成田山新勝寺に参拝し、その帰路に寺台寺跡を目指し南下の寺台城跡案内指示板は目視確認したのですが駐車地JA跡地が分からず、寺台城跡山麓を一周して断念し、北方の長沼城を目指す。
駐車場:神社鳥居より西に150m程の所の長沼保育園南の空スペースに駐車、保育園の方に了解を頂く。
参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、城びと投稿の皆さん、グーグルマップに依る。
長沼保育園から集落の道を東へ約150m程歩き、長沼市民の森の大きな標柱が立ち、道より一段高い曲輪に石碑、長沼城址の由来、長沼事件の長沼下戻記念碑(長沼村民苦難の歴史が記載されています)、稲荷神社の鳥居を潜り石階段を登ると中腹に朱の稲荷神社鎮座し、スロープを登ると本曲輪公園広場、その手前に一段下がって枡形虎口の様子、祠が数基祀られている。
本曲輪南に樹木に囲まれて長沼城址標柱が立つ、結構広い広場で公園整備、北側に櫓台風の見晴台が有ります、登って眺望を観察、北遠くに利根川、干拓された田園が広がっています3時過ぎ西日が当たって奇麗に輝いて居ました。
北西側に櫓台?土盛り、残念ながら西側の横堀は見学を失念しました。
長沼城址は独立丘陵に築かれた城で周囲に堀が廻っていた様です。
歴史は案内板によると、中世戦国期に長沼五郎武俊の居城、長沼氏は結城朝光の末葉で下野の長沼に住した五男朝良の後胤であり、五世の孫朝教がこの地に居城を設けた。長沼五郎はその子孫である。
明治に入り村民苦難の長沼事件が起こり、解決に福沢諭吉が携わっており、村人の諭吉への報恩が熱く語られています。
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