伊木山城は犬山城からも俯瞰でき認識はしていましたが山城である事から登城は控えて居ましたが、YouTubeを見て居ましたら「岡山池田藩筆頭家老」が目に付き視聴しましたら、この間久しぶり登城の田原城城主に伊木清兵衛忠次の名が有ったなと思い出し、少し調べ直し伊木山城の築城者「伊木忠次」に行きつき今回の美濃南部城廻りに入れて廻りました。
駐車場:伊木山の伊木の森広場駐車場・トイレと伊木山登山者駐車場、名勝木曽川展望台駐車場の3ヶ所あります。
参考資料:余湖図コレクションさん、古城盛衰記さん、城郭放浪記さん、グーグルマップ、YouTube『瀬戸内魅力物語「岡山藩筆頭家老伊木家の人々が残したもの」』・・講師片岡学氏、現地解説板「伊木山城と伊木清兵衛忠次」に依ります。
伊木清兵衛忠次は元の名を香川長兵衛と言い、織田信長の命で美濃斎藤方の攻略として斎藤方の拠点であった伊木山を攻め取り城を築いた、伊木山攻めの功績により信長より「伊木」の名を与えられその後は信長の家臣池田恒興に仕えて活躍。
天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで池田恒興、元助父子が戦死すると若年の次男輝政を補佐、伊木忠次には秀吉より6万石での大名取立ての話も有ったが固辞して池田家を守った。
小田原征伐後輝政は吉田城15万3千石、伊木忠次は田原城代1万7千石へ、関ケ原後輝政は播磨姫路城52万石、忠次は三木城代3万7千石へ、忠次は慶長8年(1603年)三木城で没した、忠次の息子忠繁は姫路城の普請奉行を任せられ今見る姫路城の縄張りを行った。忠次没後跡を継いで池田家の筆頭家老と成り、その後も岡山藩池田家の筆頭家老として存続した。
池田家は輝政死後、姫路城と岡山城へ、その後鳥取藩光政と岡山藩光仲の入れ替えと成り、伊木氏は光政に従い鳥取藩へ倉吉陣屋を任せられます、我が故郷鳥取倉吉に伊木の地名が残っているそうです。10年程で光政は岡山藩31.5万石で国替え、伊木氏は瀬戸内市虫明に3万石として陣屋を構えたが幕府に憚り御茶屋と称した。
忠次は信長、秀吉、家康に一目も置かれ池田家の存続に力を尽くした、子孫は岡山池田家筆頭家老として明治まで続いた、伊木氏は天下の三大家老と言われていました他には仙台藩の片倉氏、徳島藩の稲田氏がそれに当たります。
登城ルートは、伊木山の北側を走る県道95号線(木曽川街道)交差点から南に入り、伊木の森広場を目指して登って行く、400~500m程登ると名勝木曾川展望台駐車場に着く、此処は木曽川、犬山城が俯瞰出来て絶景です、先に霞んだ俯瞰犬山城を投稿させて頂きました、少し登ると伊木山登山者駐車場、その山手に伊木山登山遊歩道案内と杖、案内図、更に進むと伊木の森広場、駐車場と説いて完備。
伊木の森広場公園の手前に真新しい「伊木山城と伊木清兵衛忠次」の解説板が在ります、長久手合戦屏風に描かれた伊木清兵衛馬上合戦図も描かれていました、じっくりと読ませて頂き勉強に、田原城に記載されてた伊木清兵衛忠次にたどり着けた感じでした。
展望台、伊木の森広場から山頂を眺めて遊歩道の案内があった入口から入り、心臓破りの道の案内なので、もう少し穏やかな道をと探しましたが判らず案内がはっきりしてる心臓破りの道を選択途中まで行くが登りが延々と続く丸太階段に不安を感じて山頂へは断念、皆さんの投稿写真で楽しんでいます。
古城盛衰記さんの西山麓の観音寺、駐車場から西側からの尾根道を進むルートの方が私には良かったかも、ゆっくりと穏やかな登城路を時間かけても登れる道を切に望みます。最近左足の痛みが出て来ましたので山城は難しこの頃です。
伊木の森公園、導入路は17時には閉まるようです。
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