2023/05/22
前田慶次の自腹でお城めぐり 【第19回】凸掛川城 後半~珍しすぎる御殿~
お城に関する豊富な知識を持つ「名古屋おもてなし武将隊」の一員・前田慶次様が、全国のお城を実際にめぐりながら歴史・特徴・魅力を解説。今回は、大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康ゆかりの城で、“東海の名城”とも呼ばれた掛川城(静岡県掛川市)の後編です。日本でわずか4城という貴重な現存御殿を隅から隅までじっくりめぐり、それぞれの場所が当時どのように使われていたか解説します。
▼前編はこちら
皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。
此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。

前田慶次齢四八十一歳。戦国の世では天下御免ノ傾奇者として名を馳せ申した。現世に蘇りは名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に名古屋を世界一の観光都市にせんが為、日々戦働きに勤しむ。
演武といったパフォーマンスなるものを披露し、電波放送戦(テレビやラジオ)は常戦番組(レギュラー)を持ち、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十四年目を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。
伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、此度から城びとでの連載を始める次第。
題して

【前田慶次の自腹でお城めぐり】
他の連載と何が違うのか!?
・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見れる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!
全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、
其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。
ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。。
凸掛川城 城郭の魅力度を数値化

近年復元ブームの先駆けの城!

※修復工事中
【基本情報】
城郭構造:平山城
主な築城者:朝日奈泰熙(やすひろ)、山内一豊
築城年:1469-1486年(文明年間)
廃城:明治2年(1869)
指定文化財:国の重要文化財(二の丸御殿)
【歴史】
■今川家重臣が築城
掛川城より東に500メートル程離れた地に「掛川古城」は文明年間(1469-86)に築城!
駿河守護大名の今川家が遠江支配拠点として重臣朝日奈に築城させた!
その後、現在の地に掛川城が築城!
■大名今川家最期の城
永禄11年(1568)今川義元の子、氏真は甲斐の武田軍に攻められ掛川城へ立て籠もる!
翌年、徳川家康が掛川城を攻め開城。大名として名を馳せた今川家が滅亡(権威を失う)した最期の城!
徳川領となり、重臣石川家が入城し武田への防衛拠点となった!
■山内一豊時代
天正18年(1590)全国を平定した豊臣秀吉が徳川家康を関東へ移す。
家康の旧領土は秀吉の家臣の大名が支配し掛川城には山内一豊が入城。
城の拡張・城下の整備を行うと共に掛川城に初めて天守を建てる!
■東海の名城時代
江戸時代に突入すると徳川家康の血筋である松平家や
江戸城築城者である太田道灌の子孫など、譜代大名が居城とした。
貴族的な外観を持つ天守の美しさは「東海の名城」と謳われた!
■廃城
然し、安政の大地震(1854)により天守を始め大半が損壊し、
御殿・太鼓櫓・門一部を除き再建されることなく明治時代を迎え、明治2年廃城!
■最近
天守台・本丸跡など一帯は公園となる。
天守は平成6年(1994)に市民の努力が実を結び木造で再建された!


【古地図から読み解く驚きの数々】
前回に引き続き古地図を見て現在と照らし合わせる!
城郭巡りにおいて、古地図との比較は初心者~玄人まで皆が楽しめる方法である。
此れを見て、我等がおる場所は恐らく「松尾曲輪」という場所である。
本丸より低い所に位置し本丸は土塁で盛られており登るのは難儀であるのが分かる!
本丸へ参るには、二之丸と三之丸を通っていく必要性があり強固な守りである。
また、二之丸御殿もあったそうじゃ。
堀は埋め立てられておるのか、建築物は、城下町の変化を確認してちょ!
掛川城の場合は門や櫓等の建築物が殆ど残っていないことが分かる。
然し乍(なが)ら、残っておる面白い堀が目の前に御座ったぞ!

【三日月堀は深い】
本丸門前に残されし堀! 発掘調査によると深さはなんと8mもあったそうじゃ。
8mの堀に落ちれば登って脱出するのは容易ではない。
平山城の掛川城の特性を活かし堀の守備力に長けた造りのようじゃ。


【掛川城御殿は珍しい】
続いて参ったが掛川城の見所の一つである、御殿じゃ!
現世では重要文化財に指定されておる。
何が凄いのかと申すと“現存”する御殿であること。
御殿は基本的に城主の居住空間である。
公的は仕事としても使用する御殿もあるし、私的と公的の双方機能する御殿も多い!
慶次「名古屋城本丸御殿は旧国宝第一号であり、完全復元された御殿で大変賑わいを見せておる。
大大名の御殿であり将軍の宿泊施設だで豪華絢爛な造りが目を引く。
掛川城の御殿は学校や市庁舎としても利用され民に寄り添った珍しい御殿である!」
掛川城御殿は先に伝えた私的公的の両方を兼ね備えた御殿である!
武家風書院造で1972年から3年間に渡って修繕し国の重要文化財指定を受け申した。
創建当時の面積は330坪!(因みに儂の尾張時代の屋敷もそれぐらい広いぞ)
木造瓦葺の下見板張り造りである!
慶次「では中へと参ろうか。己の屋敷と比べ当時の人間がどう住んでいたのか想像すると良いぞ」

車寄(くるまよせ)=玄関と御広間は資料や徳川家康様の甲冑が展示されておる!
「どうする家康」効果流石じゃな。

廊下は竿縁(さおぶち)天井で質素な造りながらも釘隠し等もあり、公的に使用されたのが分かる!

【見易い鳥瞰図】
当時の姿を鳥瞰図にて目にする事ができる。古地図よりも立体的で非常に分かりやすい。
正門・搦手門は櫓門であった事が分かるし、天守丸の下部には腰曲輪も存在しており
二重櫓も構えており一通の道ゆえに突破できるかどうか。
慶次「武辺者の儂でも掛川城突破は相当苦労するであろう。見事な造りである。
徳川家も武田との戦であったりとこの地一帯が激戦を繰り広げた土地であるという事が分かるのう」

皆々に時を報せる大太鼓が御座った!
当時は時計が存在せぬ故に、太鼓で時を報せるというのが普通であった。
現世で例えると、学校のチャイムと同じ役割かのう。


【徳川家の財布事情に驚いた】
この辺りは御書院。公的空間場所となっておる!
儂がおる場所が上の間にて城主が居座る場所である。
床の間と違い、棚と脇には付け書院を略した障子窓もある! 豪華な造りといえる。
ほいで儂も驚いたのが、掛川城御殿は全て畳敷きなのじゃ!
読者「慶次様、昔は畳が当たり前田ですよね?」
慶次「否! 畳は当時としても高級品じゃ。しかも掛川城御殿は築城時から総畳敷きと聞く。
徳川家譜代の城らしく格式を重んじていたようじゃ。板敷でもおかしくないのに見事じゃ!」


【身内玄関は御談の間】
案内されてやって参ったのが、御談の間である!
此処も玄関として機能しており
藩主や家老は表の玄関から入城しそれ以外の武士はこちらから入城致す!
足軽は更に北側の土間から入る。
身分によって玄関が違うのも武士文化の面白き所。
貴重な資料の一つである掛川城が地震にて倒壊した箇所を幕府に伝えた図面も残っておる!
本丸御殿は地震(安政の東海大地震)で倒壊し、現在の御殿地に移動。
また、現在の修繕を経て姿を残しておるが、「厠(かわや)、台所」等は復元されておらず。
全国に多くの城郭があるが、地震を乗り越えて皆今現存しておるわけじゃ!

【役所の爪痕残る御殿の生き残った証】
先にも伝えたが御殿は市庁舎としても現代で活躍した。その仕事場となった跡が柱等に残されておる。
これまた、珍しい爪痕と言えよう。利用したからこそ、このように現存できたわけじゃ。
もし武家たる価値観を押し付けておったらば破壊されて
残る事も無かったと考えると、結果よしである。


【城主からの贈り物?】
此処からは対面所。対面所は私的空間である。
小書院と名付けられ此の掛け軸は城主太田殿が書いた作品で己の妾に贈ったそうじゃ。
真実は分からぬが、そういわれておる。
長囲炉裏の間では煙出しが付いており料理を温めた場所なのが分かる!
また、多くの展示物もあり、個人所有であったものを掛川城の繁栄を願って寄贈されたものも多く展示しておる!



【東側は生々しい部屋が沢山…】
ちと明かりが暗くなっておるこの辺りは御殿の東側に位置する。
藩政関連の部屋が多く、役職の人間の部屋、警護の詰め所、帳簿付けの賄い方、書類の倉庫、
今でいう牢屋的な部屋などなど。
というご覧の部屋故に、城主はほぼ使わぬ故に畳敷きではなく
板張りとなっておる。普通はこれだでな!!
ほいで、長持(タンス)などの展示物もある!
また、この階段は二階へ登ることができ、現在は登れんが書庫になっておるそうじゃ。

天守の改修工事も終わったらば、御殿と合わせて良き写し絵は景観が楽しみじゃ!!


天守丸へは工事故に行けぬが、太鼓櫓前までは参れたぞ!
此処から敵軍が参ったらば太鼓を打ち鳴らし城内へ伝令する大切な役目。
どこの城にも存在する定番の建物じゃ!
天守へは完成してから後日参ろうと致そう!
皆も天子版(ホームページ)で工事か否かは事前に確認するんだで!!

【掛川市二の丸美術館】
こちらは地元の実業家木下殿が建設費や美術品として展示する貴重な資料等を寄贈し1998年に開館された!
中は実に清潔感があり掛川の歴史が分かり易く展示され、
嘗(かつ)ての貴重な資料が丁寧に展示されており一見の価値あり。
ここを見てから城内を巡るのも良いやもしれん!


【御殿裏にも守り】
御殿裏には「黒土塁」と呼ばれし土塁がある。
これは外から御殿が見えないように土塁を盛ったのじゃ。
外から隠す為の土塁を黒土塁と申す!
入城すると立派な御殿がある故に、外からやって来た者は驚くというわけじゃ!
城内を巡り腹も減った故に掛川名物を食べに参る!



【掛川の老舗・大和田にていも汁】
日本料理を提供する大和田へやって参った! 何と創業150年! 老舗じゃ!!
掛川もうなぎが有名と聞くが、儂が頼んだのは「いも汁」である。
いわゆる「とろろご飯」に候。
土鍋で炊いたご飯ととろろが絶妙である。
ズルズルと食べられる故にあっと言う間に器にあった飯が無くなってしもた。
誠に美味かったぞ!!
丼ものから定食まで幅広く提供しており、店内も古き良き造りで、
落ち着きが良く長居したくなる、地元に愛される店であった!
店舗情報:掛川駅北口から徒歩9分。静岡県掛川市仁藤町1-4

【まとめ】
さぁ如何であったか?
現在大河ドラマの影響もあり静岡県は徳川様の領土の城に注目が集まっておる。
今川家から徳川家が支配し、徳川譜代の家臣達が城主を務めた掛川城。
全国に先駆けて木造にも着手し、多くの城の手本となり現存御殿といった歴史的価値が非常に高いものも残っておる。
今後より注目されて欲しい城であった。
また、斯様な素晴らしき城は一個人の寄贈や寄付などによって成立しておる事も大切な情報である。
過去の資料も多くあるが、不明な点も多く今後の復元事業にも期待して参ろう!
して、我が連載が為の残金20849円である。
次は何処の城へ参ろうか。多くの城と物見遊山は観光の魅力を伝えて参るぞ!
次回の記事も楽しみにしてちょ!
以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益
凸伝令
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▶「【第19回】凸掛川城 前編
執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)