前田慶次の自腹でお城めぐり 【第8回】凸清洲城 前編~土塀が大事?~

お城に関する豊富な知識を持つ「名古屋おもてなし武将隊」の一員・前田慶次が、全国のお城を実際にめぐりながら歴史・特徴・魅力を解説。今回は、織田信長にゆかりが深い清洲城(愛知県清須市)の前編。高麗門造りの模擬大手門や信長塀など入城して間もなく出会う見どころを、歴史に語り継がれるエピソードや豆知識を交えて詳しく解説します。

皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。

此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。

前田慶次

前田慶次齢四七九歳。戦国の世では天下御免ノ傾奇者として名を馳せ申した。現世に蘇りは名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に名古屋を世界一の観光都市にするが為、日々戦働きに勤しむ。

演武といったパフォーマンスなるものを披露し、電波放送戦(テレビやラジオ)は常戦番組(レギュラー)を持ち、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十一年を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。

伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、此度から城びとでの連載を始める次第。

題して
 
前田慶次の自腹でお城めぐり、犬山城

【前田慶次の自腹でお城めぐり】

他の連載と何が違うのか!?

・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見れる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!

全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、
其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。

ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。

第八回は清洲城
先ずは、城郭の魅力度を数値化致した。
 
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現存しておるのが本丸の土塁のみであるが此の点数!!

尾張国内では歴史深く、尾張の首都を担った清洲城。戦乱の中心となり後に名古屋の基盤を作り上げた。
桶狭間の戦いの折に信長様が清洲城から出立し、今川義元様相手に見事な戦を展開し勝ち戦としたが為に勝負運も高い城。
現世では新幹線、電車なるものから清洲城を目にすることができ、珍しき点があり傾いておる!
然し乍ら、その城郭の姿は名古屋城に多く利用され此の世に留めておらず惜しい。また、清洲城までは駅からちと歩く。

慶次の勧めは春。桜と清洲城の景観は桶狭間へ出立した信長様が歩んだ勝負への道導にも見える。

清洲城


【基本情報】

城郭構造:平城
主な築城者:斯波義重(しば よししげ)
築城年:1405年
指定文化財:無

【歴史】

1405年、室町幕府管領であった斯波義重(幕府の宿老)によって下津(おりづ)城(将軍宿泊施設)の別郭として築城。
応仁の乱の戦火が広がり1476年に下津城が焼失。
その影響で1478年、守護所が清洲に移転することになり申した。
この移転により尾張国の中心は清洲城、清洲となった。

1555年、那古野城から織田信長様が入城。
本能寺の変(1582年)の後に信長様の次男、織田信雄様が入城し改修。巨大な城郭へと姿を変えた。
その後城主は、豊臣秀次、福島正則と移り、関ヶ原の戦い(1600年)では東軍の最前線拠点となった。
関ヶ原以降の城主は松平忠吉、徳川義直が務め、大変な賑わいを見せて天下の名城と讃えられる。
1610年、名古屋城築城に伴い清洲城を廃城し『清洲越(きよすごし)』が行われた。
尾張の拠点は清洲から名古屋へ。清洲城の資材を再利用して名古屋城は築城された。

現世では1989年、清洲城模擬天守閣を建設
入口から入って目の前には、桶狭間の戦勝祈願をした信長様が勝利の感謝に熱田神宮へ贈った築地塀(信長塀)が再現される。
館内に、清洲の歴史を学べる展示物から、武士の暮らしを再現、桶狭間の戦いや火縄銃の体験などが充実。
天守閣から「名古屋城」を含んだ名古屋の街並みを一望することも可能である!

では、いざ清洲城へ出陣!
おうーーーーーーーーー!!!!

清洲城

清洲城、名古屋駅

【名古屋駅から出陣】

尾張の玄関口名古屋駅から始まる我が連載。

清洲城、名古屋駅

【残金70253円】

※我が連載は己の金子で巡る。即ち費用は幾らかかるのか。
民にとって物見遊山は手軽なものではない故に、我が連載を費用の目安に致せ!

清洲城、名古屋駅

【JR名古屋駅→清洲駅】

名古屋駅から清洲駅まで行軍。何と「200円」というお手軽な金子!!
名古屋城ついでに巡るのに誂え向きと言えよう。
電車なる鉄籠で参るとたった…7分という早さ。恐るべし鉄籠。
これが戦国の世にあったらば早朝起きで急いで清洲城を出立して今川軍の油断を狙う必要も無かった。
【桶狭間の戦い】は清洲城から始まる。
戦国史好きにはたまらんじゃろ?

鉄籠に揺られて外を見ておれば。

清洲城、清洲駅

【清洲駅着陣】

信じられぬ早さで着陣!
清洲駅前には清洲の街を分かり易くした案内板が立っており、先ずは此れを見て現在地を確認して清洲城へ向かうぞ!!
清洲の歴史についても記されており駅から楽しめる!

【清洲の商人が今の日本を支える!?清洲ブランド】

ところで皆知っておるか?
名古屋の百貨店・松坂屋と竹中工務店の創始者が清洲の商人であった事をば!

尾張の中心・要所として栄えたのは冒頭でも伝えたが。面白き話が御座る!
清洲から名古屋へ街を引越しした【清洲越】の時に多くの商人達も名古屋に引っ越し。
尾張藩の中で特権的な地位を確立!

実は、清洲出自であることは商人にとって一つのステータスなるブランドで御座った!
代表的な人物が名古屋の百貨店・松坂屋の創始者『伊藤祐道』
竹中工務店の創始者『竹中正高』である。
清洲越商人の多くは元々武士であったが、江戸時代へ時代が移りゆく中で、自らの生き方を改め申した!
此れが大きな成功を収め、城下が名古屋へ移った後でも清洲出身の人々が活躍し続け申した。

今で申すところの福岡で麵屋? 東京の渋谷・原宿で服屋?
清洲商人はそれだけでブランドであった!
今や日ノ本を轟かす企業にまで成長しておる!
今も甲冑職人がおったりと商いの町でもあるぞ。

清洲城、清洲駅

【駅から清洲城へ】

駅から清洲城まではちと距離があり歩く。
先に申した商いの賑わいも町から見ることができる。
途中で斯様な案内板がある故に迷うことなく参れる。
確と看板を探しながら進めい!

清洲城、天守閣

【清洲城着陣】

どーーん! どうじゃ? 朱色の橋の先に見える壮大な天守閣は!?
色合い鮮やかで傾いておって此の景観あっぱれじゃ!
着陣迄は、十分ぐらいかのぅ。
此処が大手。つまり正面じゃ!

此の大手橋は『五条川』に掛けられておる。
五条川は28キロの全長で大きな川に候。
見所は春になると桜が此の道沿いに咲き誇るとか!!
朱色に桃色とは、中々目にすることが出来ぬ景観であろう!?

清洲城、復元石垣

【清洲城の復元石垣】

清洲城の天守閣に突入する前に…大手橋のすぐ近くには必ず見て欲しいものがある。
此方! 石垣である。

ん? いつの時代の石垣じゃと?
此れは清洲越直前の本丸石垣である!
築城期は古い清洲城であるが、後に改修を重ねる。
江戸時代の時に築城した石垣ということじゃ。

清州城、石垣

【石垣構造】

此処の更なる見所が石垣の構造を目にすることができる!
石垣の表面だけでなく、裏側、石垣の地盤はどうなっているかを目視できる!
非常に分かり易い造りである!

一つ前の写真の【注目】からも分かる通り、石垣の下部分には【胴木】が見えるであろう?
石垣の基礎は、軟弱な地盤に耐えられるように『松の木』を用いた『梯子胴木』を敷いておる!
石垣は『野面積み』といったよくある石垣である!
清洲は川も近く水害問題も当時はあった故に水捌けが良い野面積みであるし、松の木を用いておるのじゃ!

清州城

【天守閣と青空と織田家と儂】

石垣の目の前には斯様な写し絵板がある!
桶狭間の戦いを彷彿させる信長様の甲冑姿と帰蝶様の…面がくり抜かれて
観光客が面を当て込めるようになっておる。

儂も信長様に成りきってみた!
…何とも言えぬ気持になり申した。ワッハッハハハハ
人に成りきるのは好かん!儂は儂じゃから!!
皆は友や一族と参ってどっちがどっちをやるか。
お決まりの拳戦(ジャンケン)とやらで決めるが良い。その方が物見遊山が盛り上がるものよ!
旅は派手に、豪快に!悔い残さず全力で楽しめ!!!

清州城、天守閣、大手門

【大手門】

大事な寄り道を致して(後でまたするが)
早速清洲城大手門から城内に入城致す!!
実に立派な大手門は『模擬大手門』となり申す。

清州城、天守閣、大手門
 

【入口に見所多し】

模擬大手門は『高麗門』造りになっておる!
高麗門は寺社仏閣にも良く見られる門であるが、戦国時代では最先端の門である。
守備側の死角を減らす門であり、異国出兵に参った際に用意した最新兵器の一つが此の高麗門なんじゃ!
加藤清正は、出兵から帰ってきて熊本城を築城した折にも、此の新式の高麗門を早速造ったぐらい、守備力に定評がある!

黒鉄門(鉄製)で鉄砲に耐えうる素材であり、燃えにくい門であるな。
重厚感があって儂は好きだで!
して、最大の見所は、何かと申すと。此方!!

清州城、信長塀

【信長塀】

熱田神宮にある『信長塀』知っておるか?
桶狭間の戦いの折に熱田神宮で戦勝祈願をした信長様は感謝の気持ちを込めて塀を奉納した。
其れが信長塀と申す。
清洲城の大手門横にはその信長塀を見本とした塀があるのじゃ!
珍しかろう?

信長塀は土と石灰を油で固めたもので、日本三大土塀の一つに数えられる。
是非に熱田神宮の本家信長塀も見てもらいたい!

して、この清洲城が土塀に力を入れる理由がもう一つ御座る!

清州城、羽柴秀吉

【秀吉の偉業】

此処にきて『羽柴秀吉』様の話をば!
実は、まだ木下藤吉郎の時分の秀吉様は
此の清洲城時代で偉業を成し遂げており出世の足掛かりを手にした!

【三日普請伝説】

ある日、暴風雨で清洲城の塀が崩れてしまったそうじゃ。
信長様は急いで塀を直すように命令を出した!
信長「敵がいつ攻めてくるか分からぬ。城は命じゃ!早う直せ!」
普請奉行の兵「ははぁー」

時が経ち。
二十日経っても修繕が終わらない。
秀吉「二十日経っても直せないなんて、本当遅いですなぁ」
奉行「なんじゃと? 貴様新参者の小者のくせに」
信長が仲裁に入り、秀吉に怒る!
秀吉「信長様、確かに拙者は大きな口を叩いたかもしれませぬが、現に工事が終わっておらぬのは事実」
信長「主なら何日でできる?」
秀吉「三日!!!!」
秀吉の無謀な挑戦と思いきや、秀吉には策があった!

【秀吉の策】

・修繕場所を等分化
・作業員もそれに合わせて組を分ける
・作業を最初に終わらせた組は報奨金を出すと競争させた!

見事な作戦で工事は三日で完成!
皆も現世で使える采配で無かろうか?
斯様な話もある故に清洲城にとって土塀と言うのは大事な存在なのじゃ!

清州城、庭園

【中は庭園?】

門を抜けて中へ入城致すと目の前に庭園が!?
防御とは…???
さぁ此度の記事はここまでじゃ!
次回も楽しみに致せ

以上

名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益


清洲城の基本情報
<住所>
愛知県清須市朝日城屋敷1-1
<アクセス>
JR東海道本線「清洲駅」から徒歩約15分

凸伝令

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公式ホームページ https://busho-tai.jp/

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執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)

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