公共交通機関利用なので、行き帰りの移動を如何に上手にクリアするかというミッションも抱えています。月山富田城へは安来駅からのほかに荒島駅からもイエローバスでアクセス可能。当日は松江からの移動だったので、接続がよく到着時間も早い広瀬~荒島線を利用しました。
※イエローバスはこの6/1にダイヤ改正されています。ナビサイトによっては反映されていない可能性もあるので安来市のHPで都度確認されるのがよいかと思います。また、月山富田城は広瀬バスターミナルからそう遠くないので、何かあっても何とかなりそうな感じでした👌ちなみに乗車距離にかかわらず大人1回200円です。
「市立病院前」で降車すると、飯梨川越しに幟旗のはためく大きな城山が目に飛び込んできました。
“尼子氏滅亡の”が枕詞になりがちなため、寂しげでしんみりとしたイメージを漠然と持っていたのですが、あまりのかっこよさにうるっ🥲
このあと城内を歩いている間ずっと、かつての難攻不落、戦国屈指の要害と周囲の山並み、そして現代に受け継がれる城下の美しい街並みが融和した風景を味わえ、史跡整備に力を尽くしてくださっていることを大変ありがたく思いました。
歴史資料館開館までは1時間以上あったので、最新情報収集なしで登城開始しました。
資料館裏手の登城口から入ると尼子(塩冶)興久公墓所。登っていくと馬乗馬場。麓から見上げた幟旗のところです。眼下に広がる風景の素晴らしさに、もっと高いところからの視界は一体どんなだろうかとワクワクがとまりません。
尼子神社のある千畳平から太鼓壇へ。尼子氏再興のために力を尽くした山中鹿介幸盛の祈月像がありました。6年前に行った上月城が思い出されます。
奥書院を経て花の壇復元建物へ。発掘調査で見つかった柱穴により、武将の生活の場と兵士たちの待機場所だったと考えられているそうです。城内道がよく見渡せ、山中御殿もすぐそこ。この距離であれば互いの様子がよく見え、連絡も取りやすかったことが理解できました。
その山中御殿は……めっちゃ広い!びっくりするくらい広い!
それだけでなく、復元整備のおかげでわかりやすい(^^)/
文字情報のみに頼った己の想像力の限界を突きつけられた思いでした。
山中御殿で確認しておきたかった攻め手三方向の菅谷口・御子守口・塩谷口からの虎口をチェックします。
菅谷口は櫓跡、雑用井戸跡近くで、軍用道もすぐ横。かっこいい石垣の虎口です。道が続いていたので少し進んでみました。機会があれば城安寺コースで登ってみたいです。
塩谷口もかっこよかったです。狭間塀跡から下りてみると行き止まりで、攻められそうになかったですが、振り返った狭い虎口が雰囲気ありすぎでした。
御子守口は帰りに通りました。
本丸方面へは復元石垣の階段からではなく、軍用道から行ってみました。
親子観音では壮絶な戦いの中での人間の苦しみを思い、合流した七曲り道では通路の整備に感謝しつつ下界の景観を楽しみ、未だ水を湛える山吹井戸では悠久の時を感じつつ登りました。
登りきった西袖ケ平の端から飯梨川と城下の風景を眺めていると、お世話になったイエローバスがまるでジオラマの中のミニチュアのように走っているのが見えました。バスターミナルに向かうバス、出てくるバス。瓦屋根の町なかを走っている姿がかわいすぎる🚍
そして振り返るとでんっと構える三の丸。
右側からぐるっとまわって二の丸から上がりました。遥か遠くまで眺めていると、戦国の世が続いていたらここを捨て置くことはなかっただろうと思えてきました。
二の丸と本丸の間の堀切は通路整備がされていてもその規模が伝わってきて圧倒されます。そしてついにここまで来たぞっという達成感。
本丸には山中鹿介幸盛記念碑。勝日高守神社の奥ギリギリのところまで行き下を覗いてみました。竪堀や通路があるような感じではありましたが、自然のままに近い場所で確証を得るのは難しいです。
本丸でコンビニのどら焼きで小休憩して下山しました。
山中御殿まで下る途中にも曲輪跡のような平場があったので寄ってみましたが、実際に見えている遺構はほんの一部で、最初の築城時から辿ると途轍もない山城だったんだろうなと、想像不可能なことや知り得ない事実の多さを思いました。
山中御殿の爽快さを再び味わい、登るときから気になっていた池へ行ってみました。軍用大井戸の説明板が立っていましたが、しっかりとした石組みで、井戸と呼ぶにはかなり大きかったです。
遠目にもはっきりわかる大土塁にも行きました。
近くにあったヤマザクラは令和元年の台風で大きなダメージを受けたにも関わらず、翌年いつもと変わらない可憐な花を咲かせたそうです。「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈った鹿介の精神と人々を勇気づけてくれる存在から「鹿介桜」と名付けられたとのこと。自然の持つ圧倒的なパワーを思い知らされました。
大土塁は本当に大きかったです。月山は高さ190メートルでものすごく高いというわけではありませんが、要所要所でスケールの大きさを感じます。
ここから堀尾吉晴公廟所へ向かいます。
ちょっと寂しい道……が大分寂しい道になっていきますが、いつも行っている山城と同じ茶色い世界に、そう、これがほんとうの姿なんだからと、一歩一歩地面を踏みしめながら歩きます。案内も立ててくださっていますし、出口である御子守口の方へ向かっているはずなので不安はありません。
大土塁から5分ほどで「堀尾吉晴の墓・山中鹿介供養塔」の石段の下に着きました。
石段の上に大きな五輪塔がありました。吉晴公自身の遺言によりこの地に遺骸が葬られたと伝わるそうです。後方には山中鹿介幸盛の供養塔。幸盛公の遺徳を偲び、吉晴公の御内儀によって建てられたと説明板にありました。
富田城は不便だから吉晴公は松江に築城した、とただ一言の知識としてインプットしておしまいにしてはいけないな、と感じる廟所でございました。
吉晴公の娘、小那姫のお墓があり、まるで曲輪……な感じがすごくする巌倉寺を通って御子守口から退出しました。
歴史資料館に向かっていると地面!にお城の全体地形模型があったので復習。資料館に入館し、見学させていただきました。
+ 続きを読む