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カズサン

【伊予 川之江陣屋】愛媛県四国中央市 日本唯一の陣屋二階表門が見所 (2025/05/14 訪問)

 8年前に仏殿城(川之江城)模擬天守を訪ねた折り、一柳氏の陣屋跡が在ったと認識はしていたのですが、詳細地盤を把握して居なく見逃しておりました。今回家内の要望で祖谷のかずら橋観光見学を終えて、愛媛県四国中央市へ移動して、川之江陣屋跡(一柳直家公陣屋跡)と移築された陣屋二階表門を探訪観察する事が出来ました。
 陣屋跡住所:愛媛県四国中央市川之江町1889
 同上駐車場:走行車両も少なく石碑前の銀行空スペースに路駐(34°00'43"N 133°34'25"E h=10m)、(約40m西に駐車場有り有無料不明)

 川之江陣屋の石碑と案内石盤は栄町集会所の西手前に設置されています、南前には愛媛銀行川之江支店川之江町出張所があります。
 石碑は一柳直家公陣家跡と刻まれいます、案内石盤は一柳直家公陣屋跡と刻まれて解説文も刻まれています。約1万坪の広さが在った様です。一柳直家が病亡寛永19年(1642年)した後、養子届出遅れで一柳直次は28,000石を10,000石に減らされて播州小野に移封、以後は幕府直轄領へ。現在は商店街として栄えている?

 移築陣屋二階表門住所:愛媛県四国中央市川之江町2567(川之江八幡神社内南東隅)
 同上駐車場:神社の西に未舗装駐車場余裕の広さ、神社境内南に参拝者駐車場も有る。

 川之江八幡神社の南東の一隅に二階表門が移築されて居ります、裏の楠の大木が表門を覆っている様です、陣屋表門で二階建てが残って居るのはここの一柳陣屋(川之江陣屋)が日本で唯一の現存建物だそうです。
 認識してから8年経って現物を見学する事が出来ました、大切に残していきたい建造物文化財です。
 また、川之江八幡神社の山門には算額が多数掲げられていました、川之江は交通商業の要所で商人が栄えて和算が多く振興していたのでしょう、流石伊予、土佐、阿波、讃岐が縦横に結ばれた要所を窺わされます。
  

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じゅんじん

雪の中 (2024/12/21 訪問)

近江神社から上がりました。途中で宇佐八幡神社で先勝祈願。石垣に感動です。そして琵琶湖・・・見えませんでした。
下山したら快晴・・・

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yozomin

犬山城 (2025/05/10 訪問)

お伊勢参り前の城🏯巡り

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しんちゃん

黒田長清 (2025/05/04 訪問)

直方陣屋は直方氏体育館から北の多賀公園一帯にかけて築かれており、丘地の先端に築かれていて東側より高地になっています。、東蓮寺四代藩主(後の直方藩)・黒田長清の居館跡とされています。元禄5年(1691)長清が5万石に加増されたのを機に、平地にあった東蓮寺陣屋を廃して、現在の御館山周辺に陣屋を築いたとされています。
当地にあった「妙見社」を北側に移して多賀神社とし、北の守りと城下の鎮守としました。城の規模は一辺53間半(約91m)の方形で周囲に築地塀を巡らし、南に門を配置しました。西側には溜池を配し、南から東にかけて水路を巡らし、堀として活用したようです。櫓は無く、石垣もあったようです。公園と神社の間は堀切のようになっていて橋が架かっています。

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翡翠

丸岡城 (2025/05/02 訪問)

丸岡城に行って来ました。今年の12月から天守閣を大規模修理をするみたいで、足場で囲われる前に見れて良かったです。お城の中の階段の角度とか、凄く良かったです。入城券だけでも、テンションが上がりました。記念になりました。

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しんちゃん

岩沼要害 (2025/01/01 訪問)

鵜ヶ崎城は仙台藩の要害の一つです。古くは武隈館と呼ばれていたようですが、詳細は不明。永禄年間には伊達氏の家臣・泉田安芸守重光が城主を務め、江戸時代も要害として維持されました。南東の岩沼駅が本丸のようですが遺構は残っていない様子。かろうじて鵜ヶ崎公園が、かつての要害の雰囲気を残しているようです。夕方遅めの訪問だったので、写真がチト暗いです。

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しんちゃん

続百名城に近い城郭でも「要害」扱い (2025/01/01 訪問)

金山城は仙台藩の要害の一つです。標高117mの山地を利用して築かれており、永禄年間に相馬氏の家臣、戸川将監・藤川紀伊によって築かれたとされています。天正4年(1576)に伊達氏と相馬氏の間で争いが有り、天正12年に伊達氏の城となりました。
伊達政宗は戦で功績のあった中島宗求に金山城と金山本郷・大内・伊手の三邑(三村)2千石を与え、天正16年には相馬氏に備えさらに強固な城に改修を施したそうです。
江戸時代も要害として維持されていましたが、これは立派な山城です。遺構も続百名城に近い規模の物が残されていて、広い山頂の本丸に立派な屋敷が築かれていたようです。これは仙台藩が良い度胸をしているのか、江戸幕府が思ったよりたいがいなのか。

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しんちゃん

角田要害 (2025/01/01 訪問)

角田城は仙台藩の要害の一つで永禄年間に伊達氏の庶流・田手宗光によって築かれたとされています。天正19年(1591)に伊達成実が居城し、慶長3年(1598)に伊達氏の一門・石川照光が1万石で入り、後に2万1380石まで加増されています。
背後を山や谷地で守られ、かつては沼も有ったようです。現在は角田高等学校・中学校の敷地となり、周囲を巡る側溝は堀の名残のようです。近くの角田郷土資料館の薬医門らしき門は角田城の城門を移築したものと伝わります。肝心の城址ですが、元日だったので。
というか、入れるんでしょうか? この城址は。

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yozomin

石垣山一夜城 (2025/04/27 訪問)

キャンプ帰りに寄った一夜城

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yozomin

桜と小田原城 (2024/04/07 訪問)

学生時代の友人とお花見兼城拝観

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yozomin

忍城 (2022/09/22 訪問)

バイクツーリングでお城巡り

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todo94

ゴールデンウイーク前半・陸前の城めぐり㉑ (2025/04/28 訪問)

利府城からの転戦です。2025年4月25日(金)にオープンした多賀城ガイダンス施設は、カレンダー通りでない貴重な平日休みに訪れたいと思っていました。土日よりは観光客は少なかったはずですが、駐車場はほぼ埋まっていましたし、若い方も結構訪れていました。先ずはガイダンス施設にて映像を視聴します。プロジェクターではない巨大液晶パネルが使われていて、素晴らしく美しい映像を楽しむことができました。内容も高橋克彦著「風の陣」のクライマックス、及び、「火怨」の冒頭で描かれた呰麻呂の乱での炎上や貞観地震の被災と再建にも触れられていてとても良かったです。再建された外郭南門はなかなか観光客が途切れず、シャッターチャンスがすぐには訪れませんでした。そして門をくぐったその先には、2024年に国宝に指定されたばかりの多賀城碑が鎮座しているのでありました。南大路は黄土色の舗装が施されていて見た目が一変していました。南大路の脇には排水暗渠の説明板がありました。

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Tokyobay

堀の外側からは確認し難い天守 (2025/03/09 訪問)

堀の外側を散歩しながら、天守がどう見えるかを確認。これが結構難しい。「小田原城天守閣の高さは、全国の現存天守の中で7番目に高いです。また、東日本で一番高い天守閣として知られています」とのことだが、堀からの距離があるせいなのか、どこにあるのかは分かり難い。ある意味、防御性が高いと言えるのかもしれないが。

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翡翠

島原城 (2025/05/16 訪問)

とても綺麗なお城でした。周りも歩きましたが、結構広いです。石垣も良かったです。

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翡翠

初富山です (2025/05/01 訪問)

富山城まで今回は行く事が出来ないと思ってたのですが、なんとか行く事が出来ました。石垣も良かったです。

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翡翠

6年ぶりの金沢です (2025/05/01 訪問)

前回は仕事で行きました。時間が無くて見れなかった所を今回は見ることが出来て良かったです。二の丸御殿の発掘調査の場所も見れて良かったです。鼠多門と鼠多門橋の復元されたのも、お勧めで、とても良かったです。3枚ほど6年前の写真を追加しました。

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しんちゃん

亘理要害 (2025/01/01 訪問)

亘理城は亘理氏によって築かれたとされ、天正19年(1591)亘理氏が涌谷に移封になった後は、片倉小十郎景綱が入りました。慶長7年(1602)に片倉氏が白石城に移った後は伊達成実が入り、要害としての改修を行い城下町の整備も行っています。
亘理神社のある丘地に本丸が置かれ、西に馬場と称される郭が配され、土塁も残っています。かつては北西に大沼があったようで、堀の役割も担っていたようです。東の平地には二の丸が配され、周囲を濠(水堀)で守っていたようです。本丸の周囲も濠で守られていたので二重の堀があったことになります。

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しんちゃん

天文の乱で敗れた伊達稙宗の隠居城 (2025/01/01 訪問)

丸森城は天文の乱(1542~1548年)で子の晴宗に敗れた伊達稙宗が隠居の地とした城です。稙宗の死後は稙宗と関係の深かった相馬氏が城を継承しますが、稙宗の隠居領を奪還しようとする孫の輝宗と争いになりました。長い争いの後、天正11年(1583)丸森城は伊達氏に奪還されます。
城址近くまで車道が通じています。愛宕神社のある郭か、その東の大きな郭が本丸と見られます。愛宕神社東側には大きな堀切があり、周囲には岩が転がっています。西手に下って行くと途中に絵が彫られた岩がありました。後世に掘られた物でしょうか。複数の郭や堀切が有りますが、土塁などの遺構は見当たりませんでした。

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小城小次郎

もう少し活用できそうな気がする (2024/10/12 訪問)

豊岡城には杉原氏が、豊岡陣屋には京極氏がそれぞれ豊岡藩主として在住しておりほぼほぼ江戸時代を通じて城下町として栄えた豊岡だが町の中心にある城跡は改変が多くてお城らしさを感じにくいのがちょっと勿体ないか。

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小城小次郎

豊岡との越境大合併を経て京都に還った久美浜 (2024/10/12 訪問)

久美浜代官所の別名の通り天領支配の代官陣屋で明治に久美浜県庁が置かれた場所でもある。久美浜県は丹後国だが明治4年の馬国の豊岡県との越境合併を経て京都府との合併を再選択し、現在は京丹後市となっている。

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