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カズサン

雲仙普賢岳絶景の深江城 (2025/10/27 訪問)

 雲仙市山田城、島原市東空閑城を終えて島原半島未踏城廻り第4弾は東空閑城に次いで南島原市の深江城へ、東空閑城から有明海側島原半島を国道251号線を島原方向へ途中島原城を横目でチラッと見て約18km程南下して須ノ崎交差点を山手北側へ県道133号線を進行約600m程の所左手に、深江城跡石碑と説明板が有る。

 駐車場:無し、石碑、説明板手前の幅広路側帯に路駐。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 眼前北西山手は雲仙普賢岳の雄姿が迫って来る絶景の地、火山積層の地に浸食された先端に立地してる模様、石碑の位置がグーグルマップ史跡深江城跡に当たる、城郭放浪記さんの史跡位置は石碑の西約150m程の民家辺りのポイントを指している、出丸と言われてる熊野神社は石碑より通りを下って50m程、熊野神社を訪ねて、段丘より降りて城郭放浪記さんの深江城本丸?ポイントを訪ねてみる、畑やビニールハウス、民家石垣と成っており遺構は良く分からない、民家側石垣段を登って辺りの様子を見ながら西より石碑位置に帰るが遺構らしきものは見当たらない。

 歴史は
 深江城は南島原市深江町一帯を治めていた安富氏の居城、鎌倉時代に地頭に着任。
 南北朝統一後も島原半島豪族は探題方と宮方に分かれて対立していた、安富氏は探題方に属し、有馬氏とも対立していたが、やがて強大な勢力に成った有馬氏に服属。
 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは、安富氏は有馬氏を離れ龍造寺氏に味方したため、深江城は有馬・島津軍に包囲され、籠城戦になりました。籠城中、沖田畷で龍造寺隆信が戦死すると、安富氏は城を脱出し、現在の佐賀市水ヶ江町に去って行きました。(説明板一部抜粋)

 雲仙普賢岳麓にある風光明媚な景勝の地に石碑がひっそりと佇んでいます、有明海も見下ろせゆったりとした心地よい場所でした。

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にのまる

カズさんへ。

朝田さんからバトンを受けておめでとうクイズです!
愛知県制覇されたということで、愛知県問題です。
下の写真は今年の夏に愛知県を訪れた時に私が某駅で食べたものです。どこの駅でしょう⁉︎

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赤い城

かるた読み札♪

遅くなりましたが赤色立体地図かるた、読み札拝見しました😊
2つも選んでいただきありがとうございました✨
皆さんの真面目な作品の中申し訳ない感じです。

また、朝田さん、にのまるさんよりお褒めいただき嬉しく思います。
でもこれ、お二人のお陰でひらめいたものでもあります。
新高山城はにのまるさんのレポートのオマージュ、2つセットにしたのは朝田さんの「たかとりじょう」の作品をヒントにしました。
せっかく選んで頂いたので12月にセットでの登城を考えています。

今年も横浜には行けませんが大会が(あれば)盛り上がることをお祈りします。

本当は前回との連作で小田原城の選出を予想してました・・・

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増尾城址公園 (2025/11/22 訪問)

 増尾城址公園として整備されています。高城氏の家臣、平川若狭守が城主だったと伝わっています。土塁、空堀などが残り、楽しく散策できました。

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文京区立柏学園 (2025/11/22 訪問)

 文京区立柏学園の敷地となっていますが、2013年に閉鎖となったため現在は立入禁止です。門の外から土塁を確認することができ、写真を撮って退散しました。

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前ヶ崎城址公園 (2025/11/22 訪問)

 前ヶ崎城址公園として整備されています。主郭周辺だけですが、曲輪、土塁などが残っています。

 柏駅からバスに乗り免許センターバス停下車。目の前が城址公園です。

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匝瑳氏の城 (2025/11/22 訪問)

 平成14~15年度に発掘調査が実施され、平成16年7月1日に柏市指定文化財に指定されていました。曲輪、土塁、空堀等が残り、散策しやすいように整備されています。匝瑳氏が築いたという説が有力のようですが、城のできた時期とともに明確にわかってはいないようです。

 北柏駅より徒歩約15分で行くことができます。

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べっち

佐賀城 (2025/11/22 訪問)

クラブツーリズムのツアーで行った

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べっち

吉野ヶ里 (2025/11/22 訪問)

クラブツーリズムのツアーで行った

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宗春

会社休暇取って福島県の城を攻めて来ました⑤白河小峰城 (2025/11/12 訪問)

スペーシアX・リバティ会津その他を乗り継いで会津若松入りし、レンタカーで福島県の城(会津若松・向羽黒山・二本松・三春・白河小峰)を攻めて来ました。その⑤白河小峰城

白河小峰城は3度目。前回結構じっくり見たので、もう見なくていいやと思ってましたが、清水門の再建工事が行われていました。さすがにカバー(?)で覆われていて中は見えませんでしたが、今しか見られない光景が見られました。
ただ、御城印や百名城カードを販売している二の丸茶屋が【冬季だけ】水曜日定休となっていて、御城印は白河駅の観光案内所で販売していましたが、秋限定の御城印がもう無いとの事でした。無くなるの早すぎだろ(怒)

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朝田 辰兵衛

カズサンさん,大正解です🎉 (2025/08/10 訪問)

「槍」で正解していただけて,安堵しました。
ヒントですが,「槍」でダメなら「守」「綱」で考えておりました。それでもダメなら「どこかに『の』を挿入して続けて読んで」と…<笑>。
いろいろな方が,槍の半蔵や渡辺守綱を語られているので,私からは割愛させていただきます。
この日は,すぐ近くまで線状降水帯が接近しており,このアングル撮影中に土砂降りとなりました。移築門も含めて周辺の散策は断念しました…。

さて,次はにのまるさん,お願いします。もしかして,名護屋城向かってますか…?
私はすでに福祉関連の予定が入っており,名護屋城欠席です。

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トク

(2/2)八代城と松井興長 (2024/11/14 訪問)

八代城の続き(2/2)です。

1632年加藤家改易後は、豊前小倉藩主の「細川忠興」が肥後へ入りますが、その時に家督と熊本城は子の「忠利」に譲り、忠興はこの八代城に入って隠居します。忠興死後は、筆頭家老の「松井興長」が城代として八代城へ入ります。そしてこの頃に、本丸御殿を含めた城全体がほぼ完成したようです。

松井興長と言えば🤔?・・・そうです! あの巌流島で決闘をした宮本武蔵が、小次郎の弟子たちから襲われる所を、鉄砲隊で護衛し自らの領地で匿った・・あの人物です! 興長は忠興の四男立孝を本丸に入れ、自らは忠興が隠居所としていた北ノ丸に入ります。興長死後の北ノ丸は松井神社となり、興長は今もここで祀られているそうです(写真⑥)。

松井神社の西隣には、興長の孫(三代)直之が建てた「松濱軒(松井文庫)」が立派な庭園とともに残されていました(写真①-⑤)。そこには、興長が「小次郎を倒した木刀とはどのような物であったのか?」と問うたので、武蔵は「このような物です」と同じものを自ら削って再現し興長へ渡したと伝わる物や、武蔵が興長に宛てた手紙や、武蔵が書いて送った「戦気」の掛軸など、興長と武蔵の親密な関係を示す資料が展示されていました(撮影は禁止)。

続100名城スタンプは松濱軒の向かいにある「お祭りでんでん館」にありました(写真⑦)。また八代市博物館で復元模型を見たかったのですが、休館中(26年3月まで)で見る事ができず残念でした。

帰りは市役所前から、巡回みなバス(今度は左回り)で新八代駅へ戻りました。帰りのバスまでまだ30分あり、目の前の市役所1階ロビーで八代市が生んだスーパースター「八代亜紀」のギャラリー展があっていたのでちょっと覗いてきました(写真⑧)。それを見たら、晴れているにもかかわらず、帰りのバスの中で「雨雨降れ降れもっと降れ~♪、私のいい人連れてこい~♬」と口ずさんでしまい、隣に座っていたおばあちゃんから笑われてしまいました(😩~)。

今夜は新八代駅前に宿泊し、次は新八代駅から(佐敷城)を目指します。
 

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カズサン

東空閑城はヒガシコガジョウと呼称します (2025/10/27 訪問)

 島原半島未踏城廻り第三弾は山田城に次いで東空閑城へ、雲仙市役所近くの山田城から国道251号線を島原方向へ以前訪ねた神代陣屋前を通り約20km程走行して信号の無い交差点で店仕舞いのパチンコ店の北を西入りし約40m程の所を南へ川を渡って約100m程の所に坂を登って境ノ松公民館が有り西横の公園エリアに駐車可能。私は川辺りが工事用鉄板で覆われて居ましたので手前の店仕舞いパチンコ店西の駐車エリアに一時路駐。

 参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 城跡を訪ねたら丁度夏草葛や小竹に覆われた城跡を3人程で草刈中でした。標柱と説明板を確認撮影し、壕切?確認、少し南側住宅地高台に登って城域を眺める、草刈の人と少し話をして20分程で終了しました。
 グーグルマップの航空写真を見ると国道251号線、島原鉄道に切断されていますが、城域が有明海に突出てる様子が窺えます。
 グーグルマップに史跡マークには「東古閑城説明板」と成って居ます、現地の案内板は「東空閑城跡空壕」です。

 歴史は、東空閑城は有馬氏の家臣古賀越後の居城で古賀城とも言う、城之江川(現在の境の松川)沿いの舌状台地の先端に築かれた戦国時代の平城です。
 天正7年(1579年)に佐賀の龍造寺氏に攻められ古賀越後は城を枕に先史したと言う。
  

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カズサン

朝田辰兵衛さんの投稿城写真クイズの答え (2020/03/17 訪問)

 愛知県(尾張国三河国)城びと登録城郭制覇応援メッセージと朝田辰兵衛さんの投稿城写真クイズの答え。
 昨日のヒント、「槍」でピンときました。

 確かに土塁上に石碑が在りますますが、ほとんどの方は石碑の正面から撮影されます、裏斜めからの撮影は流石の目の付け所。
 該当城郭は槍の半蔵こと尾張徳川付家老渡辺守綱の「寺部城・寺部陣屋」で土塁に残る石碑を写した写真でしょう。
 私の写真、城びと投稿寺部城写真、グーグルマップストリートビューで確認しました。
 令和2年3月17日登城時、寺部城址石碑と石碑の有る土塁全景写真を掲載します。

 ※ 赤い城さん、朝田辰兵衛さん、しんちゃん、にのまるさんへ
   応援メッセージありがとうございました。

   また、今回の「赤色立体地図お城かるた」で北海道勝山館の読み札で選ばれていました、恐れ多い事ですがありがとうございます。

 

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つば九郎

神奈川県の城巡り 村岡城 (2023/03/04 訪問)

車で攻城、近くのコインパーキングを利用しました。玉縄城攻城後、徒歩で20分で移動でした。周りより、若干高台になっており、城感はあります。普通に遊具もある児童公園です。攻城時間は15分でした。

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宗春

会社休暇取って福島県の城を攻めて来ました④三春城 (2025/11/12 訪問)

スペーシアX・リバティ会津その他を乗り継いで会津若松入りし、レンタカーで福島県の城(会津若松・向羽黒山・二本松・三春・白河小峰)を攻めて来ました。その④三春城

ここも二度目で、前回結構しっかり見て回ったのですが、標柱が新設されていて見どころがわかりやすくなっていました。こーゆーの、いいですね。他のお城でももっともっとやってほしいです。

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宗春

会社休暇取って福島県の城を攻めて来ました③二本松城 (2025/11/11 訪問)

スペーシアX・リバティ会津その他を乗り継いで会津若松入りし、レンタカーで福島県の城(会津若松・向羽黒山・二本松・三春・白河小峰)を攻めて来ました。その③二本松城

二本松城も二度目なので新鮮味はなく、しかも前と同じ「二本松菊人形」の期間だったため、三の丸は菊人形展で占拠されていました(有料ゾーン化)(怒)
更に「秋限定御城印」も3年前と同じデザインだったため購入しませんでした。少しは変えればいいのに(怒)

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にのまる

おめでとうクイズわからない🤦など。

カズさん、愛知県制覇おめでとうございます。
クイズ第二弾考え中です。
朝田さんのおめでとうクイズ、ヒントが追加投入されていましたが、わかりません!!きっと私、行っていないです(><)

かるたの読み札、早速みなさんの作品を読ませていただきました。
朝田さんも書かれていましたが、赤い城さんの新高山城&高山城、秀逸すぎる!「そうそうそうそう、城かるたの面白さはこういうところにあるのよ!」ってさっきから感動しています。選定委員の方々もきっとそう思ったにちがいありませんっ!前回の小田原城のかまぼこの句もお気に入りです。
朝田さんの岡豊城、目に浮かぶ元親像。句では像に触れていないのに像が目の前に現れて愉しくてしかたありません!
イオさんの新宮城。地元の方の視点と感覚!外野から眺めているだけでは詠めない句だととても勉強になりました。
勝連城の句のようにすてきに言葉を操れたらいいなと思ったり、飯盛城取るの難しい!って思ったり、早く実物を手にしたいです。赤色立体地図を理解できるようにもならないと!

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しんちゃん

自害ヶ岡(峰) 神谷道一氏 (2025/10/19 訪問)

「赤色立体かるた」の読み札が発表されました。よかった私のも有った。正直、一枚も選ばれていないのではと思っていました。
選んでもらうことを前提に投稿していなかったのですが、良かった。できれば秀吉関係が良かった(ポカッ!)

自害ヶ岡は松尾山の伝小早川秀秋陣の北に位置する丘陵です。「関ヶ原の合戦」より「壬申の乱」の方で有名で、西麓には大友皇子が自害して果てたとされる三本杉がありますが「戸田左門覚書」にはここに石田三成の陣が有ったと記載が有ったはずです。
戸田左門とは大垣城の城主・戸田氏鉄のことで「覚書」は江戸時代に新井白石によって編纂されたらしいので、二次史料に当たります。最近読んだ高橋陽介氏の著書「シン・関ヶ原」にも「戸田左門覚書」の記載がありますが、高橋氏は石田三成の陣を自害ヶ岡とは考えていないようです。
「信長公記」でおなじみの太田牛一が慶長6年ごろに「関ヶ原合戦双紙」を徳川家康に献上しています。いわば徳川家の「お墨付き」で書かれたことになりますか。ネットでも閲覧が可能ですが、書体が昔のままなのでほぼ読めません。
ただ宇喜多秀家が山中の陣から天満山に移動したと書かれているようで、白峰旬氏らの一次史料による説とは内容が異なります。

なんとなくここから歴史がねじ曲がってしまっている予感がしますが「慶長年中卜斎記」を記した家康に仕えた医師・板坂卜斎は関ヶ原のことは太田殿が行うので・・といった発言をしていたらしいので・・
徳川方に都合が良いように忖度した内容に仕上がっている可能性があると思います。事実と異なっていても上様のお墨付きの内容に異論を唱えるのは勇気がいることなので、藤堂高虎などが後年書いた著書でも「鵜呑み」には出来ないと思います。

明治の郷土史家「神谷道一」氏の書いた「関ヶ原合戦図志」では自害ヶ岡の丘陵一帯に西軍の陣が想定されていますが、翌年に陸軍の発表した「日本戦史関原役」の配陣では麓に下されています。日清戦争の前年なので、野戦砲陣地として確保されたのかもしれません。
同様に神谷氏は南宮山の尾根一帯に毛利・吉川の陣を想定していますが、これも陸軍によってはるか南の窮屈なスペースに追いやられてしまっています。当時の陸軍の野戦砲は鋳造の青銅製の前装式ですが西南戦争のころに使われていた大砲より性能は上です。
南宮山上はなだらかな丘陵が続いているので、あらかじめ野戦砲を設置しておけば伊勢街道や東山道を通って東京を目指す敵軍を砲撃することが可能です。
「関ヶ原合戦図志」には大垣城周辺の布陣の記載もありますが「日本戦史関原役」にはありません。時間もなく逼迫していたので砲台陣地だけを確保したかったのかもしれません。
神谷氏は「関ヶ原合戦図志」を作成する際に山鹿素行の「武家事紀」を参考にしていると思います。小和田教授と白峰氏のやりとりで白峰氏は「武家事紀」の誤記を指摘していますが、その箇所は神谷氏が綺麗に修正してあります。
記憶で書いているので詳細を省いて申し訳ないのですが、神谷氏は江戸時代以降に最も真摯に関ヶ原の歴史に向かい合った一人だと思います。
残念ながら「武家事紀」には山中の「ヤ」の字も無いので「関ヶ原合戦図志」が事実と即していない部分もあるとは思いますが、私は敬意を払いたいと思います。
悲しいことに戦後に「日本戦史関原役」の陣形図がそのまま受け継がれている上に、自害ヶ岡の丘陵は東海道新幹線と高速道路によってブチ削られています。ここに西軍の陣地があったかは分かりませんが可能性は有ったと思います。
もんか省も政治家も何を考えているのか分かりません。元々「関ヶ原合戦図志」は岐阜県の依頼で製作された経緯があるので今のままでは神谷氏に顔向けできませんぞ。

「戸田左門覚書」「関ヶ原合戦図志」「関ヶ原合戦双紙」はネットで閲覧・ダウンロードが可能です。
「武家事紀」は老後の楽しみに古~い本を購入して保存してあります。

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朝田 辰兵衛

読み札決定!

ついに「赤色立体地図お城かるた」の読み札が決定しましたネ!
ひとりの当選上限2城と推察しました。50城しかないので妥当だと思います。
前回の小田原城に続き,赤い城さんが楽しいところを射止めましたネ!
上五の句で「新幹線」が来たら要注意です!!!
赤い城さんは,何か受賞するのでは…と思います。
とりあえず,私の所感です。

カズサンさんへ…
コンプおめでとうクイズですが,3連休明けまで待ちたいと思います。
ヒント…槍

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