みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

小城小次郎

他のどこでもない。ここが新城だ。 (2022/02/23 訪問)

もともとは長篠城に対する奥平信昌の新城という意味だそう(異説あり)だが「どこの」新城でもなく「ただの」新城であるところが実に潔い。しかもそれがそのまま地名となり平成大合併を乗り越えて今も市の名である。実にいい。

+ 続きを読む

侍ホリタン

天下人秀吉の始まりの地を訪ねて (2022/01/09 訪問)

JR長浜駅から徒歩5分、豊公園内にあります。羽柴秀吉が一国一城の主となって初めて築いた城、大阪の陣の後、廃城となり資材の多くが彦根城に転用されてます。現状の城は模擬天守となります。天守内部は博物館になってるようですが、私が訪問した時には耐震工事中で入ることができず残念でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

丸太橋の先に (2022/08/15 訪問)

駐車場が見つからず少し離れた自販機コーナーに駐めさせてもらいました。
田んぼの脇に説明板が立ち、少し歩いた畦道の先に丸太橋がありました。
じゅんじんさん他皆さんの投稿にあるように渡るのには勇気がいりますね。
渡った先には広い曲輪が2つ。
それぞれ土塁が囲んでいました。
土塁の周りには川が流れていて天然の堀となっています。
地元の土豪、堀内氏の館跡とされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

橋吉

修復作業中 (2022/08/10 訪問)

米沢城からバイクで1時間30分かけて移動。
ナビにしたがって来たところ、車両進入禁止の表示が・・・。
ただ、離れたところに駐車場はいくつか用意されていました。

案内にしたがって到着した白石城城下広場駐車場は、無料で、
白石城まで550mありましたが、歩行者用にデザインされた道に沿って行けば迷うことはありません。

白石城歴史探訪ミュージアムでは、白石城や片倉家の歴史資料の展示や映像を見ることができます。
続日本100名城スタンプは、受付で申し出ると出してくれました。
大櫓や大手門は福島県沖地震により被害が発生したため、修復作業中でした。

+ 続きを読む

カズサン

築城400年祭本丸櫓群もリニューアル (2022/08/28 訪問)

 築城400年祭オープニング当日登城し、本丸に林立する櫓群がリニューアルされ綺麗に化粧直しされた姿を見学しました。
 天守閣は北面の鉄板張に空襲焼失以来の再現、全体白漆喰の化粧直し、屋根瓦の葺き替え、伏見櫓は周りの木々が切られ見通しが良く成って居ました、白漆喰仕上げは往時のまま綺麗です、筋鉄御門は漆喰も綺麗に塗り直され白亜の状態に戻りました、鐘櫓は周囲の木々が切られ見通し良好、御湯殿・月見櫓・鏡櫓は同じくリニューアルされ白亜の仕上がりと成りました、本丸・二の丸の土塀はひび割れ瓦の補修など綺麗に仕上がっています。
 オープニング当日登城し撮影した天守、櫓群をまとめて投稿します。(沢山撮ったのでご了承下さい。)
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

城びと未登録のお城攻め「伝堀越御所」 (2022/08/14 訪問)

北条 早雲さんの本を読めば、高確率で登場する堀越公方の嫡男『茶々丸』。
こんなに かわいい御名前なのに素行不良で軟禁され、その後 脱獄し継母と弟を殺害しました。

そもそも、鎌倉公方として派遣された茶々丸の父、足利 政知さん。ですが 鎌倉に入れず、堀越に御所を建て『堀越公方』となりました。現在の場所は『伝』とついてましたが、、、、。

「堀越御所」は先日投稿した「北条氏邸」のすぐ近くです。説明板があります。
現在、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が放映中と言うこともあり、北条家所縁の場所は整備させてましたが、こちらは雑草が元気に育っていて入る勇気が出ません。
もしくは、訪問のタイミングが悪かったか?
「北条氏邸」では草刈り中でした。ありがとうございます。
説明板には、北条氏館跡に御所が作られたとあります。「堀越御所」の前に「北条氏邸」にお邪魔したので改めて北条氏の館の大きさが分かりました。

北条 早雲さんが、茶々丸を討ち「韮山城」を築城しました。この頃、風病が流行り 薬や治療を優先。年貢も軽くしました。伊豆の民ファーストです。
民は足利家の御家騒動より安心安全な生活です。

足利 政知、茶々丸親子は現代で言ったら、ネグレクトが原因の犯罪。
茶々丸は悪者で描かれてますが、どうなんだろ?
子育てを考えさせられた「堀越御所」訪問でした。

+ 続きを読む

侍ホリタン

徳川四天王井伊家14代の居城を訪ねて (2022/01/09 訪問)

駅から徒歩20分弱、駅前ロータリーから天守確認できます。私が訪問した時には年末年始に降った残雪が至る所に残っている状態でした。さらに夜間の特別公開もあるので昼と夜の両方の彦根城を堪能できました。夜間のライトアップも素晴らしかったですが、夜の天守内部に入れた事も貴重な体験でした。天守からの眺めが素晴らしいです。琵琶湖、伊吹山系、近くに佐和山城跡も確認できます。天守以外にも玄宮園、博物館、武家屋敷等見所満載です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:鳥越城 (2022/08/01 訪問)

二曲城からの転戦です。県道44号線沿いの城駐車場入口(36.366683、136.598314)から進入。先に進めば駐車場があります。
鳥越城の続100名城スタンプは、攻城日が月曜日で白山市立鳥越一向一揆歴史館が休館なので、二曲城の攻城前に白山市鳥越市民サービスセンター(36.358516、136.604511)で押印しました。

築城年代は定かではないようですが、1573年頃(天正初年頃)白山麓山内惣庄の旗本鈴木出羽守が、織田信長による加賀一向一揆討伐の抵抗の拠点として築いたようです。
1580年(天正8年)柴田勝家によって攻められ二曲城とともに落城、山内衆の主領鈴木出羽守一族は、松任城に呼び出され謀殺されました。
勝家は鳥越城に吉原次郎兵衛、二曲城に毛利九郎兵衛を置き固めましたが、白山麓一向一揆の抵抗は続き1581年(天正9年)に奪還されます。
しかし、1582年(天正10年)織田信長によって一向一揆の掃討作戦が行われ、佐久間盛政によって鎮圧、門徒ら300人が磔に処せられました。

本丸門(枡形門)を入ると、門横に望楼台跡があり、土塁が周囲に残り、掘立柱建物跡、礎石建物跡、井戸、柵列が復元されています。
中の丸には倉や中の丸門が復元されており、二の丸跡に建物跡が平面復元され土塁が残っています。
本丸と後二の丸間の堀切が凄いです。傾斜が急で薬研堀のようです。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=岩倉城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:二曲城 (2022/08/01 訪問)

舟岡山城からの転戦です。白山市立鳥越一向一揆歴史館の駐車場(36.359774、136.599475)に駐車し、登城口付近(36.358462、136.5989)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、二曲右京進によって築かれたと云われています。 二曲氏は二曲村の土豪で代々この地に勢力を持っていたそうです。
織田信長が加賀一向一揆に侵攻すると、鈴木出羽守が白山麓山内衆の総大将として派遣され、鳥越城を築城して拠点を移し二曲城は三坂峠を押える支城となったそうです。
1580年(天正8年)柴田勝家によって攻められ鳥越城とともに落城、鈴木一族は滅亡しました。
勝家は鳥越城に吉原次郎兵衛、二曲城に毛利九郎兵衛を置き固めましたが、白山麓一向一揆の抵抗は続き1581年(天正9年)に奪還されます。
しかし、天正10年(1582年)織田信長によって一向一揆の掃討作戦が行われ、佐久間盛政によって鎮圧、門徒ら300人が磔に処せられました。

一向一揆歴史館の南東にある道を南下して城址の西麓にある公園に登山口があります。
公園に「仁誓之碑」「嗚呼田原中隊」「二曲村の歌」「加賀一向一揆山ノ内門徒衆之霊」の石碑、案内板が建てられています。
登城口から谷あいの道を登って行くと、左手の尾根の上に登って行く道が見えてきたので、そちらに回り込んでみました。
尾根をそのまま登って行くと土塁で囲まれた「二の郭」があり、掘立柱建物跡が復元されています。
更に登ると三角形の主郭があり、掘立柱建物跡や溜桝跡、井戸跡、石敷路跡が復元されています。
主郭の西側先端部から谷戸部に降りていく道があり、この下の谷戸部が「四の郭」のようです。ここには石垣(案内は土塁になっていました)がありました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=鳥越城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:舟岡山城 (2022/08/01 訪問)

槻橋城からの転戦です。「白山青年の家」駐車場入口(36.442905、136.633056)から進入し車を駐車後、建物南側に廻り、登城口(36.442197、136.632928)より攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、 織田信長の加賀に侵攻に対応して、白山麓山内衆の大将鈴木出羽守の守る鳥越城への入口を固める為に修築されたといわれています。
1580年(天正8年)織田軍の加賀平定作戦で鳥越城とともに落城したようです。その後は丹羽長秀の家臣早谷五左衛門が城主となりました。
1585年(天正13年)前田利家の家臣・高畠石見守定吉が城主となりますが、1602年(慶長7年)定吉が死去すると、廃城になったようです。

建物南側の登り口に案内図があります。
空堀、土橋、櫓台(石垣あり)、虎口や土塁などが確認できます。
「白山比咩神社創祀之地」の石碑と由来碑が建っている場所は、本丸か2の丸か不明(復元図ではよくわからない)
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=二曲城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:槻橋城 (2022/08/01 訪問)

高尾城からの転戦です。主郭付近林道(36.463351、136.626347)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、加賀国守護職富樫氏の家臣槻橋の居城と伝えられています。
槻橋氏は1488年(長享2年)一向一揆によって富樫政親が自刃したとき、伴に自害した三十人余りの武将の中に槻橋近江守重能、槻橋三左衛門、槻橋式部丞、槻橋弥六、槻橋三位坊の名が残っています。

主郭は山頂にあって、林道側から主郭の切岸と空堀が見えます。
夏場で草木が多く、主郭の切岸、土塁と空堀くらいしか確認できませんでした。
林道は狭い箇所があり、対向車とすれ違うとき注意が必要。(自分は主郭付近に着くまでに2台とすれ違いました)
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=舟岡山城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:高尾城 (2022/08/01 訪問)

富樫館からの転戦です。教育センター駐車場(36.515660、136.636611)の一番奥に駐車し、その先右側の登城口から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、1488年(長享2年)以前に富樫氏によって築かれたと云われています。
1488年(長享2年)加賀国守護大名の富樫政親は一向一揆衆徒に攻められ、籠城し、抗戦むなしく自害した場所のようです。

頂上は「高尾城址見晴し台」となっており、金沢市街が一望できます。見晴し台に説明板が設置されています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=槻橋城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

甲斐源氏祖の城 (2022/08/15 訪問)

北杜市考古資料館の駐車場の他にも幾つか駐車場があります。
資料館に石碑が立ち、向かい側すぐに入口があります。
早速空堀が出迎え、さらに公園内に進むと四郭。
郭の間にも空堀が走ります。
本丸の虎口もよく残っていました。
この時季は下草が元気で堀に降りることができる部分も少ないですが冬なら歩くこともできそうです。
五郭の先には竪堀も二条、見応えのある城でした。
最後搦手側にも周り、動線となる竪堀を見てここを後にしました。
甲斐源氏の祖とされる逸見氏の居城。
国指定史跡でもあり見学もしやすくおすすめです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

雨山合戦の舞台となった (2022/02/23 訪問)

三河総劇の一部に位置付けられる雨山合戦で奥平方と菅沼方が戦い、多大な犠牲を出しながら親今川派の菅沼方が勝利したのは桶狭間の戦いの3年前。所在すら定かでなかったこのお城が整備されたのはごくごく最近のことらしい。

+ 続きを読む

侍ホリタン

日本三大水城を訪ねて (2022/01/04 訪問)

JR高松駅から徒歩5分、玉藻公園内にあります。訪問時が夕暮れ時でゆっくり回れませんでしたが、整備された堀と石垣が印象的でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

侍ホリタン

石垣の名城を訪ねて (2022/01/04 訪問)

青春18切符を使用しての訪問、金毘羅詣でから丸亀城、高松城の予定でしたので効率よくまわる必要がありました。ちなみに私の地元からですと今治城までだと滞在時間3時間半、松山城までだと滞在時間1時間となるので今治城までが限界のようです。いずれは今治城にも行ってみたいです。丸亀城は現存天守の中で一番小さなものなのですが、やはり一番の見所は石垣の高さと美しさです。石垣の高さ合計は約66mで日本一です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

築城400年祭特別公開筋鉄御門・鐘櫓 (2022/08/28 訪問)

 福山城築城400年祭イベント当日、天守閣のリニューアルオープン日に合わせ各櫓が公開されて居ました、特に筋鉄御門と鐘櫓は伏見櫓と同じく、運良く内部見学が出来ましたので投稿致します。

 筋金御門は、福山城本丸の大手に当たり西向き建つ櫓門です、国の重要文化財指定され江戸期からの現存です、名前の通り門扉に筋金が張られて大手の要とした風格です、櫓部は白漆喰仕上げで、今回のリニューアルオープンに合わせ白漆喰の化粧直しがされて真新しく綺麗に成って居ました。
 内部は通路部のみ板張り、左右の南側と入口の北側は土間のたたきに成って居ました、今まで見てきた櫓門の内部は全面板敷しか見ていなかったので、こうゆう土間仕様もあるのかと納得、櫓石垣台の上が土間仕様。
 以前より筋鉄御門外桝形の多聞櫓復元計画が有ったようですが松も切られて発掘調査して復元かな?と思ったのですが、案内係の方に伺うと遅れている様子、まだはっきりしないのかも? 復元されると筋鉄御門、伏見櫓の間に白漆喰の多聞櫓が入り素晴らしく絵に成るのですが・・待たれます。

 鐘櫓は伏見櫓の北側、元御台所門南に現存鐘櫓として残って居り、市の重要文化財に指定されて居ます、二階建て二階部は東側に片寄って居ます、二階部に鐘がぶら下がって鐘が自動で突かれています、現在は午前6時、正午、午後6時、午後10時に時を告げてる福山の名物名鐘です。全国の現存建物では珍しい櫓です。
 
 特別公開資料、見学を運良く導いてくれた方々に感謝いたします。
 
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

侍ホリタン

南海の名城攻城 (2022/01/01 訪問)

ここは本丸の建築群が唯一全て現存する城郭です。三ノ丸には長宗我部元親による築城時の石垣が見学できます。また雨対策として排水のための石樋が石垣に設けられています。令和4年の元旦は無料開放されていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:富樫館 (2022/08/01 訪問)

寺中御台場からの転戦です。久安殿屋敷公園石碑付近(36.533916、136.630652)➡石碑(36.532237、136.621768)➡説明板(36.528817、136.620195)の順番で巡りました。

築城年代は定かではないようですが、1335年(建武2年)富樫高家が加賀国守護に任ぜられた後に、野々市に守護所を設けたものとされています。
1488年(長享2年)富樫政親は高尾城に籠って、加賀一向一揆を迎え撃ちますが敗れて自刃しました。
その後一向一揆に加担していた富樫泰高が守護として富樫館に入りますが、守護は名目上だけで実態は一向宗門徒が握っていたようです。
1570年(元亀元年)富樫晴貞は織田信長と結んで兵を挙げますが、一向一揆によって攻められ伝灯寺で自刃して富樫氏は滅亡しました。

遺構は残っていないので、石碑と説明板巡りです。
攻城時間は移動時間込で20分くらいでした。次の攻城先=高尾城に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:寺中御台場 (2022/08/01 訪問)

堅田城からの転戦です。大野湊緑地公園駐車場(36.594857、136.597689)に駐車しました。

幕末期に外国船渡来に備え城下町防衛の為に加賀藩が築いた台場跡です。
現在は大野湊緑地公園として整備されており、説明板と共に土塁の一部が復元されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=富樫館に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ718