たまなわじょう

玉縄城

神奈川県鎌倉市

別名 : 甘縄城
旧国名 : 相模

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太鼓櫓跡
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イタさん

主郭部及び周辺はほぼ学校・住宅地 (2024/06/12 訪問)

七曲坂からスタート。入口右奥にはマンションが建つっているが、七曲殿と言われた館跡になる。以前の写真には坂の先に冠木門が建っているが、今はなく七曲虎口跡だったのか、標示もなかった。武者溜まり址を過ぎ、坂上に出れば先一帯は住宅地。坂上手前には旧道が図に標示されているが、確認しなかった。宅地の間に大手門址の標示がある。門先は高くなり本丸跡だが学校の敷地になる。戻って太鼓櫓址に。曲輪内は3段で奥が高く、櫓があったのだろう。下に平場が見えるが、南に堀切を挟んで硝煙蔵址があるらしいが分からず。櫓址と宅地の先から下りられる道があるが、植木1号市民緑地内の整備のため、柵に鍵が掛けられている。情報不足のためか、多くを観られなかった。帰りに大船観音を参拝(300円)する。

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しんちゃん

北条氏の重要拠点 (2024/05/03 訪問)

玉縄城は伊勢盛時(北条早雲)によって築かれたとされています。鎌倉や小田原の守りの重要な拠点であり、かつては城の外堀が柏尾川と直結し水軍を統括する拠点でもあったようです。周囲の支城や砦を合わせるとかなりの規模で、初代城主は氏綱の弟である北条氏時が務め、その後も北条氏にとって重要な人物が城主を務めています。
周囲に駐車場は無く、近場のコインパーキング等を利用する必要がありそうです。麓の七曲坂の入り口に案内板が有り、そこから本丸まで登って行きます。本丸は女子高校になっていて一目で進入不可とわかります。いわゆる「あかんやつ」ですね。南東の太鼓櫓跡は公園として整備されていて、裏手の堀を見ることが出来ます。かなり大きくて深い堀です。陽谷山龍寶寺には玉縄北条氏の供養塔があり、資料館が併設されています。玉縄歴史館というらしく開館日は龍寶寺の開門日に準じているようです。山門をくぐってすぐ右手にあるようですが、気づかずスルーしてしまいました。

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三浦の晃ちゃん

鎌倉 (2023/06/10 訪問)

あまり知られてないとは、思うのですが、鎌倉市にあるお城です。北条早雲や本多正信の関係です。近くのお寺に詳しい説明がある歴史館が、あります。

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AJ

どうする正信 (2017/03/21 訪問)

三河を去った本多“松山”正信。しばしお別れですね。「伊賀越え」あたりでまたひょっこり顔を出してくれるでしょう。さて、話題はちょっと未来へ。

場所は相模国・玉縄城址(神奈川県鎌倉市)。北条早雲による築城、あるいはそれ以前から砦があったとされる平山城は小田原防衛ラインの一角。残念ながら、遺構の多くはマンション建設で破壊され、史跡指定も難しい状態だとか。通りすがりの私は革靴だったこともあり、今回は山登りも途中まで。

ご覧の通り、行政はもっぱら北条推し。場所柄、決して珍しくありません。故にあまり知られていませんが、この地は家康の関東移封後、本多正信 が拝領します。わずか2万石(1万石説も)。側近中の側近とは思えない少なさ。

正信はその後、一切の加増も望まなかったというのが多くの方が指摘するところ。他の三河家臣団と一線を画した大参謀と家康の関係はやはり特殊なようで、石高では測れない何かがあったのでしょうね。2人の関係性、最後まで丁寧に描かれることを期待したいと思います。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 北条氏綱
築城年 永正10年(1513)
主な改修者 北条氏綱
主な城主 後北条氏、松平氏
遺構 曲輪
再建造物 石碑、説明板
住所 神奈川県鎌倉市城廻200