2023/09/05
前田慶次の自腹でお城めぐり 【第21回】凸岩村城 前編~日本三大山城の一角~
お城に関する豊富な知識を持つ名古屋おもてなし武将隊®の一員・前田慶次様が、全国のお城を実際にめぐりながら歴史・特徴・魅力を解説。今回は、日本三大山城の一つに数えられる岩村城(岐阜県恵那市)の前編です。城下町から岩村城へと進軍する道中で、麓にある岩村歴史資料館に立ち寄った慶次様が、注目の展示品を紹介しながら岩村城の歴史を解説します。
皆の衆、我こそは名古屋おもてなし武将隊天下御免ノ傾奇者前田慶次である。
此度(こたび)城びとと同盟を結び、此の前田慶次が連載を持つ事と相成った。
先ずは、名乗りを上げよう。
前田慶次齢四八十一歳。戦国の世では天下御免ノ傾奇者として名を馳せ申した。現世に蘇りは名古屋おもてなし武将隊の一角として、名古屋城を拠点に名古屋を世界一の観光都市にせんが為、日々戦働きに勤しむ。
演武といったパフォーマンスなるものを披露し、電波放送戦(テレビやラジオ)は常戦番組(レギュラー)を持ち、全国各地に遠征を繰り広げる。
結成十四年目を迎え、全国の武将隊の先駆けとして日ノ本を代表とする武将隊である。
して、儂前田慶次は現世に蘇り歴史の語り部として多くの戦に出陣して参った。
伝統芸能を伝える舞台出陣、歴史学者との対談、寺子屋(学校)での歴史授業。
名古屋城検定名誉顧問に叙任され、検定過去最高得点を叩き出す。
日本城郭検定にも挑戦し合格。
日ノ本が誇る歴史文化をより多くの者に伝えるべく、此度から城びとでの連載を始める次第。
題して
【前田慶次の自腹でお城めぐり】
他の連載と何が違うのか!?
・現世に生きる戦国武将自らが感じたことを紹介!
・傾奇者による城郭魅力度数値化!
・城巡りの手引書(案内)となる!
・地域の特色を織り交ぜ、観光が楽しくなる!
・イケメン(前田慶次)が見れる!
・要点を抑えた紹介!
・兎に角分かりやすい!
全国の城に直接己が足で出向き、城の見方、歴史を伝え、
其の城の傾き所(見所)や天守閣、男前田度(イケメン)を前田慶次の独断で評価する。
歴史初心者から玄人まで楽しめる、国宝連載となっておる。
ただ城を巡るのではなく! 儂の金子(金)で城に登城する。つまり限られた金子で巡る
旅の道中劇にも注目してもらいたい!!
また巡り方については、王道の道順を歩む故に参考にすると良い。
凸岩村城 城郭の魅力度を数値化
六段壁の石垣は必見!
【基本情報】
城郭構造:山城
主な築城者:遠山頼景
築城年:永世年間(1504~1521。1508年築城が有力)
廃城:明治6年(1873)
指定文化財:岐阜県指定史跡
【歴史】
■永正年間?鎌倉時代?に築城
遠山頼景により築城される!
永正5年(1508)が有力とも言われるが、永正年間(1504年~1521年)に築城されたそうじゃ。
また、源頼朝の重臣加藤景廉(かげかど)によって築城されたという伝承もあり!
となると鎌倉時代から存在することになる!
■織田信長と武田信玄の最前線となった岩村城
天正3年(1575)長篠の戦いに勝利した織田信長が
武田方となっていた岩村城を包囲して攻める。
約5ヶ月に及ぶ籠城戦の末、落城。
城将達が磔にされ、遠山家も命を落とし遠山岩村氏は滅亡した。
■近世城郭へ大改修
本能寺の変の後に東濃支配の拠点であった金山城の城主森長可の家臣、各務兵庫が入城し
近世城郭へと大改修し、この時に石垣の城となった!
天正12年(1584)小牧長久手の戦いにおいて徳川方が岩村城を落とす!
■関ヶ原以降は松平家
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は松平家乗が2万石で入城し岩村藩が立藩!
慶長6年(1601)松平は岩村城の整備と共に麓に藩主鄭を築城し居館とした。
寛永7年(1630)に本丸が完成!
■廃城へ
明治6年(1873)の廃城令により建物はすべて撤去され石垣のみ残る!
藩主鄭は残されていたが、明治14年(1881)に全焼した。
■最近
昭和47年(1972)に岩村歴史資料館が開館。平成18年(2006)日本100名城に指定される。
【名古屋駅から出陣】
尾張名古屋の虎口(玄関口)である名古屋駅から出陣する我が連載企画。
此度参るのは、織田と武田の争奪戦が展開された山城!
美濃国は岐阜県の岩村城である!
現世では日本三大山城の一角に指定される!
此の企画は我が金子を使い巡っておる次第。現在我が残金は1万5079円である!
慶次「金子減ってきたのう…。此度は幾らほどかかるのか」
観光する際の参考にもしてちょ。
JR名古屋駅から中津川行へ乗車也。鉄籠は誠便利である。
恵那駅乗り換え虎口。
【愉快な鉄籠旅】
恵那駅着陣! 明知鉄道へ乗り換えを行って参る! 岩村駅までいざ!
此の鉄籠は明智様仕様になっており歴史好きには大興奮の鉄籠であろう。
慶次「儂としてはちと織田家時代を思い出すような仕様で懐かしい心持ちであった
(儂も嘗(かつ)ては織田軍の末席として戦場を転戦しておった)」
岩村駅までの道中、停車する箇所、傾いた箇所が幾つか御座った!
電車が停車する駅として、傾斜日本一であるとか、
農村景観日本一が見られたりと美濃の魅力を知るにも良き鉄籠である!
慶次「車内では運転手が『車内での抜刀はおやめ下さい』と声掛けをするという
見事なおもてなし力を発揮し車内は大爆笑であった。
聞くと乗車する人を見てアナウンスを変えておるそうじゃ! 天晴である!
皆も運が良ければ斯様なアナウンスが聞けるやもしれんぞ?」
岩村駅に着陣! 景観も楽しみながらであった故にあっと言う間であった!
此処から岩村城まではバスなる鉄籠で最寄りまで移動であるぞ!
岩村上町に着陣! 岩村城下町が目の前である故に、
城巡りだけでなく観光としても使用するのが良さそうじゃ!
【重要伝統的建造物群保存地区の岩村城下町】
岩村城下町・本通りは商家の町並みが残されており、
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、町歩きするだけでも楽しめるぞ!
特に商家やナマコ壁などが今も見る事ができる故に、非日常を体験する事となろう。
先ずは岩村城へ参る故に帰りに城下町は再び参ろうと思う。
何か見えて参ったぞ!
【岩村歴史資料館・藩主邸太鼓櫓は平和の証】
岩村城麓には、こちらの岩村歴史資料館と太鼓櫓があり申す。
これを目指して城下町から進軍すれば岩村城は目と鼻の先である!
此の壮大な太鼓櫓であるが「ふるさと創生事業」の1億円で
平成元年から2年にかけて復元され、現在岩村城の象徴的な建物の一つである!
慶次「嘗て、太鼓櫓は侍女が叩いておったそうじゃ。実に珍しいではないか。
また、太鼓櫓であるが時を伝える役目として機能したそうじゃ。
此の太鼓櫓が建立した時分は、藩主松平家乗が世の中は平和となった。
城は山頂としての機能より麓で政をすべきであろうと考え
この地に慶長6年(1601)藩主邸を構えた時に太鼓櫓も建立された。
時を報せ藩主と領民を繋ぐ大切な役割を担った太鼓櫓である!」
映えた慶次! 皆も写絵ならば此処が勧めぞ!
登り表御門を潜ると…
藩主邸が構えられた広大な敷地となっておる!
奥に見えるのが岩村歴史資料館である!
資料館の目の前にある壮大な赤松は江戸期からの木だそうじゃ!
嘗ての岩村城を見てきた大木は見事である故に見逃すでないぞ!
資料館1階 岩村城跡全体図。山城らしく自然地形を活かした城である!
2階 多くの資料が展示される!
日本で唯一? 儂も驚くあれが展示されておった…!
【岩村歴史資料館にて学ぶ】
昭和47年(1972)藩主邸跡に開館!
2階建ての資料館の見た目は白壁に入母屋造だで
戦国・江戸期を感じさせる外観となっておる!
中は1階、2階共に歴史的資料を多く展示しておる!
また、此処で「瓦版、リーフレット類」も手にする事ができるぞ!
儂が気になった資料を幾つか紹介致そう!
【名古屋との共通点?】
2代目藩主松平乗寿(のりなが)の具足である!
15歳にして岩村藩の藩主となった乗寿であるが、名古屋との共通点がある!
大坂冬の陣で初陣を飾ったそうじゃ!
同じく名古屋の初代藩主徳川義直も大坂冬の陣で初陣!
互いに藩主になりたてで初陣とは。思わず目を惹いた。
此の具足を身にまとい夏の陣でも武功を挙げて活躍した故に
此の具足は岩村藩の家宝となったそうじゃ。別名『血染めの鎧』と申すらしい。
慶次「縁起担ぎというやつじゃな!血染めとは恐ろしく言うたものじゃ。
比類なき活躍振りであったのであろう。
まぁ慶長出羽合戦の儂以上の活躍ではないと思うがな! ワッハハハハハハ」
【大改修!一から築城する気?】
此方ご覧の通り古地図となっておる!(享保三年岩村城絵図 県重要文化財指定)
写絵ではちと確認が難儀であるが、地図の中に「赤線」がえりゃー数引いてある!
此の赤線は江戸期の地震で石垣が崩れて修繕した箇所となる!
故に石垣は基本的に18世紀~のものとなっておる!
また、縄張も江戸期になり申す!
慶次「え?岩村城古いお城ですよね?と思うたお主!」
堀切は戦国期~であるが、それ以外は江戸期となっておる!
松平家が藩主になってから30年掛けて大改修しており、
一から城を築城するかの如き変化であったそうじゃ!
現在の城下町を形成したのは丹羽家である!
丹羽家は江戸時代に数十年間のみ藩主を務めておる!
岩村藩は松平家が長年藩主を務めておるぞ!
【日ノ本唯一の目安箱!】
現世の者でも耳にする機会がある目安箱!
江戸幕府8代将軍徳川吉宗が考案した江戸時代の文化に候。
民衆の意見を聞くという事で各地でも置かれるようになる。
岩村藩に斯様に御座るが、何と当時の現物として展示しておるのは岩村のみだそうじゃ!
慶次「此れは誠に貴重である!
何気によく聞き、目にするものであるが現物見たくば、岩村へ参るのじゃ!」
【源頼朝公に付き従ったあの人物が…】
武家界における伝説のお方、鎌倉幕府創設者源頼朝公。
平家との戦いで苦しい青年期であったが、
反撃の狼煙として平家方の山木館を襲撃し勝利を収め、
奇跡的快進撃で源氏の世を創られた。
その起点となった山木館襲撃で活躍した、
加藤景廉は此の地の地頭となり岩村城創築の祖と言われておる!
慶次「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を視聴した者には、
熱き場面であった故に記憶に残っておるであろう!?
儂も此れはーー!!!となったぞ!」
ほいでもう一点面白き展示物が。それは『井戸』である。
戦国期の井戸が展示されておるのも中々見たことがない故に珍しいわな。
此れは皆の目で観に行ってちょ。
資料館を見て回り、此れより岩村城登城致して参る!
資料館目の前に登城口が御座る!
古地図に嘗ての門などが記載されておる故に参考にしながら登城じゃ!
因みに此の古地図は先程展示されておったものと同じものである。
慶次「丁度雨が降って参り足元が滑りやすくなり難儀致した。
皆も山城故に足元対策は確かと致すが良い!」
【藤坂】
登り進むと藤坂と申す坂に入り申した。
嘗てフジの大木があったからその名が付いたそうじゃ!
岩村城大手道の一つで藩主邸から一の門までの坂である!
江戸中期以降は両側に杉の木を植えて並木道としたそうじゃ。景観も良くなり良き哉!
【初門の工夫】
岩村城最初の防御策として、初門が此処に存在した!
一直線に登って参った所、急に曲道を右左と設ける事で一気に登らせない工夫を致した!
有事には仮設の門も造る予定であったそうじゃ!
籠城戦になったおりに最初に敵兵を食い止め重要な場所である!
初門の曲がり具合に我が体力ももっていかれ攻める気持ちが下がったのか、
珍しく下を向く前田慶次。雨も上がり行軍し易くなった所で此度の記事は此処まで!
次回、遂に岩村城の代名詞六段壁に圧倒される! 山城攻略は難儀じゃ!
次回の記事も楽しみにしてちょ!
以上
名古屋おもてなし武将隊
天下御免ノ傾奇者 名古屋城検定名誉顧問 城びと連載人
前田慶次郎利益
凸伝令
前田慶次Twitter https://twitter.com/keiji_bushotai?lang=ja
前田慶次Instagram https://www.instagram.com/maeda_keiji_ngy/
名古屋おもてなし武将隊
ホームページ https://busho-tai.jp/
その他の連載もお楽しみください!
執筆・写真/前田慶次(名古屋おもてなし武将隊)