【山崎城】
<駐車場他>殿ダム展望所駐車場あり。
<交通手段>車
<見所>曲輪・石垣・堀切・竪堀
<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅1城目。山崎城は室町時代に南因幡を支配する国人領主の因幡毛利氏が築城したとされます。因幡毛利氏は安芸の毛利氏とは同族別系で大江広元を同じ始祖としています。山崎城には分家筋の山崎毛利氏が居城しますが天文年間に本家に攻撃され落城し城は本家のものとなったようです。
登城口は<35.446643, 134.341278>にあり尾根上150m程までコンクリート階段舗装がしてあります。現地説明板には東側に家老屋敷と呼ばれるところと、西側に城の中心部があると書かれています。東の家老屋敷は確認できませんでした。山頂部の城郭部分は主郭から北へ100m程細長い尾根曲輪があり北端に小さな出曲輪があります。登城口からは北から入り、まず出曲輪から攻めます。出曲輪の北に堀切土橋があり左手東側斜面に3条程の竪堀があります。出曲輪の平坦部は北東側が土塁状に上がっていて斜面に荒積みの石垣が残っていて見事な遺構です。北東隅部のみに石垣が残っていることから私は櫓台跡ではないかと思いました。南へ城跡の大看板がありその南に堀切土橋、土橋の側面には石垣があります。土橋の南が主郭の北側の腰曲輪兼、北の虎口曲輪のような削平地になっています。
主郭は南北に長く北に上記の虎口曲輪、南に少し下がって扇状の曲輪、さらに切岸があって下段の腰曲輪があります。西側は城跡看板や東屋の資材を運ぶ車両幅の通路に改変されています。主郭の東から南にかけての斜面には大石が多く転がっており、中には人工的な感じで集中している箇所もあるので当時は相当な石垣、主郭全体を鉢巻き石垣で取り巻いていたと推察します。なかなかの見応えで斜面にへばりついて、横移動しながら楽しみました。
先達の方々で石垣遺構を投稿されている方が居なかったので簡易な城跡かと思いきや、不意打ちの良い遺構に出会いビックリ、なかなかの城跡でした。
<満足度>◆◆◇
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