戦国時代、伊勢国北部は北勢四十八家とよばれる小規模の城主・豪族によって治められていました。
ちなみに四十八は実数でなくて、相撲の技を指す四十八手と同様の用法で、実際は53の家系があったのですが、乱世ゆえこの中でも興廃がおこなわれていたわけです。
茂福城(もちぶくじょう)は北勢四十八家のひとつ朝倉氏の城で、伊勢国朝明郡(現在の三重県四日市市富田地区茂福町里ノ内)にありました。
近鉄名古屋線の富田駅と霞ヶ浦駅の中間あたりに城跡があります。
四日市市内ですが田園が広がり集落が点在する風景が広がります。
近鉄線沿いに茂福城跡と表示されています。
城跡入り口にバイクを駐めました。
自動車の場合、駐車に困るかもしれません。
現在は、塚といった感じですが、主郭北西隅の土塁の一部だったそうです。
主郭部は60メートル×65メートルの規模で、土塁と空堀が左右にあったそうです。
土塁以外の遺構は埋没し、現況では残存していることが分からないような状態です。
「伊勢軍記」によれば、1567(永禄10)年に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されたとあります。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々に葬ったといわれます。
この時の戦いで茂福城は落城したとされます。
土壇上の石碑には「満児喜圓大居士」と彫られていました。
城主の墓石のようです。
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