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dougen

2020.3.22登城 (2020/03/22 訪問)

広の台城から国道408号を南下するとすぐに田んぼの中に小山が見えてきます。

この小山が長沼城址となります。

ちなみに往時は田んぼでは無く、長沼という沼に囲まれていた様です。

現在は長沼市民の森として整備されており、空堀や土塁などの遺構が確認できます。

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にのまる

8の字まわり。 (2025/03/25 訪問)

鳥取から18きっぷと若桜鉄道1日フリー切符で若桜まで行きました。若桜鉄道も若桜駅舎も温もりと懐かしさに溢れてとても心地よかったです。

観光案内所は開館時間前だったので帰りに寄ることにして先にお城に向かいました。

八幡広場登城口から登ることにしましたが、
“えっ?ほんとにここ⁇ここから登るの⁈”
と体が固まって思考も停止してしまうような細ーい道。
「これが無理なら諦めなさい。」
ということなのでしょうか。。。

はい🙌
諦めません。
案内板も立っているし、滑り台を逆から上がるようなものだと思えば平気平気!この先に登山道があるはずだしと心を整え、グラウンドゴルフをされている方々に笑顔で見送られ登城開始しました。(杖と熊鈴装備)

果たしてすぐに歩きやすい道が現れほっとしました。朝田さんご投稿の“8の字まわり”が初めから終わりまですごくありがたいヒントになりました。ありがとうございます。
また、分岐ごとにわかりやすい道標を立ててくださっていたので安心して進むことができました。(行きは「尾根経由」です。)

40分くらいで三の丸広場に到着しました。
二の丸、本丸、天守台と見学します。電気柵は外されていました。
結構すごいところに来ちゃったかも⁉︎という焦りの気持ちも石垣や瓦片を見ると満足感に変わります。破城痕と今なお踏ん張る石垣に枡形跡。眺望も素晴らしかったです。登城ノートがあったので記入しました。

山頂でおにぎり🍙タイムにするのが好きですが熊出没注意の山では食事はしないことにしているので、充分に満足したところで下山します。
精神的・体力的に無理そうだったら馬場の駐車場でタクシーを呼んで迎えに来てもらうという保険をかけていたのですが、近くでチェーンソーっぽい音がして人がいることがわかったので六角石垣経由で徒歩下山することにしました。

チェーンソーの音は六角石垣の上からで、四阿の解体修理をされていました。雪解けを待って作業に取り掛かられたのでしょうか。ありがたいです。

あとはひたすら下を目指します。
階段設置のところやはっきり道筋があるところは慎重に歩けば大丈夫でしたが、一カ所とてもありがたかったのが写真8枚目のピンクリボンとガムテープ。もしこの目印がなかったらそのまま突進していたかもしれません。ここで右に折れるのが正解でした。どなたがマークしてくださったのか知るすべはありませんがとてもありがたかったです。私もどなたかのお役に立てるお城めぐりができたらいいなと思いました。
登城ノートにも書きましたが無事下山してこその城めぐり。まだ雪の残る古城を経て30分弱で8の字のクロスしている地点に到着。ここから第一町民体育館方面に下りました。

と、最後の最後で折れたてほやほやの倒木が通せんぼ😱
横の急斜面は歩けそうもなく、倒木の下を潜るのも無理。出口はすぐそこに見えているのに何という試練😭
乗車予定の列車は20分後に迫っています。八幡広場に引き返すのは面倒くさいし時間もありません。
最後かつ唯一の手段と、リュックとポーチを倒木の向こうに投げ、枝をガシッと掴みヨイショと乗り越えました。

無事帰還に感謝。

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駿府城

企画展「十返舎一九と蔦屋重三郎」を開催します!

十返舎一九といえば、『東海道中膝栗毛』で知られる江戸の爆笑ヒットメーカー。その才能を見いだしたのが、出版文化に新たな流れを生み出した蔦屋重三郎です。本展では、そんな二人が築いた江戸出版文化の華やかな世界を、厳選された76点の貴重な資料とともに紹介します。
また、前期・後期で展示替えを行い、より多くの貴重な展示品をご覧いただけます!

◆会期: 2025年7月5日(土)~8月24日(日)
【前期】7月5日(土)~7月27日(日)
【後期】7月29日(火)~8月24日(日)
◆開館時間:9時~18時(展示室入場は閉館30分前まで)
◆休館日7月7日(月)、14日(月)、22(火)、28(月)、8月4日(月)、18(月)

◆観覧料 ※詳細は添付画像をご覧ください。

さらに、講演会や歴史を楽しく学べるトークイベントなど、関連イベントも多数開催予定です。詳細は静岡市歴史博物館ホームページ(https://scmh.jp)をご確認ください。

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天守無しがアツい

西光寺 (2025/06/23 訪問)

特別御城印…北庄城・西光寺・福井城を全て揃えると1つの絵になる…キャンペーンがあったので…柴田神社(北庄城跡)を巡り北庄城の特別御城印を購入してから西光寺へ🚶‍♂️

境内に入ると…柴田勝家の墓があったのでお参り🪦
ちなみにこれは慶長年間(慶長元年=1596年)建立されたそうで、勝家は天正十一年(1583年)に自害…つまり亡くなってるから、死後10年くらい経過してから造られた

おそらくこの墓に遺骨は無く…供養塔という意味合いの強い存在なのではないかと推測。現に勝家とお市の亡骸は自害した跡に(燃えさかる城内と共に)火にくべられた…と北庄城の案内板にあったから…行方不明状態のままなのではないか?

資料館があったけど閉まっていた…境内隣に幼稚園があり…そこの事務所で西光寺の特別御城印と御朱印をいただけたのはツイていた

御朱印は西光寺のみ(500円)or西光寺・勝家(2ページにまたがる)(1000円)の2種類…せっかくここまで来たので出費は惜しまない…後者を選んだ私

帰り際に…勝家の墓にもう一度手を合わせた際…幼稚園から出てきた女の子に「なにやってるの?」と聞かれる。私はこう答えた…「墓参り…せっかくここまで来たから思い残す事無いよう十分に…🙏」と

見ず知らずの人に「なにやってるの?」と話しかけること…大人になるとなかなかできなくなると思う。子供って純粋でいいなあ😊

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カズサン

夏草茂る真壁城-2/3 虎口編 (2025/06/07 訪問)

 夏草茂る真壁城-1/3 濠・壕・堀編の続です。

 9年振りのチョイ寄り散策探訪でしたがしっかりと1時間超の経過、真壁城本丸跡に在る体育館駐車場から、本丸虎口土橋を渡り二の丸へ、二の丸高台より筑波山山麓に広がり、夏草が茂った真壁城東方面が雄大に俯瞰できます、素晴らしい景観です、二の丸跡南側に二の丸東虎口跡、ここは元からの残りかも、中城に進み南西虎口、櫓台、土塁、Ⅲの堀に木橋が架かる、土塁、木橋、濠、虎口と復元されている、中城に戻り南東虎口へ、遊歩道から外曲輪南虎口へ、土塁、虎口、Ⅳの堀が復元されている、戻って遊歩道を伝い外曲輪鹿島神社へ、鳥居を潜って参拝、鹿島神社の北東に外曲輪東虎口があり左右に外曲輪Ⅳの堀、壕が広く甦っていた、よく復元されて居ますが夏草に覆われていますが良く分かります。少し戻って外曲輪北虎口へ、虎口と土塁、Ⅳの堀も確認、夏草の葦の間を歩いていると、既に夏気分、此処三日、太陽に当たり腕は赤くなって日焼けがひどい。帰って来てから腕の皮が剥けました久しぶりの経験でした。

 夏草茂る真壁城-3/3 曲輪編に続く。
 

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イオ

武家地屋敷跡めぐり (2025/03/08 訪問)

(続き)

聚楽第の周囲には豊臣政権有力諸侯の屋敷が配されていました。もちろん往時の屋敷は残っていませんが、屋敷跡に石碑や説明板が立てられていたり、福島町(福島正則屋敷跡)や左馬松町(加藤左馬助嘉明屋敷跡)など、町名に痕跡が残っていたりするようなので、可能な限りめぐってみました。

木村長門守重成公旧舘地(京都市上京区長門町)
聚楽第南西部の弘誓寺が木村重成の屋敷跡で、山門外側左手に石碑が立てられています。また重成の官職名が町名に残っています。

豊臣秀勝邸跡伝承地(京都市上京区弁天町)
西部の土屋町通沿いの小さな祠の前に石碑と説明板が立てられています。この豊臣秀勝は秀吉の姉の子で浅井三姉妹・江の再婚相手の秀勝です。

上杉景勝屋敷跡(京都市上京区弾正町)
上杉景勝・直江兼続屋敷跡推定地(京都市上京区長尾町・直家町)
上杉景勝屋敷の比定地は2か所あり、有力なのは北東部の一条戻橋西入ルの弾正町(景勝の官職・弾正小弼にちなむ)ですが、南東部の毛利輝元屋敷(森中町)に東接していたとされることから長尾町(上杉氏の旧氏にちなむ)とする説もあるようで、それぞれの比定地に石碑と説明パネルが設けられています。また、長尾町説では南接する直家町に直江兼続屋敷があったと推定しています。直家町は宇喜多直家屋敷跡とも云われますが、直家は聚楽第築城のずっと前に亡くなっていますし、江戸初期まで直家町は「なおい」町と呼ばれていたらしく、「なおえ」が転じて「なおいえ」と伝わったとしても不思議はないかな、とも。

黒田如水邸趾(京都市上京区如水町)
北東部の一条通沿いに石碑が立てられています。また法名の如水が町名に残っています。

加藤清正邸跡伝承地(京都市上京区主計町)
東部の一条通沿いに石碑と説明板が立てられています。また加藤清正の官職名(主計頭)が町名に残っています。石碑は六角柱になっていて、正面の「加藤清正邸跡伝承地」の右面には「応仁の乱 洛中合戦勃発地」、左面には「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」、その左面には「筑前福岡黒田屋敷跡」と記されており、平安期以降の千年もの間、この地が様々な歴史の中心地だったことがよくわかります。

千利休居士聚楽屋敷趾(京都市上京区晴明町)
北東部の晴明神社が千利休の屋敷跡であり最期の地でもあります。四神門の南脇に石碑が立てられていました。また境内の晴明井は、利休が秀吉にふるまったり最後の茶を点てるのに用いた名水と伝わります。晴明神社もいつか行ってみたいと思っていたので、あわせて参拝しました。

この日の武家地屋敷跡めぐりはこんなところで。徳川家康邸跡を見落としてしまったのは悔やまれますが、その辺はまたの機会に。町名に名残を残すのみの屋敷跡はまだまだあるでしょうけど、考えてみれば、わずか8年しか存在しなかった城の屋敷跡が400年以上も後までその名を残し続けているわけですから、聚楽第が往時の京の人々にどれほど強烈なインパクトを与えたかを考えさせられました。


> しんちゃんさん

城めぐアプリの合戦イベントはお察しのとおり前田軍でした。特に前田利家が好きなわけでも、佐々成政が嫌いなわけでもありませんが、金龍紀行とかやってる身としては羽柴方の前田軍だよなぁ…ということで。ただ、そういう消極的な理由で参戦したのではあまり必死になれないんですよね。軍功もそこそこ止まりでした。
 

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赤い城

足守陣屋 岡山県岡山市 (2025/06/08 訪問)

城びと未登録の陣屋です。
観光用の駐車場があり、街並みも雰囲気があります。
駐車場から侍屋敷を見ながら陣屋通りを歩くと突き当たりに陣屋跡があります。
三方を水堀が囲み、内側は公園になっています。
隣接する近水園の池には水草が浮かび、桜や紅葉の季節には賑わいそうです。

足守藩の木下家の拠点ですが、戦国時代には備中高松城攻めの前哨戦の舞台になりました。
すぐ裏手には境目七城の宮地山城があります。
ここも未登録ですが遺構が良好とのことなので冬になったら登城しようかな。

【見どころ】
 ・陣屋を囲む水堀
 ・隣接する庭園、近水園
 ・足守の街並み

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:野間山城 (2025/05/26 訪問)

小谷城から車で30分くらいで、橋付近駐車空スペース(35.012913、134.896955)に駐車する予定でしたが、塞がれて駐車できませんでした。
しかたないので、登り口/案内板付近(35.012769、134.897707)の空スペースに駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1362年(正平17年・貞治元年)在田重友によって築かれたとされています。
在田氏は赤松範資の次男朝範を祖とする赤松一族とされます。
享禄年間(1528年~1532年)在田村長のとき、浦上村宗によって攻められ落城しましたが、村宗は1531年(享禄4年)に大坂の天王寺で討死したため、在田氏が野間城を回復しました。
宗晴の代の1575年(天正3年)には但馬八木城主・別所重棟によって攻められ落城しました。

要所要所にある石垣が実にすばらしいですが、郭間が登り下りがほんとしんどかったです。
また、途中に堀切もありました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=光竜寺山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:小谷城 (2025/05/26 訪問)

山下城からの車の時間は、途中まで中道子山城を目指していた為、不明です。小谷区公民館駐車場(34.941913、134.829007)に着きました。
そこから、遊歩道入口(34.943103、134.830584)に向かいました。


築城年代は定かではないようですが、赤松義則の養子で赤松満祐の義弟にあたる上原民部大輔祐政によって築かれたといわれています。
赤松則繁の善防山城とともに、1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱でで落城したようです。
天文年間(1532年〜1555年)には赤松刑部少輔祐尚が城主でしたが、1542年(天文11年)尼子氏との戦いで討死したようです。
戦国時代には宇野氏が居城していた伝わっているようです。

小ぶりながら、横堀、堀切、竪堀が重なり合ってとても見応えがあります。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=野間山城へ向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:山下城 (2025/05/26 訪問)

志方城から車で25分くらいで、常行院駐車場(34.903303、134.800111)に着きました。
計画では、志方城から中道子山城➡山下城の順番で攻城する予定でしたが、間違って山下城のGPS座標を入れてしまい、こちらを先に攻城しました。(着いてからきづきました)
常行院駐車場➡案内板前(34.903187、134.800619)を通り、入口付近(34.901716、134.800266)に向かいました。


築城年代は定かではないようですが、城主は浦上久松でした。
浦上氏は主家・赤松氏をしのぐほどの権力を誇ったといわれており、戦国時代には三木城の別所氏に味方しました。
1566年(永禄9年)頃に別所氏の兵站拠点基地として改修されましたが、三木合戦の際に織田氏の軍勢に攻撃され落城したそうです。

現在は整備されて遊歩道が設置されており、本丸跡には東屋が設置されています。
登城口の大堀切はすごかった。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=小谷城へ向かいました。
攻城の順番を間違えたので、この後、中道子山城に向かいましたが、手前の道で工事関係者に通行止めを知らされました。
遠回りすれば、中道子山城に行けると云われましたが、時間も押していたので攻城を断念しました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:志方城(城びと登録城の攻城=1500城目) (2025/05/26 訪問)

加古川駅でレンタカーを借り、車で20分くらいで観音寺駐車場(35.817728、134.821843)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、室町時代に櫛橋氏によって築かれたと云われていて、黒田官兵衛の妻・光(てる)が生まれたお城です。
櫛橋氏は藤原氏の末裔で櫛橋伊朝を祖とし代々赤松氏の家臣であったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)に別所氏と結んで羽柴秀吉に対抗しましたが敗れて落城したようです。
落城後の1587年(天正15年)宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために観音寺を建立したそうです。

黒田官兵衛の妻「光(てる)」のふるさとと案内板に書かれていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=山下城へ向かいました。
ちなみに、城びと登録城の攻城=1500城目は志方城でした。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:神吉城 (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
宝殿駅から徒歩30分くらいで、常楽寺南側駐車場(34.794493、134.829361)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、赤松則村の子孫の赤松範次によって築かれた城で、範次の子である元頼が神吉氏を称すると以後代々、神吉氏の居城となりました。
神吉頼定が城主の1578年(天正6年)に「三木合戦」が起こると、頼定は同じ赤松氏一族の別所氏に味方したため、織田信忠・明智光秀・佐久間信盛・荒木村重ら約3万人で攻められ落城しました。

自分は徒歩で攻城しましたが、周辺道路はすごく狭いので、車で攻城する人はとても注意が必要です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=志方城へ向かう前にホテルに戻って朝食を取る為、神吉バス停からバスで加古川駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:加古川城 (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)から徒歩15分くらいで、称名寺入口付近(34.768278、134.8310973)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に加須屋氏(糟谷)によって築かれたと云われて、播磨守護代である糟屋氏代々の居城でした。
糟谷氏は相模国大住郡糟屋荘発祥で藤原氏の末裔のようで、1184年(寿永3年・元暦元年)源頼朝に属して平氏討伐に功を挙げた有李が、播磨国印東郡南条郷を得たことに始まるそうです。
加古川城は播磨守護代である糟屋氏代々の居城で、「賤ヶ岳七本槍」に数えられた糟谷武則の居城でした
1577年(天正5年)には羽柴秀吉を中心に毛利氏討伐の軍議がこの城で開かれました(加古川評定)。
このとき三木城主・別所長治の代理で出席した別所吉親が秀吉と不仲となり、三木合戦の原因となったそうです。
この三木城合戦で糟谷氏は別所方と羽柴方に別れて、羽柴方についた糟谷武則は後の賤ヶ岳合戦で七本槍の一人と数えられ、加古川城を居城として35,000石を領したが、関ヶ原合戦で西軍に属したため改易となりまし。

現在城址は称名寺の境内となっているようですが、朝早い為、山門は閉まってました。。
山門の屋根に高砂神社でも見た屋根に鬼がいました。それと山門前の砂地になぜ瓦の破片があるか謎です?
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=神吉城に行く為、加古川駅から電車で宝殿駅に向かいました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市) (2025/05/26 訪問)

宿泊先のホテルの朝食前に、石弾城(城びと未登録 兵庫県加古川市)➡加古川城➡神吉城を攻城しました。
ホテルから徒歩25分くらいで、泊神社入口付近(34.763807、134.823941)に着きました。

1339年(暦応2年)大井三樹伊予守宰によって築かれたと云われ、 1339年(暦応2年)雁南荘地頭職を得て築き居城としたのがはじまりとされるようです。
その後、播磨守護・赤松氏に従って伊予守の孫である木村源五郎が城主の1459年(長禄3年)山名宗全によって攻められ落城しました。

石弾城は泊神社一帯に築かれていました。遺構はないようですが、境内に標柱と案内板が設置されています。
なお、泊神社は宮本武蔵の養子伊織が小倉藩家老となった後に、武蔵の供養の意を込み寄進して全社殿一式を再建し、宮本家の氏神となったそうです。
神社は能舞台もある立派な神社となってます。
後で写真を確認したらピンボケ写真ばかりで、ほとんど使い物になりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=加古川城に徒歩で向かいました。

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天守無しがアツい

柴田神社(北庄城) (2025/06/23 訪問)

柴田神社を参拝
ここには福井城の前身である北庄城があった🏯

賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に敗れた勝家は…ここ北庄城に逃げ帰るも…秀吉軍は足羽山に陣を敷き…やがてこの辺りも包囲される

勝家は妻お市(信長の妹で浅井長政亡き後は未亡人だった)に娘三人を連れて逃げるよう告げるも…ここで運命を共にしたお市(秀吉の慰み物になるのを嫌がった説もある)

その際、九層あり…安土城よりも大規模と評されていた城には火が放たれて…全壊🏯🔥

現在ここには亡くなった者たちの魂を弔う神社があるのみ⛩️(石垣も僅かに)

資料館に遺留品こそ展示されてるものの…城の全容は謎に包まれてると言えよう

(参考サイト)
https://www.fuku-e.com/spot/detail_1057.html

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しんちゃん

堀江城の支城だと思われる。 (2025/04/12 訪問)

上梅沢館は堀江城を拠点とする土肥氏によって築かれたとされ、後に佐々成政と戦った土肥政繁(弓庄城)とは系譜が分かれるようです。
越中土肥氏は土肥実平を祖とし鎌倉時代に地頭として堀江荘に入り、在地領主化を遂げ、勢力を伸ばしたとされています。
戦国期に土肥氏は堀江城の他に稲村・郷柿沢・弓庄・茗荷谷山などの城を築き、弓庄城の土肥氏は庶流に当たるようです。本城の堀江城は永禄12年(1569)ごろに上杉謙信に攻められ落城しており、上梅沢館も同時期に落城したのでしょうか。

光明寺一帯が館跡とされ、土塁が残っています。周囲は田畑で立山連峰が良く見えます。

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you

第26回日本城郭検定に向けて

試験まで1週間を切りましたが、


対策が間に合わず焦っています。
1年前に3級&2級を併願し、無事合格して燃え尽きていたのですが、
3ヶ月ほど前から急ピッチで準1級の勉強を進めています。
はっきり言って自信ないですし、また今回のテーマが「普請・作事」と
これまであまり触れてこなかった苦手な分野ですと。
今回は対策講座も受講して、気合は入っているけど手ごたえもなく。
次のチャンスが約半年後って考えるだけで気が滅入りますね、、

さて本題。これまで城郭検定のほかにいくつか検定に挑戦しましたが、
私は試験対策として、模擬試験や予想問題を自分で作ることをよくやっています。
作問者の立場に立つとかいう尤もらしい理由も無くはないですけど、単純に楽しいんですよね。

この試験に関して言えば、基本的に本やネット記事で新しく得た知識をそのまま問題にします。
写真問題は、実際に足を運んで現地で撮影したものをピックアップして問題に落とし込んでいます。
本番宛らの問題を作るとなると100個ネタが要るので、時間がかかり効率は悪いかもしれませんが、
作った後で過去問を見てみると、同じような問題が違った表現で実際に出題されていたりもするので
予想を的中できた時に似た喜びがあるのと、本や記事を読んで着実に力がついていることを実感できます。

去年も試験勉強中に時間をかけて3~2級レベルの模擬問題を100問作りました。
(併願でしたが、さすがに3級と2級別々で作る時間はなかったです、、)
主観ですが、本番よりも難易度を上げているので2級よりも難しい問題がいくつもあります^ ^

今回は言わずもがな準1級相当の問題を練っていますが、
この投稿を書いている時点で半分しかできておらず、ほぼ確定で当日までに間に合いません、、
残りの時間は本を読み返したり、寝ながらでも過去問解けるように仕上げるくらいしかありませんね。
過去問からの出題が多いことを只管に願っていますが、直近のものがないのでなかなか苦しい( ̄ー ̄)
現地に足を運んで(ry とかしている時間もなく、ここ最近は行く先々で展示を観ているときも
側にある説明文に目をやってしまうと、ここが試験で問われそうだなぁ
とか考えてしまって、ゆっくり楽しめていません。

この投稿を読まれている方の中には、難なく1級に合格された方が多くいらっしゃると思います。
準1級をもって漸く1級に挑戦できますが、今回受かったら私は今度こそ燃え尽き、灰燼に帰すでしょう。

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ぴーかる

黒石城 (2025/04/28 訪問)

【黒石城】
<駐車場他>城跡内に駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>3泊4日東北さくらまつり旅3日目6城目。黒石城は陣屋跡で1656年に津軽藩から分知(交代寄合旗本5千石)した津軽信英によって築かれました。1809年に加増、1万石となり大名、黒石藩として立藩します。明治維新で弘前県に合併吸収されました。
 陣屋跡の主要部は現在黒石市のセンターになっていて、城跡碑のある御幸公園は馬場跡だそうです。南側にある浅瀬石川の河岸段丘に築かれていたようで、南側に対して少し比高があります。馬場跡の南側に堀と堡塁が残り、堀跡に桜が植えられ満開でした。

<満足度>◆◇◇

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天守無しがアツい

福井城の水堀 (2025/06/23 訪問)

城の水堀を何枚か撮影

県庁の入口から本丸に入る

100名城スタンプは県庁1階

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しんちゃん

「doda(デューダ)」 (2025/04/12 訪問)

郷柿沢館は室町時代に中新川一帯を領した土肥氏の一族の館であったとされています。土肥政繁が佐々成政に敗れた際に館の主・弥三五朗は出陣することなく帰農しました。石山合戦の後、松倉城主の子孫・椎名兵部を招いて西養寺を開山し、今に至るようです。
館跡は西養寺となり、周囲に水堀や土塁が残ります。

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