ふるふもとじょう

古麓城

熊本県八代市


旧国名 : 肥後

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古麓城跡縄張図(織豊期城郭研究会作成)
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おっちゃん

古麓城跡縄張図 (2017/11/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:古麓城 (2022/06/09 訪問)

黒淵城からの転戦です。県道158号春光寺入口(32.491785、130.635013)から進入し、春光寺横を南東に100m進むと駐車場があります。
今回は時間の都合で、駐車場から400m先にある新城のみ攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、内河義真によって築かれたと云われています。
隠岐を脱した後醍醐天皇を伯耆国船上山に迎え、倒幕の兵を挙げた名和長年は、鎌倉幕府が滅亡すると、その功により嫡男義高に肥後国八代庄の地頭職が与えられました。
1335年(建武2年)一族の内河義真が代官として八代に下向し、南北朝初期の争乱により城を築きました。これが八代城で現在古麓城と呼ばれています。
1459年(長禄3年)名和義興が十六才のときに殺害されると、幸松丸は元服して名和顕忠と名乗りました。
文明年間(1469年〜1487年)になると名和氏は相良氏と敵対するようになります。
1482年(文明14年)名和顕忠が高田に侵攻するが相良為続に撃退され、1483年(文明15年)には相良為続が逆に八代へ攻め入り古麓城は落城しました。
相良氏は一度退いたが、1484年(文明16年)に再び八代に侵攻してくると名和顕忠は古麓城を捨てて逃れました。
1499年(明応8年)相良氏は豊福で菊池能運と戦って敗れると、勢いに乗じて八代へ侵攻した菊池軍に追われ、八代の地は再び名和氏が復帰しました。
1504年(文亀4年)相良長毎が八代へ侵攻すると、名和顕忠は古麓城を明け渡し、木原城を経て宇土古城へ移りました。
1534年(天文3年)には相良義滋(長唯)によって城の拡張と城下町の整備が行われ、自ら移って居城としました。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後に入封した佐々成政は肥後国人一揆により改易となり、代わって加藤清正と小西行長が入封します。
八代は小西行長の所領となり、古麓城は廃され麦島城が築かれました。

古麓城は近世の八代城が築かれる前の中世の八代城で、八町嶽城・鷹峰城・鞍掛城・丸山城・新城・勝尾城・飯盛城の総称と云われています。
1334年(建武元年)~1484年(文明16年)までの名和氏時代は、飯盛城を主城として丸山城(新城の尾根続きの西)・鞍掛城(新城の尾根続きの南)・勝尾城・八丁嶽城(八丁山山頂)の五城にて構成されていました。
1484年(文明16年)~1581年(天正9年)までの相良氏時代は、新たに主城の鷹峰城(新城の尾根続きの鞍掛城の南)とこの新城を築き、七城にて構成されていました。
全て古麓山(八丁山)の尾根筋に点在していて、2つの堀切で隔たれる北の勝尾城と、球磨川に面した小高い山の上にある南の飯盛城、山深い最頂部にある八丁嶽城を結ぶ三角形が、おおよその古麓城の位置となるそうです。


ピンクのテープを頼りに登っていきます。方向音痴の自分はピンクのテープがなければ確実に迷子になっていました。
登城路に石積がありましたが、遺構かどうかは不明です。遺構として堀切は確認できました。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=田川内城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 内河義真
築城年 不明
主な城主 名和氏、相良氏
遺構 曲輪、堀切
指定文化財 国史跡(八代城跡群)
再建造物 碑、説明板
住所 熊本県八代市古麓町上り山
問い合わせ先 八代市文化課
問い合わせ先電話番号 0965-35-2021