応永年間(1394-1428)平維茂子孫の朝倉貞冬が築城、茂福氏を名乗った。織田軍の伊勢侵攻により永禄10年(1567)滝川一益により落城した。最後の城主茂福盈豊の碑が土塁の一部という土塊にある。土塊は主郭北西部角に当たる。発掘調査で堀の一部や土器などの遺物が出土したが、城を訪れるには残念な状況だ。
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2023/12/31 10:17
土塁の一部が残り石碑と説明板が立つ
応永年間(1394-1428)平維茂子孫の朝倉貞冬が築城、茂福氏を名乗った。織田軍の伊勢侵攻により永禄10年(1567)滝川一益により落城した。最後の城主茂福盈豊の碑が土塁の一部という土塊にある。土塊は主郭北西部角に当たる。発掘調査で堀の一部や土器などの遺物が出土したが、城を訪れるには残念な状況だ。
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2023/07/25 21:33
線路越しに土盛と看板が見える。 (2023/07/15 訪問)
久々の登録になります。先日、奈良、大阪など4日間の近畿遠征をしてきたのですが
予想外の猛暑で、奈良、三重の山城めぐりと大阪城を2時間ほど散策したのとで
体力をかなり削りました。
後半は大阪市街のポチ城(すぐに回れて、簡単にポチれるのでポチ城)が多かったので
なんとか乗り切れましたが、この時期の山城めぐりはちょっと厳しいですね。
茂福城は線路の南側に土塁らしき土盛が残り城址碑や石碑が立っています。
この部分は主郭の北西角にあたり、中心部は宅地になっているようです。
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2023/04/03 15:05
伊勢未踏の城廻Ⅹ 近鉄線路沿い (2023/03/21 訪問)
伊勢未踏の城廻四日市陣屋を終えて北に約3~4kmの茂福城を訪ねました。道は狭く要注意です。
情報ガイドは城郭放浪記さん。
駐車場は有りません、近くに路駐し雨降りでもあり数分の探訪。
近鉄名古屋線沿いで東側、近鉄富田駅と霞ヶ浦駅の中間辺りに小山というか土盛り土塁上に梛の木と墓石、案内板、茂福城の大看板があります、大看板は線路の西側からしか文字は見えません。この場所は城の主郭の北西角に当たると言われる。
案内板によると、平維茂の子孫平貞冬が、越前朝倉よりこの地へ来て城を築き朝倉を名乗った。保々西城の朝倉備前守と同族ある。
永禄10年(1567年)にいたり最後の城主茂福掃部輔盈豊は織田信長の武将瀧川一益のため長嶋城へ誘いだされ殺された。とあります。
茂福城と書いてモチブクジョウと読みます。
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 朝倉(平)貞冬 |
築城年 | 応永年間(1394〜1427) |
主な城主 | 茂福(朝倉)氏 |
遺構 | 土壇 |
指定文化財 | 市史跡(茂福城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 三重県四日市市茂福町26 |
問い合わせ先 | 四日市市教育委員会事務局社会教育課 |
問い合わせ先電話番号 | 059-354-8238 |