内牧城(2/2)【牛方馬方騒動-①】加藤正方
(2025/11/26 訪問)
内牧城へやって来ました。八代城を訪れた後に、加藤忠広はなぜ突然改易されたのか? という疑問が(もやもや~)と何故か私の心に残り、調べていくとその発端は、1616年に起きた加藤家の内乱【牛方馬方騒動】にある事がわかりました。そこでその騒動の首謀者である、重臣の「加藤正方」と「加藤正次」の二人の居城を訪れてみたくなりやって来ました。まずは正方の居城(内牧城)から始めます。
阿蘇駅からは内牧温泉行のバスに乗り換え15分、内牧(阿蘇体育館)で下車すると、この体育館の場所が内牧城の本丸だったそうです(写真①②)。内牧城は、戦国時代は阿蘇氏の居城でしたが、1586年に島津氏の侵攻で落城します。秀吉の九州征伐を経て加藤清正が肥後に入国すると、内牧城は重臣の加藤可重に与えられ、可重死後は子の「加藤正方」が後を継ぎます(写真⑨)。この頃に本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えた平城に改修されたようです。二ノ丸の現在は、阿蘇中央公園(あそビバ!)になっていて、市民の憩いの場として整備されていました(写真③④⑤⑧)。南側にはわずかですが石垣が残り、矢穴のある石も見つけました(写真⑥)。
本丸の西側にある「明行寺」の門は、内牧城から移築されたものと伝わっています(写真⑦)。勝海舟や坂本龍馬、夏目漱石もここを訪れた事があるようです。
内牧城は阿蘇の地下から沸き出る内牧温泉街にありました。と言う事は🤔・・・ここの殿様は毎日温泉に入っていたのでしょうか? 何ともうらやましい限りです。そこで私も城跡を散策した後は、二ノ丸にあった立ち寄り湯で温泉入浴してきました(写真⑩)。少し硫黄の匂いがするものの、つるつるの肌触りなったので美肌効果があるかも?
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【牛方馬方騒動とは】
1611年に加藤清正が突然死去すると、まだ11才の忠広が家督を継ぎますが、まだ若く何もできないため、ここで重臣同士の権力争い(後見争い)が勃発します。その主役が、「加藤正方(馬方)」と「加藤正次(牛方)」です。二人はお互い相手を蹴落とすように家老筆頭の座を狙って争い、その争いはだんだんとエスカレートしていきました。そしてついに大坂の陣の後の1618年、正方は正次の家臣が大坂の陣の最中に、大坂城に兵糧を運び込み大坂方を支援していた、つまり謀反があった旨を幕府へ密告します。これを聞いた幕府は両者を江戸へ呼び問い正します。そして最後は徳川秀忠が直々に裁決しました。秀忠は正方の訴えを聞き入れ、正次の南関城を召し上げ家臣とともに流罪としました。しかしこれにより、藩主の加藤忠広には騒動を抑える統率力も無いことを露呈してしまい、幕府や家臣からの信頼も失ってしまいます。本来なら喧嘩両成敗でかつ藩主にも沙汰があるのが当然ですが、忠広の正室は家康の養女であったという事情もあり、お咎めが無かったようです。そして同じ時期の1619年、地震により麦島城が倒壊してしまいます。徳川秀忠は、名誉挽回の機会を与えるとばかりに、正方を内牧城主から麦島城主(家老筆頭)にし、忠広には正方とともに麦島城に代わる「八代城」の築城を命じます。両者は加藤家の財力を全て注ぎ込み、必死になって築城しました。そしてやっと八代城が完成した1632年、この後どうなったかは、私の八代城での投稿の中でお伝えした通りです。
次はもう一人の重臣で騒動に敗れた、加藤正次の居城(南関城)に向かいます。
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