(26人目)井伊直政の続き㉗です。
ここからは、直政がどのようにして島津を追い、そしていったいどこで狙撃されたのか? 島津の退き口は、以前「島津義弘」と「島津豊久」の逃げる側の視点で追って行きました。今度は「井伊直政」の追う側の視点で追って行きたいと思います。まず(家康陣→烏頭坂→琳光寺)です。
戦の大勢がほぼ決まり、気がつくと東軍に囲まれた島津隊ですが、島津義弘と島津豊久は逃げるのではなく、ここで何と家康の首めがけ一直線に徳川家康陣に攻め込みました。そしてあと一歩、家康の首まで50mの所まで迫った義弘ですが、もはやこれまでと井伊直政の前を猛スピードで素通りし伊勢街道の方向へ逃げ去ります。
この時、島津義弘家臣の「川上四郎兵衛」は、大胆にも家康の御前まで行き、こう奏上したそうです。
本来は東軍に加わるべきところ、
伏見城にて鳥居元忠に拒否されたため、
やむなく西軍に加わり申した。
関ケ原で家康様と戦う意思は
全く御座りませぬ。
後で薩摩の当主「義久」より
詫び状を送ります由、
ここは何卒、何卒お許し下され~!
と伝え、義弘の後を追って行きました(この川上四郎兵衛という男、この後も登場しますので名前を憶えておいて下さい)。目の前を猛スピードで横切る島津の軍勢を見た井伊直政と本多忠勝は、
待て~! 逃がすものか~!
とこれを追います。そして烏頭坂へ差しかかった時、ここで島津豊久は義弘に向かい、
島津家の存亡は、
義弘公の一身にかかっておりまする!
必ずや落ち延びて下され~!
と叫び、義弘を逃がすべく何と盾となり、島津究極の戦法「捨て奸(すてがまり)」を敢行します。しかし追う直政と忠勝は、ここで豊久には致命的な重傷を与えましたが、義弘・豊久を共に逃がしてしまいました。また忠勝は愛馬を撃たれ、ここで追うのを諦めてしまいます。しかし直政は諦めず、さらに追い続けます!
次に牧田の琳光寺まで追った所で、今度は義弘の家老「長寿院盛淳」が、義弘の陣羽織を身に着け
我こそは島津義弘なり~!
と叫び二度目の捨て奸を敢行します。そして壮絶な討死を遂げました。これによりかなりの時間をかせがれてしまい、直政は義弘を見失ってしまいました。この二度の恐れを知らぬ島津の捨て奸に、直政軍もかなりの死傷者を出したようです。しかし直政はまだまだ諦めません。思えばこの判断とここからの深追いが、命取りになったのやもしれません。
次は引き続き、直政を追って(勝地峠)へと向かいます。
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