理文先生のお城がっこう 城歩き編 第22回 石垣の登場(安土城以前の石垣3)

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。22回目は、前々回からテーマにしてきた安土城以前の石垣について解説します。四国・九州地方に残る古い石垣に見られる独特の特徴を、織豊段階のものと比べながら注目しましょう。



■理文先生のお城がっこう
前回「城歩き編 第21回 石垣の登場(安土城以前の石垣2)」はこちら

20、21回と、織田信長(おだのぶなが)や豊臣秀吉(とよとみひでよし)との関係を持たない、地方にある技術(ぎじゅつ)で積まれた古い石垣(いしがき)を中国地方まで見てきました。今回は、安土城以前の石垣の最終回です。四国・九州地方の事例と、織豊(しょくほう)段階の石垣とどこが違うのかに焦点(しょうてん)をあてて見ていきたいと思います。

1 四国地方の状況

土佐一国(とさいっこく)から四国全域(ぜんいき)を支配(しはい)しようとした長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が築(きず)いた岡豊(おこう)(高知県南国市)では、土塁(どるい)の下の方を取り巻(ま)くような石積みや虎口(こぐち)の部分にも石積みが見られます。土塁の内側に積まれた石積みは、高さが1m程(ほど)で、土塁が崩(くず)れないようにするために置いたと考えられています。同じような石積みは、芳原(よしはら)城(高知市)、ハナノシロ城(高知県四万十市)にもあります。虎口部分の石積みは、梅ノ木城(高知市)、布城(高知県宿毛市)で見られます。また、和田城(高知県梼原町)では、堀を埋(う)め立て土が流れださないように石が積まれていました。

岡豊城、石垣
岡豊城三の段の石垣と礎石建物 自然石を積み上げた1m程の石垣です

2 九州地方の状況

九州地方でも他の地域同様、土が流れださないように自然の山の平らな石を1m程の高さ(若干(じゃっかん)2~3mも含みます)で、ほぼ垂直(すいちょく)に積んでいる石垣が多く残されています。北部九州地方には多く見られますが、南九州ではほとんど見られません。シラス台地という地形的制約(せいやく)も大きく影響(えいきょう)していると考えられます。福岡県(豊前(ぶぜん)・筑前(ちくぜん)・築後(ちくご))は、安楽平(あらひら)(福岡市)、二丈岳(にじょうだけ)城、高祖(たかす)(共に糸島市)、一ノ岳(いちのたけ)(那珂川町)、花尾城(北九州市)、笠木山(かさぎやま)(飯塚市)、雁股(かりまた)城(福岡県上毛町・豊前市・大分県中津市)などです。

中でも、安楽平城の石垣は、主郭(しゅかく)部の南斜面(しゃめん)に高さ2m前後で、傾(かたむ)きを持つ石垣が残されています。さらに、高さ1~2m程の石垣で塁線(るいせん)(土塁や石垣で築かれた連続する施設のことです)を築いて、途中(とちゅう)に櫓(やぐら)を築(きず)くための土台とセットになった虎口を造(つく)っています。花尾城には、登り石垣(のぼりいしがき)のような石塁(せきるい)が馬蹄(ばてい)形に山腹(さんぷく)を巡(めぐ)り、その最下部に井戸(いど)とされる方形の石積みの窪地(くぼいけ)が残っていますが、その時期ははっきりしません。一ノ岳城の石垣は、総延長(そうえんちょう)30m、高さも2mを超(こ)える個所(かしょ)もあり、石材も1mを超える大きな石も用いています。筑紫(つくし)氏の石垣構築(こうちく)技術の高さがうかがい知れます。

安楽平城、花尾城
安楽平城主郭周辺の石垣(左)と花尾城の本丸下にある石垣造りの大井戸と呼ばれる遺構(いこう)です

佐賀県(肥前(ひぜん))は、筑紫氏が築いた勝尾(かつのお)(鳥栖市)が突出(とっしゅつ)しています。山頂(さんちょう)部の主郭を中心に、城域全体に石垣が築かれ、東側の伝・二の丸跡(あと)には連続する小規模(きぼ)な石材を積み上げた登り石垣と、内桝形(うちますがた)の虎口も見られます。筑紫氏関連の葛籠(つづら)、鬼ケ城、若山(わかやま)城(いずれも鳥栖市)にも石垣が残っています。この他、飯盛(いいもり)城、今岳(いまだけ)城、和田城(いずれも伊万里市)、三瀬(みつせ)、木山城(共に佐賀市)、蟻尾(ありお)、山浦(やまうら)城(共に鹿島市)などが挙げられます。

勝尾城、葛籠城
勝尾城の主郭部と二ノ丸の間の通路下に積まれた石垣(左)と、葛籠城に残る石垣(右)です

長崎県(肥前・壱岐(いき)・対馬(つしま))は、山がちな地形が多いため、山上に平坦(へいたん)地を設(もう)けるためには、大掛かりな土木工事が必要でした。その際(さい)、斜面に石を積み平坦地を造成しています。その特徴(とくちょう)をよく表しているのが、八幡山(はちまんやま)城(西海市)で、山頂部を削(けず)り、出てきた板状の結晶片岩(けっしょうへいがん)を周囲に積み上げて造成しています。同じような石積みは、小富士(こふじ)城(平戸市)、飯岳(いいだけ)城(雲仙市)、伊賀峰(いがみね)(大村市)などでも見られます。

長崎県内には、この他にも石積みが見られる城が多く残されています。注目されるのが、箕坪(みのつぼ)(平戸市)で、主郭周囲に石垣を廻(まわ)らせるだけでなく、南側に位置する大手曲輪(くるわも石積み・石塁(せきるい)で囲まれています。さらに水手曲輪は、二つの尾根(おね)に挟(はさ)まれた谷部に造られていますが、高さ2.5m程の石垣によって谷を閉(と)じてふさぐことで水を溜(た)めようとしています。

箕坪城、石垣
箕坪城の水の手曲輪に残る谷部を堰き止めるための石垣です

大分県(豊後(ぶんご))は、石積みが残る城は多くありませんが、長岩城(中津市)の石垣は見事です。城跡(じょうせき)全域にわたって安山岩(あんざんがん)を使用した石積みが20カ所程残り、中でも石塁の総延長(そうえんちょう)は約700mにも及(およ)びます。頂部の本丸の周囲を腰(こし)曲輪と石垣で囲み、小規模な石材を積み上げた連続する登り石垣は見事です。また、谷を隔(へだ)てた対岸の出城(でじろ)には、高さ約1.5mの石で囲い込(こ)んだ石積櫓が残り、銃眼(じゅうがん)(敵の様子を見たり、弓や銃で射撃(しゃげき)したりするため、防壁(ぼうへき)などにあけた小さな穴(あな)のことです)が3カ所に見られます。砲座(ほうざ)(大砲を据(す)えるための台座です)跡とされる石垣囲みの遺構も残っており、不思議な雰囲気(ふんいき)を持つ城です。

長岩城
長岩城の出城に残る石積櫓の銃眼(左)と本丸の虎口(右)です。石塁はこの虎口のすぐ下で鈎(かぎ)の手状に折れて側面からの攻撃を可能にし、さらに下方中段には砲座が残っています

長岩城
石塁は、東之(の)台から本丸まで延々と続き、途中に砲座と見られる遺構が残ります

熊本県(肥後(ひご))、宮崎県(日向(ひゅうが))、鹿児島県(薩摩(さつま))には、ほとんど石積みは見られません。わずかに、古麓(ふるふもと)(八代市)に、区画を示(しめ)すような低石垣が残ります。
また、室町時代の清色(きよしき)攻め合戦の際の陣城の一つと言われる向山(むかいやま)城(鹿児島県薩摩川内市)に、高さが50㎝~2m程度の石積みが見られます。曲輪の縁辺(えんぺん)部に積まれ、土が流れださないような役割(やくわり)を持つ石積みです。最南端の石積みは、曲輪の高さまで大きな石や小さな石を構わずに積み上げています。長さは50m以上にわたりますが、城内の石材を使って積んでおり、積まれた時代は解(わか)りません。南九州地方は、シラス台地という特別な地形であったため、石垣を積み上げなくても、十分効果(こうか)的な守りをすることが出来たのです。

3 戦国時代の石垣・石積みの特徴

戦国期と考えられる石垣・石積みは、地方ごとの個性(こせい)あふれる積み方をしていますが、大きく見れば似(に)たような部分があります。それをまとめてみましょう。

石材
長い方が50㎝前後までの石が多く使われていて、1mを越(こ)える石材は稀(まれ)です。石材一つひとつの形や大きさはバラバラで、ほとんどが自然の加工されていない石を使っています。城の中か、すぐ近くから運んだ石がほとんどです。石垣を見れば、石工と呼(よ)ばれる専門的な技術を持った人が積んだのではなく、一般(いっぱん)の人が1~2人程度で、簡単(かんたん)に積み上げることが出来(でき)そうな石垣です。

構造(積み方)
高さは2m未満がほとんどで、低石垣と呼べます。高い石垣は、一気に数mを積み上げることなく、階段状(かいだんじょう)にセットバックを繰(く)り返して積み上げています。石垣の角度は、垂直(すいちょく)かそれに近い角度で、石材は長い方を横にして積み上げています。石垣の背後(はいご)の水抜きのための裏込石(うらごめいし)(石垣内部の排水(はいすい)を円滑(えんかつ)に行う役目を持って、石垣の裏(うら)側に積み込まれる小石(栗石(くりいし))のことです)は無いか、あったとしても少ない量しか入っていません。石垣の隅部に使う隅石(角石)(すみいし)は、まだ直角にしようという意識(いしき)はありませんので、折れていると解る石垣は少なく、相当数が隅角部(すみかどぶ)を持っていません。角に大きい石材を意図的に用いる例も少なく、算木積み(さんぎづみ)にしようという意識はほとんど見られません。

植原城、石垣
植原城(長野県松本市)の石垣
大きさの異なる石材をほぼ垂直に積み上げ、谷部は階段状に二段に積んでいます。高さも2mに満たない石積みです

構築場所
石垣が築かれる場所は様々で、特に主郭が多いということはありません。また、曲輪を完全に囲い込んでしまうような石垣も、ほとんどありません。盛り土(もりど)を崩れないようにするため、石を積んでいる例が多く見られます。

機能
土木的な土留めを目的に積まれた石垣がほとんどです。石垣の上に、直接(ちょくせつ)建物が建つことは、ほとんどありません。仮(かり)に構築物があったとしたら土塀(どべい)程度でしょうか。簡単に言えば、軍事目的で積まれた石垣ではなかったということです。構造的にももろく、大雨などで崩れることが多かったのではないでしょうか。

毛利氏の石垣のような視覚(しかく)効果をねらった石垣は、他では見られませんが、門の脇(わき)とか、道に沿(そ)った位置を石垣にしようという例は見られます。

林子城、石垣
林子城(長野県松本市)の石垣
曲輪の外郭を取り囲むように積まれた石垣で、土留めの役割が考えられます。形も湾曲(わんきょく)しており、上部に構築物を築くことは不可能(ふかのう)です

このように織豊政権が誕生する前の石垣・石積みは極めてバラエティに富(と)んだ石垣が多く、軍事的な目的を持って積んだというより、土木的な必要性にかられて積んだ石垣がほとんどです。そのため、専門的な知識の無い素人(しろうと)でも積める石垣なのです。当然、強度も低く、崩れてしまえば、またその石材をそのまま積み直していたのでしょう。織豊政権の石垣との根本的な違(ちが)いは、上に建物が建つか建たないかです。また、石垣を軍事的施設として利用しようとしていないことも挙げられます。こうした、各地に残る石垣・石積みは、統一(とういつ)政権(せいけん)の優(すぐ)れた石垣が普及(ふきゅう)すると、自然に消滅(しょうめつ)していったのです。

今日ならったお城の用語

虎口(こぐち)
城の出入口の総称です。攻城戦の最前線となるため、簡単に進入できないよう様々な工夫が凝らされていました。一度に多くの人数が侵入できないように、小さい出入口としたので小口(こぐち)と呼ばれたのが、変化して虎口になったと言われます。

塁線(るいせん)
曲輪を区画するために、石垣や土塁などの構築物で造った連続するラインのことです

登り石垣(のぼりいしがき)
斜面の横方向の移動が出来ないようにするため、斜面を登るように築かれた石垣で、竪石垣とも呼びます。大規模な登り石垣は、朝鮮出兵に際して倭城の防備を固めるために新たに考案された石垣構築の一つの手法です。

内桝形(うちますがた)
曲輪の内側に造られた桝形です。敷地面積が減ってしまうという難点がありますが、その後ろにも兵を置くことができるため、より強固な防備を持たせることができました。

隅角部(すみかどぶ)
石垣の壁面が折れ曲がっている部分のことです。 曲輪側に対して外側に折れている隅角を「出隅」(ですみ)と言い、内側に折れている隅角を「入り隅」(いりすみ)と言います。

算木積み(さんぎづみ)
石垣の隅部で、長方形に加工した石材の長辺と短辺が、一段ごとに互い違いになるように組み合わせて積む積み方をいいます。天正年間(1573~92)頃に始まりますが、積み方として完成したのは慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後のことです。


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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。



「城びと みんなの投稿」より一部画像引用…岡豊城:べあれんさん、ぽんたっく土佐守さん、安楽平城・長岩城:トーダイさん、花尾城:ヒロケンさん、勝尾城・長岩城:todo94さん、葛籠城:とある煩悩の登城目録さん、箕坪城:takumupapaさん

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