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くらのり

亀居城 (2020/03/14 訪問)

毛利氏の上方への侵攻を防ぐために安芸国西部に城を造ることとなった。1603年(慶長8年)に山陽道を押さえる要地に築城が開始され、5年もの歳月をかけて、非常に巨大な堅城として完成した。
城主になる予定だった福島正則の甥・福島正宣は前年に死去しており、山田小右衛門と森佐助の両名が城代として城に入った。豊臣氏と徳川氏の軍事的衝突の危機が高まると豊臣恩顧の福島氏への徳川氏の圧力が非常に強くなり、正則は徳川氏の意向に従うこととなった。結局、亀居城は完成よりわずか3年後の1611年(慶長16年)に破却され、その役目を終えた。天守や主要な建造物は撤去された。

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くらのり

金沢城 (2020/01/25 訪問)

天文15年に本願寺が金沢御堂を創建したのが始まりと言われています。その後天正11年に前田利家が入城し、明治2年まで加賀藩前田家14代の居城となっていました。
前田利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始めて、曲輪、堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べました。城址を含む一帯は金沢城公園として整備され、白い漆喰と石垣のコントラストが映える外観の石川門は国の重要文化財にも指定されています。
日本3大庭園の1つである金沢市の兼六園は、加賀藩5代藩主前田綱紀が金沢城に付属して作らせ、代々の藩主が改修した大名庭園です。

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くらのり

福岡城 (2019/12/29 訪問)

別名「舞鶴城」「石城」と呼ばれ、現在、福岡城跡は舞鶴公園と大濠公園になっています。江戸時代初期に、関ヶ原の戦いで功績をあげた外様大名の黒田長政が、警固村福崎の丘陵地に築城しました。
築城期間は7年だったとされ、城の規模としては九州一の巨城です。それ以降、明治まで福岡藩黒田氏の居城となりました。本丸、二の丸、三の丸などの中心部は総石垣づくりなことから「石城」とも呼ばれています。現在も美しい石垣が四層に分かれて、広大な史跡となっています。また城跡には現存櫓、移築、復元された櫓・城門も点在しています。

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くらのり

大野城 (2019/12/29 訪問)

古代山城で、標高410mの大城山(四王寺山)に所在し、山頂を中心に土塁と石垣の外周城壁は6.8㎞もあります。上位機は東西約1.5m×南北約3㎞で日本一の大規模な古代山城になり、城門は9か所が開かれていました。また谷部には浸透式で自然排水の百間石垣や、屯水石垣などが確認されています。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いたと言われています。また城郭の建設を担当したのは亡命百済人であったそうです。

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くらのり

米子城 (2019/09/22 訪問)

別名「久米城」「湊山城」とも呼ばれ、江戸時代初期は米子藩の藩庁でもあった。米子藩(西伯耆)の拠点的なお城は、山陰地方で最初に築かれた近世初期の城郭。
天守のあった標高90mの湊山は、北に丸山、東に飯山、南西側に中海という天然の要衝を擁する地でした。
この城山を内堀で囲んで、外郭に武家屋敷を配置して、外堀を巡らせていた。四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が華麗に連なっており、江戸時代の一国一城令でも存続を許された支城でしたが、明治時代に切り売りされ、現在は城の建物は残っていないが形態をよくとどめ、その構造を知ることができる。

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くらのり

会津若松城 (2019/09/15 訪問)

別名「若松城」。地元では「鶴ヶ城」と呼ばれています。本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸で構成。1384年(至徳元)に葦名直盛が東黒川館として築城。
改修ののち「黒川城」とその城下が成立し天下の名城となりました。1589年(天正17)葦名氏を滅ぼした伊達政宗が城主になります。伊達氏が豊臣秀吉に臣従すると、1592年(文禄元)蒲生氏郷が城主となり改修。
若松城と呼ばれる。戊辰戦争の一つ、会津戦争において新政府軍に襲撃され落城。石垣を残して取り壊され、昭和40年に寄付により再建。現在は「鶴ヶ城 城址公園」に。

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くらのり

洲本城 (2019/08/25 訪問)

別名「三熊城」と呼ばれており、国の史跡にも指定されています。大永6年(1526年)三次氏の重臣、安宅治興が築城しました。1581年淡路討伐の際に、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられました。
しかし秀久は九州征伐の際に違反を犯して高野山へ追放。その代わりとして脇坂安治が城主となって、天守を造営しました。また石垣の大改修もその際に行われ、登り石垣が築かれます。
現在ある模擬天守は、1928年に御大典を記念して作られた鉄筋コンクリート製。模擬天守としては日本最古のもので展望台に特化しています。

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くらのり

明石城 (2019/08/24 訪問)

旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれており、別名「喜春城」「錦江城」と呼ばれています。JR明石駅北側を降りると、駅ホームより間近に望むことができる平山城です。
本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われ、この地は嘉吉の乱で激戦地でもあった。徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として姫路城に次いで着目したお城です。徳川秀忠より築城命令があり、本多忠政と小笠原忠真が築城から町割りも行ったとされています。
現在は明石公園として整備され、櫓や石垣は1995年の阪神・淡路大震災で被害を受けたものの全面修復されました。

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くらのり

丸亀城 (2019/08/15 訪問)

別名「亀山城」「蓬莱城」と呼ばれており、標高66mの亀山を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀で囲む渦郭式の平山城です。最大の特徴は石垣の高さ。
緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるように独特の反りを持っています。この反りは「扇の勾配」と呼ばれています。
山麓から山頂まで4重に重ねられている石垣は、合わせると60mにもなり、総高としては日本一です。三の丸石垣だけでも一番高い部分は22mあります。ちなみに単体として日本一高い石垣は大坂城で、実測値は33mです。

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イオ

とことん江戸城(スペシャルサンクス)

とことん江戸城のきっかけとなったもの、参考にさせてもらったものを感謝を込めてご紹介。

ブラタモリ(江戸城、江戸城と東京)

タモリさんが2階建てバス(スカイバスっていうんですね)と船で江戸城の内堀・外堀をめぐる回を観て、場所によって堀沿いの石垣の高さが違ったり、地形に応じて石垣と土塁を使い分けていたりするところを確かめてみたいと思ったのがそもそものきっかけです。出張が決まり、内郭・外郭めぐりをしようと決めた後、下調べとして録画をもう一度観返しました。続編として大名屋敷の回もあり、いつかは大名屋敷跡もめぐってみたいものです。


にのまるさんの「36見附めぐり」

ブラタモリを観た時点では「2階建てバスで行く! 江戸城ブラタモリツアー(現地解説付き)」とかやってくれないかなー、程度で、外郭を自分の足で踏破しようとまでは思っていませんでしたが、にのまるさんの「36見附めぐり」を拝見して、自分もこういうことがやりたい! と思ったのが決定打でした。とはいえ、首都圏在住ならともかく関西人には出張の度に1~2箇所ずつぼちぼち進めるしかないかな、と思っていたのが、まさかその半年後に一気にめぐることになろうとは…。

出張が決まり、自分なりに下調べした上で「36見附めぐり」を読み返してみると、チェックした見どころはほぼ全て網羅されており、現地でも見落としがないかその都度「36見附めぐり」で確認するなど、動機から下調べ、現地でもひたすらお世話になりました。ありがとうございました。


江戸城の全貌(萩原さちこ・さくら舎)

城びとでも江戸城の連載をしておられた萩原さちこさんの解説書です。江戸城の歴史、天守や御殿、石垣の解説に加えて、内郭・外郭の城歩き視点でのみどころ紹介もあり、四六判のため現地での持ち歩きにもかさばらないのもありがたかったです。下調べに往復の新幹線内の暇つぶし、現地でもその都度参照させていただきました。


大江戸今昔めぐり(スマホアプリ)

江戸末期の古地図とGoogleマップを重ねて表示できる地図アプリ(無料)です。以前にくろもりさんが投稿でお勧めされているのを拝見して、インストールしたまま東京に行く機会もなく半ば忘れていましたが、往時の様子や位置関係について、文章で読んでも具体的にイメージしづらい時でも「大江戸今昔めぐり」を開けば一目瞭然で、下調べでも現地でも活躍してくれました。くろもりさん、ご紹介ありがとうございました。

そして、こんなだらだらと長い投稿に最後までお付き合い下さった皆さまにも感謝を…。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:飯久保城 (2022/07/31 訪問)

守山城からの転戦です。飯久保八幡宮入口(36.805140、136.954456)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、狩野氏によって築かれたと云われています。
狩野氏については詳らかではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)には飯久保城に在城しており、神保長職に従っていたようです。
その後、越中を支配した上杉謙信、佐々成政に従いました。
1585年(天正13年)佐々成政が羽柴秀吉に降ると狩野氏もまた飯久保城を明け渡して退去したと考えられています。

路駐場所が狭く民家前だったので登城せず、飯久保八幡宮に参拝して引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=惣領砦に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:守山城 (2022/07/31 訪問)

古国府城からの転戦です。二上山中継局前駐車場(36.788171、137.010508)に駐車し、公園に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に桃井直常によって築かれたと云われています。
室町時代には守護畠山氏の守護代神保氏の居城放生津城の詰城としての役割があり、1519年(永正16年)越後の長尾為景が越中に侵攻した際に、神保慶宗はこの城に籠って対抗しました。
神保氏は天正年間(1573年〜1592年)に神保氏張が上杉謙信に降り、1578年(天正6年)謙信没後に織田氏が越中に侵攻すると佐々成政に従いました。
1585年(天正13年)富山の役で前田軍が攻め落とし、秀吉から賞賜されて前田利長の居城となりました。
1597年(慶長2年)前田利長が富山城に居城を移すまで在城しました。
以後、前田対馬守長種が守りましたが、城下の寺院や商工業者は富山に移り、城下町は急速に寂れていき、その後廃城となったと考えられます。

現在は万葉ラインや山頂の公園化、駐車場となり城址は破壊されているようです。
電波塔横に竪堀はあるようですが、わかりませんでした。
本丸には観音像が建てられ、説明板があります。
松倉城(魚津市)、増山城(砺波市)と並び越中三大山城と称されたそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=飯久保城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:古国府城 (2022/07/31 訪問)

放生津城からの転戦です。勝興寺駐車場(36.792935、137.053937)に駐車しました。

天正年間(1573年~1592年)守山城主神保氏張によって築かれたと言われているが、それ以前から存在した可能性もあるようです。
神保氏は放生津城を居城としていたが、越後長尾氏の侵攻により守山城に立て籠もります。 この守山城の出城として築かれたのが古国府城といわれています。
1581年(天正9年)越中木舟城主石黒左近成綱によって、越中安養寺御坊(勝興寺・小矢部市末友)が焼き討ちされ焼失しました。
1583年(天正11年)佐々成政が越中を平定し、神保氏張も平定に尽力し成政の配下に名を連ねます。
1584年(天正12年)佐々成政が豊臣秀吉と敵対姿勢を強め、隣国の前田利家との争いも激しさを増します。
佐々成政は越中一向一揆勢力を味方に付ける為、古国府城の一円を勝興寺に寄進し、安養寺御坊より移設(再建)されました。これにより古国府城は事実上、廃城となります。
1585年(天正13年)富山の役で佐々成政は豊臣秀吉に降伏して前田家の所領となるも、勝興寺は手厚い保護を受けました。以降幕末まで前田家と勝興寺は血縁的にも密接な関係を保ち続ける事となりました。

古国府城は勝興寺の境内一帯に築かれていたそうです。勝興寺内には入らず廻りを散策しました。中に入るには拝観料がいります。
東側に石垣で構築された堀が見られ、その上に物見櫓のような太鼓堂が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=守山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:放生津城&放生津台場(城びと未登録 富山県射水市) (2022/07/31 訪問)

日宮城からの転戦です。石碑説明板付近(36.777109、137.089987)に路駐し、石碑と説明板の写真を撮った後、放生津台場を攻城する為、放生津八幡宮駐車場(36.780288、137.094021)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中守護所が始まりのようです。
室町時代には守護畠山氏の守護代神保氏の入城しました。1493年(明応2年)明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠は、政変で幽閉された十代将軍足利義材(よしき・義伊・義稙)を迎え、上洛のための諸準備を進めます。
義材は放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙しました。義材のもとへ公家、大名が出仕し、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れ、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心として栄えました。
1520年(永正17年)神保長誠の子慶宗が越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)の攻撃で落城し自害し、神保氏は拠点を富山城に移しました。
その後神保氏により再建され、加賀前田氏の武将が城代となったが、江戸時代初期に廃城となりました。城跡は畑とされ、江戸後期に加賀藩前田家の米倉が設けられたそうです。

現在の放生津城小学校一帯が城址で、小学校北側の道路沿いに案内板があります。

放生津台場(城びと未登録 富山県射水市)
1850年(嘉永3年)加賀藩によって築かれました。 加賀藩主前田斉泰が台場を見分したとき、放生津八幡宮に参拝したそうです。
放生津台場は放生津八幡宮境内付近に築かれていたそうです。
境内の北側にある「奈呉之浦」の碑が建っている所が台場の土塁跡だそうです。
現在境内の東側から北側にかけて土塁らしき境界があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=古国府城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:日宮城(火宮城) (2022/07/31 訪問)

願海寺城からの転戦です。薬勝寺石段前(36.704611、137.083985)に路駐(付近は狭いです)し、日吉神社参道入口(36.704225、137.083004)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に神保氏によって築かれたと云われます。
1572年(元亀3年)武田信玄の調略に応じた加賀国、越中国の一向一揆が侵攻し、落城させました。
勢い付いた一向一揆勢は、そのまま越中国白鳥城を攻め、越中国富山城(翌年に謙信によって再度攻略された)をも落としました。
日宮城はその後史料から姿を消し、まもなく廃城となったようです。

現在、城址は本丸に日宮神社が、南郭に薬勝寺が建てられています。
薬勝寺の本堂の裏に曲輪、空堀、土塁が残っています。
薬勝寺の西に空堀を隔てて日宮神社があり、案内板が鳥居の左側に建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=放生津城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:願海寺城 (2022/07/31 訪問)

安田城からの転戦です。城址碑説明板前(36.717344、137.140835)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代に寺崎氏によって築かれたと云われています。
寺崎氏は畠山氏の家臣でしたが、1550年(天文19年)上杉謙信によって落とされ、当主の寺崎行重が敗死しました。跡を継いだ子・盛永は謙信や越中国富山城主神保長職らとの間で巧みに立ち回ります。
1552年(天文21年)謙信に属していた寺崎盛永が越中国井田城主飯田(斎藤)利忠と戦います。(天神林の戦い)
戦いは利忠の弟である利常、利憲が討たれ利忠は同族である斎藤信利が拠る越中国城生城へと逃れるなど、盛永の勝利に終わり、盛永は余勢を駆って城生城を攻めたが、こちらは上手く行かず撤退しました。
1574年(天正2年)能登国を治めていた畠山氏の当主・義慶が死去すると、これに乗じて越中の一向一揆勢は能登国へ攻め込み畠山方と二宮で戦うが敗れました。
この頃、盛永は一向一揆に与していたとみられ、この戦いの総大将を務めていたとみられます。
1576年(天正4年)謙信が能登国の畠山氏を攻め、翌年その拠点七尾城を落としました。この戦いに盛永も参戦していたと思われ、この頃には上杉家に属していたようです。
1578年(天正6年)謙信没後に織田氏が越中に侵攻すると織田氏に降りました。
しかし、上杉氏が再び越中に侵攻すると再度降り、1581年(天正9年)織田氏によって攻められ落城、城主寺崎父子は近江に送られ自刃させられました。

遺構は残っておらず、GPS座標付近に説明板と城址碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日宮城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:安田城 (2022/07/31 訪問)

白鳥城からの転戦です。安田資料館駐車場(36.679849、137.159324)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1585年(天正13年)頃に築かれたようです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による佐々成政征伐で、秀吉が富山城攻めの本陣となった白鳥城の支城として現れるのが史料上の初見だそうです。
白鳥城にいた前田氏の家臣岡島一吉が安田城に移っており、築城もこの頃と見られるそうです。
1587年(天正15年)佐々成政は肥後に転封となると、新川郡は秀吉直轄領となり、安田城の役目は一旦終わったものと考えられるようです。
1597年(慶長2年)には前田利長が守山城から富山城に移ると、岡島一吉は白鳥城へ入り、その後、ふたたび安田城へ移ったそうです。
1599年(慶長4年)前田利家死去により、利長は金沢へ帰還し、岡嶋一吉もそれに従いました。
その後しばらく代官平野三郎左衛門が居城しましたが、慶長年間(1596年~1615年)には廃城となったようです。

安田城跡資料館(月曜、祝日の翌日、年末年始は休館日 9:00~17:00(休日は16:30) 入館無料 無料駐車場50台)の駐車場が利用できます。
安田城は現在、城址公園として整備されています。
城は、3つの郭(本丸、二の丸、右郭)を配置しており、その周囲は水堀がめぐらされています。
駐車場から土橋を通り右郭に入りますが、何もありません。
右郭から土橋を通り二の丸に入ります。本丸へ続く西側を除いて土塁で囲まれています。
二の丸から土橋(土橋の上に木橋があります)を通り本丸に入ります。本丸へ続く西側を除いて土塁で囲まれています。
本丸の周囲は上端幅が広い土塁で囲まれています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=願海寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:白鳥城 (2022/07/31 訪問)

大峪城からの転戦です。城山公園駐車場(36.698247、137.166063)に駐車しました。
ナビが指定したルートは工事中で通行禁止。現地でルートを捜し、呉羽ハイツに向かうルートなら行けることがわかりました。
城山公園駐車場に着いた時、FMとやま呉羽送信所横(駐車場手前)で工事してました。

築城年代は定かではないようですが、古くは1183年(寿永2年)源義仲の部将今井兼平が御服山に陣を張るなど要害として活用されていたようです。
1537年(天正6年)には神保八郎左衛門が居城としていたとも云われるが定かではないようです。
神保氏は越中国中央部に勢力を持った国人で、1543年(天文12年)頃に神通川を越えて富山城を築き、新川郡を支配していた椎名氏と対立していました。
1560年(永禄3年)頃から越後の上杉謙信は圧迫された椎名氏を援助して神保氏を攻め、1562年(永禄5年)神保長職は呉増山に立て籠もってこれに抵抗したが敗れて城を去ったそうです。
1572年(元亀3年)西から攻める一向一揆勢により落城しました。
1578年(天正8年)謙信死後、越中が織田信長の支配に入ると、佐々成政が富山城に入り白鳥城は引き続きその支城となりました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の佐々成政征伐では、秀吉の本陣が白鳥城に置かれ、白鳥城に籠もっていた前田氏の部将岡島一吉は南麓の安田城に出城を築いて移りました。 この頃に現在に残る縄張に改修されたようです。
佐々成政が降伏すると成政は新川一郡に減封となり、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増されました。
利家は越中三郡を支配するため守山城に前田利長、木舟城に前田秀継、増山城に山崎長鏡、白鳥城に岡島一吉、城生城に青山佐渡を置き、佐々成政に備えたそうです。
1587年(天正15年)佐々成政は肥後に転封となると、1597年(慶長2年)には前田利長が守山城から富山城に移り、岡島一吉は白鳥城から安田城へ移ったそうです。

「FMとやま呉羽送信所」の道路反対側が駐車場で、城山には遊歩道が設けられ公園として整備されています。
西側の階段を登ると「東出丸跡」があり下って少し行くと空堀があり、階段を登ると三の丸跡になります。
三の丸跡の西に二の丸跡があり、間に横堀があります。
本丸下の空堀の横に井戸が残っているようですが、ヤブが凄く確認できません。
本丸には土塁が残り、案内板、平面図看板や「天測点」があり、一段高い土壇は天守台跡のようです。東方に富山の市街地が眺望できます。
本丸の北側に本丸下郭があり、間に横堀があるようですが、ヤブが凄く確認できません。
本丸下郭の北西側の堀切(木橋がついています)の先に北二の丸があり、西側に土塁が確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=安田城に向かいます。

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キンヤ

本丸の荒々しい野面積み石垣が見所の城 (2022/08/21 訪問)

本丸の石垣は、1576年からの金森長近による築城時のものと考えられるそうで、荒々しい野面積みで1番の見所でした。
但し、積み直しされた部分が多いそうです。お福池そば辺りの石垣は当時のままらしいです。

復興された大天守は古風な感じで、なかなかカッコよかったです。
天守内に展示してあった古絵図では、かつては御殿風の天守群だったようです。

城下町は雰囲気良く武家屋敷や清水などを巡り楽しかったです。
武家屋敷旧田村家の庭には、外堀の土塁が城下で唯一残ってました。
名水の町で、かつては殿様の御用水に使われていた湧水の御清水では飲むことができ美味しかったです。

近くの光明寺には元は二の丸・三の丸間の鳩門だった立派な移築門がありました。

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肉球

駅から徒歩0分 (2022/08/23 訪問)

佐野駅北口を出ると三の丸跡。 
江戸時代初期に廃城になっていますが
発掘調査で色々遺構が確認されています。
犬走りが二の丸西側に僅かに見ることが出来ます。
しかし殆どの遺構が保存の為埋め戻され地中に眠っているようです。
城山公園東側にある城東中学校の北東部まで歩けば堀跡を確認できます。
佐野厄除大師で知られる惣宗寺の山門は佐野城の大手門と言われています。

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