(11人目)は「鳥居元忠」です。
元忠が最後まで守り抜き壮絶な討死をした「伏見城」を訪れてきました。
伏見城は最初1592年に豊臣秀吉が自らの隠居所として指月に築城します。しかし慶長の大地震(1596年)で倒壊。そして翌1597年に今度は1km東の木幡山に新たに城を築きますがそこで秀吉は病没。その後、徳川家康が入り五大老としての政務をここで行います。そして、この関ケ原の前哨戦である伏見城の戦いで焼失、1602年に家康によって再建されますが、1619年一国一城令で廃城となりました。模擬天守が北に1kmの旧桃山遊園地に建てられましたが、耐震化の問題で現在は外から見学できるのみで入城はできません。
私は、模擬天守(写真①-④)、木幡山の城跡(写真⑤⑥:現在は明治天皇御陵)、指月の城跡(写真⑨⑩:現在はマンション)を訪れ当時の様子を想像してきました。
鳥居元忠は家康とは今川家の人質時代から50年間も苦楽を共にしてきた側近中の側近です。上杉景勝に謀反の兆し有りとの知らせが入り、家康は1600年6月16日この伏見城から会津の上杉討伐へ出陣します。その隙に石田三成は挙兵、4万の軍勢で伏見城を囲みました。残された鳥居元忠はわずか1,800の軍勢で13日間籠城するもついに力尽き城は焼かれ討死します。そしてこの時の血染めの天井が、現在京都養源院にあるそうです。
上杉討伐へ出発の前日、家康は元忠と深夜まで酒を酌み交わし、これまでの親子2代に渡る忠義に感謝し、そしてわずかの兵しかこの伏見に残さぬ事を詫びました。しかしその時に元忠は、「殿が天下を取られるには多くの家臣が必要でございます。よってこの城に多くを残すは無駄でありますゆえ、私にかわまず一人でも多くの家臣をお連れ下さいませ」と答えたそうです。それを聞いた家康は元忠の手をぐっと握り涙ぐんで別れたとの事です。美しい話だな~と思いました。
私は木幡山の城跡に立ち(写真⑤)、ここにかつて五重の天守があった事を想像してみました。そして後ろを振り返り(写真⑥)、この眼下に小早川秀秋・島津義弘ら西軍4万の軍勢がいた事を想像してみました。この天守から同じようにこの軍勢を見下ろしながら、鳥居元忠はこれまで家康と過ごした50年間をどのように振り返っていたのでしょうか? そしてなぜ自ら捨て石となる覚悟を決め、散っていったのでしょうか?
【余談】大河ドラマ
「どうする家康」では「音尾琢真」さんが元忠を演じられています(父の忠吉は「イッセー尾形」さん)。家康と元忠のこの伏見城での美しい別れのシーンは果たしてあるのでしょうか?(私は密かに期待しています😊)。
次は(12人目)に続きます。
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