みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:箕作城 (2024/10/07 訪問)

おーみ満喫パス(20141007)を利用して、今日1日の交通費(近江鉄道/近江鉄道バス/近江鉄道湖国バス)を節約します。(近江鉄道はICカードが使えないので、おーみ満喫パスを使えば改札が楽です)
今日は移動距離が長いので、ホテルでの朝食は抜きで出発しました。
八日市駅停バスから近江鉄道湖国バスを利用して山本バス停に着きました。
そこから徒歩7~8分くらいで、箕作城登城口(35.139660、136.184269)に着きました。
登城口は貴船神社の階段付近(35.1386194、136.1830392)にもありますが、山本バス停からならこちらの方が近いです。(2~3分は違います)

1467年(応仁元年)に起きた応仁の乱で、六角高頼の観音寺城に対抗して、六角政堯が築城したそうですが、築城年は定かではないようです。
1550年(天文19年)頃、六角定頼が改修しています。
1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際に観音寺城とともに落城し以後は廃城となったようです(観音寺城の戦い)。

登城路は手入れが行き届いており、快適ですが、尾根までの階段はきつく、大汗をかきました。
攻城した碑は曇空でしたが、主郭からの眺望はまあまあ良かったです。部分的に石垣(主郭の北西あたり)も残っています。
帰ってから気づきましたが、堀切も石垣の写真も撮っていませんでした。頭に記憶されているだけです。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=佐生日吉城を目指す為、山本バス停から近江鉄道湖国バスで佐生バス停に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:長光寺城 (2024/10/06 訪問)

武佐駅から徒歩20分弱で、日吉神社鳥居付近の案内板(35.107217、136.127668)に着きました。

築城は応仁の乱のさなか、1468年(応仁2年)近江国守護佐々木六角髙頼と対立した佐々木四郎政尭により築城されたとされています。
1570年(元亀元年)南近江に侵攻した織田信長は長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置しました。 六角氏は城を奪還するために攻め寄せ勝家は籠城して耐えます。
意を決した勝家は味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割って討って出ます。瓶割山の名は、これが「瓶割り柴田」の異名となって後世に語られているようです。

登城口の日吉神社の鳥居をくぐり、参道を歩き始めましたが中は真っ暗でした。
暗闇の山城は危険なので攻城は断念して引き上げました。
攻城時間は15分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先に戻る為、武佐駅から八日市駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=23886歩、攻城距離=16.72Kmでした。
(ただし、油日駅➡和田城~滝川西城➡油日駅の間はレンタサイクルを使用しましたので、攻城徒歩/攻城距離は誤差があります)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:高野城 (2024/10/06 訪問)

紅葉橋北バス停から徒歩5分ちょっとで、城址碑説明板前(35.081923、136.307236)に着きました。

築城年代は定かでないようですが、小倉氏によって築かれました。
小倉氏は、小倉城を居城にしていまたが、伊勢に抜ける八風街道を押さえるこの地域に応仁の乱の頃より進出。
山上城を拠点とし、出城の山田城や八尾城を築きました。戦国時代には高野城も本拠としていたそうです。
1568年(永禄11年)に織田信長の側室お鍋の方が、この地に居館を構えていたとも云われていますが、これは信長没後に秀吉から高野近郊で500石の知行を与えられたことによる説ですが、確証はあまり無いようです。  

写真は撮り忘れましたが、西辺に川石を用いた石垣を確認しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長光寺城を目指す為、山上バス停から近江鉄道湖国バス➡近江鉄道を乗り継ぎ、武佐駅へ向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:鯰江城 (2024/10/06 訪問)

八日市駅で東近江市ちょことバスに乗り鯰江バス停に着きました。鯰江バス停のすぐ側に、城址碑説明板前(35.108779、136.241987)があります。

築城年代は定かではないが、六角氏の重臣である鯰江氏によって築かれたようです。
鯰江氏は三井乗定の養子となった六角高久が鯰江氏を名乗ったのが始まりで、戦国時代には観音寺城の佐々木六角氏に仕えていました。
1568年(永禄11年)に観音寺城の戦いで六角氏の居城である観音寺城が落城したため、城主の鯰江貞景は甲賀郡に逃げていた六角義賢・義治父子を迎え入れ、主家復興のため織田信長に抵抗しました。
貞景は鯰江城に空濠の増設・土塁の増強を含む改修を施し、百済寺の僧や一向宗と結び籠城したが、1573年(天正元年)9月、柴田勝家らの軍勢によって落城しました。
鯰江城落城後、鯰江氏は全国へ散り各大名に仕えたが、貞景の子・定春は豊臣秀吉に従い、大阪に鯰江の地名を残しているようです。

石碑、説明板の写真を撮って速攻で撤退しました。
鯰江町住宅案内図を見ましたが、鯰江さん結構いらっしゃいました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高野城を目指す為、中小路バス停から近江鉄道湖国バスを利用して紅葉橋北バス停へ向かいました。
ちなみに鯰江城から中小路バス停までは徒歩で30分ちょっとかかります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

天守無しがアツい

名勝二ノ丸庭園を初見学 (2024/11/02 訪問)

(HP)
https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/guide/teien/

天守は閉館中…本丸御殿は待ち時間20分くらいと少し行列。なので消去法で二ノ丸庭園を今回は見学する事にしました

名古屋城は過去に2回…訪問したことがあり、1回目は天守…2回目は天守と本丸御殿を見学したのですが、後回しにしていたのがここ…庭園。まだ未見学だったので、御城印や100名城以外でも補完対象があったと言えます

東門手前に設置されてる城の地図(1枚目)。その右側中央が二ノ丸庭園になり、入ってすぐ右手にそれは見えます。この日はもう終わってましたが、紅葉シーズンにもしここを訪れたら…赤い葉っぱの生い茂る姿が見れるのではないでしょうか🍁

二ノ丸庭園は東庭園と北庭園から成り、東門から入るとまず東庭園(2枚目)が見えます。中央に石の敷き詰められた窪んだ場所があり…ここにはかつて池があったようです。奥には屋根付きのベンチ…休憩所もありました

北庭園に入ると…まず権現山(3枚目)が見えました🗻 山と言っても標高はわずか6m…この城が形成された江戸時代に人工的に造られた造形物…なのでしょう。工事中なのか立入不可

北園池(4枚目)…「江戸時代の地形が保たれており、深く掘り込まれた池と積み重ねられた護岸の石が…立体的で豪壮な風景を生み出している」と説明書にはありました。ここも立入不可

栄螺山(5枚目)…巻貝のように山を登っていく園路の姿に由来して「さざえやま」と名付けられたそうです🐚 ちなみにこの山の脇道を進んで後ろから見ると…この辺りに山が3つある事が分かりました

どれも江戸時代に人工的に造られた山のようですが、おそらくこれは…日本本土に存在する険しい山まで行かなくても…身近な場所で楽な気分で山を巡れるように、ここの城主が命じて造ったのでしょうね

栄螺山の裏手は大きな池となっており、その左手では石垣が修理中でした。その案内板を見ると…耐震性度を高めるために、まず石垣の石に一個一個番号を書いてから解体(後でまた元の配置に戻せるように)🪨

なるべくそっくりそのままにするために…当時の造りになるべく忠実にしようとはするのですが、当時(江戸時代あたり)の技術だと耐震性などにおいて現代に劣るため、そのままでは再び崩れてしまう危険性がある

そのため、耐震性においては現代の技術を混ぜて改修工事👷 つまり江戸時代の建築技術と現代技術とのハイブリッドでおこなわれてる…と言えるでしょう

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

鎌倉土産「半月」のシルエットは… (2024/09/15 訪問)

住吉城の散策を終え,小坪バス停に戻りました。さらに先へ進むため「鎌40」系統のバスに再び乗り,逗子駅へ。逗子駅で「逗12」系統のバスに乗り換えて,鐙摺バス停下車。進行方向に歩みを進めると,日影茶屋があります。向いの駐車場に旗立山のパネルがあり,登城口があります。
ここからの眺望にも富士山を期待していましたが,たまたま雲に隠れてしまいました。待つ気にもなれず,次へと進みました…。

そうそう,鎌倉土産に「半月」を購入しましたが,このシルエットは「パシフィコ横浜」ということに気づきました。「半月」のほうが歴史は古いと思いますので,「パシフィコ横浜」のほうが寄せたのかな…❓

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

急峻な切岸と連珠砦 (2024/03/02 訪問)

豊前国を東西に分断する尾根上に本城のほか11ヶ所もの砦が並び、そのひとつひとつに旗でも立てればさながら万里の長城が現出したかのように見えたことだろう。草が刈られて整えられた急峻な切岸もたまらんぞ。

+ 続きを読む

しんちゃん

公園として整備されているが、戦国の城としての遺構も見られる。 (2024/07/15 訪問)

下田城は北条氏の海城で、豊臣秀吉の小田原征伐の際には50日余りの籠城戦の末、開城降伏しています。下田公園として整備され、あじさいの名所となっていますが、戦国の城としての遺構はある程度残されており、大堀切や畝状の堀などがあります。
尾根上に伸びる展望台が3つあり、北側の「馬場ヶ崎展望台」東側の「お茶ヶ崎展望台」南側の「志太ヶ浦展望台」がありますが、私は登城ルートから伸びる「馬場ヶ崎展望台」を訪問しています。また、その直下の「和歌の浦」が水軍の船溜りとされています。
すぐ近くに母方の叔父の家がありますので、再度訪れた時に、またゆっくり下田城を散策してみたいと思っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

現代に再現された戦国山城。 (2024/06/15 訪問)

足助城は鎌倉時代に足助一族が拠った足助七屋敷の一つと伝わります。また戦国時代の足助鈴木氏の支配した足助七城の一つにも数えられています。標高301mの真弓山の山頂に築かれており信州・美濃路を押える要衝の地に築かれています。
戦国時代の山城を体験できる貴重な施設ですが、訪問客はそれほどいません。もっと多くの人にこの城の魅力が伝わると良いなと思います。本丸に建つ高櫓は発掘で見つかった掘立柱の穴跡を参考に築かれています。そういえば近くにある紅葉の名所の香嵐渓はそろそろ観光客で賑わうころではないでしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

主郭の周囲、特に西の尾根沿いに遺構を良く残す。 (2024/10/13 訪問)

傘松城は標高802m、比高320mと江馬氏の持ち城の中では特に高所に築かれている城です。江馬下館からは傘松城が良く見え、傘松城からも江馬下館を始め、飛騨の街一帯が良く見えます。最高所に主郭が築かれ、北側にも郭や堀切があります。南西の尾根沿いにも遺構が良く残り、堀切や郭が連なっています。また西側の郭の周囲を土塁と堀が廻っている箇所があり、見どころの一つだと思います。
西の尾根をしばらく行った先に堀切があったので、そこで打ち切りにして引き返しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

戦国時代に滅んだ江馬氏の庭園が復活。 (2024/10/13 訪問)

江馬下館は江馬氏によって築かれた居館で、長らく田んぼの中に埋もれていましたが、かつての五つの庭石はそのまま残されていたそうです。その後の調査で、伝承通りに居館跡の遺構が発見され、1980年に国の史跡に登録され、会所と庭園が再現されました。
かつての庭石も整備された庭園の中にあるようです。現在は史跡認定に続いて、会所と庭園が国の名勝に指定されています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

和歌山城 砂の丸 (2024/02/25 訪問)

西の丸を見て回った後は、追廻門をくぐって砂の丸を経て駐車場に戻ります。ここから石垣の種類が変わって和泉砂岩の高石垣が出迎えてくれます。元和5年(1619)に徳川頼宣が城主になってから築かれた石垣になります。これでようやく和歌山城一回りです。
写真を多くとってきたので、少し長めの投稿になりました。ご容赦願います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

タイ

大手石垣 (2024/11/12 訪問)

上の口から登り、主郭を見て、大手石垣を通ってかえろうとしたらあ、見落としてしまい、また登るハメに。
大手石垣には案内板も何もないので、下山時に訪れるときは、時々振り返りつつ気をつけましょう。

+ 続きを読む

岸和田城

岸和田城・天守復興70周年「秋」「冬」

https://kishiwada-castle-70th.jimdosite.com/

2024年11月、岸和田城は復興天守建設より丁度70年となりました。
各季節ごとにこれを記念した各種催しをしております。秋のイベントは12月8日まで。

そして冬はその締めくくりとして建設当時に行われた武者行列が復活。という事で只今参加者募集をしております。ご自身でお持ちの武将コスチュームや甲冑での参加も歓迎です。

ご応募お待ちしております。

+ 続きを読む

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:滝川西城(城びと未登録 滋賀県甲賀市) (2024/10/06 訪問)

上野城より自転車で2~3分くらいで、登城口(34.897056、136.248778)に着きました。

滝川西城は滝川氏によって築かれた城です。城は滝川城から谷を挟んで西側の尾根に築かれていました。

現在、城址には曲輪、土塁、堀切などが確認できます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=鯰江城へ向かう為、油日駅で自転車を返却後、油日駅からJR➡近江鉄道➡東近江市ちょことバスを乗り継ぎ、鯰江バス停へ向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:滝川城 (2024/10/06 訪問)

上野城より自転車で15分弱で、城址東側入口(34.895932、136.251678)に着きました。

滝川城は滝川氏によって築かれた城です。甲賀で有名な櫟野寺の南側に、櫟野川を挟んである小山に築かれています。
織田信長の家臣、滝川一益が一時居城したとも、生誕地であるとも伝えられています。

現在、城址には土塁などが確認できます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=滝川西城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:上野城 (2024/10/06 訪問)

殿山城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)より自転車で5分ちょっとで、標識入口登城口(34.885358、136.233337)に着きました。

上野城は甲賀五十三家のうちの南山六家に数えられる上野氏の居城です。室町時代に上野主膳正による築城とされますが、詳細は不明のようです。

登城口は北西にあり、道は藪になっている箇所もありますが、土塁などの遺構を確認することができます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=滝川城へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:殿山城(城びと未登録 滋賀県甲賀市) (2024/10/06 訪問)

和田支城郡(城びと未登録 滋賀県甲賀市)より自転車で5分弱で、殿山登り口(34.885288、136.228896)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、平安時代に和田満政によって築かれたと云われています。
1184年(寿永3年・元暦元年)伊勢平氏平田四郎が兵を挙げて近江国へ侵入すると、 近江源氏の佐々木秀義がこれを迎え撃つために列血野に陣を布き、 平田四郎は殿山に陣を布き油日川を挟んで合戦となったそうです。

石段を登って少し行くと標識があり、本来はここを右に行くところをそのまま真っ直ぐ階段を登ってしまいました。
事前調査で堀切や土塁があるはずなのだが、無いなと思いながら下城しました。
下城時に標識を見て誤りに気づいたのですが、時間の都合上、トライは諦めました。(堀切や土塁を見たかった)
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=上野城へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:和田支城郡(城びと未登録 滋賀県甲賀市) (2024/10/06 訪問)

和田城より自転車で5分弱で、支城1説明板前(34.879022、136.223917)に着きました。
その後、支城1登城口(34.878828、136.222940)➡支城2説明板(34.880406、136.224185)➡支城2登城口標識(34.880608、136.224220)➡支城3説明板登城口(34.882297、136.224895)の順番で巡りました

支城1
 和田城から和田川を挟んで西側の丘に築かれていました。
 主郭は西端にあり、西側と北側に土塁が残り、東側の土塁付近にお稲荷さんがありました。
支城2
 和田川の西側にあり和田支城1と和田支城3の間の丘陵にありました。
 主郭は西から北側にかけて高土塁があり、その外側に空堀が残っています。堀切が見所です。
支城3
 城は和田川の西側、和田支城2の北側の丘に築かれていました。
 主郭は高土塁が巡り、北側は堀切で断ち切られています。虎口は南側にありました。

個人的には支城2が最高でした。堀切が見所です。
攻城時間は移動時間を含めて50分くらいでした。次の攻城先=殿山城(城びと未登録 滋賀県甲賀市)へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)15日目:和田城 (2024/10/06 訪問)

油日駅のレンタサイクルで自転車を借り、油日駅より自転車で10分くらいで、説明板前(34.878886、136.226597)に着きました。

和田一族の本拠である和田城は甲賀城郭群の代表的な城です。平安時代末期の築城ですが、戦国時代に入ってから本格的に整備されたようです。
和田の地は、のちの15代将軍足利義昭が潜伏していたことでも知られています。
和田氏の祖先は応和年間(961~64年)に和田を領有した源満政といわれ、室町幕府3代将軍足利義満の頃に和田に移住したと伝えられています。近江国守護佐々木氏の重臣であり、五反田や毛枚を領有する土豪でした。
戦国時代の武将として和田惟政(1530~71年)がいます。惟政は1565年(永禄8年)興福寺から亡命してきた一乗院覚慶(後の足利義昭)をかくまったことで知られ、後に15代将軍となった足利義昭に仕えました。
しかし、同時に織田信長にも仕え、三好三人衆を撃退した功により摂津国守護として任じられ、茨木・高槻城の城主を兼任、京都所司代となりました。
1571年(元亀2年)摂津国白井河原(現大阪市茨木市)で同じく摂津国守護であった池田氏の家臣荒木村重と戦い敗死しました。

油日駅に置いてある「和田城館群」のパンフレットが便利です。
登城口は山の北側で、曲輪、土塁、横堀(空堀)などが確認できます。
主郭南辺の巨大な土塁が見所です。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=和田支城郡(城びと未登録 滋賀県甲賀市)へ自転車で向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ8