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ダイエティシャン

1️⃣ 土橋、番所跡? 車井戸 登城道 (2022/07/07 訪問)

小松山城跡(猫城主 さんじゅーろー様の居所)から、大松山城跡(おおまつやまじょうあと)に向かいます。

本格的な山城の為、装備が必要。落ち葉が積もっており、晴れていても、滑り易かったです。

本丸の【猫城主 さんじゅーろー様】の許可を得て(本丸料金を支払い)、二の丸帯郭の奥の搦手から、攻めます。①~③
すぐに土橋④を渡ります。すぐに、郭っぽい⑤⑥ここが、番所跡でしょうか?
次は登り⑦

車井戸の標注と、コンクリートの建物⑧裏に廻りましたが⑨、建物の正体は不明。

更に進軍すると、右手に石垣⑩

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零汰

再訪問 (2019/07/07 訪問)

バイクは車と違ってタイヤが2本、自立の出来ない乗り物です。油断をしてしまうと倒してしまいます。何より倒した時はメンタルが崩壊して気を取り直すのに時間が掛かります。城訪問のお供の赤い2号機は重量が300kgオーバーで独りで起こすのはとても大変、今まで3回城跡で倒しています。初めて倒したのは3年前のこの城跡、気を取り直して訪問を初めたが堀切の土砂崩れで訪問不可能。踏んだり蹴ったりの城跡でその後どうにも足が向かなかった場所です。先月6/27に付近の城跡と合わせて3年ぶりの訪問。今回は無事に回る事が出来ました。

南郷城は高城・東の城・根子城・野〇城などの総称で高城が本丸となります。各々の曲輪は鹿児島特有の高い堀切で遮断され荒々しくも心地よい雰囲気を醸し出しています。写真には有りませんが切岸がほぼ垂直に近い場所もあります。石積など見る事は出来ませんが、歩き回るとあちらこちらに遺構の造形美を楽しむ事が出来ます。

所要時間1時間15分:1.6km:累計高低差121m


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赤い城

手作り感溢れる木製の碑 (2022/06/26 訪問)

上越線の線路沿い、畑になっている部分が城跡です。
遺構はありません。
畑の脇に木製の碑がひっそりと立っていました。
周囲も住宅地となっています。
近くの踏切が「剣城踏切」という名なのがせめてもの名残でしょうか。

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歴史案内活動【令和4年7月24日(日)9:00~12:00】 (2022/07/24 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

躑躅ヶ崎館跡の歴史案内活動を行います。
7月に入って武田神社境内の緑も色濃さを増し、
夏も本格化する季節になります。
よく甲冑姿で暑くないの?と尋ねられますが、
意外と胴鎧は通気性が良くて、風が吹くと涼しく感じます。
とはいえ、日中の活動は水分と塩分は必需、暑さ対策に気をつけて活動をしています。
暑さ対策といえば境内にある宝物殿、隣接するミュージアムなどの屋内施設、
冷房が効いた中で展示品を観るのもオススメです。

日時:令和4年7月24日(日) 9:00頃~12:00頃
参加ガイド:局長・大塚與左衛門、民部少輔(弥三郎)景政、上田絵馬之助

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天、COVID-19感染拡大状況等により中止の場合があります。
◆案内に先立ち検温等のCOVID-19感染対策を行っていただきます。
◆また、感染防止のため甲冑ガイドと一緒に写る記念撮影はご遠慮いただいてます。
 甲冑ガイド単独の撮影は可能ですので、撮影者間の距離を保って撮影ください。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

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小城小次郎

堀は四周を台形に巡っていた (2022/01/27 訪問)

同行者曰く「堀が半分しか残っていない」ことが強く印象に残ったそうだがかつては四周を巡っていた(北は川だが)。調べているうちに堀は絵図にある「ほぼ正方形」ではなく南が膨らんだ台形であったことにふと気づいた。

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チェブ

奥平氏と五平餅。 (2022/05/05 訪問)

前回 投稿した「古宮城」の次に「亀山城」攻めです。
国道301号を通ると、『道の駅 つくで手作り村』の奥に小高い山があり「亀山城」と大きな看板が手招きしてます。

1424年奥平 貞俊さんが築城しました。
奥平氏は上野国の出身です。
松平→今川→織田→今川→松平→武田→徳川と、一族を守る為に主君を渡ります。
「古宮城」は「亀山城」の奥平氏の監視の役割もあったそうで、1km位の場所で睨んでました。主君がこれだけ変われば、しょうがないのでしょうか?

実は「古宮城」攻め前に、道の駅で「古宮城」のスタンプが設置してると勘違いして寄りました。売店の方が親切に教えて下さり「古宮城」の作手歴史資料館に時間ギリギリで間に合い、スタンプを押す事ができました。
そのお礼を言おうと、道の駅に戻ると、同じ質問をしてる親子がいました。
、、、勘違い、私だけじゃないのだね。

『道の駅つくで手作り村』はバイクの方々で賑わってました。奥の「亀山城」横の駐車場は余裕で駐車できます。山城ですが公園として整備されているので歩きやすく、まさに亀山の如くです。
曲輪から国道を見下ろすと、道の駅は『五平餅』を販売してる売店が、たくさんありました。
東京の端っこに住む私は『五平餅』と言ったら群馬県だったので意外でした。群馬県のは『焼きまんじゅう』だったかな?
、、、!!
群馬県=上野国と、ざっくり考えると奥平氏が広めたんでしょうか?奥平氏は上野国出身です。
『五平餅』は長野県・岐阜県・愛知県の山間部で広まったそうです。
因みに、『五平餅』はお米を潰したもので、群馬県は『焼きまんじゅう』。小麦粉からできてます。
この辺りの小豪族の方々が、名を残す為に戦った最中に食べられたのだとしたら、と、『五平餅』で戦国の世に酔ってしまいました。

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一日市場館 (2022/07/16 訪問)

 土岐氏発祥の地として知られる一日市場館跡に行ってきました。「ひといちば」と読みます。吾妻鏡に出てくる土岐三郎という人物が土岐光衡で、この地に土着して土岐氏を名乗ったのが始まりとのことです。土岐氏の一族として有名な明智光秀の出生地はいくつか説がありますが、この地で生まれ2歳で明智城代の光安に引き取られたという話が伝わっています(瑞浪説)。
神社の北側に土塁の跡(かなり低いので)があります。

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赤い城

関越道のトンネルの上 (2022/06/22 訪問)

県道255号線から少し入ったところに案内板があるもののここからが分かりにくい。
畑の中の細い道を迷いながらやっと到達しました。
ちょうど関越道の長井坂トンネルの上にあります。
畑の脇に車を置き、城跡に入っていくと曲輪があります。
さらに進むと追手口の標柱がありました。
そこから長い堀底道が続いていて左手に本丸。
本丸は土類に囲まれています。
本丸から堀切を挟んでさらに先には馬出。
その先、畑となっている三の丸に説明板が立っていました。
二の丸も畑ですが土塁は残っていました。
築城は不明ですが上杉謙信が関東出兵の際に着陣したとされています。
その後は真田氏、北条氏によって改修されています。
関越道を見下ろす眺望も含め、苦労が報われる城でした。

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零汰

新城:鹿児島県出水市高尾野町 (2022/06/24 訪問)

今回のマイナー城跡は鹿児島ではとても珍しい平城です。新城と呼ばれていますが城館だったのかもしれません。調査報告書には詳しい記載が有りませんが遺構を探しながら十分に楽しめました。

城域半分は住宅地になっておりますが、東側には高さ3m程の土塁が100m弱の長さで残っており、それに伴って空堀が配置されています。土塁開口が当時の大手口だったのでしょう。土塁を隔てて曲輪がしっかりと残っています。また西側にも3mの土塁が残っています。その他にも主郭だったのではと思われる曲輪が1か所残っています。四方を土塁で囲われて2か所の虎口があり、井戸跡が3か所有ります。

鹿児島は400城近く訪問しましたがこのような城跡は初めてでした、もしかしたら消滅した城跡にも城館の様な場所があったのかもしれません。

先週8日の残念な事件から1週間の投稿自粛、今後も思い付きで投稿したいと思います。

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朝田 辰兵衛

九州自然歩道下山口に案内はナシ。 (2022/07/09 訪問)

伐株山の北北東より攻め上がる「九州自然歩道登山口」はわかりやすいですが,山頂側の「九州自然歩道下山口」は何気に入る感じでわかりづらいです。けれど,私以外で徒歩攻城の可能性が高いのは,にのまるさんぐらいしか思い当たりませんが…。
JR豊後森駅から九州自然歩道登山口まで,徒歩約30分。九州自然歩道登山口から伐株山山頂まで,徒歩約50分。車道だと,大きく円を描いて南側から攻め上がるので,車道を徒歩だとやたら非効率に感じます。
なお,第7土塁奥の堀切および畝状竪堀は,季節的に確認が取れませんでした。

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TMN97

山中城址 (2022/07/15 訪問)

山中城址

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Yosihiko

高知城 (2022/07/14 訪問)

攻城🏯16城、攻城址5
平城の為、昇るり安くて良かった。
閉館ギリギリだったので
ゆっくり見て廻れないのが残念でした。

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Yosihiko

丸亀城 (2022/07/14 訪問)

攻城🏯15城、攻城址5
少し高台に有り昇り坂が急だった。

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カズサン

秀吉馬印を奪った吉岡将監の城 (2009/03/21 訪問)

 防己尾城は日本で一番大きい池、湖山池の西側に東に突き出た岬に築かれて居ます、鳥取城鹿野街道から県道21号線を西進、吉岡温泉入口を過ぎて温泉宿泊施設レーク大樹方向、末恒伏野方向北進、ほどよく行くと突き出た岬、案内板がある、南北に尾根が有り中間の平地に駐車場完備。

 母の49日法要の為、帰省し法事が明けた翌日、レーク大樹に泊まって居ましたので、約1km程の所に在る防己尾城跡を久しぶりに訪ねました。
 中学の頃先生によく鳥取城合戦の話、鳥取城側の武将の話、特に吉岡将監が秀吉の馬印千生瓢箪を奪った話とか授業中に聞いており、久しぶりの懐かしい城郭です。

 現在は公園化されて居り散策路も付き歩き易い、北側の尾根が城郭域の様で頂上が削平整備されて本丸かな?城名石碑が立って居り、案内解説板も有ります、東先端は出丸か?現在展望台の様です、南側尾根は公園散策路が付き頂上は削平広場と成って居る、案内板に本丸・二の丸・三の丸・町屋と記載されて居ましたが、本丸以外よく分かりません、北側に船着場ともあり湖山池をよく移動して居たのでしょう。
 防己尾城は天正9年(1581年)の鳥取城合戦攻防で秀吉の馬印千生瓢箪を奪った時が花の時期で、鳥取城落城時に鳥取方亀井茲矩によって落城して居ます。
 朝露にやぶ椿が濡れて咲いて居ました、落ちた椿は絨毯の様、やぶ椿は群生ししっとりと綺麗です、早咲きの山桜は花を咲かせ始めの様で、桜と椿良い環境です。

 レーク大樹に戻り伝説湖山池長者の像が金ぴかで池端に立って居ましたので撮影、伝説では湖山池は昔田圃で湖山長者の田圃でした、一日で全部植えたいと思って居ましたが後少し陽が沈み出来ない処、長者は太陽を扇で迎え戻し田植えをし終えましたが、翌日起きると田圃は一面の池に成って居たとの話です。

 

 

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カズサン

出水麓武家屋敷保存地区 (2009/03/15 訪問)

 13年前の平成21年3月中旬、定年退職1ヶ月前の鹿児島工場出張の折、レンタカーで地道走行し未踏の城廻り、出水麓を訪ねました。
 麓は薩摩藩の鶴丸城を本城とし、領内各地に113(のちに102)の外城と呼ばれる行政区画、麓を設置し統治の中心としました。薩摩藩の麓で有名所は、ここ出水麓、入来麓、知覧麓の三ヶ所でしょうか、仮屋御門と武家屋敷が良く残り、伝統的建物群保存地区に成って居ります。

 出水麓の観光駐車場に車を駐めて、探訪散策を開始、一般公開されてる武家屋敷も在り建物内に入れます、丁度ひな祭り月で雛飾りが綺麗に飾って有りました、出水城(亀ヶ城)を背景に地頭仮屋が設けられ仮屋御門が残って居ます、現在は出水小学校、出水城へは城郭放浪記さんの情報で立入禁止と有りましたので麓から眺めるだけ、出水小学校の近くに五万石溝跡が在り見学、江戸中期に用水路として約20km掘削し通したとか、大変な労力だったそうです。
 武家屋敷の有る伝統的建物群保存地区は、玉石垣に生垣、武家屋敷門が揃って落ち着いてしっとりした風情を醸して折りゆっくり散策を楽しめます。
 

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イオ

雄島(福井県坂井市三国町安島) (2022/06/05 訪問)

東尋坊沖合いの雄島は越前海岸で最大の島(と言っても全周約2km)で、古来より神の島として崇められていますが、この日の麒麟がくる紀行(越前編)の下調べをする中で明智光秀ゆかりの史跡があることを知り、ちょっと寄り道してみました。

対岸の無料駐車場に車を駐めると眼前には雄島が横たわり、朱塗りの雄島橋がまっすぐにのびています。心地良い海風に吹かれながら橋を進んで行くと、雄島南岸に柱状節理の断崖が聳え立っているのが見えてきました。東尋坊の柱状節理はデイサイトですが雄島は流紋岩によるもので、一乗谷や福井城養浩館の庭石にもこの流紋岩が多用されているんだとか。

大鳥居をくぐり、参道の石段を登ると大湊神社に至ります。大湊神社には航海と漁業の神が祀られ、朝倉氏の祈願所となるも織田信長の朝倉攻めで社殿は焼失していましたが、江戸初期に福井藩二代・松平忠直が再建した本殿が現存しています。その本殿付近(向かって右奥と左手前)に、明智光秀が朝倉氏に仕えていた頃に雄島を訪れて詠んだとされる漢詩の石碑が建てられています。右奥が江戸後期に建てられたもの、左手前は右奥の詩碑が磨滅破損したために再建されたもののようで、正直、漢詩の意味はよくわかりませんが「源光秀」の文字は読み取れました。

遊歩道をさらに進んで島を一周すれば、流紋岩の板状節理や瓜破の水、磁石岩やヤブニッケイの自然林など見どころはいろいろあるようですが、時間の都合もありこの日はここまで。それでも、ちょっと寄り道程度のつもりが思いのほか楽しませてもらいました。
 

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おっちゃん

古城公園案内図、東条城復元図 (2018/05/26 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

東金城跡地形測量図、東金御殿古絵図 (2017/10/07 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

唐沢山城跡案内図 (2017/02/19 訪問)

現地案内板より抜粋。

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カズサン

返り咲いた立花宗茂 (2009/03/07 訪問)

 柳川城は九州征伐の軍功で13万2千石の領地を与えられ、本格的な城郭に築き直し、関ヶ原合戦で西軍に与したが家康に許されるも領地は没収され浪々の身に、関ヶ原の戦功で筑後32万5千石で田中吉政が入封し再整備、五重の天守もこの時建てられたと、しかし二代目忠政に子が無く亡くなり元和6年(1620年)に断絶、慶長8年(1603年)大名に復帰した立花宗茂は陸奥棚倉の赤館を居城とし3万5千石と加増され、元和6年故郷の柳川城主として11万9千石で返り咲き、以後11代明治まで継承治政した。
 関ヶ原合戦後西軍で復帰した大名は立花宗茂ただ一人、武勇人格を家康、秀忠に見込まれたのでしょう。

 13年前の平成21年、柳川城の探訪は先に柳川名物「ウナギのせいろ蒸し」を頂く、錦糸卵も載って柔らかく垂れが掛り美味しく頂きました、水郷水堀を巡る川下りに乗船、丁度ひな祭り時期で雛飾り吊るし雛飾りが堀端、お店の各所に飾られて居ました、川下りで堀、水門、堀端の田中吉政公像、立花家別邸お花の裏船着場、見学周り、終点は北原白秋生家のある船着場、北原白秋生家見学、雛飾りも、柳川城の連結式天守閣の模型が展示して有り、明治初年まで在った天守閣の姿を脳裏に叩き込む。
 立花家の別邸お花を見学、洋館と御殿、庭園松濤園も見学し、唯一残ってる本丸跡の石垣、曲輪を見学、現在本丸は柳城中学校、二の丸は柳川高校に成って居る、本丸の案内板に柳川城の古絵図が掲載されて居り五層の天守閣も描かれて居り廻縁高欄に唐破風入母屋破風が付き30万石太守に相応しい天守閣(田中吉政造)だったのでしょう、立派な天守閣を彷彿しました、幕末古写真を見ていたので再確認しました。
 
 定年退職の花向けに福岡城久留米城柳川城を堪能し柳川名物ウナギのせいろ蒸、雛飾り、川下り観光も端のしました、福岡の同僚仲間に感謝です、13年経ちました。
 

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