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おっちゃん

白巣城縄張図 (2019/07/13 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

旧柏原藩織田邸平面図 (2017/05/07 訪問)

現地案内板より抜粋

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赤い城

日蓮入滅の地 (2022/08/14 訪問)

有名な池上本門寺の隣にある本坊本行寺が館跡とされています。
日蓮宗の開祖である日蓮が入滅した地でもあります。
土塁が残ると言われていますが恐らく紀州徳川家墓所横なのではないかと思います。
ただし館の土塁なのか墓所を守る土塁なのかはわかりません。
隣の本門寺には加藤清正寄進の石段や戦国武将関連の墓もあるので見どころはあると思います。
石段を何度も往復する人もおり写真には苦労しました。
あっ、猪木世代の私では萌えませんが力道山の墓もありました。
なかなか立派なお寺です。

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おっちゃん

清水城案内図 (2017/11/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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肉球

綺麗な公園に整備されました (2022/08/23 訪問)

2006年以来の訪問でした。
陣屋跡の案内板などは当時のままでしたが絵図面に描かれている池が整備されたのか綺麗な公園が整備されていました。
陣屋南側の僅かに残る土塁の上には堀田稲荷神社が鎮座しています。
表門は陣屋北西にある東光寺に移築され裏門も東光寺から北にある病院に移築されています。

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カズサン

【遠江・市野砦】静岡県浜松市 今川氏の砦案内板のみ (2022/08/27 訪問)

 市野砦は浜松市の広報で紹介されて居ましたので、浜松城の大河ドラマ館建設工事の様子を見た帰りに寄って見ました。
 住所:浜松市東区市野町167-1に在る宗安寺山門の道を挟んだ対面に浜松市の歴史遺産【市野砦】の案内板がある。
 案内板がある草原一体南側が市野砦との事ですが遺構は無く案内板が有るだけです。

 今川氏親が永正10年(1513年)斯波氏に味方する井伊領を攻めるために市野砦に布陣、桶狭間の戦いで今川義元討死し遠州忩劇なる国人衆の叛乱が起き今川氏真が市野砦周辺で攻防戦が永禄7年(1564年)繰り広がった所でした。
 市野砦は宗安寺辺り一帯が市野町の本村に当たり、天龍川の本・支流が縦横に流れる土地の内、比較的安定しており、浜名湖北回りの東海道(のちの姫街道)が通るこの地は古くから要衝でした。
 (案内板抜粋と加筆)

 曹洞宗宗安寺に駐車場が在り利用可能かも?案内板横にごみ集積場が有り小スペースに路駐可?、宗安寺三重塔が有り浜松では方広寺三重塔と双璧です。
 東名高速浜松ICの近く宗安寺住所をナビに入れれば案内板に辿り着けます。
 

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JPN-AZE

With the great view (2022/08/19 訪問)

2022年8月19日朝、真田本城跡こと松尾城を訪問しました。行って気付いたのですが、城址に着く前の道が、割と狭かったです。リンカーン・ナビゲーターや、キャデラック・エスカレードのようなフルサイズSUVだと、ちょっときついかもしれません。私の車はMazda CX-3なので、特に苦労はなかったです。城址に、建物の類はなかったですが、城址の標高が890mなのもあるせいか、見事な信州の山並みを見る事が出来ました。

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朝田 辰兵衛

「帰りのバス停は,どこになりますか?」 (2020/12/20 訪問)

公共交通利用の場合,王道は掛川駅前から路線バスだと思います。最寄りは「土(ひじ)方」バス停。このバス停周辺は変則交差点となっています。向い側に帰りのバス停が見えなかったので,「帰りのバス停は,どこになりますか?」と運転手さんに尋ねました。だいぶうしろで,交差点の向こう…。これは聞いといて正解だと。
この日以降,ほぼほぼ毎回「帰りのバス停は,どこになりますか?」と確認するようになりました。
私の他にもバス攻城者がおられました。意識的に距離を置きましたが,帰りの「土(ひじ)方」バス停で一緒となり苦笑い。少し息が上がっている感じに見えたので,感染予防の観点から声掛けは控えました。

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津城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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松阪城 (2022/08/28 訪問)

日本百名城

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田丸城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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伊賀上野城 (2022/08/28 訪問)

日本百名城

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霧山城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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岐阜城 (2022/08/26 訪問)

日本百名城

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くらのり

山形城 (2019/06/15 訪問)

別名「霞城(かじょう)」「霞ヶ城」と呼ばれています。城郭構造の基礎は、最上善光の時代に作られ、鳥居忠政の時代に現代の形に整えられました。
江戸時代には山形藩の政庁が置かれ、現在は武家屋敷群のあった三の丸が市街地化しており、本丸、二の丸跡は霞城公園として整備されています。山形城の建造物は、大手南門が万松寺山門として移築され現存しています。
現在、本丸全体の発掘調査を行っており、本丸枡形門の復元を完了することを計画しています。三の丸跡からは奈良時代~平安時代のものと推定される竪穴住居跡6棟が発見されました。

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くらのり

平田城 (2019/04/30 訪問)

戦国期は、在地領主野仲氏の居城。野仲氏は城番として平田氏を置く。黒田氏入部時に攻撃され落城。その後、平田城は黒田家の重臣栗山利安に与えられ、石垣作りの城へ造りかえられたと考えられる。
遺構の残存状況は城域は二つの丘陵に及ぶ。南側の忠霊塔のある丘陵斜面には、16世紀末の石垣がある。算木積みが未発達な点など中津城跡と共通する特徴がある。築石部は布目崩し積みになっている。

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くらのり

萩城 (2019/03/17 訪問)

別名「指月城(しづきじょう)」と呼ばれています。城跡は国の史跡にも指定され、毛利氏が広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いたお城です。
指月山の山麓にある平城と、山頂にある山城で構成されており、本丸御殿は藩主居館と政庁を兼ねています。250年あまり長州藩の拠点であったものの、廃城令によって櫓など他の建物とともに萩城は破却され、石垣や堀のみ現存しています。
現在は二の丸土堀や三の丸総門など一部は復元されています。城跡は指月公園として整備され、二の丸入口近くには重要文化財である萩屋敷長屋が現存しています。

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くらのり

来島城 (2018/06/24 訪問)

来島村上水軍の拠点で、最大潮速時速約20㎞の来島海峡の喉元に位置する海賊の城。発展のため三家に分立し来島、能島、因島に分かれ海上を支配した村上氏。
1419年(応永26年)、来島には村上義顕の三男吉房が入り、6代約160年続くことに。因島村上氏、能島村上氏との紛争が絶えず起こり、1582年(天正10年)毛利氏・河野氏の連合軍により織田信長側に寝返った来島城を攻撃、時の当主、道総は、備中にいた羽柴秀吉を頼り来島城を脱出、秀吉の四国平定でこの方面の先陣を務めた功で伊予の風早郡一万四千石を与えられ、来島を完全に離れ来島城は廃墟となった。

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くらのり

高松城 (2018/05/19 訪問)

万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから別名「玉藻城」と呼ばれています。
豊臣秀吉の四国制圧の後、讃岐一国の領主となった生駒親正によって野原と呼ばれた港町に築かれました。現在見られる遺構は、徳川光圀の兄である松平頼重によって改修されたものです。近世城郭の海城としては、最初で最大の例になりました。
本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のような唐づくりでした。現在は、三重櫓、門などの一部の建物などが現存しており、城跡は玉藻公園として整備されています。

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くらのり

鬼ノ城 (2018/05/05 訪問)

城跡は国の史跡「鬼城山」に築かれた日本古代の山城です。築城年は不明ですが、発掘調査では7世紀後半に築かれたのではないかとされ、城壁で囲まれた城内の面積は30ヘクタールであり、城壁は土塁が主体で、城門、角楼、水門などで構成。
城壁を保護するための敷石の発見は、鬼ノ城が国内初です。鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わっており、未完成の山城が多い中では非常にまれな完成した古代山城としても有名。城壁は幅7m×高さ6~7mの版築土塁が全体の8割を占めていますが、城壁最下は敷石が建設されていて、石城の趣が強い。

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