続日本100名城

よなごじょう

米子城

鳥取県米子市

別名 : 久米城、湊山金城、湊山城
旧国名 : 伯耆

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米子城
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侍ホリタン

山陰の名城を訪ねて② (2022/05/05 訪問)

近年テレビで紹介され天守台から見る大山から登る朝日が「ダイヤモンド大山」として注目されている城跡です。
吉川広家公が日本海側の支城として築城を始めてその後城主となった中村一忠公により完成しました。その後加藤氏、池田氏と城主を変え荒尾氏が明治まで11代に渡り城を預かり管理することになります。
「内膳丸」経由で本丸を目指される方は、湊山公園駐車場が便利です。 ただ、駐車場へ向かう道路は道幅が狭いので運転に気をつける必要あります。御城印、100名城スタンプは山陰歴史館内にあります。

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AJ

神の視点 (2019/11/30 訪問)

米子城(鳥取県米子市)。この時期、神様でごった返すのはお隣の島根県で、鳥取はむしろ水木先生のおかげで年中、妖怪でいっぱいのはず。それはそうなのですが、そんなゲゲゲワールドにあって神話の世界が垣間見えるのがこの城です。

標高90mに豪放な天守台が並立する珍しい史跡。元は毛利の城でしたが、関ヶ原後はその毛利への抑えとなったため、一国一城令後も破却されずに残ったレアな支城です。

そして、そこから一望できるのが「美保関〜弓ヶ浜〜大山」のライン。いわゆる「国引き神話」で描かれる出雲拡張計画の一部。ある神様が海の向こうから土地を引っ張り、本土に縫い合わせて島根半島をつくるという超越ストーリーですが、実際に大パノラマでこの地形を眺めていると、フィクションを信じたであろう古代人の心理を感じられなくもありません。

さて異形の天守台。左の小天守台は慶長の初めに吉川広家が築き、右の大天守台は関ヶ原を受けて毛利・吉川が移封されたのち、駿河から入った中村一忠によって増築されたそうです。小天守台の石垣は幕末に積み直されたため、打込接で隅部は算木積になっていますが、元は大天守台のような野面積だったと思われます。

また近年の調査では登り石垣(竪石垣)が見つかりましたね。これは秀吉の朝鮮出兵の名残でしょうか。広家は従軍してますから、倭城の普請で得た知見を持ち帰ったのだと思われます。多くの倭城同様、米子城も船着場を確保した平山城。遮断線であるのと同時に、麓の補給口と山上の本丸の一体化を図る目的で造られたようです。

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朝田 辰兵衛

忘れ石の存在がとても印象的。 (2020/09/20 訪問)

内膳丸〜遠見櫓間の登り石垣は,山枯れ時季にその存在感を示すのかな…と思いました。登城道は,比較的登りやすかったです(あくまでも主観です)。忘れ石の存在がとても印象的でした。

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くらのり

米子城 (2019/09/22 訪問)

別名「久米城」「湊山城」とも呼ばれ、江戸時代初期は米子藩の藩庁でもあった。米子藩(西伯耆)の拠点的なお城は、山陰地方で最初に築かれた近世初期の城郭。
天守のあった標高90mの湊山は、北に丸山、東に飯山、南西側に中海という天然の要衝を擁する地でした。
この城山を内堀で囲んで、外郭に武家屋敷を配置して、外堀を巡らせていた。四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が華麗に連なっており、江戸時代の一国一城令でも存続を許された支城でしたが、明治時代に切り売りされ、現在は城の建物は残っていないが形態をよくとどめ、その構造を知ることができる。

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城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 応仁・文明年間(1467〜1487)
築城者 山名宗之
主要城主 山名氏、尼子氏、吉川氏、中村氏、加藤氏、池田氏
文化財史跡区分 国史跡(米子城跡)
近年の主な復元・整備 吉川広家、中村一忠
天守の現況・形態 独立式望楼型[3重4階/1596年築/破却]、独立式望楼型[4重5階/1601年増/破却]
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀、井戸
住所 鳥取県米子市久米町
問い合わせ先 米子市観光協会
問い合わせ先電話番号 0859-37-2311