だいしょうじじょう

大聖寺城

石川県加賀市

別名 : 錦城
旧国名 : 加賀

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馬出曲輪跡 柿の木
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しんしんちゃん

広大な城域に良好な遺構。そして‥‥ (2023/12/09 訪問)

大聖寺城は標高70mほどの錦城山一帯に築かれていて本丸を中心に広大な城域を持ち、遺構も良好に残っています。関ヶ原の合戦の際には小早川秀秋の家臣・山口玄蕃宗永が居城とし東軍の前田利長の大軍2万5000に攻められ一日で落城しています。江戸時代加賀藩主三代利常の三子・利治が大聖寺藩7万石で入りますが城山に居を置かず御止め山として入山を禁じたため遺構が良好に残っています。
遊歩道を周遊すれば一通り見ることが可能で、東出丸からは白山が眺望でき、鐘が丸には櫓台を備えた土塁が残ります。土塁の北側は骨が谷と呼ばれ、かつて前田軍に攻められたとき最大の激戦地となり多くの屍が放置されたそうです。本丸北側の通路は局谷と呼ばれ、落城の際、城内の女中が本丸より身を投げたのが名の由来だそうです。西の丸の南側には馬洗い池があり今でも水をたたえています。後述の熊はここへ水を飲みにきている可能性があります。
南東の郭・戸次丸へ向かう途中に熊のフンがありました。山家城や東北の城で見たものより小さいですね。まだ若いクマのようですが小熊ではなさそうです。こんな町に近いところにも普通に出るんですね。もう慣れっこになってしまったのでそのまま散策を続行。
せちがらい人間社会より熊のいる城山の方が落ち着く‥‥いやいや周囲の警戒を怠らず慎重に進みます。本丸には櫓台や高土塁が残り土塁の上から局谷を覗き込みます。本丸をでて馬出曲輪に到着。周囲が良く見渡せます。柿の木が有ります。先ほどのフンの主はこのあたりまで足を延ばしているかもしれません。山家城と違ってここの熊は住みついている可能性があるので朝方や夕方は特に気を付けていただきたいと思います。そういえばこの城址公園、こんなうってつけの散歩コースなのに人の姿を全く見てない。
やはりそういうことなんですかね。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:大聖寺城 (2022/08/02 訪問)

勅使館からの転戦です。錦城山公園駐車場入口(36.307518、136.306465)から進入して駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に狩野氏によって築かれ、その居城となったようです。
1335年(建武2年)中先代の乱に呼応した名越時兼が南下してきた際は、加賀国の国人・狩野一党の各氏が大聖寺城でこれを迎撃したそうです。
1337年(建武4年)新田義貞に荷担した敷地伊豆守、山岸新左衛門らが津葉清文の守る大聖寺城を攻略しました。その後、戦国時代には日谷城などと共に一向一揆の拠点となりました。
1555年(天文24年)越前国の朝倉宗滴(教景)が加賀に侵攻し、南郷城・千束城とともに大聖寺城も一日で陥落させました。
1567年(永禄10年)本庄(現・あわら市)の堀江景忠が一向一揆とともに朝倉義景に反乱した際、足利義昭の斡旋により、一揆方の二城とともに朝倉方の黒谷城、檜屋城(日谷城)、そして大聖寺城の三城を焼払って和議が成立しました。
1575年(天正3年)越前を平定した織田信長の軍勢は加賀にも侵攻し、江沼郡・能美郡を占領しました。
信長は柴田勝家に命じて日谷城と大聖寺城を修復させ、戸次広正や堀江景忠を配置しました。翌年には江沼・能美両郡で一揆が蜂起したが、救援した勝家によって鎮圧されました。この際、佐久間盛政が大聖寺城主となっています。
翌1577年(天正5年)にかけて、勝家は大聖寺城の修復とともに兵力を増強し、上杉氏の南下に備えました。1580年(天正8年)に勝家は本願寺勢力の金沢御堂を攻略し、拝郷家嘉を大聖寺城主にしました。
1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れた後は、北ノ庄(現・福井市)の丹羽長秀の与力として溝口秀勝が大聖寺城に44,000石で置かれました。現在の縄張になったのは、この頃のようです。
1598年(慶長3年)溝口秀勝は越後国新発田に移封となり、替わって小早川秀秋の家臣山口玄蕃が入封しました。
関ヶ原合戦で豊臣方に付いた山口玄蕃は、徳川方の前田利長に攻められ、一日にして落城し、一度修復されたものの、1615年(慶長20年)一国一城令によりで廃城となりました。
1639年(寛永16年)3代加賀藩主前田利常の子利治に70,000石を分地して、大聖寺藩が興されました。 大聖寺藩は大聖寺城を使用せず、東麓に館を構えました。

駐車場から遊歩道を歩き、2段の曲輪を経由して、本丸に着きます。
本丸には「山口玄蕃頭宗永公之碑」の石碑が建ち、西側には土塁から続く櫓台のようなものがあります。
本丸から二の丸に行く途中の左側下方に、馬洗い池があります。二の丸には四阿、木製腰掛、木製遊具がありました。
馬洗い池を取り囲むように本丸、二の丸、西の丸が配置されているようです。
二の丸の北側に三の丸、二の丸の東側に戸次丸があるようですが、時間の都合で行っていません。
本丸の南側の堀切を挟んで鐘ヶ丸があります。鐘ヶ丸の西側に土塁(櫓台)がありました。
鐘ヶ丸から尾根続に東側に数段の郭が配置されており、東端に東丸があります。東丸の下にはパトロン事件の際に、贋金造りに用いられたという洞窟が残っています。
たくさん写真を撮りましたが10枚に絞り込みました。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=吉崎御坊に向かいます。

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城好きのメガネ

「大聖寺城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
大聖寺城は戦国時代には、加賀一向一揆の拠点となり越前・朝倉氏と攻防が繰り広げられた。賤ヶ岳の戦い後は、丹羽長秀の与力として溝口秀勝が入る。その後、山口宗永が城主となる。関ヶ原の戦いで山口宗永は西軍についたため、東軍の前田利長に攻められて、落城する。加賀・前田家の家臣が城代を務めたが、一国一城令に伴い廃城となる。1639年、加賀藩3代・前田利常が幕府に願い出て、三男・利治を入れて立藩する。城跡に藩庁として陣屋を築く。戊辰戦争では加賀藩に従い、新政府軍の兵站を担う。現在、曲輪、土塁、茶室(長流亭)が遺されている。

<アクセス>
JR大聖寺駅 徒歩20分

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肉球

陣屋のほうだけです (2021/06/25 訪問)

前回錦城山を登りましたので今回は陣屋跡付近だけの散策にしました。
小学校が藩邸跡、学校前を流れる川に石積みがありましたが当時の物かはわかりません。
江沼神社にある庭園は少し荒れ果てた様子。ちょっと残念。
国道305号線にあったとされる関所跡その門が市内の宗寿寺に移築されてます。

錦城山には猪出没注意の看板があります

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城郭情報

分類・構造 連郭式平山城
築城主 狩野氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 柴田勝家
主な城主 狩野氏、一向一揆勢、朝倉氏、佐久間氏、溝口氏、山口氏、前田氏
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、土塁、茶室(長流亭)
指定文化財 市史跡
再建造物 説明板
住所 石川県加賀市大聖寺八間道
問い合わせ先 加賀市歴史文化課
問い合わせ先電話番号 0761-72-7888