ふしみじょう

伏見城

京都府京都市

別名 : 桃山城、指月城、木幡山城
旧国名 : 山城

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城碑
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WEST

伏見桃山城探訪 (2024/04/12 訪問)

伏見城を訪問しました。伏見城の本丸跡は明治天皇陵となっていますが、今回行く先はお花畑山荘跡にある模擬天守や門がある場所です。京阪本線丹波橋駅を降り、徒歩15分程度で着きます。(緩やかな坂道を登ります)
天守は観光用で建てられたのもので、現在は耐震の関係で内部に入ることはできません。しかし、天守や門は荘厳でなかなか見ごたえがあります。
訪問時は桜が綺麗に咲いており、天守も映えますね。
お城訪問後、伏見城の遺構の一部がある御香宮神社を参拝しました。この神社の神門が伏見城大手門とのことです。お城から徒歩10分程度ですので、是非訪問してみてください。

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Tokyobay

明治天皇陵が本丸跡だったとは (2024/01/13 訪問)

修学旅行で来て以来数十年ぶり。確か城に登って夜景を見たような記憶が。そして、明治天皇陵が本丸跡だったとは。でも、徳川が廃城にした本丸跡地を明治天皇陵に使うって当時の政府の判断はどうなんだろうか?何らかの意図はあるんだろうが。まあ、眺めはいいんだけど。ちなみに階段は結構大変なんだが、近所の小学生の女の子が何度も往復していて驚く。
その他、堀跡を利用した滑り台が面白い。グランドやテニスコートになっている場所が堀跡だったというのは「ブラタモリ」を見るまで知らなかったが。それにしても巨大な城である。

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モト

元忠の想いを想像しながら (2023/07/07 訪問)

鳥居元忠が命と引き換えに家康を天下人にするきっかけを作って自死した歴史ある伏見城です。
跡地に建っている模擬の天守が老朽化もあって立ち入り禁止になっています。
その朽ち具合が逆に非常に雰囲気を出しておりました。

しかし、私はこれも知りませんでした。
この天守が、かつてここにあった遊園地の1つだったという事を…。
元忠の死や家康、秀吉が滞在したりと歴史的にも多く登場する伏見城です、昔から伏見城と検索すると画像が出てくるこの天守に、これが城跡の確固たる建物だと思っておりました。
まぁ、天守の像にある程度似せた造りなのでしょうし、カッコは良いです。
しかもほんと朽ちた建物はかなり雰囲気が出ていると思いました。
雰囲気は充分に味わう事ができました。

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トク

⑳【関ケ原の26人】(11)鳥居元忠 (家康と元忠-伏見城の別れ) (2023/02/09 訪問)

(11人目)は「鳥居元忠」です。
元忠が最後まで守り抜き壮絶な討死をした「伏見城」を訪れてきました。

伏見城は最初1592年に豊臣秀吉が自らの隠居所として指月に築城します。しかし慶長の大地震(1596年)で倒壊。そして翌1597年に今度は1km東の木幡山に新たに城を築きますがそこで秀吉は病没。その後、徳川家康が入り五大老としての政務をここで行います。そして、この関ケ原の前哨戦である伏見城の戦いで焼失、1602年に家康によって再建されますが、1619年一国一城令で廃城となりました。模擬天守が北に1kmの旧桃山遊園地に建てられましたが、耐震化の問題で現在は外から見学できるのみで入城はできません。

私は、模擬天守(写真①-④)、木幡山の城跡(写真⑤⑥:現在は明治天皇御陵)、指月の城跡(写真⑨⑩:現在はマンション)を訪れ当時の様子を想像してきました。

鳥居元忠は家康とは今川家の人質時代から50年間も苦楽を共にしてきた側近中の側近です。上杉景勝に謀反の兆し有りとの知らせが入り、家康は1600年6月16日この伏見城から会津の上杉討伐へ出陣します。その隙に石田三成は挙兵、4万の軍勢で伏見城を囲みました。残された鳥居元忠はわずか1,800の軍勢で13日間籠城するもついに力尽き城は焼かれ討死します。そしてこの時の血染めの天井が、現在京都養源院にあるそうです。

上杉討伐へ出発の前日、家康は元忠と深夜まで酒を酌み交わし、これまでの親子2代に渡る忠義に感謝し、そしてわずかの兵しかこの伏見に残さぬ事を詫びました。しかしその時に元忠は、「殿が天下を取られるには多くの家臣が必要でございます。よってこの城に多くを残すは無駄でありますゆえ、私にかわまず一人でも多くの家臣をお連れ下さいませ」と答えたそうです。それを聞いた家康は元忠の手をぐっと握り涙ぐんで別れたとの事です。美しい話だな~と思いました。

私は木幡山の城跡に立ち(写真⑤)、ここにかつて五重の天守があった事を想像してみました。そして後ろを振り返り(写真⑥)、この眼下に小早川秀秋・島津義弘ら西軍4万の軍勢がいた事を想像してみました。この天守から同じようにこの軍勢を見下ろしながら、鳥居元忠はこれまで家康と過ごした50年間をどのように振り返っていたのでしょうか? そしてなぜ自ら捨て石となる覚悟を決め、散っていったのでしょうか?

【余談】大河ドラマ
「どうする家康」では「音尾琢真」さんが元忠を演じられています(父の忠吉は「イッセー尾形」さん)。家康と元忠のこの伏見城での美しい別れのシーンは果たしてあるのでしょうか?(私は密かに期待しています😊)。

次は(12人目)に続きます。
 

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城郭情報

分類・構造 梯郭式平山城
天守構造 型式不明(指月山)[階層不明/1594年築/倒壊(地震)]、望楼型(木幡山)[5重?/1597年築・1601年再/解体]、複合式望楼型[5重6階/1964年築/RC造模擬]
築城主 豊臣秀吉
築城年 文禄元年(1592)
主な改修者 徳川家康
主な城主 豊臣氏、徳川氏
廃城年 元和9年(1623)
遺構 曲輪、移築門、石垣、横堀
再建造物 模擬天守、石碑、説明板
住所 京都府京都市伏見区桃山町
問い合わせ先 京都市産業観光局観光部観光企画課
問い合わせ先電話番号 075-222-4130