ふしみじょう

伏見城

京都府京都市

別名 : 桃山城、指月城、木幡山城
旧国名 : 山城

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指月伏見城の移設石垣と説明板
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イオ

指月伏見城と城下 (2025/08/09 訪問)

(続き)

城下をめぐる前に、まず指月伏見城から。巨大な方形城館だったとされますが、史料に乏しく所在地も不明で実在が疑問視されていたところ、発掘調査で南北にのびる内堀と東面の石垣、堀に埋められた多数の金箔瓦が発見されたことにより存在が裏付けられました。観月橋団地内のライオンズマンション前に説明板と発掘された石垣が移設されています。

廃城となった伏見城からは、石垣の石材は新しく築かれる淀城や大改修される大坂城に運ばれ、建物は各地の城や寺社に移築されています。これまでの城めぐりでも「伏見城の移築〇〇」という建物は数多く見かけていますが、城下にもいくつかの移築建物が見られました。

御香宮神社(京都市伏見区御香宮門前町)
神功皇后を主祭神とし、豊臣秀吉により伏見城の鬼門除けとして城内北東隅に移されていたのを徳川家康が元の地(現在地)に戻して本殿を造営。徳川頼房は伏見城の廃城にあたって大手門を表門として寄進し、徳川頼宣は拝殿を建立するなど徳川氏にゆかりの深い神社であり、摂社として東照宮が祀られています(豊国社もあります)。ブラタモリで観ましたが、幕府を開いた当初の家康は伏見にいることが多く、頼宣らは伏見の生まれと考えられるそうで、その縁もあっての寄進なんでしょうね。また、境内には伏見城の石垣石があちこちに見られます。

栄春寺(京都市伏見区桃山町丹下)
曹洞宗の寺院で、総門が伏見城の遺構とされます。観音堂には伏見城の戦いの際の血天井が移築されていると云われますが、栄春寺の説明板には血天井の記述はありませんでした。境内奥の墓地は一段高いところにあり、伏見城の唯一現存する惣構土塁です。

伏見城は天下人の城として、豊臣期にも徳川期にも城下に全国の大名屋敷が構えられました。往時の大名屋敷は現存しませんが、 黒田長政下屋敷跡参考地に石碑と説明板が立てられていたり、御香宮神社の南側、福島正則屋敷付近には「黒田節」誕生の地の説明板があったり、何もないように見えるところでも地名に屋敷の名残が残されていたりします。屋敷ではありませんが、仏国寺には伏見城廃城後に伏見奉行に任じられた小堀遠州の墓所もありました。

…てなところで、この日の本題、金龍紀行です。金森長近の伏見屋敷は御香宮神社西隣の「桃山町金森出雲」にあったとされます(石碑や説明板はありません)。長近は飛騨守なので本来なら「金森飛騨」となるところですが、養嗣子の金森可重の出雲守と混同されて伝わったのでしょうか。なお、栄春寺東隣の「深草大亀谷金森出雲町」が可重の屋敷跡と考えられます。

長近は茶人としても知られ、千利休や古田織部とも親交が深く、伏見屋敷で茶の湯を通じて秀吉とも家康・秀忠父子とも交流していました。後に東本願寺を建てる教如も茶の湯仲間であり、家康と教如を引き合わせたのも長近だったようです。家督を可重に譲って上有知に隠居してからも伏見屋敷に滞在することが多かったのも、茶の湯を通じた長近の人脈を家康が手放そうとしなかったからかもしれませんね。そして長近は伏見屋敷で息を引き取っています。
 

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ジェイド

模擬天守は立派だけれど外からの見学のみ (2026/03/03 訪問)

京都駅より近鉄電車にて丹波橋駅で降りて、歩いて伏見城に向かいました。途中福島太夫段差と呼ばれている石垣が続いているところも見学しました。ずっと緩やかな上り坂です。
伏見桃山城は運動公園の中にあり、よって広い有料駐車場も完備された所にありましたが、訪問した際は誰もいなくて寂しい感じがしました。城の内部には入れないために外からの見学のみでした。
帰りに治部池をちょっと見て御香宮神社にて御城印を入手して伏見桃山駅より京阪本線にて大阪に向かいました。約1時間強の行程でした。
模擬天守は想像していたものよりずっと立派でした。

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ジェイド

模擬天守は立派だけれど外からの見学のみ (2026/03/03 訪問)

京都駅より近鉄電車にて丹波橋駅で降りて、歩いて伏見城に向かいました。途中福島太夫段差と呼ばれている石垣が続いているところも見学しました。ずっと緩やかな上り坂です。
伏見桃山城は運動公園の中にあり、よって広い有料駐車場も完備された所にありましたが、訪問した際は誰もいなくて寂しい感じがしました。城の内部には入れないために外からの見学のみでした。
帰りに治部池をちょっと見て御香宮神社にて御城印を入手して伏見桃山駅より京阪本線にて大阪に向かいました。約1時間強の行程でした。
模擬天守は想像していたものよりずっと立派でした。

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イオ

木幡山伏見城 (2025/08/09 訪問)

関白職を豊臣秀次に譲り太閤となった豊臣秀吉が隠居所として指月の丘に築いた城館を始まりとし、拾(後の豊臣秀頼)が生まれると、大坂城を秀頼に与えて、京と大坂を結ぶ交通の要衝を掌握するために伏見城を大規模に改修、自らの居城としました(指月伏見城)。慶長伏見地震で指月伏見城が全壊すると、直ちに指月の北東に位置する木幡山に再建され(木幡山伏見城)、秀吉は没するまで伏見城を居城としました。秀吉が没すると秀頼は大坂城に移り徳川家康が留守居役を務めましたが、家康が会津攻めに向かうと蜂起した宇喜多秀家や小早川秀秋らに攻められ、守将の鳥居元忠らが勇戦するも落城。関ケ原の戦いの後、焼亡した天守をはじめとする建物を再建した家康は伏見城で征夷大将軍の宣下を受けています。家康が駿府城に移ると松平定勝が城代を務めましたが、大坂の陣で豊臣氏が滅亡したことで徳川氏の畿内の拠点としての役割を終え、徳川家光の将軍宣下を最後に廃城となりました。

木幡山伏見城のほとんどが桃山陵墓地として宮内庁管理になっているため、目にすることができる遺構は限られますが、あちこちにわずかに遺る痕跡をたどって歩いてみました。桃山陵墓地南側の駐車場から大階段を上ったところが四の丸(増田右衛門尉郭)、明治天皇伏見桃山陵の奥が本丸、昭憲皇太后伏見桃山東陵の奥が名護屋丸で、立入調査では本丸中心部に徳川期のものと思しき天守台が確認されているようですが、一般人には一生目にすることはかなわないんでしょうね…。二の丸(西の丸)と三の丸の南裾を通る西参道沿いには伏見城石垣と思われる石材が集められています。廃城の際に淀城や大坂城に運び出されたという石垣石の残りでしょうか。治部少丸の西裾を通る北参道沿いにも石垣の石材が点在し、参道からは治部池と呼ばれる内堀の一部も覗いていました。

治部池を過ぎたところで北参道から東に入ったところが御花畑山荘です。駐車場からかつての伏見桃山城キャッスルランドの大手門を抜けると、五重六階と三重四階の連結式天守がそびえ立っています。キャッスルランドのシンボルとして建てられた模擬天守で、耐震性の問題から内部非公開どころか周囲も立入禁止ですが、外観だけでもこれはこれでかっこいいよなぁ、と。御花畑山荘東隣の徳善丸は野球場、その東の大蔵丸は多目的グラウンド、空堀はテニスコートやフットサルグラウンドになっていて遺構は見当たりません。さらに東の弾正丸は住宅地になっていますが、東端に土塁(たぶん)がありました。弾正丸から北側に下りていくと、北側の外堀が伏見北堀公園として整備されています。深さも幅も相当なものがあり驚かされました。

伏見城の南側は河道を付け替えた宇治川が外堀代わりで、山科川との合流点には舟入が設けられていました。説明板によれば、豊臣秀頼に輿入れする千姫はこの舟入から大坂城に向かったそうです。また、舟入跡の北東約250mの桃山東小学校正門内には近くで造成中に発見された伏見城の石垣が移設されています。夏休み中の休日でもあり構内には入れませんでしたが、門越しに見ることができました。

さて、木幡山に続いては指月伏見城と城下をめぐるとしましょう(続く)。

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城郭情報

分類・構造 梯郭式平山城
天守構造 型式不明(指月山)[階層不明/1594年築/倒壊(地震)]、望楼型(木幡山)[5重?/1597年築・1601年再/解体]、複合式望楼型[5重6階/1964年築/RC造模擬]
築城主 豊臣秀吉
築城年 文禄元年(1592)
主な改修者 徳川家康
主な城主 豊臣氏、徳川氏
廃城年 元和9年(1623)
遺構 曲輪、移築門、石垣、横堀
再建造物 模擬天守、石碑、説明板
住所 京都府京都市伏見区桃山町
問い合わせ先 京都市産業観光局観光部観光企画課
問い合わせ先電話番号 075-222-4130