後藤又兵衛基次は豊臣方の武将として大阪夏の陣・小松山の合戦にて討死しました。基次夫人は遺髪を持って、二歳の子為勝を連れ岡山の実家に戻りました。寛永9年に岡山城主池田光仲公が因伯二州(鳥取県)に転封となり、城代家老・荒尾氏菩提寺の景福寺も鳥取に移転しました。後藤一族も鳥取に移り、後藤家は当寺を菩提所とし、又兵衛の遺髪が納められ墓が立てられました。
他にも後藤家9代までの墓があるようです。
境内には挽臼のエピソードで知られる剣豪・羽生郷右衛門の墓や島原の乱で討死した佐分利九之丞の墓が有ります。島原の乱の際には鳥取藩から88名が出陣し、九之丞は寛永15年2月27日に戦死しました。享年61歳だったとのこと。古戦場原城跡の本丸付近にも九之丞の墓標があるようです。
この投稿での基次夫人は後妻にあたり三浦四兵衛の娘にあたるようです。基次には他にも多くの子がいましたが基則(次男?)は父に連座する形で切腹を命じられ、五男の基芳は加藤嘉明の庇護下に置かれ、のちに近衛信尋の侍医になったようです。
+ 続きを読む