地元の方ならさらっとよめる「もlちぶく」も意外とさらっと読めない難読地名だと思う。近鉄線路沿いに土塁がぽつっと残っているので探しやすい。ここを北端として周囲の道路と軸線が揃った一辺50mほどの方形主郭があったそうだ。
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2025/12/03 20:38
2025/04/22 06:43
近鉄線沿い (2025/04/19 訪問)
戦国時代、伊勢国北部は北勢四十八家とよばれる小規模の城主・豪族によって治められていました。
ちなみに四十八は実数でなくて、相撲の技を指す四十八手と同様の用法で、実際は53の家系があったのですが、乱世ゆえこの中でも興廃がおこなわれていたわけです。
茂福城(もちぶくじょう)は北勢四十八家のひとつ朝倉氏の城で、伊勢国朝明郡(現在の三重県四日市市富田地区茂福町里ノ内)にありました。
近鉄名古屋線の富田駅と霞ヶ浦駅の中間あたりに城跡があります。
四日市市内ですが田園が広がり集落が点在する風景が広がります。
近鉄線沿いに茂福城跡と表示されています。
城跡入り口にバイクを駐めました。
自動車の場合、駐車に困るかもしれません。
現在は、塚といった感じですが、主郭北西隅の土塁の一部だったそうです。
主郭部は60メートル×65メートルの規模で、土塁と空堀が左右にあったそうです。
土塁以外の遺構は埋没し、現況では残存していることが分からないような状態です。
「伊勢軍記」によれば、1567(永禄10)年に城主朝倉盈豊は、長嶋で織田信長の家臣である瀧川一益に謀殺されたとあります。その際、斬られた主人の首を家臣の小川宗春が奪い取り、朝明郡保々に葬ったといわれます。
この時の戦いで茂福城は落城したとされます。
土壇上の石碑には「満児喜圓大居士」と彫られていました。
城主の墓石のようです。
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2024/10/18 05:39
公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:茂福城 (2024/09/25 訪問)
近鉄富田駅より徒歩15分弱で、城址跡前(35.000381、136.643305)に着きました。
茂福城は越前朝倉氏のもとにいた平貞冬が築城した城です。貞冬は築城当初は朝倉氏を名乗り、のちに地名から茂福氏を名乗っています。
茂福氏は1560年(永禄3年)に羽津城の田原氏と争い、神戸氏の援軍もあり勝利しています。
近鉄沿いに城址があり、案内板や城址碑が立っていました。
電車が頻繁に通るのでタイミングを合わせ、城跡と一緒に電車を撮影しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長島城へ行く為、電車で近鉄富田駅から近鉄長島駅に向かいました。
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| 分類・構造 | 平城 |
|---|---|
| 築城主 | 朝倉(平)貞冬 |
| 築城年 | 応永年間(1394〜1427) |
| 主な城主 | 茂福(朝倉)氏 |
| 遺構 | 土壇 |
| 指定文化財 | 市史跡(茂福城跡) |
| 再建造物 | 石碑、説明板 |
| 住所 | 三重県四日市市茂福町26 |
| 問い合わせ先 | 四日市市教育委員会事務局社会教育課 |
| 問い合わせ先電話番号 | 059-354-8238 |