2023/04/24
前田慶次の自腹でお城めぐり 【第19回】凸掛川城 前編~木造復元に注目~
お城に関する豊富な知識を持つ「名古屋おもてなし武将隊」の一員・前田慶次様が、全国のお城を実際にめぐりながら歴史・特徴・魅力を解説。今回は、大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康ゆかりの城で、“東海の名城”とも呼ばれた掛川城(静岡県掛川市)の前編です。連載で初めて新幹線に乗車し大興奮の慶次様が、掛川城へと行軍しながら当時の城の姿をじっくり解説していきます。
皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。
此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。
前田慶次齢四八十一歳。戦国の世では天下御免ノ傾奇者として名を馳せ申した。現世に蘇りは名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に名古屋を世界一の観光都市にせんが為、日々戦働きに勤しむ。
演武といったパフォーマンスなるものを披露し、電波放送戦(テレビやラジオ)は常戦番組(レギュラー)を持ち、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十四年目を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。
伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、此度から城びとでの連載を始める次第。
題して
【前田慶次の自腹でお城めぐり】
他の連載と何が違うのか!?
・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見れる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!
全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、
其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。
ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。。
凸掛川城 城郭の魅力度を数値化
近年復元ブームの先駆けの城!
※修復工事中
【基本情報】
城郭構造:平山城
主な築城者:朝日奈泰熙(やすひろ)、山内一豊
築城年:1469-1486年(文明年間)
廃城:明治2年(1869)
指定文化財:国の重要文化財(二の丸御殿)
【歴史】
■今川家重臣が築城
掛川城より東に500メートル程離れた地に「掛川古城」は文明年間(1469-86)に築城!
駿河守護大名の今川家が遠江支配拠点として重臣朝日奈に築城させた!
その後、現在の地に掛川城が築城!
■大名今川家最期の城
永禄11年(1568)今川義元の子、氏真は甲斐の武田軍に攻められ掛川城へ立て籠もる!
翌年、徳川家康が掛川城を攻め開城。大名として名を馳せた今川家が滅亡(権威を失う)した最期の城!
徳川領となり、重臣石川家が入城し武田への防衛拠点となった!
■山内一豊時代
天正18年(1590)全国を平定した豊臣秀吉が徳川家康を関東へ移す。
家康の旧領土は秀吉の家臣の大名が支配し掛川城には山内一豊が入城。
城の拡張・城下の整備を行うと共に掛川城に初めて天守を建てる!
■東海の名城時代
江戸時代に突入すると徳川家康の血筋である松平家や
江戸城築城者である太田道灌の子孫など、譜代大名が居城とした。
貴族的な外観を持つ天守の美しさは「東海の名城」と謳われた!
■廃城
然し、安政の大地震(1854)により天守を始め大半が損壊し、
御殿・太鼓櫓・門一部を除き再建されることなく明治時代を迎え、明治2年廃城!
■最近
天守台・本丸跡など一帯は公園となる。
天守は平成6年(1994)に市民の努力が実を結び木造で再建された!
【名古屋駅から出陣】
此度も名古屋の玄関口名古屋駅から出陣じゃ!
現在大河ドラマ「どうする家康」が放送されており注目を集めておる掛川城へ参る。
我が連載は、我が金子を使うて城巡りをして参る!
現在の残金は「3万657円」である。
して、此の連載も約5年近くになって参ったが初めて”アレ”を利用するぞ!
そう、“新幹線”と呼ばれし鉄籠じゃ!
鉄籠界で最も速いと名高い乗り物である。我が連載で遂に乗車する日が参るとは。
どれ程のものか、此の天下御免ノ傾奇者前田慶次が見定めてやろう!
電光石火の速さだけ御座って通常の電車とは金額も高いとな。
慶次「儂には近代学問の神、福沢諭吉がおるからのう!
何の心配もない! ワッハハハハハハ」
慶次「腰掛ける床几がふかふかで快適快適! 此れが新幹線の実力か!!」
掛川まで大興奮のまま出陣する儂であった!
何より驚いたのは掛川まで一瞬で着陣叶ったこと!
戦国の世で此の速さを実現できたらば、世は変わっておった事間違いなし!
慶次「弓や鉄砲並みに早いと感じたぞ!」
駅構内に真中にて観光案内所が御座った!
先ずは、情報収集である。今も昔も情報を仕入れて戦略を立てるわけじゃ!
多くの瓦版が置かれておる故に皆も、参った際は先ずは此処で瓦版を見つめ
どのような経路で参るか思案すると良かろう!
【御城印】
駅構内の端に掛川観光協会が陣を置く案内所では、多くの資料や名産物資が用意してあり申す!
また、此方で御城印を手にする事が叶う故に城巡りの者達は忘れることなかれ!
慶次「現在、『どうする家康』仕様の特別な御城印が用意されており
掛川城の他、高天神城、横須賀城の御城印を一組とし販売しておったぞ!
無論、儂は全部買うたぞ! 一枚の写し絵になるとは、見事な御城印ではないか」
掛川駅北口から出て掛川城を目指す!
案内板もある故に皆も迷う事なく参れるはずじゃ!
慶次「因みに、基本的に城・天守は北にある故に覚えておくと良いし、
縄張(城の構造)をこの時に確認し、外堀はどこにあったのか、
原型を留めておる城は多くある故に地図で確認。
嘗(かつ)ての姿はこんな風かな?と考えると良いし、攻める場合はどこから攻める事になるか。
戦略まで考えられるようになれれば、お主は立派な軍師である!」
【東海道五十三次】
(必死に当時の姿を想像し本町通(昔栄えた通り)などを確認する前田慶次481歳)
江戸時代、掛川は掛川宿として栄え東海道五十三次の一つである。
東海道五十三次ウォーキングマップと呼ばれし瓦版もあり、数多の見所がある!
城巡りの寄り道に良いやもしれん!!
掛川駅の景観中々良きものである。
古き良きを前面に出しており何と木造のようじゃ!
多くの駅に儂も参ったが木造の駅は掛川駅が初めてである。
此れも、歴史を大切にする掛川魂が映し出されておると考える。
掛川城天守の木造復元を始め、多くの木造建築物が残っておったり致す。
後世に語り継ぐだけでなく姿で継承しようとする心構えは誠に天晴である!
慶次「儂も現存武将として、語るだけでなく立ち姿で歴史を伝えられるように。
掛川駅を見習おうと思うぞ」
城を目指して北へ行軍致す!
【掛川城大手門】
掛川城本丸まで参る途中に掛川城の正門である大手門が御座る!
江戸時代の地震により倒壊したが再建され、後に火災で焼失。
1995年に天守に続いて木造復元されたもので大手門に相応しく櫓門となっておる!(櫓門は格式が高い)
移築されたものであり、実際に大手門があった場所は現在地から50メートル程南に存在した!
慶次「大手門は登城する人間が最初に入城する門故に、壮大に造る所が多い!」
地上から冠木まで凡(およ)そ4.4メートルの高さを誇るのは理由がある!
それは、乗馬状態でも通行できるように!
格子窓付きだで、鉄砲等で狙撃する事も可能!
窓付きは装飾性の意味合いもある故に豪華な造りと言える!
【掛川城大手門番所】
大手門を潜ると目の前に木造建築物が御座る! 此方が番所であるぞ。
番所は役人が詰め所とする場所で、登城する者の監視や警備として機能致す。
掛川城は大手門内側に設けており、厳重な守りを備えておったのが分かる!
番所も大手門同様に地震で倒壊し復元されたものである。
【外堀!?】
大手門を抜けると工事中であるが天守も見えて中々景観が良きものである!
現世の足軽屋敷と申すか、住宅街越しに見えるのも一興といえよう!
して。儂が指差す此方の川と申すか堀は
嘗て水堀であったことが古地図(正保城絵図)を見ると分かり申す!
当時から考えると、随分と開削したように見えるし巨大な現世の水堀になっておるわな。
慶次「城全体が残っておる城郭は現世に存在せぬと思うが、
城郭の地形等を活かした町作りをしておる所が殆どである。
故に、皆の住んでおる地域の水路等も嘗ては水堀であった可能性も高いのじゃ!」
ほいで天守方面へ向かうと。
【遠州掛川 鎧屋】
何と掛川城前には鎧を販売する土産処が御座る!
聞けば、甲冑は異国の者にも大変人気らしく多くの甲冑が揃っておるし、
「どうする家康」の効果もあり注目されておるわな。
店主の者と沢山談議させてもらったが、
実に優しき御仁で武将隊のこともよく知っており応援してくれており、有難い限りじゃ。
甲冑や武具馬具だけでなく、掛川名物等も揃えておる故に
皆も足を運び店主とも話してみると良いぞ!!
【二之丸】
広い公園のようになっておる場所が元々二之丸であったようじゃ。古地図を見る限り!
この辺りは随分と開削され現世風に整えられておる!
して、松尾池跡に関しては二之丸ではなく本丸を囲む南側の池となっておる!
此処では瓦や陶器などが発掘調査で見つかっておるようだで、
今後も掛川城は何かしら出土するやもしれんのう!
斯様に此処には「正保絵図」がありそれを元に石板にて表現しており
嘗て何があったか照らし合わせる事が出来申す!
「正保絵図」とは、1644年徳川幕府は全国の城郭管理の一環として、諸大名に城絵図の提出を求めた!
堀の幅、深さ、石垣の高さ、土塁の高さ、櫓、塀の状況、城下町の町割り、
街道の状況などの軍事に関わる情報が記載されておる!
慶次「絵図と実際の城の情報が違うと、その大名は所領没収という罰も御座る!」
城郭の情報をより知りたい者は調べてみるとより楽しめると思うぞ!
といった所で此度の記事はこの辺りで。
次回の記事も楽しみにしてちょ!
以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益
凸伝令
その他の連載もお楽しみください!
執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)