もちぶくじょう

茂福城

三重県四日市市


旧国名 : 伊勢

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橋吉

近鉄線沿い (2025/04/19 訪問)

戦国時代、伊勢国北部は北勢四十八家とよばれる小規模の城主・豪族によって治められていました。
ちなみに四十八は実数でなくて、相撲の技を指す四十八手と同様の用法で、実際は53の家系があったのですが、乱世ゆえこの中でも興廃がおこなわれていたわけです。

茂福城(もちぶくじょう)は北勢四十八家のひとつ朝倉氏の城で、伊勢国朝明郡(現在の三重県四日市市富田地区茂福町里ノ内)にありました。
近鉄名古屋線の富田駅と霞ヶ浦駅の中間あたりに城跡があります。

四日市市内ですが田園が広がり集落が点在する風景が広がります。
近鉄線沿いに茂福城跡と表示されています。
城跡入り口にバイクを駐めました。
自動車の場合、駐車に困るかもしれません。
現在は、塚といった感じですが、主郭北西隅の土塁の一部だったそうです。
主郭部は60メートル×65メートルの規模で、土塁と空堀が左右にあったそうです。
土塁以外の遺構は埋没し、現況では残存していることが分からないような状態です。

「伊勢軍記」によれば、1567(永禄10)年に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されたとあります。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々に葬ったといわれます。
この時の戦いで茂福城は落城したとされます。

土壇上の石碑には「満児喜圓大居士」と彫られていました。
城主の墓石のようです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:茂福城 (2024/09/25 訪問)

近鉄富田駅より徒歩15分弱で、城址跡前(35.000381、136.643305)に着きました。

茂福城は越前朝倉氏のもとにいた平貞冬が築城した城です。貞冬は築城当初は朝倉氏を名乗り、のちに地名から茂福氏を名乗っています。
茂福氏は1560年(永禄3年)に羽津城の田原氏と争い、神戸氏の援軍もあり勝利しています。

近鉄沿いに城址があり、案内板や城址碑が立っていました。
電車が頻繁に通るのでタイミングを合わせ、城跡と一緒に電車を撮影しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長島城へ行く為、電車で近鉄富田駅から近鉄長島駅に向かいました。

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くうくう

土塁の一部が残り石碑と説明板が立つ

応永年間(1394-1428)平維茂子孫の朝倉貞冬が築城、茂福氏を名乗った。織田軍の伊勢侵攻により永禄10年(1567)滝川一益により落城した。最後の城主茂福盈豊の碑が土塁の一部という土塊にある。土塊は主郭北西部角に当たる。発掘調査で堀の一部や土器などの遺物が出土したが、城を訪れるには残念な状況だ。

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しんちゃん

線路越しに土盛と看板が見える。 (2023/07/15 訪問)

久々の登録になります。先日、奈良、大阪など4日間の近畿遠征をしてきたのですが
予想外の猛暑で、奈良、三重の山城めぐりと大阪城を2時間ほど散策したのとで
体力をかなり削りました。
後半は大阪市街のポチ城(すぐに回れて、簡単にポチれるのでポチ城)が多かったので
なんとか乗り切れましたが、この時期の山城めぐりはちょっと厳しいですね。

茂福城は線路の南側に土塁らしき土盛が残り城址碑や石碑が立っています。
この部分は主郭の北西角にあたり、中心部は宅地になっているようです。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 朝倉(平)貞冬
築城年 応永年間(1394〜1427)
主な城主 茂福(朝倉)氏
遺構 土壇
指定文化財 市史跡(茂福城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県四日市市茂福町26
問い合わせ先 四日市市教育委員会事務局社会教育課
問い合わせ先電話番号 059-354-8238