2020/02/06
理文先生のお城がっこう 城歩き編 第21回 石垣の登場(安土城以前の石垣2)
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。21回目は、前回に続いて石垣について解説します。中国・山陰地方に残る古い石垣に見られる、独特の特徴に注目しましょう。
■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第20回 石垣の登場(安土城以前の石垣1))」はこちら
前回は、織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)との関係を持たない、地方にある技術(ぎじゅつ)で積まれた古い石垣(いしがき)を近畿(きんき)地方まで見てきました。今回は、中国地方に残る古い石垣を見ていきましょう。
中国地方は、古い時期に地元の技術で積まれた石垣が数多く残っています。それは、石材が豊富(ほうふ)に存在(そんざい)することが一番の原因(げんいん)だと思われます。城を築(きず)いた山そのものが、岩山だというケースが沢山(たくさん)あります。そのため、曲輪(くるわ)の造成(ぞうせい)過程(かてい)で近辺にある石を無造作に積んだのでしょう。従(したが)って、高さも1m前後のものが多く、当然石材の大きさもバラバラです。
1 山陰地方(因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)の状況
代表例を挙げて、その特徴(とくちょう)を見ていきましょう。山崎城(やまさきじょう)跡、大崎城(おおさきじょう)跡(共に鳥取市)、亀井山城(かめいやまじょう)跡(鳥取県日南町)、陣ヶ丸城(じんがまるじょう)跡(島根県雲南市)、国府尾(こうの)山城跡、中村城跡(共に隠岐(おき)の島町)などに残っています。いずれの城も、曲輪の盛り土(もりど)を施(ほどこ)した部分が、崩(くず)れないようにするため、土留(どど)めとして自然の山の石を1m程(ほど)の高さで、ほぼ垂直(すいちょく)に積んでいます。亀井山城跡だけは、主郭(しゅかく)を中心にして複数(ふくすう)の曲輪に石垣が見られます。
石垣は、小石を高さ1m前後に垂直に積み上げたもの、多少大きめの石を混(ま)ぜて高さ2m程度まで垂直に積んだもの、大きめの石を傾斜(けいしゃ)するような角度で3m以上にまで積み上げたものが混在(こんざい)しています。石材は、いずれも山中に散見するもので、豊富(ほうふ)に石があったため様々な積み方をしたのでしょう。
山陰地方で、周りの城と異(こと)なる石垣があります。毛利元就(もうりもとなり)が永禄(えいろく)年間(1558~70)に月山富田城(がっさんとだじょう)(安来市)攻(せ)めの陣城(じんしろ)としたとされる勝山城跡(安来市)と、天正11年(1583)に毛利氏方の小笠原(おがさわら)氏が築城(ちくじょう)した丸山城跡(川本町)の2城です。
勝山城では、曲輪を区切るために高さ1m前後の平らな石を立て、その横に平らな石を二段(だん)横積みにした「石つき之(の)もの共」と呼(よ)ばれた毛利氏特有の石垣にも見えるものが残されています。丸山城は、各曲輪を取り巻(ま)くように、高さ1.5m程の石垣が残っています。城の中にある花崗岩(かこうがん)を垂直に積み上げたもので、各門の脇(わき)の最下段を中心に長辺1~1.5mの大きな平らな石を立てて使っています。山陰地方へと侵攻(しんこう)してきた毛利氏は、地元に古くから住んでいる武将(ぶしょう)たちと異なる石垣を使用していたことが解(わか)ります。
発掘された丸山城跡西の丸の東側南門(川本町教育委員会提供)
丸山城本丸東門実測図 (『丸山城跡』川本町教育委員会 1997 より転載)
2 岡山県(備前・備中・美作)の状況
山陽地方は、数多くの城に石垣が残されていますので、県別で見ていくことにします。
土留めとして自然の山の石を1m程の高さ(若干(じゃっかん)2~3mも含みます)で、ほぼ垂直に積んでいるというよく見られる石垣が多く残されています。備前(びぜん)では、三石城(みついしじょう)跡、富田松山城(とだまつやまじょう)跡、東山城跡(いずれも備前市)、北曽根城(きたそねじょう)跡(和気町)、富山城(とみやまじょう)跡、長野城跡、白石城跡(いずれも岡山市)、本太城(もとぶとじょう)跡(倉敷市)などです。備中(びっちゅう)では、すくも山城跡(岡山市)、鷹巣城(たかのすじょう)跡(岡山市・倉敷市)、猿掛城(さるかけじょう)跡(倉敷市・矢掛町)、経山城(きょうやまじょう)跡(総社市)、鶴首城(かくしゅじょう)跡、備中松山城の大松山(共に高梁市)、鴨山城(かもやまじょう)跡(浅口市)などです。
富山城跡(左)、鶴首城跡(右)に残る石積み
いずれも1m程の高さで、ほぼ垂直に立ち上がる特徴が見られます
美作(みまさか)も見ておきましょう。鶴田城(たづたじょう)跡(岡山市)、荒神山城(こうじんやまじょう)跡(津山市)を挙げることができます。
岡山県には、特別な石垣を持つ城があります。備前の戦国大名浦上宗景(うらがみむねかげ)が享禄(きょうろく)5年(1532)に築いたと伝わる天神山城(てんじんやまじょう)跡(和気町)です。最も高いところで2m前後の石垣となり、裏込石(うらごめいし)(石垣内部の排水を円滑に行う役目を持って、石垣の裏側に積み込まれる小石(栗石)のことです)も見られ、垂直に立ち上がっています。石垣は、城内のあちこちに見られる自然石を積み上げたものです。矢筈城(やはずじょう)跡(津山市)では、主郭と東尾根(おね)に続く曲輪を中心に、高さ2m程の石垣が、長さ数10mに及ぶ場所もあります。粗割石(あらわりいし)(大ざっぱに割った石です)を横にして積み、垂直に立ち上がり、裏込石(うらごめいし)も見られます。この2城の石垣の多さは、城地の中に利用できる石材が豊富にあったためと思われます。
鴨山城跡(左)、矢筈城跡(右)に残る石積み
石材は、粗割もしくは自然石を横にして積み上げています
3 広島県・山口県(備後・安芸・周防・長門)の状況
備後(びんご)は、備前や備中と同様で、土留めとして自然の山の石を1m程の高さ(若干2~3mも含みます)で、ほぼ垂直に積んでいるという石垣です。鷲尾山城(わしおさんじょう)跡(尾道市)、医王山城(いおうやまじょう)跡(三原市)、楢崎城(ならざきじょう)跡(府中市)、六郎山城(ろくろうやまじょう)跡、茶臼城(ちゃうすじょう)跡、高八山城(たかはちやまじょう)跡、高井城跡(いずれも三次市)ですが、これらの城地には露出した岩石がよく見られます。注目されるのは一乗山城(いちじょうさんじょう)跡(福山市)で、高さ3m余りの裏込石を持つ石垣を緩(ゆる)い傾斜角で二段にわたって積んでいます。
鷲尾山城跡(左)と医王山城跡(右)に残る石積み
楢崎城跡(左)と五龍城跡(右)に残る石積み
4城共に、自然石をほぼ垂直に積み上げた石積みです
安芸(あき)といえば毛利氏の本拠ですので、当然主体は毛利氏の石垣になります。本城の郡山城跡(安芸高田市)、吉川氏本城の日野山城(ひのやまじょう)跡(北広島市)、小早川氏本城の高山城跡(三原市)と、石垣が残されています。3城とも高さは1m前後までの石垣が多い訳(わけ)ですが、2mを超(こ)える場所も残されています。ただ、豊臣秀吉配下になってからの石垣もありますので、そこの判断(はんだん)が難(むずか)しいということになります。
主要城郭(じょうかく)だけでなく、毛利氏重臣たちの城でも石垣が見られます。五龍城(ごりゅうじょう)跡(安芸高田市)、鈴尾城跡(共に安芸高田市)、生城山城(おおぎやまじょう)跡、頭崎城(かしらざきじょう)跡(共に東広島市)などです。
毛利氏と言えば、高さ1~2mもの平らな石を等間隔(とうかんかく)に立て、間に石材を横積みするという極めて特徴的な石垣を積んでいます。土留めであり、防御(ぼうぎょ)機能(きのう)も持ち、併(あわ)せて視覚(しかく)的効果(こうか)も意識(いしき)した石垣で、記録から「石つき之もの共」による石垣とされています。吉川元春館(きっかわもとはるやかた)(北広島町)などに残されています。
吉川元春館の石垣 高さ1~2mもの平らな石を等間隔に立て、間に石材を横積みするという極めて特徴的な石垣を見ることができます
山口県も、他県と同様に、土留めとして自然の山の石を1m程の高さ(若干2~3mも含みます)で、ほぼ垂直に積んでいるという石垣が残されています。高森城跡、今要害(いまようがい)跡(共に岩国市)、三丘嶽城(みつおだけじょう)跡(周南市)、荒滝山城(あらたきやまじょう)跡(宇部市)、青山城跡、勝山城跡(共に下関市)などが挙げられます。
「石垣の登場(安土城以前の石垣)」は、当初は1回で終わる予定でしたが、あまりに多く残っているため、2回にしました。ところが、中国地方が最も多いことが解り、四国・九州まで行きつきませんでした。次回は、四国・九州地方と織豊(しょくほう)段階の石垣との違いについてまとめたいと思います。
今日ならったお城の用語
裏込石(うらごめいし)
石垣内部の排水(はいすい)を円滑(えんかつ)に行う役目を持って、石垣の裏側に詰められた小石(栗石(くりいし))のことです。古くは自然石が用いられていましたが、後に石垣を形よくはめ込むために割った残りの割れ石が用いられるようになります。裏込が不十分だと、大雨の時など石垣が崩壊(ほうかい)してしまう恐(おそ)れがあります。雨水は小石同士の隙間(すきま)を流れて石垣下に排水(はいすい)され、水圧(すいあつ)で石垣が崩壊するのを防(ふせ)ぐ役目を持っていたのです。
次回は、「石垣の登場(安土城以前の石垣3)」です。
お城がっこうのその他の記事はこちら
加藤理文(かとうまさふみ)先生