺えます。
また玉縄城は多摩丘陵南端の山谷が複雑な地形にあり、本丸は比高約50mの高台の上。
更に城郭周辺のいくつかの尾根には、砦が配置されていたようです。
1512年に伊勢宗瑞(北条早雲)が東相模攻略の前線基地として築城し、代々北条氏一族が城主に着任。
秀吉の小田原征伐で家康の説得により開城となると、以後は家康の側近が城に入り江戸前期で幕を下ろしました。
元々噴火口の様な形状だった本丸ですが、現在は土塁の大半が削平され高校に。
そこに諏訪壇や蹴鞠場跡が残るものの、外からではただ何となく見上げるだけ。
他の城域も住宅地となっており、七曲坂と太鼓櫓跡のみが常時入場可能な城。
訪問時のルートは玉縄ふるさと館のある龍宝寺を起点に、七曲坂、太鼓櫓跡、大手虎口跡、二伝寺(砦跡)、柏尾川、現諏訪神社、そしてお花畑の北側へ。
実際に歩くと予想以上に急坂が多く、七曲坂の頂上は本丸と太鼓櫓を分断する堀切なんですね。所々でそんな住宅地に溶け込んだ城郭地形を確認できた私の城巡りの117城目でした。
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分類・構造 | 平山城 |
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築城主 | 北条氏綱 |
築城年 | 永正10年(1513) |
主な改修者 | 北条氏綱 |
主な城主 | 後北条氏、松平氏 |
遺構 | 曲輪 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 神奈川県鎌倉市城廻200 |