説明板に、築城は山内上杉氏・扇谷上杉氏らによる関東の動乱を背景とした15世紀後半という考え方が有力。その後、武田氏・後北条氏・岩槻太田氏・越後上杉氏の間で幾多の合戦が繰り広げられる。天正18年、前田利家・上杉景勝の包囲され落城、徳川の関東入国後は松平氏が入ったが、慶長6年(1601)に松平氏の移封に伴い廃城、と書かれている。
城跡の東入口から入ると、右に下草の刈られた小曲輪があり、堀を挟んで曲輪四へ。三ノ曲輪へは低い位置に土橋がある。堀底を北に行くと方形の枡形状虎口跡にでる。右に行けば根小屋へ、左は惣曲輪を通り、兵糧倉跡・本曲輪へ行く。
本曲輪は兵糧倉側虎口・二ノ曲輪側虎口の間が二ノ曲輪方向へ突き出ている。南寄りに神社?の基礎部が残り、参道を下がれば笹曲輪があり、堀状の道は西下の當選寺寄りの散策路に出る。二ノ曲輪は本曲輪の出っ張りを囲む形だが画像では伝わらない。三ノ曲輪は細長く狭い曲輪だが、周囲の堀はよく残る。西下(市野川)に岩室観音堂が建つ。背後の切通状の道が通行出来れば、惣曲輪の西端に出られそうだ。
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