ならざきじょう

楢崎城

広島県府中市

別名 : 楢崎山城、朝山二子城、二子城
旧国名 : 備後

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①堀切
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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征24日目:楢崎城 (2026/06/03 訪問)

上下陣屋から車で25分くらいで、無人販売所付近(34.590404、133.173307)に着き路駐しました。
そこから、登城口(34.592760、133.171264)に向かいました。

1333年(正慶2年)楢崎豊武によって築かれたと云われています。 楢崎氏は湯原氏の庶流で湯原親王の後裔雅楽頭豊信の末裔のようです。
大和国宇多郡を領した宇多加賀守豊武が足利尊氏に属して功を挙げ、1333年(正慶2年)に備後国蘆田郡久佐の地頭職となり楢崎山に居住して楢崎氏を称したことに始まるそうです。
楢崎氏は楢崎城を居城として代々続き、楢崎豊景のとき毛利氏に属しました。
1558年(永禄元年)毛利氏が石見国温湯城の小笠原長雄を攻めた際には、楢崎豊景・信景父子は小早川隆景の指揮下で温湯城の後詰めにきた尼子晴久を押さえたそうです。
豊景は毛利氏の備南制覇の過程でその先鋒として活躍し1568年(永禄11年)の神辺合戦では、子息を失いながらも毛利氏のために、藤井氏から神辺城を奪回するのに功があったそうです。
信景の嫡子弾正忠元兼は天正年間(1573~92)毛利氏の部将として美作月田山城を守り、羽柴・宇喜多氏との合戦で功を立てているようです。
城はこうした楢崎氏の盛衰の中で整備され、1600年(慶長5年)同氏の退去と共に廃されたようです。

無人販売所付近から登城口に向かう途中に安全寺の駐車場がありましたが、チェインが張ってあり駐車できません。
登口は安全寺の入口、民家の脇にある細い道を登って突き当りを右に進んで行きました。
堀切付近から赤いテープを目印に登っていきましたが、なかなか着きません。
縄張図では堀切からすぐ着くはずです。もしかして、まったく関係ない山に登ったかもしれません。
登城口と堀切までは間違ってないので、とりあえず投稿します。間違っていたらゴメンナサイ。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=比叡尾城に向かいました。

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赤い城

畝状竪堀 (2024/12/07 訪問)

この日は福山で忘年会。
早めに入り、行けそうな城を訪問しました。
まずは楢崎城、県道56号線沿いに無人販売所があり、駐車できるスペースがあります。
ここから安全寺を目指します。
安全寺の西側の登城口から登っていきますが、登城路は整備され、歩きやすくなっています。

程なく城域へ、切通状の堀切に。
まずは左手に進んでみましたが尾根道になっていて遺構はなさそうです。
引き返し主郭方面に。

主郭の下の郭には井戸跡、さらには石垣も残ります。
主郭には東屋と祠、石碑が建っていました。
主郭から降りて下の郭を奥に進むと畝状竪堀群が。
畝状竪堀は実際にみると凄いのですが写真に入り切らないのが難点です。
地味な存在の城ですが、なかなか見どころも多いと思います。



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まっつん

楢崎城跡 (2021/12/05 訪問)

楢崎氏が備後国芦田郡久佐の朝山に築いた城。城主・楢崎氏の菩提寺だった安全寺(薄い緑色の屋根のお寺)の西側に登山口があり、道なりに進んでいけば堀切や石組井戸跡、畝状竪堀群、石垣などが確認できる。城の主要部は3段の郭があり、主郭には神社が祀られているのと、ブランコや鉄棒があるので以前は公園として使われていたのだろうと思われる。
楢崎氏は毛利氏に従属し、各地を転戦し、文禄・慶長の役にも従軍。関ヶ原合戦後、毛利氏が防長2ヶ国に減封となり、それに従って移った。

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織田晃司

楢崎城 (2018/11/17 訪問)

遺構に堀切、石垣、畝状竪堀が残る

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 楢崎(宇多)豊武
築城年 正慶2年〔北朝〕/元弘3年〔南朝〕(1333)
主な城主 楢崎氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 曲輪、石垣、堀切、畝状竪堀群
再建造物 石碑
住所 広島県府中市久佐町
問い合わせ先 府中市教育委員会総務課文化財係
問い合わせ先電話番号 0847-43-7180