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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2016/05/05 訪問)

 ①「石造り 城のはじめは 観音寺」(いしづくり しろのはじめは かんのんじ)

 ②「壮大な 曲輪でうまる 観音寺」(そうだいな くるわでうまる かんのんじ)

 9年前の平成28年5月5日日帰りで滋賀県、福井県城探訪、何回となく安土城へ登城の折りに相対の観音寺城を眺めて居ましたが観音寺城へは初登城でした、車で近くまで登れると言うことで中腹の料金ゲートで通行量を払い細い道離合困難?を進行対向車が来ない事を祈るがタクシーが降りて来た、左一杯タイヤを寄せてギリギリの通行冷や冷やでした、頂上辺りの観音正寺駐車場へ駐める。

 駐車場から西へ平坦な道を約500m程で観音正寺へ、道すがら上下に曲輪跡が在る様な雰囲気も有るが良くは判らない、観音正寺本堂に参拝して、観音正寺の石垣を降りて本丸を目指す、本丸大手石階段を登って本丸内部へ、内部は樹木が鬱蒼と茂り薄暗い、桑実寺方向へ降りる喰違虎口石垣を確認して大手石段を降りて伝平井氏屋敷跡へ、観音寺城の紹介写真のトップは伝平井氏屋敷の正面虎口門の巨石門でしたので、是非見たいと訪ねました、後は壮大で巨大な曲輪群ですので案内無しでは無理な曲輪群ですので、巨石虎口門を確認して終了しました。
 

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カズサン

【赤色立体地図かるた】 (2015/10/24 訪問)

 ①「U字形 一山全体 小谷城」(ゆーじけい ひとやまぜんたい おだにじょう)

 ②「浅井氏が 三代栄し 小谷城」(あさいしが さんだいさかえし おだにじょう)

 ③「対織田戦 浅井の悲劇 小谷城」(たいおだせん あさいのひがき おだにじょう)

 10年前の平成27年10月下旬、山城サミットin米原大会に合わせて城探訪、米原に宿が取れず大垣に宿をとる。岐阜の黒野城を訪ねてから小谷城へ初登城、当時は車で番所跡辺りまで車で登れて駐車エリアまで有りましたので登る。
 番所跡、御茶屋跡、馬洗池跡、桜馬場跡、黒金門跡、大広間跡、本丸台に登り、大堀切、中丸、京極丸、小丸、山王丸手前の大石垣を観察し、山王丸へ、同好の方と山王丸で少々会話し、その方は先の城域、六坊、月所丸、大嶽城を探訪されると、分かれて私は元に戻り麓の資料館へ、宿の大垣に移動し夕刻の大垣城を探訪しました。
 翌日は山城サミット米原大会に1日費やす。

 小谷城は一山全体を城郭で囲んでおり、東側に出丸、金吾丸、番所、御茶屋、馬洗池馬屋、桜馬場、大広間、本丸、大堀切、中丸、京極丸、小丸、三の丸、北側に廻って、六坊、月所丸、大嶽城がピーク、西に廻って福寿丸、山崎丸で清水谷の屋敷群を守っていた大城郭でした。
 浅井氏は京極氏の被官でしたが頭角を現し浅井亮政、浅井久政、浅井長政と三代北近江を抑えて戦国大名へ、長政は信長と同盟を結び信長妹のお市を娶り、同盟は堅固に見えましたが、織田信長の朝倉攻めで金ヶ崎で背後を襲う裏切り、信長の金ケ崎撤退、姉川合戦、信長による朝倉を滅亡させて、小谷城攻めが始まり、浅井久政自刃、長政自刃、長政長男は磔。お市と三姉妹は救出されましたが皆さまご存じの歴史の流れです。
 

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チェブ

あいさつ・おもいやり・いっしょうけんめい (2025/06/28 訪問)

この日の最後にお邪魔したのが「宍戸城」。
道沿いに『旧陣屋』と標柱がありました。この辺りの名称地には、このデザインの標柱が立ってます。
説明板の横に駐車場があり、お借りしました。
先土器時代から始まる説明板には、
源頼朝さんの頃、八田 知家さんが守護となり、四男の家政さんがこの地を治めたそうです。
戦国期は佐竹氏。
関ヶ原後は秋田氏。
江戸は水戸光圀さんの弟、頼雄さん。
幕末から現在へと、ぎゅっと凝縮された内容が記載されてました。
土塁の上には稲荷神社がお祀りされてます。
なんじゃ?あの家紋?
お賽銭箱の前に立て掛けてある、旧陣屋と丸三つ葉葵のコラボデザイン。Tシャツのロゴみたいで格好良いです。

この後、帰る途中に宍戸小学校がありました。一旦通り過ぎて『ん?』
引き返し見てみると、校章が角三つ葉葵でした。
葵の3つの葉には
『あいさつ・おもいやり・いっしょうけんめい』
の意味があるんだそうです。
校章として定めるにあたり、東京の松平家まで出向いて許可を頂いたんだとか。

どの時代を取っても、自由研究の題材になりそうだと思った「宍戸城」攻めでした。

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しんちゃん

城攻めの 上・中・下 (2024/01/26 訪問)

「城攻めは 上中下なり 石垣山(しろぜめは じょうちゅうげなり いしがきやま)」

自身の石垣山の投稿が多くなって来たので、これはただのお城川柳として投稿させていただきます。以前「上山城」の投稿で、沢庵和尚の教えの「政は上・中・下」を書かせていただきました。これは城攻めに当てはまる場合もあると思います。
豊臣秀吉の城攻めは「劇場」のような要素を持っていて、見る者や人づてに聞く者に多大なインパクトを与えると思います。
「鳥取城攻め」の場合は周辺まで陣城が迫り、下側から圧力を加えました。もちろん太閤ケ平からのプレッシャーもありますが、この位置的な意味の「中」は今回は省きます。
小田原攻めの場合は上側から圧力をかけています。小田原城内もしばらく揉めたようですが、黒田孝高と織田信雄家臣・滝川雄利らの降伏勧告に応えて開城しました。滝川雄利自身も小牧・長久手の合戦の際に松ヶ島城に籠城し、羽柴秀長の軍勢の前に降伏・開城しているので、使者としては適任だったのかもしれません。この場合は孝高と雄利が「中」の役割を果たしたのだと思います。
沢庵和尚の教えでは中は上と下の間に線を引き、口で意志の疎通をはかるとされています。

「開城の 意志も城主の 度量成り」

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肉球

下手渡陣屋・福島県伊達市 (2025/07/19 訪問)

1806年筑後国三池藩立花氏が領地替えのためこの地に陣屋を構えたようです。
陣屋跡地は緩やかな傾斜地で石積み、井戸が残り所々に案内板もあり散策しやすくなっています。
大手門付近にも石積みが残っているようですがこの時期は夏草で覆われ確認できそうもなく断念。
大手門への坂道は私有地のため外側からのみ見学できます。

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しんちゃん

平泉白山神社 (2016/08/11 訪問)

平泉白山神社は室町時代に全山が石垣(石塁)で覆われ、朝倉氏との関係も深かったとされます。一説には朝倉氏と並ぶ勢力であったとか。僧兵8千を抱え、僧坊の周辺には土塀や石垣などが残っています。戦国武将の城ほどではありませんが、山城の様なものだったようです。実際に朝倉氏が出兵する際に僧兵を出したりしていたようです。
御本社に至る参道は静謐な空気で満たされていますが、発掘調査の進む南谷坊院跡を訪れると、戦国の山城としての姿が見えてきます。
途中、発掘された中世の石畳があり、僧坊跡には石垣が残り、築地塀も再現されています。

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肉球

川俣代官所・福島県川俣町 (2025/07/19 訪問)

米沢上杉藩領だったこの地が幕府領となり1703年に代官所が築かれたようです。
2008年に訪れた時には石碑が建てられていましたが
今は建屋も石碑も消えていました。

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肉球

初登城 (2025/07/19 訪問)

小さな曲輪が沢山あったようですが散策出来るのは本丸部分だけのようです。
本丸に登る階段脇に石垣が残ってます。
石垣脇に駐車スペースと案内板があります。
大手門跡は二本松市役所岩代支所の前です。

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todo94

お盆帰省の城めぐり④ (2025/08/14 訪問)

小谷(こや)城からの転戦です。城への案内表示はわかりやすくつけられていましたが、夏草の繁茂はなかなかのものでした。エノコログサは、まだかわいいものですが、桑の枝葉が張り出して登城路をふさいでいるし、カナムグラのような痛い雑草にも気を付けなくてはなりません。説明板の場所には三所神社が鎮座していました。

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シャンシャン

カツナリ・デ・ナイト 2025 (2025/08/23 訪問)

福山城のイベント、カツナリ・デ・ナイトに参加!
普段公開されていない重文三重櫓の伏見櫓に入ることができて感動!急な階段は昇り降りが大変だけど、現存天守と共通しており嬉しくなる。内部は備中松山城や丸亀城よりすっと広い印象。3階から見る本丸側は天守もしっかり見えてすごく映える風景。
オシロボットのARで遊んだり、スタンプラリーもあって子供も楽しく遊べていいイベント。
そしてメインイベントはドローンショー!!ドローン達が次々と福山由来(バラの花、新幹線など)のものに変化していって楽しかった!

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肉球

9年ぶりの登城 (2025/07/19 訪問)

9年も経つと箕輪門前の住宅が減り景色が変わっていることに驚きました。
早朝に到着したためにほんまつ城報館は閉まっており次の機会に訪問することに。
初めてカメラに納めたアングルは箕輪門から大手門へ向かう途中の遊歩道から2番目の画像。
箕輪門と本丸石垣が一緒に見えます。

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肉球

14年ぶりの登城 (2025/05/10 訪問)

今回は今まで見落としていた不開門が近くの妙専寺に移築されているので
それを目当てに登城しました。
14年も経つと城内は整備が進み歩きやすく散策しやすくなった気がしました。

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しんちゃん

【赤色立体地図かるた】 (2019/05/02 訪問)

「眼下まで 敵陣迫る 鳥取城(がんかまで てきじんせまる とっとりじょう)」

赤色立体地図で見ると鳥取城も多くの腰郭を持ち、なかなかの堅城に見えますが、羽柴秀吉の築いた太閤ヶ平と、それを取り巻く陣所の数と勢いは圧倒的に見えます。東の寺屋敷の陣の北側も秀吉の陣所で有ったとすれば、鳥取城のすぐ近くまで敵陣が迫っていたことになります。西の丸山城・錐山城を経由した補給ルートも羽柴軍により完全に攻略され、雁金城からサイノタワノ陣まで敵の手中に落ちた以上、東西からの挟撃が近くにまで迫っており、すでに大幅に戦闘力を喪失している鳥取城はひとたまりも無かったと思います。
陣地的に見ると完全に詰んでいます。
城兵の栄養状態も粥を食べただけで「リフィーディング症候群」を引き起こすほど衰弱しており、二重の意味で詰んでいます。
城兵の命を助けるためというよりは、陣形的にとことんまで追い詰められた上での降伏に見えますね。正直、判断が遅すぎると思いますが、敵が後の天下人の秀吉であったので「相手が悪すぎた」のかもしれません。ただし、巻込まれた領民はたまったものでは無いと思いますが。
秀吉が残虐であったというよりは、籠城側の責任が大きいと思います。当然ながら元凶となった森下道誉・中村春続などは生かしてはおけませんが、秀吉は経家や他の兵士の命は助けるとまで進言していたのだから。降伏を許さず兵糧攻めを行った高天神城の戦いの方がはるかに残虐ですね。

※鳥取城の投稿で有りながら、一枚も鳥取城の写真が無いという・・いや、遠景で一枚あるか。陣所付近からだけど。

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於大の方生誕の地 (2025/08/23 訪問)

 久しぶりの登城です。前回登城時、移築門と伝わっている水野氏菩提寺乾坤院総門を見なかったので、見に行って来ました。

 JR緒川駅から乾坤院までは約15分、緒川城址へは徒歩10分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

平泉寺白山神社 福井県勝山市平泉寺町 (2016/08/11 訪問)

平泉寺が開かれたのは養老元年(717)のこととされ、白山を目指した越前の僧・泰澄がこの地の林泉で白山神の降臨を見たことが始まりとされています。戦国時代には強大な勢力を持ち、砦や堀を備え、寺領9万石・僧兵8千人を抱え、境内に48社・36堂・6千の坊院が立ち並んでいたそうです。規模を考えると石高はもっと有ったのかも。
天正2年(1574)に一向一揆に追われた朝倉景鏡を匿ったため一揆軍の攻撃を受け、全山が焼失し僧兵の多くも討死し勢力は大きく衰退しました。古い百名城の本にも城郭扱いで載っており、土塁や石垣なども残っています。寺院とはいえ、やっていることは、ほぼ戦国武将と変わらないですね。鎌倉時代には奥州に落ち延びていく源義経主従が立ち寄ったという伝説も残っています。

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しんちゃん

厳島(宮島)豊国神社(千畳閣) (2013/10/03 訪問)

厳島神社の平舞台を支える柱は毛利元就の寄進した赤間石で出来ています。礎石がないけど大丈夫なのかな??
塔の岡周辺にある千畳閣と呼ばれる建物は豊国神社で通っています。豊臣秀吉が安国寺恵瓊に命じて築かせていたらしいのですが、秀吉の死によって未完成のままになりました。元々、神社ではなく経堂として建造されていたのですが、戸も無く吹きさらしの建物の中に豊臣秀吉を祭る社がポツンと鎮座しています。
以上で厳島の投稿は終了になります。「おそ松」さまでした。

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ヒロケン

【赤色立体地図かるた】 (2019/01/04 訪問)

総構え 戦況見下ろす 石垣山
(そうがまえ せんきょうみおろす いしがきやま)

北条側は必至!豊臣側は物見遊山!北条方は8万3千、豊臣方は22万(諸説あり)石垣山城から見る戦況は壮観であったに違いない。

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椎の木屋敷跡など (2025/08/23 訪問)

 刈谷城周辺を散策して来ました。
忠政の娘である於大の方(徳川家康の母)は幼少期に刈谷城に移り住み、刈谷城から松平広忠に嫁いでいます。於大の方は忠政の居城であった近くの緒川城で生まれましたが、その後この城へ移っています。刈谷城から歩いて10分くらいの場所に於大の方が松平広忠に離縁された後、移り住んだと伝わる椎の木屋敷跡があります。
 街角などで見かけた気になるものを撮影してきました。

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亀城公園 (2025/08/23 訪問)

 久しぶりに登城してきました。刈谷城は、1533年(天文2年)に水野忠政が築城しました。亀城公園として整備されています。「十朋亭」という1916年(大正5年)に建てられた2階建の建物が本丸跡地にありますが、ここはかって戌亥櫓がありました。三の丸を示す石碑は刈谷市郷土資料館敷地内にあるとの情報がありましたが、今回は確認していません。

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ヒロケン

【赤色立体地図かるた】 (2025/02/01 訪問)

東は石垣、西は土 二つの特徴 周山城
(ひがしはいしがき、にしはつち ふたつのとくちょう しゅうざんじょう)

光秀公の東丹波攻略の拠点として周山城は築かれ、同時期に東の総石垣の城と西の土の城は築かれたとされています。西の城の築城意図は解明されていません。

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