理文先生のお城がっこう 城歩き編 第19回 土塁の役割を考えよう

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。19回目の今回は、土塁の構造や役割について、理文先生が解説します。土塁ってどうやってつくるの?どんな構造をしているの?



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第18回 水堀と空堀」はこちら

土塁の構築

(しろ)という漢字を分解(ぶんかい)すると「土」と「成」になります。城とは「土より成(な)る」の言葉通り、土を盛(も)り上げた施設(しせつ)のことだったのです。土を盛り上げた施設だと最(もっと)もわかりやすい遺構(いこう)土塁(どるい)です。従(したが)って、土塁の起源(きげん)も縄文時代(じょうもんじだい)にまでさかのぼります。

城の土塁は、曲輪(くるわ)の周囲に設(もう)けられることが多く、内部へ敵が入ってくることを防ぐ目的がありました。土塁だけで曲輪を守っていたわけではありません。土塁の上には、柵(さく)とか塀(へい)といった施設が設けられ、より入りにくい構造(こうぞう)にしていたのです。ほとんどの土塁は、堀(ほり)を掘って出てきた排土(はいど)(不必要な余った土砂)が利用されました。堀を掘った排土は、城内で再利用(さいりよう)をしない限(かぎ)り、城外へ運び出さなくてはなりません。

中世の城の場合は、排土がいらなくなったり余ったりしないように、計画的に工事が進められました。堀を掘った排土は、そのまま城内側に積んで突(つ)き固(かた)めればおのずと土塁が完成(かんせい)するわけですから、遠くへ運ぶ手間(てま)が省(はぶ)けます。堀の土は、土塁として利用するのが、最も効率的(こうりつてき)だったわけです。このように、堀と土塁は、双方(そうほう)が補(おぎな)い合うちょうどよい関係(かんけい)だったのです。また、土を盛らず自然の断崖(だんがい)や山の斜面(しゃめん)を削(けず)り残して土塁とする場合もありました。

吉田城、宇都宮城
左:吉田城(愛知県豊橋市)の曲輪を仕切る土塁  右:再建された宇都宮城(栃木県宇都宮市)の土塁
吉田城の土塁は、堀を掘った残土で造られた、極めて中世的な姿を残す土塁で高さも4m前後です。宇都宮(うつのみや)城の土塁は、近世城郭(きんせいじょうかく)の土塁で、高さは15mと巨大な姿でした

土塁の勾配(こうばい)(傾斜面の傾き)は、45度程度となるのが普通(ふつう)の状態(じょうたい)で、それより角度が緩(ゆる)やかになると、攻(せ)め寄せる敵方が簡単(かんたん)に取り付くことが出来るようになってしまいます。また、勾配が強くなればなるほど、敵方は取り付きにくくなるのですが、壁面(へきめん)が崩(くず)れ落ちる危険性も高くなってしまいます。崩れ落ちる危険性も低く、敵方が取り付きにくい角度が、45度前後だったのです。

春日山城
復元(ふくげん)された監物堀(けんもつぼり)に沿(そ)って造(つく)られた土塁(春日山城(かすがやまじょう)
春日山城(新潟県上越(じょうえつ)市)の東側平野部に、慶長3年(1598)堀秀治によって造られた堀が監物堀で、南側の尾根(おね)には東条砦(とうじょうとりで)も築(きず)かれました。堀の残土(ざんど)で造られた土塁が延々(えんえん)と続いています

土塁の構造

近世城郭の土塁は、土塁上(上辺)を(ひらみ)、底辺を(しき)、斜面を法(矩)(のり)法面(のりめん)と呼んでいました。

法は、内側と外側の2ヵ所に出来ることになりますが、外側を外法(そとのり)、内側を内法(うちのり)と呼びます。高さは、褶と敷の間の距離のことですが、外側の堀の深さを含めた場合、堀底からの高さとします。水堀の場合は、水面上からの高さが基準(きじゅん)となります。法と褶が交わる部分を法肩(のりかた)といい、敷と交わる箇所を法尻(のりじり)とか法先(のりさき)と呼んでいます。

土塁上にあたる褶は、馬踏(まぶみ)みともいい、城兵や馬が動き回る場所になるといわれています。ここに、塀や柵を設けることが多いのですが、通常は中心線よりやや外側に設けられました。この場合、塀や柵を挟(はさ)んで内側と外側に平らな場所が出来ることになります。城の内側の平な場所は、兵士の通路として利用されるため「武者走(むしゃばしり)」といい、城の外側を「犬走(いぬばしり)」と呼びます。武者走が広くとられるのは、城を守るためにより動きやすくするためで、犬走が狭くなるのは敵が攻め寄せてきた時に、敵方の足がかりとなる危険性(きけんせい)があったためです。犬が走るくらいのスペースしかないということです。

土塁、構造

土塁上へ登る施設

城の内側から土塁の上に登るために、坂や階段が設けられました。こうした施設を雁木(がんぎ)と呼びます。階段がV(ブイ)字状(じょう)に向かい合うように設けたものを合坂(あいざか)、二本の雁木を平行して設けたものを重ね坂(かさねざか)と呼んでいます。多くの城兵が一度に昇(のぼ)り降りするためには重ね坂のほうが便利(べんり)でした。

土塁の上までの距離(きょり)が高いほど、急坂(きゅうはん)になりますので、守備兵(しゅびへい)が守りやすいようになるべく勾配が緩くなるように造られていました。時代が下ると、内側全(すべ)てを雁木とし、どこからでも昇り降りが出来るようにした二条城(にじょうじょう)(京都府京都市)のようなケースが多く見られるようになってきます。

萩城
(はぎ)城(山口県萩市)の雁木。内門から天守台までが延々と雁木になっています

肥前名古屋城、津山城
低い合坂(左=肥前(ひぜん)名護屋城(佐賀県唐津(からつ)市))と高い合坂(右=津山城(岡山県津山市))

土塁は、土を盛り上げて築いたもので、その造り方によっても分類(ぶんるい)が可能です。「版築土塁(はんちくどるい)」は、土を突き固めて版築したもので、「叩き土居(たたきどい)」は、掘り上げた土砂を叩き固めたものです。芝土居(しばどい)」は、法面が崩れるのを防ぐために、芝を植えて築いたものです。

低い土塁を芝土居とすると、敵方の足掛(あしが)かりとなり登りやすくなりますので、低い土塁は叩き土居がほとんどです。また、小田原北条(ほうじょう)氏がよく用(もち)いた堀障子(ほりしょうじ)は、滑(すべ)りやすいローム層(そう)のままでした。昇り難(がた)くするには、ローム層をむき出しにするのが一番だったのです。

土で出来た土塁は、崩れたり、壊れたりすることも多かったので、絶(た)えずメンテナンスをしなければなりません。芝土居は、メンテナンスを怠(おこた)ると、草が伸びてしまい、敵方が容易(ようい)に登ることが出来るようになりますので、常(つね)に短く切りそろえる必要があったのです。


今日ならったお城(しろ)の用語

土塁(どるい)
土を盛って作った土手のことです。「土居(どい)」とも言います。

(ひらみ)
土塁の上の平らな部分のことです。「馬踏(まぶみ)」とも言います。

(しき)
土塁の底辺を言います。

法(矩)(のり)
法面(のりめん)とも言って、土塁の傾斜角、斜面のことです。

外法(そとのり)
外側にできる法面のことです。

内法(うちのり)
内側の法面のことです。

法肩(のりかた)
法面と褶が交(まじ)わる場所のことです。

法尻(のりじり)
法面と敷と交わる場所のことです。法先(のりさき)とも言います。

武者走(むしゃばしり)
土塁の上の平坦(へいたん)面(褶)に、塀や柵を設けた時、城内側の通路を呼びます。

犬走(いぬばしり)
土塁の上の平坦面(褶)に、塀や柵を設けた時、城外側の通路を呼びます。

雁木(がんぎ)
塁の上へ昇り降りするための坂や石段のことです。

合坂(あいざか)
雁木(石段)を向かい合うように配置(はいち)したものをいいます。左右に分かれて昇れる利点(りてん)がありました。長大(ちょうだい)な塁になると、いくつも付けることが必要(ひつよう)になります。

重ね坂(かさねざか)
二本の雁木(石段)を並行して設けたものを言います。

版築土塁(はんちくどるい)
土を突き固めて版築したものを言います。

叩き土居(たたきどい)
土をそのまま盛り、叩いて固めた土塁のことです。

芝土居(しばどい)
土塁の法面など表面に芝を貼(は)ったものを言います。

※は再掲



お城がっこうのその他の記事はこちら

加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

関連書籍・商品など