理文先生のお城がっこう 城歩き編 第20回 石垣の登場(安土城以前の石垣1)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。20回目の今回は、石垣について解説します。石垣はいつごろから登場したのでしょうか?



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第19回 土塁の役割を考えよう」はこちら

織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)の配下(はいか)の武将(ぶしょう)たちが築(きず)いた城(織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく))だけが持っている特別な性質(せいしつ)として、石垣(いしがき)・瓦(かわら)・礎石建物(そせきたてもの)の3つの要素(ようそ)が結びついたことが挙(あ)げられます。この3つの要素は、信長や秀吉の居城(きょじょう)になると、高石垣(たかいしがき)・金箔瓦(きんぱくがわら)・天守(天主)(てんしゅ)に言い換(か)えることができます。

織豊系の城ではないけど、石垣はあるとか、礎石や瓦があるということは、当然のことです。それは、石垣・瓦・礎石建物を一つひとつ見た場合、織豊系城郭に初めて使われた技術(ぎじゅつ)ではないからです。あくまで、3つの要素を結びつけて、一つの城郭に使用したことが、大きな出来事で、その技術革新(かくしん)が織豊系の城を生んだのです。

今回は、その中で石垣にスポットをあてて見ていきます。石垣が城に使用されるようになったのは15世紀の後半のことで、わが国の中でも特定の地域(ちいき)、特定の権力(けんりょく)に集中することが解(わか)ってきました。そこで、今回は安土城(あづちじょう)以前の戦国時代の石垣の分布(ぶんぷ)について見ていきましょう。

戦国時代の石垣の分布

それでは、戦国時代の石垣は、主にどんな場所やどんな人たちが使用したのでしょうか。それをまとめたいと思います。

まずは、信濃(しなの)(長野県)です。松本周辺の林小城(はやしこじょう)山家城(やまべじょう)桐原城(きりはらじょう)、植原城(うえはらじょう)、虚空蔵山城(こくうぞうさんじょう)青柳城(あおやぎじょう)などで石垣を見ることができます。いずれの城も平たい石材の薄(うす)い面を小口に積み上げて石垣を構築(こうちく)しています。傾きは、ほとんど垂直(すいちょく)で、石垣の上に建物(たてもの)や塀(へい)などを建てるような状況(じょうきょう)ではありません。上に並べた城すべてが、ほぼ同じような積み方ですので、この地域にこの時代に、こうした石を積み上げることのできる技術者集団がいたと考えられます。

山家城主郭東面の石垣、青柳城主郭東面の石垣
山家城主郭東面の石垣(左)と青柳城主郭東面の石垣(右)。両者を並べて見ると、平たい石材の薄い面を小口に積み上げた点が共通していることが良く解ります

次に、美濃(みの)(岐阜県)を見ておきましょう。岐阜城(ぎふじょう)、東殿山城(とうどやまじょう)(郡上市)、大桑城(おおがじょう)(山県市(やまがたし))、伊木山城(いぎやまじょう)(各務原市(かかみがはらし))などに石垣が見られます。東殿山城、大桑城の石垣は、松本平の城と同じで、平たい石材を垂直に積む特徴(とくちょう)が見られます。土が流れ出るのを止める目的と考えて良いと思います。

鎌刃城の大石垣と小谷城の山王丸の石垣
鎌刃城の大石垣(左)と小谷城の山王丸の石垣(右)。共に3m近い高さを誇り、石積み技術の高さをうかがい知ることができます

北近江(きたおうみ)では、小谷城(おだにじょう)(長浜市)と鎌刃城(かまはじょう)(米原市)にのみ、石垣が見られ、いずれも大規模で巨大な石材も使用するなど、ある程度の水準に達した石垣と評価してもいいでしょう。小谷城の山王丸(さんのうまる)の高石垣を見ると、隅部に算木積(さんぎづ)みが認(みと)められます。同様に、鎌刃城の大石垣でも隅部に算木積みが認められます。南近江では、守護(しゅご)の六角氏(ろっかくし)の居城、観音寺城(かんのんじじょう)(近江八幡市)の石垣が突出(とっしゅつ)しています。

戦国期の石垣では、我が国で唯一(ゆいいつ)4mを越える規模を誇(ほこ)っています。石材を人工的に切り出す時にあけた矢穴(やあな)も残っていました。さらに、金剛輪寺(こんごうりんじ)所蔵『下倉米銭下用帳(げぐらべいせんげようちょう)』に弘治2年(1556)に「御屋形様石垣打(おやかたさまいしがきうち)」と記され、石垣を築き上げた年代までもが解っています。

この他、佐生日吉城(さそうひよしじょう)(東近江市)、小堤城山城(こづつみしろやまじょう)(野洲市)、星ヶ崎城(ほしがさきじょう)(竜王町)、三雲城(みくもじょう)(湖南市)にも石垣が残り、小堤城山城、三雲城にも矢穴が認められます。このように、近江には古くからお寺を造ることに関わる石工集団(いしくしゅうだん)(石材を加工したりそれで何かを組みたてたりすることを職業とする集まり)が存在し、こうした集団は全国でもトップクラスの技術を持っていたと考えられるのです。

観音寺城伝御屋形の石垣
観音寺城伝御屋形の石垣です。中に数点、矢穴痕(あと)も見ることが出来ます

さらに驚(おどろ)かされたのが、水茎岡山城(すいけいおかやまじょう)(近江八幡市)の発掘調査(はっくつちょうさ)で石垣が検出(けんしゅつ)されたことです。この城は、永正5年(1508)に将軍足利義澄(あしかが よしずみ)が入城(にゅうじょう)したことにより整備(せいび)され、大永5年(1525)には廃城(はいじょう)となっています。近江最古の城郭に使われた石垣で、安土城より50年以上も前の石垣になるわけです。やはり、近江の石工集団を甘(あま)く見ることは出来ません。

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三好長慶が、天文22年(1553)に入城し、石垣を使用して整備した芥川山城の復元イラストです(作画:香川元太郎)

畿内(きない)の石垣は、三好長慶(みよしながよし)の城を中心に使用されています。長慶は、将軍足利義輝(あしかがよしてる)と管領(かんれい)細川晴元(ほそかわはるもと)との間を行ったり来たりしながら、ついに都へと入り実権(じっけん)を握(にぎ)り、畿内を中心に8か国を支配するようになりました。

長慶が、天文22年(1553)に入城した芥川山城(あくたがわさんじょう)(大阪府高槻市)、永禄3年(1560)に入った飯盛山城(いいもりやまじょう)(大阪府大東市(だいとうし)・四條畷市しじょうなわてし))で石垣が認められます。飯盛城では、ほぼ城域全域(じょういきぜんいき)にわたって石垣が用(もち)いられています。おそらく長慶自身が石垣構築を望んだ結果と理解されます。

飯盛山城、石垣
飯盛山城の御体塚郭南東下の石垣です。飯盛山城では、ほぼ全山で石垣を確認することができます。いずれも、自然石を積み上げた野面積の石垣です

播磨(はりま)から丹波(たんば)地方の城にも、石垣が見られます。播磨では、白旗城(しらはたじょう))(兵庫県上郡町(かみごおりちょう)置塩城(おきしおじょう)(兵庫県姫路市(ひょうごけんひめじし))、破賀城(はがじょう)(兵庫県宍粟市(しそうし))、感状山城(かんじょうさんじょう)(兵庫県相生市(あいおいし))などです。いずれの石垣も、曲輪や通路の補強(ほきょう)のために積まれたと考えられ、大小取り混ぜた石材を使用し、ほぼ垂直に積み上げられています。高さも1m前後が中心で、高くても2mほどでしかありません。

丹波を見てみましょう。須知城(しゅうちじょう/すちじょう)(京都府京丹波町(きょうたんばちょう))、八木城(やぎじょう)(京都府南丹市(なんたんし))、笑路城(わろうじじょう)(京都府亀岡市(かめおかし))で、石垣を見ることができます。いずれの石垣も、播磨地方と同様で、曲輪や通路の補強のためと考えられますが、笑路城では小規模な櫓台(やぐらだい)や虎口(こぐち)に使用しています。しかし、上部に建物が建つような石垣ではありません。また、須知城では、隅角を持った高さ3m程の石垣が残ります。隅角はシノギ積(隅角が90度以上の鈍角なもの)で、角度もほぼ垂直に立ち上がる石垣です。

須知城主郭、石垣
須知城主郭南西面の石垣です。高さは3m程ですが、隅角は算木にはなりません。隅(すみ)は、写真のように継(つ)ぎ足して角度を変える個所とシノギ積になる場所とが見られます

山陽・山陰(さんいん)地方の戦国期の石垣は、他地域を圧倒(あっとう)する多さです。四国・九州地方を含(ふく)め、次回にまとめたいと思います。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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