てどりじょう

手取城

和歌山県日高郡


旧国名 : 紀伊

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todo94

2012年3月11日以来の再訪 (2023/04/29 訪問)

前夜に家を出、SAで仮眠をとりつつ、和歌山へと向かいました。紀ノ川SAにて朝食をとってからの朝駆けです。前回訪れたのは東日本大震災からちょうど一年たった2012年3月11日。城攻めの後、帰路に就く車中で14:46のサイレンを聞きました。今回はゴールデンウイーク前半の4月下旬で樹木の葉が茂ってしまっていました。この城のように美しい土の城は冬枯れの季節に訪れるのがベストだと思います。

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ぴーかる

手取城 (2022/12/24 訪問)

【手取城】
<駐車場他>駐車場有<33.899917, 135.219837>の分岐に城跡案内板があります。左に進むと専用駐車場があります。
<交通手段>車

<見所>堀切・竪堀・石積・曲輪・土塁
<感想>イオさん投稿の堀切パラダイスに惹かれてやって来ました。城跡の詳細は先達方々が記述しておられるので割愛します。駐車場から舗装道を行き着く所は東の丸に着きますが、途中の堀切に惹かれ三の丸から入り込み、西の丸⇒北側斜面2重堀切⇒二の丸・本丸⇒本丸北側の4重堀切⇒帯曲輪を北東部へ回り込み⇒東の丸に出ました。東の丸から東側の堀切は未散策で二の丸・本丸と西の丸を隔てる堀切から南の下段の曲輪へ下り更に小径を通って藪化した溜池の脇から舗装道へ出て終了しました。溜池の場所が山尾根の鞍部になっていますが藪化が激しく西側の墓場のある曲輪の尾根に登ることが出来ません。500m手前の城跡入口「古城行道」の石碑のある奥から尾根に取り付いて行けば行けそうな感じでした。
 曲輪の端や切岸・堀切起点の土橋に小さい石ですが随所に石垣が残っており、ダイナミックな堀切、見応えと攻略しがいある城跡で堀切渡りと石垣探しで体力をかなり消耗して全て見切れなかったが大満足、再チャレンジしたい城跡です。

<満足度>◆◆◆

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イオ

堀切パラダイス(西曲輪群) (2022/02/26 訪問)

(続き)

手取城は長大な堀切によって東西に分かたれ、大堀切の西側には東西二段の西の丸が広がっています。西の丸の中央北部には巨大な土塁があり、西側上段にはのろし台と呼ばれる櫓台があります。西の丸の南東下には水の手曲輪があり、南麓の登城道沿いの溜池に続いている…はずですが、見落としてしまいました。

西の丸はよく整備されていますが、北西斜面や西下の堀切に下りていく道は見当たらないので、大堀切まで戻って北西斜面へ。大土塁の北下から小さな尾根が北にのびていますが、尾根の付け根と先にも堀切や竪堀が設けられていて、小さな尾根にも怠りなく防備を固めています。北西斜面には数条の竪堀があり、枯葉が堆積しているものの、なかなかの規模であることがわかります。竪堀を越えた先が西尾根の二重堀切で、内側の堀切はかなりの深さと幅がありました。二重堀切の先にも西尾根の曲輪群は続いているようですが、藪が激しくなってきたのでこれ以上の探索は断念し、二重堀切の間の竪堀から南下に見えている登城道まで直降しました。

登城道を駐車場に戻る道中にも西尾根の堀切や竪堀が見られ、内側から四条目の堀切がある古城行道の石碑までが城域かと思っていましたが、石碑から駐車場までの間にも二条の堀切があるようで、探しつつ歩いて行くと縄張図と照らし合わせてようやくわかる程度(ほぼ藪)の堀切がありました。東の丸まで舗装道が続いてはいるものの、道幅は狭く南側は崖(ガードレール無し)なので、土取場の駐車場に駐めての登城をおすすめします。駐車場から歩いても10分あまりで東の丸に着きますし、道中の遺構も見逃さずに済みますしね。

和歌山県は100名城(和歌山城)も続100名城(新宮城)も平山城で、名の通った山城はありませんが、手取城は「日本の山城100名城」(洋泉社)に県内から唯一選ばれているだけあって、よく整備されて訪れやすく、各曲輪の土塁や各尾根の堀切や竪堀など見どころ盛りだくさんの素晴らしい城です。中でも計15条にも及ぶ堀切は圧巻で、まさに堀切パラダイスでした。
 

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イオ

堀切パラダイス(東曲輪群) (2022/02/26 訪問)

南北朝期に玉置大宣が築き、和佐玉置氏の本城として200年にわたりこの地を治めました。玉置氏と同じく室町幕府奉公衆を務めた日高川西岸の湯川氏とは縁戚関係を結んで共存していましたが、羽柴秀吉の紀州攻めに際して秀吉方についたことから秀吉に抵抗しようとする湯川氏に攻められて落城。秀吉の紀州平定後に復帰するも、関ケ原の戦いで西軍についたために改易され、廃城となったようです。

日高川東岸の城山を中心に東、北、西にのびる尾根に曲輪群を配した県内最大級の山城で、西麓の日高川河畔に玉置土居と呼ばれる居館、日高川上流に田尻城などの支城群を設けて日高川流域を支配しました。

県内の山城めぐり第2弾は手取城へ。案内表示に従って山道に入り、土取場に造成された駐車場に車を駐めて登城開始。古城行道の石碑のあたりから道路沿いに堀切や竪堀っぽい地形が見られ、笹藪と化した溜池を横目に進んで東の丸に到着。細長くのびる東の丸の北辺には分厚い土塁が長く続いています。東の丸東下には周囲を土塁で囲んだ腰曲輪があり、その先は二重堀切で尾根を遮断しています(ただし外側の堀切はシダの中…)。東の丸南下の帯曲輪の南斜面には竪堀が何条かあるようですが、浅くなっていてよくわかりませんでした。東の丸北下の帯曲輪の北斜面には三条の竪堀を落としており、その帯曲輪を北西に進むと北尾根の付け根に至ります。

北尾根は四重の堀切といくつかの竪堀により遮断され、堀切はそれぞれ状態良く遺っていますが、中でも最も内側の堀切は幅も高さもあり、本丸側は急峻でとても登り降りできません。また北尾根側の曲輪にも土塁を巡らせて厳重に防備されています。

北尾根を往復した後は本丸へ。堀切からは直登できないので、西側に回り込んで登って行くと、北西斜面には石垣が広がっていました。そして本丸北下の腰曲輪と帯曲輪を経て、裏手から天守台とも呼ばれる本丸に到達。本丸には建物礎石群が見られ、西側の眺望が開けています。本丸南下の二の丸は公園として綺麗に整備され、城址碑やテーブル・ベンチが設置されています。二の丸の南下には三の丸が広がっており、三の丸北西端から大堀切を越えて西曲輪群に向かいます(続く)。
 

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 玉置大宣
築城年 南北朝時代
主な城主 玉置氏
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)
指定文化財 町史跡
再建造物 石碑、説明板
住所 和歌山県日高郡日高川町和佐