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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)大下砦 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の17城目は大下砦です。
洞頭城から転戦。大下砦跡駐車場(35.545710、137.853728)に駐車しました。

特段の歴史が伝わっているわけではないのですが、位置的には松岡氏の勢力下にあるため、松岡氏によって利用された砦のひとつと考えられます。
道路建設による削平に先立ち発掘調査がなされ、複数の掘立柱建物が検出されています。(写真撮り忘れました)

上野城に向かう途中に、説明板を見つけて立ち寄りました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)洞頭城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の16城目は洞頭城です。
松岡古城から転戦。あんしん市場駐車場(35.547615、137.856220)に駐車しました。

洞頭城は築城者や築城年代については定かでないが、松岡城の支城で城主は牛牧殿と呼ばれた松岡刑部大輔と伝わっています。
松岡刑部大輔は牛牧の殿様(牛牧殿)と呼ばれ、松岡氏(市田殿)の兄でした。
牛牧に残る「牛牧村歴代由緒覚書」によると、最初は上平の次郎城に住んでいましたが、大きな領地を与えられて洞頭城へ分家させられたと記されています。
(現地説明板などより)

現在城址は果樹園となっており遺構は残っていませんが、説明板と城址碑が建てられています
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)松岡古城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の15城目は松岡古城です。
松岡城から転戦。標柱付近(35.550815、137.858114)に路駐しました。
当初は松岡城➡松岡南城➡松岡古城の順で攻城する予定でしたが、千沢城での脱輪影響で松岡南城は城びと未登録でパスしました。

平安時代末期に陸奥の有力土豪だった阿倍貞任が1051年の前九年の役で源頼頼義に敗れ、その二男である仙千代が乳母と共に漂泊し辿り着いたのがこの牛牧の地であり、やがて成人となり地元の信頼を得るに至り市田郷の領主となったといいます。
この仙千代が松岡氏の始祖で松岡平六郎貞則と名乗り、松岡城構築前に居館を構えたのがこの古城だと云われています。
のちに松岡城へ移るまで、約300年にわたる松岡氏の最初の本城と伝えられています。

現在城址には樹齢千年ともいわれる夫婦杉があり、標柱が建てられています。
松岡城から600mくらいのところにあります。大きな杉の木が目印。近くには堀のような耕作地もあります。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:松岡城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の14城目は松岡城です。
吉田南城から転戦。松源寺駐車場(35.547370、137.8626)に駐車しました。
当初は吉田南城➡吉田城山城➡松岡城の順で攻城する予定でしたが、千沢城での脱輪影響で吉田城山城は城びと未登録でパスしました。

南北朝時代に松岡氏により築かれました。
松岡氏は1051~62年の前九年の役で滅ぼされた安倍貞任の次男・仙千代に始まるそうです。
松岡氏は次第に勢力を拡大し、南北朝時代には北朝方として活動しました。飯田周辺では天竜川西岸が北朝方、東岸が南朝方だったようです。
1544年、井伊直親が落ち延びて来ました。
井伊直親は井伊直政の父親です。井伊直親の父・直満が家臣の讒言により主の今川義元に攻め滅ぼされました。
井伊谷を追われた当時9歳の井伊直親は、祖父・直平と交流のあった松源寺に逃れました。
ここの高僧が禅宗に傾倒した井伊直平に請われ、井伊谷に龍潭寺を開基していました。
井伊直親は1555年に井伊谷に復帰するまで、松源寺で隠棲しました。
1554年、松岡氏は武田信玄が信濃から遠江に侵攻すると臣従し、伊那衆として山県昌景の配下となりました。
武田軍により府中小笠原氏や鈴岡小笠原氏、知久氏が信濃を追われました。これにより、かつて甲斐に追われていた松尾小笠原氏が復帰しました。
織田信長が武田勝頼を攻めた際、松岡頼貞は織田軍に降伏しました。山県昌景は1575年の長篠の戦で既に討死していました。松岡頼貞は飯田城主となった毛利秀頼の配下となりました。
その数ヵ月後には本能寺の変により、織田信長が斃れました。毛利秀頼は他の織田家臣同様、所領を捨てて逃げたため空白地帯となりました。最終的には信濃・甲斐の大部分を徳川家康が支配下に収めました。
1582年、松岡頼貞は徳川家康に仕えるようになりました。
1585年、深志の小笠原貞慶が豊臣秀吉に寝返り、徳川方の高遠城を攻めました。これは、石川数正が人質の小笠原政秀を連れて豊臣秀吉に寝返ったためです。
松岡貞利が高遠城攻めに加わろうとしました。合流前に小笠原軍が大敗したためそのまま退却しましたが、この動きは家臣により知久平城主・菅原定利に通報されていました。
1588年、3年前の背信行為により、松岡貞利は改易処分となり、松岡城廃城となりました。
この時、井伊直政が松岡貞利の助命嘆願をしたため、死罪は免れました。以後、松岡氏は井伊家臣となりました。
現在は城址公園として整備されており、土塁や空堀などの遺構が良好な状態で現存しています。
五の曲輪にある松源寺は松岡氏の菩提寺で、井伊谷城から逃れてきた幼少の井伊直親(亀之丞)がかくまわれていた寺でもあります。

歴史を見ると、2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」を思い出します。井伊直親が幼少期を過ごした松源寺も見学しました。
ドラマでは井伊直親は三浦春馬さんで、井伊直政は菅田将暉さんでした。(主演の直虎は柴咲コウさんでした)
駐車場もあり、そこに案内図もあり、整備が行き届いています。とても見学しやすかったです。
ものすごい深い堀が5つもあり、曲輪もあって遺構が良好に残っています。松岡城は本城と支城(南城)の2つに分かれていますが、自分は支城はパスしました。
本城と支城は何を挟んで対面にありますが、本城から支城はみえませんでした。
攻城時間は25分くらいでした。

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刑部

四国城址巡り最終の城 (2021/05/06 訪問)

今回最後にここ引田城址へ登りました。
本丸の所に石垣がありますがその先の凄い場所に石垣が見事に遺っていました。また、所々下を見ると絶景が・・・。ぐるっと回って1時間ですね。
これで四国の100名城・続100名城全て制覇しました!

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うっちー信繫

時代を変えた御館の乱とは

上杉謙信死後、後継者問題が勃発した。既に養子である上杉景勝が後継者として確立していたが、もう一人の養子であった景虎(北条氏政の弟)がそれに不服を申し付け、景虎支持の国衆大名らも便乗して挙兵し上杉氏は内部分裂が起きた。
当初は景虎が優勢となったもの、のそれもつかの間、春日山城を確保する景勝勢が故郷の上田長尾氏と連携し、優位に立ち始めた。然し以前互角の戦いとなった。
景虎は裏で北条氏と繋がっており、北条氏に援軍を要請したが、北条氏は佐竹氏と鬼怒川で対峙していたため越後への出陣はかなわなかった。その為武田氏に北条から援軍要請したものの、武田は景勝からも同盟締結申請されていたため動けず、中立となり上杉の単独での内戦となった。勝頼は自身の仲裁で、和睦を締結する事を目的としたが打錠し、交戦は止まらなくなり、激化へ転じたものの、景虎が鮫ヶ尾城で滅亡したのをきっかけに御館の乱は幕を閉じた。
しかしこれによって北条氏と武田氏が対立状態に陥り、武田氏が対北条策として三枚橋城を築いたことに腹を立て対立化が表面化し、武田が
滅びた一因となってしまった。

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うっちー幸村

【お城川柳】

ただの藪? 心揺さぶる 城跡です

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うっちー幸村

【お城川柳】

お母さん 我が家の城を 独占し

お母さんは城(家)を独占中

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のり巻せんべい

桔梗の花が満開 (2021/07/10 訪問)

明智城の大手門、桔梗坂に植えられている桔梗の花が満開です、
桔梗の花が目的で明智城へ来られる方も見えます。

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イオ

【お城川柳】

週末の 天気予報に ヤキモキし

雨の城下町も風情がありますが、眺望や写真映えを考えると、やはり晴れるに越したことはありませんので、一週間ほど前から毎日のように目的地の天気予報に一喜一憂、ヤキモキしています。

…実は、昨日は岐阜に行くつもりだったんですが、雷の予報もあり延期にしました。小雨くらいはまだしも、昨日の東京のようにヒョウが降るような豪雨はやっぱり……ねぇ。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)吉田南城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の13城目は吉田南城です。
吉田本城から転戦。標柱入口付近空SP(35.558921、137.883279)に路駐しました。

築城年代は定かではないが、松岡城主の松岡氏家臣吉田氏の城と考えられているようです。
松岡氏没落と共に没落して城も廃城となったようです。

吉田本城の南の少し離れた位置にあり、同じく段丘の東端に築かれています。
北側に土塁のような地形が残る程度です。北の道路の入口に標柱が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)吉田本城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の12城目は吉田本城です。
吉田古城から転戦。車は吉田古城案内板前(35.562861、137.883623)にそのまま置いて徒歩で吉田本城に向かいました。

築城年代は定かではないが、戦国時代に築かれた松岡城主の松岡氏家臣吉田七郎の城と考えられているようです。
吉田本城の北西に吉田古城、南側に吉田南城があります。松岡氏没落と共に没落して城も廃城となったようです。

段丘の東端に築かれており、主郭,二の郭,出丸によって構成されています。
空堀に架かる土橋を渡り南西の斜面を斜めに登ると虎口があり、虎口には土塁が盛られています。
土橋に隣接する竹藪が曲輪で、その入口付近にも曲輪があります。
主郭は台形で東を除く三方を土塁が巡っています。南側の土塁の先端部には蚕玉社が祀られています。
主郭の東側は急峻な切岸となっており、かなり下の方に横堀があり、主郭の南側に続いています。
また、城の南側には重要文化財に指定されている竹ノ内家住宅があります。(自分は寄っていません)
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県高森町)吉田古城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の11城目は吉田古城です。
大島城から転戦。案内板前(35.562861、137.883623)に駐車しました。

築城年代は定かではないが、松岡城主の松岡氏家臣吉田氏の城と考えられているようです。
松岡氏没落と共に没落して城も廃城となったようです。

吉田本城と同じ段丘上の北端にあり、本城の北西に位置します。方形に近い単郭の城です。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:大島城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の10城目は大島城です。
船山城から転戦。台城公園駐車場(35.577459、137.914944)に駐車しました。
当初は船山城➡名子城➡大島城の順で攻城する予定でしたが、千沢城での脱輪影響で名子城は城びと未登録でパスしました。

大島城は平安時代の末期、当時の大島町(現在の古町、新井地区のあたり)を支配していた豪族の大島氏によって造られた城で、戦争など有事のために天竜川へ突き出した攻められにくい土地を活用して築城されました。
戦国時代の1554年(天文23年)に伊那郡を攻めてきた武田信玄がこの城を大島氏から取り上げ、秋山信友に命じて駿河・遠江への侵攻拠点として1571年(元亀2年)に大改修させた城です。
1582年(天正10年)に織田信忠の軍勢が伊那に侵攻すると、飯田城を撤収した武田勢は大島城に兵力を集結させました。
しかし守将・武田信廉が城を捨てて甲斐に退却したため落城しています。

駐車場のトイレ前で入手できた縄張図には散策コースが描いてありす。マレットゴルフ場にはもったいない。
現在城址は「台城公園」として整備され、土塁や空堀など甲州流築城術の遺構を確認できます。とくに城正面に設けられた二重の三日月堀に囲まれた丸馬出は必見です。
攻城時間は25分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

平成の夢も消えゆく時来たり

急げ💨

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:船山城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の9城目は船山城です。
飯島陣屋から転戦。御射山神社石碑前(35.614958、137.914108)に駐車しました。

船山城は、築城年代は定かではないが平安時代末から戦国時代まで春近領片切郷に勢力をはった片切(片桐とも)氏によって築かれました。 
戦国時代の1554年(天文23年)片切氏は武田信玄の伊那侵攻に対して松尾城主小笠原信定に従って武田勢を迎え撃ちますが、知久頼元の神之峰城が落城すると片切氏は、武田信玄の配下となりました。
1582年(天正10年)に織田信長による信濃侵攻が開始されると城主・片桐正忠は伊那衆とともに迎え撃ち、討死しました。
嫡男の片桐長公も大島城に籠城して討死したため滅亡しました。片桐城はこの時に廃城となりました。
なお豊臣秀吉と徳川家康に仕えた片桐且元は同族だそうです。

現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができるようです。また大手口跡の御射山神社の鳥居前に城址碑と案内板があります。
時間の都合で神社の奥までは行っていません。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:飯島陣屋 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の8城目は飯島陣屋です。
赤須城から転戦。飯島町営駐車場(35.679085、137.924388)に駐車しました。歴史民俗資料館(35.680275、137.925093)は、ここから徒歩2分くらいです。

1593年(文禄2年)に三州街道の経路が改められた際、石曽根村ノ内に飯島宿が成立し町並みが形成されました。
天領の陣屋としては、飯田藩主脇坂安政の龍野藩への転封に伴い、信濃国伊那谷に生じた天領を治めるため、1677年(延宝5年)に設置されました。
当時は代官が執務を執り行う本陣のほか、代官一家が住まう屋敷、役人の住む官舎、長屋、納屋など付随する建物十数棟で構成されていたそうです。
飯島陣屋には必ずしも代官は常駐せず、信濃の他陣屋代官や他国代官(駿府、遠州中泉等)が兼務し、その出張陣屋となることが多かったそうです。
明治に入り、明治政府によって幕府天領地の接収が行われると飯島陣屋は廃止されました。
1994年(平成6年)に本陣が復元され、飯島町歴史民俗資料館として公開されています。

攻城時は開館時間短縮で閉まってました。(木・金と第2/第4土曜日しか開いていないようです)
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:赤須城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の7城目は赤須城です。
殿島城から転戦。城址公園駐車場(35.725319、137.958682)に駐車しました。近くに城標識(35.725192、137.958787)があります。

赤須城は船山城主・片桐(片切)為清の子である片桐孫三郎為幸によって、南北朝時代の暦応年間(1338~42年)の頃に築かれたとされています。
為幸は赤須氏を称し、以降代々の居城となりました。
戦国時代、赤須氏は宗家の片桐氏とともに武田信玄に従っていましたが、1582年(天正10年)に織田信長の信濃侵攻の際に攻められ落城すると、赤須氏は滅亡しました。

土塁や空堀などの遺構を確認することができます。
攻城時間は15分くらいでした。

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【お城川柳】

好きじゃない あやしい天守 街の顔

 新型コロナウィルスの影響で休日でも家にいる機会が多くなり「あやしい天守閣 ベスト100城+α」という本をぱらぱらと見ていました。模擬天守は昔から好きになれず、歴史と異なる建造物は多くに人に誤解をあたえるものではないかなどと、偉そうなことも思ったりしました。しかし東海地方に住んでいる私にとって岐阜城、浜松城の天守は若い頃からのなじみがあり模擬天守とわかっていても人生の1ページを飾っているモニュメントのような存在です。伊賀上野城の天守は個人が街のために私財を投じて作られたというエピソードや、木造でありいい雰囲気を醸し出しています。史実と違う建造物でも、それぞれの人に思いがあり、その街にとっては顔となっているのでしょう。年をとり少しは寛容になりましたかね。(笑)

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赤い城

紫陽花のお寺 (2021/06/27 訪問)

高幡不動の裏の丘が城址になります。
この時季は紫陽花が有名。
今回は城廻りと言うよりは紫陽花見物でした。
堀切通路に、竪堀はやや分かりにくい感じです。
立河原の戦いの際の臨時の砦だったようです。
土 方歳三ゆかりの寺でもあり境内に像が立っています。

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