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橋吉

上杉神社 (2022/08/10 訪問)

松が岬おまつり広場 駐車場にバイクも無料でとめられます。

往時の米沢城は、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張りの城でした。
現在は本丸跡が上杉神社となり、遺構はほとんど残されていません。
堀と土塁くらいでしょうか。

米沢観光コンベンション協会観光案内所
ここで続日本100名城スタンプを押しました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:阿尾城 (2022/08/01 訪問)

宿泊先のホテルルートイン高岡駅前を朝4:00に出発して、阿尾城駐車場(36.880740、136.990420)に駐車しました。

築城年代は定かではなく、 天正年間(1573年〜1592年)の城主は菊池右衛門入道武勝・十六郎父子でした。菊池氏は肥後国の菊池氏の末葉だそうです。
上杉謙信没後、菊池氏は織田信長の家臣佐々成政に従っていたが、成政が前田利家と対立するようになると利家の勧誘を受けて前田氏に通じました。
これに対して成政の家臣で守山城主の神保氏張は阿尾城に攻め寄せたが、前田軍と菊池軍でこれを撃退しました。
菊池氏は10,000石を安堵され前田氏に従い、その末裔は1,500石で加賀藩に仕えたそうです。

山上に榊葉乎布神社や白峯神社が祀られいます。
本丸への道は立入禁止になっていました。
撮った写真はピンボケ写真が多く、かろうじて投稿できる写真を投稿します。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=海老瀬城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征を振り返って (2022/08/05 訪問)

今年の7/20~8/4まで「四国&京都&北陸&東海(名古屋市がメイン)」のお城を巡ってきました。
一番の目的は、スタンプ押印も含めた続100名城の完全制覇でした。15泊16日の遠征でしたが、無事目的は達成できました。

今回15泊16日の長期遠征できるのも定年退職したおじさんだからです。
今年は6月上旬にも(対馬&五島&北部九州)遠征しており、さすがに金銭面でイエローカードです。
その為、近場は行くかもしれませんが、今年の遠征はこれが最後になります。しばらくは、来年の遠征計画を立てます。
遠征分の投稿は全て終わっていませんが、現在、頑張って編集していますので、随時投稿します。
ちなみに16日間の攻城歩数=369,498歩(1日平均=23,094歩)、攻城歩行距離=258.59Km(1日平均=16.16Km)でした。

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にのまる

大天守大柱展示場で思ったこと (2022/06/10 訪問)

三の丸広場から天守群を仰ぎ見つつ入城口方面へ向かいますが、有料エリアにはまだ入らず、昭和の大修理の際に取り換えられた大天守大柱展示場を見に行きました。
小屋の中いっぱいに横たえられた旧西大柱は、地階床から6階床まで貫通していた往時の姿を十分に感じるスケールで、間近で見ると経年の重みと味わいがひしひしと伝わってきます。
補強や修理をされながら350年もの間大天守を支えてきた大柱。そこに打たれ、穿たれたほぞやほぞ穴を見ていると、大天守の命を守ってきた大勢の人たちがいたことを思います。築城者として名を残すことのなかった人たちが残したものは職人としての知恵と技術、そして誇り。目の前にあるノミ跡ひとつひとつに彼らの人生の歴史も刻まれているのだと思うととても感慨深かったです。

慶長4年の竣工以来、度重なる崩壊の危機と戦ってきた姫路城。修理の歴史を追うだけで天を仰ぎたくなるほどで、乗り越えてきた苦難の大きさは計り知れません。
現在、国宝天守群の勇壮な姿を拝めるのは、偶然や幸運によって決定的なダメージを免れられたからではなく、城を守り後世に伝えようと尽力された方々がおられたから。お城は貴重な遺物であると同時に過去からの素晴らしいギフトなのだと気づきました。


イオさんへ。
「とことん江戸城」大変興味深く、また楽しく拝読いたしました。毎朝の更新が楽しみで、終わってしまったのが寂しいです。
“そこまで行ったんかーい!”とか、
“すごいタイミングで写真撮ってる!”とか、
“そのポジションで見てみたい!”とか思うところがたくさんあり、その『とことんぶり』には脱帽&敬服です。知らなかったポイントも教えていただけました。感謝です。
最近もちょいちょい江戸城参城していますので、姫路城の投稿が終わりましたらまた改めて感想など書かせていただきたく思います。

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侍ホリタン

天空の城攻城 (2021/11/04 訪問)

徒歩で天守を目指される方は、山麓の高梁高校近くの登山道、もしくは雲海展望台近くの登山道からがオススメです。いずれも40分程度です。
雲海のシーズンは早朝から多くのカメラマンが雲海展望台に集まります。私が訪問した時は3時の時点で数人のカメラマンが陣取ってました。駐車場は雲海展望台入り口に5台ほど駐車出来ます。あとは車道に縦列駐車となりますが道幅は十分あります。周りには明かりがないので懐中電灯、ヘッドライトは必要です。トイレは雲海展望台入り口にあります。

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おっちゃん

八木城城跡図 (2018/03/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

八上城主郭部の縄張り (2020/05/30 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

麦島城跡縄張図(推定) (2017/11/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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赤い城

旗岡八幡神社の一帯 (2022/08/14 訪問)

東急の荏原町駅からすぐ近く。
旗岡八幡神社と法蓮寺の辺りが跡地とされます。
遺構は残っていません。
住宅地になっていて近くの方々の散歩コースにもなっているようです。

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朝田 辰兵衛

雨で感動だだ下がり… (2020/07/12 訪問)

ここは「晴れてなんぼ」の観光スポットだと思います。周辺もじっくり散策したかったのですが,豪雨と重なったため断念しました。撮れ高ショボ…。

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カズサン

築城400年祭天守北面鉄板張再現 (2022/08/28 訪問)

 姫路城の特別公開を見学の後、築城400年祭で、昭和41年天守再建から56年振りのリニューアルオープン当日福山城へ登城しました、主の目的は天守閣北面の鉄板張の姿を是非観たいとの、三年前に訪ねて以来、先の大戦で空襲焼失した国宝天守閣の北面鉄板張往時の姿の再現を期待願望でした。
 13時過ぎの登城と成りましたが、イベント最中で大勢の人で賑わって居ました、福山城のHPでは各櫓の特別公開、天守閣の公開と報じられており、期待は胸いっぱい、しかし各櫓とも整理券、事前予約との事で入館できない、大変残念な事に。
 主目的の天守閣北面の鉄板張りの天守はバッチリ撮る事が出来ました、イベントテント、イベントの櫓、仮設足場も残って居り400年祭当日の雰囲気は充分感じ取れ大満足です。
 全体では約2時間半の滞在でした。
 先ずは天守閣の鉄板張北面、各種破風、白漆喰真白な天守閣を写真投稿します。
 
 続いて伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓には運よくグループに混じって見学する事が出来き、投稿致します。
 

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イタさん

城跡は舊城寺(旧城寺)、周囲は民家 (2022/08/30 訪問)

 説明板によれば、年代不明だが山田右京之進の居城と言われる。築城は上杉憲清と伝えられ、自然地形を利用し、本丸を最高部におき、二重に空堀をめぐらし、土塁を築き、大手口は喰違虎口になっていた。東側の堀は谷を利用していたとある。
 上杉憲清の子憲直が永享の乱(1438)に敗れ、その後の城主は不明だが、後北条氏の時代に小机城に対し出城の役目をしていたと載っている。慶長年間(1596-1614)に舊城寺(旧城寺)が開かれたと。寺林は、県指定天然記念物に指定されている。
 北側の道路左の斜面切れ目から舊城寺北側の一部が見え出す。門柱があり入れないが、入口で覗わせてもらうと、遺構かは不明だが斜面が数段になっているのが見える。西に回り込み、三保天神前公園を抜けた小道から境内に入れるが、境内との高低差が目立つ。
 簡易な縄張図に喰違虎口があり、山門辺りにでもあったのだろうか。山門を潜った右に横浜市指定、名木古木指定のカヤ、左にイチョウとカヤがあり、その背後がやや高く土塁跡を思わせる。本堂裏から左に一段高く、山田右京之進 城跡碑入口と弓道場がある。土塁?末端に碑が建っている。本堂裏の多くは墓地になり、少し平坦地が続くが竹林で先は急斜面となる。下を見れば遺構らしきものが見えるが、竹などが密生し北から北東側へは踏み込みを躊躇してしまう。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:二塚城 (2022/07/31 訪問)

木船城からの転戦です。城碑横(36.716505、137.014340)に路駐しました。

越中守護名越時有の居城で、越中守護所である放生津城の支城でした。
いろんな石碑が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:木船城 (2022/07/31 訪問)

道坪野城からの転戦です。木船城址公園駐車場(36.688659、136.914034)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 石黒荘を本拠とした石黒氏が南北朝時代以前に進出して木舟城を築いて居城とし、木舟石黒氏となったと云われています。
本流福光石黒氏が1481年(文明13年)山田川で一向一揆との戦いで滅亡したのに対し、木舟石黒氏は戦国時代まで続き、石黒左近蔵人の時代には一大勢力を築いていました。
1574年(天正2年)上杉謙信に攻め落とされて臣従しましたが、1578年(天正6年)上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付きました。
1580年(天正8年)、1581年(天正9年)と二度にわたって一向一揆勢の重要拠点で、当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させていますが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされました。
1581年(天正9年)成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されますが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡しています(成綱の子は後に加賀藩に仕えています)。
1581年(天正9年)木舟城を手に入れた上杉氏は吉江宗信を城将として守らせていましたが、織田方の圧力に抗し切れず吉江宗信は木舟城から海路を使って退去しました。結果木舟城は織田方の手に落ち、佐々成政の支配下に入り、重臣佐々平左衛門が入りました。
1584年(天正12年)佐々軍1万5千名、能登国末森城攻略のため木舟城を出発するも撤退します(末森城の戦い)。
1585年(天正13年)木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主・神保氏張、越中国井波城主・前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めますが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退されました(今石動合戦)。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による越中平定で佐々成政が降伏すると、前田利家の弟前田秀継が入城したが、同年の大地震によって秀継夫妻は没し、子の利秀は翌1586年(天正14年)に今石動城に居城を移し廃城となりました。

水田の中の微高地(土塁?)に芝が植えられ、「木舟城跡」の石碑と標柱、説明板が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=二塚城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:道坪野城 (2022/07/31 訪問)

安楽寺城からの転戦です。国道471号農道入口付近(36.690063、136.827518)から進入して、溜池付近(36.686631、136.827724)に向かいました。

詳細は不明のようで、城主は影野左衛門、松岡新左衛門、三宅新左衛門など諸説あるそうです。

失敗しました。農道入口付近の道が広いから、溜池付近まで車で行けると判断して車で進入してしまいました。
駐車スペースも車を回転するスペースもなく、バックで戻りました。国道471号農道入口付近に路駐して徒歩で行くことをお薦めします。
上記状況で少しパニクリ登城せず撤退しました(入口の写真も撮り忘れています)。今、思えばどうせバックで戻るなら登城すればよかったと悔やんでいます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=木船城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:安楽寺城 (2022/07/31 訪問)

当初は安楽寺城攻城前に今石動城を攻城する予定でした。
今石動城登り口説明板付近(36.682942、136.857564)にGPS座標を設定して向かいましたが、工事の通行止めに翻弄され辿り着くことが出来ません。
迂回ルートを捜しながら廻りを30分くらい車でウロウロしましたが、途中で断念して安楽寺城に向かいました。
よって、鴨城からの転戦です。源平トンネル手前の非常駐車帯(36.676293、136.835866)に駐車しました。

1369年(応安2年)土豪高橋與次衛門が居住していた『法信寺由緒』(城跡説明板)ようです。
築城年代は戦国時代前期とみられるようです。
天文年間(1532~55年)城主高橋与(與)十郎則秋が拠っていたが、木舟城主石黒左近将監に攻められて野寺村で討死したようです『越中志徴』。
その後天正年間(1573~92年)後期に佐々成政と前田利家との攻防戦において兵が入った可能性はあるが、改修を施された形跡はないようで、江戸時代には既に放棄され荒れ果てていたそうです。

源平トンネル手前の非常駐車帯の東に安楽寺城跡の標識があります。そこを登って行くと北陸電力㈱の鉄塔に出ます。
本来なら鉄塔の下を南に登るところを間違って北方向?に進んでしまい、辿り着くことが出来ませんでした。方向音痴が情けないです。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=道坪野城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:鴨城 (2022/07/31 訪問)

赤丸城からの転戦です。鴨城址周辺案内図付近(36.725465、136.919879)に到着した時、雨雲が立ち込め、雷が鳴りはじめました。
山城攻城は難しいと判断し、鳥倉集会所の登城口付近で登城を断念しました。

1363年(貞治2年)頃に築城されたようです。当時鴨城には室町幕府方の軍勢が一時駐屯していたことがうかがわれるそうです。
1491年(延徳3年)「カモ山のフタツ城」との記録が在るようです。廃城年代は不明のようですが、戦国期以降に使用された形跡はないようです。

攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=安楽寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:赤丸城 (2022/07/31 訪問)

浅井城からの転戦です。八幡宮入口付近(36.739695、136.926212)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、城主は五位庄一帯に勢力があった国人領主中山氏で、天正年間(1573年~1592年)頃は中山国松が城主でした。
天正年間前半、上杉謙信に攻められました。1581年(天正9年)中山氏が佐々成政の支配下に入ります。
1584年(天正12年)頃、前田利家に対する防衛拠点の一つとして改修が施されたようで、虎口などにその痕跡が見られるそうです。また成政による前田方の能登末森城攻めに参加しました。
1585年(天正13年)富山の役によって佐々成政は豊臣秀吉に降伏して越中国新川郡に追われ、佐々成政に与した中山氏は赤丸城から退去し越前の敦賀に移り住んだそうです。
廃城年代は不明のようですが、この時点で赤丸城の存在意義が失われ、間もなく廃城となったそうです。
以前は赤丸城が本城とされ、北東にある浅井城はその出城であるとされていましたが、近年の調査によって浅井城こそが本城であり、赤丸城はその出城であった事が判明したそうです。

八幡宮入口に入口標識が建てられ、拝殿左横に登り口があり登山道が整備されています。
登山道を登って行くと鉄塔の所に出ます。そこを越えていくと主郭手前に大堀切が確認できます。
主郭は山頂東端部で、そこから西に下った空堀に「殿様池」と呼ばれる素掘りの井戸があります。
案内板によれば、これは昭和のはじめに地元で掘りおこされたもので、そのときに木製の滑車や井戸枠のようなものが出土しているようです。
この山頂部の曲輪群から伸びた各尾根に堀切が確認できます。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=鴨城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:浅井城 (2022/07/31 訪問)

惣領砦からの転戦です。
予定時間を60分遅れで到着した為、観光用トイレ前林道入口付近(36.742049、136.933315)で引き返しました。

延元年間(1336~40年)石黒光景によって築かれたようです。
1341年(興国2年)には南朝方であった光景によって宗良親王が浅井城に奉迎されているようです。
勝興寺の坊官・下間氏(しもつまし)が神保長職との戦いで一時的に拠っていたとされます。
天正年間(1573~92年)五位庄の領主であった中山治部左衛門国松が拠り、弟の次郎兵衛を赤丸城に配置したが、その後、上杉謙信によって攻められたそうです。
1581年(天正9年)中山氏が佐々成政の配下となります。
1585年(天正13年)富山の役によって佐々成政は豊臣秀吉に降伏して越中国新川郡に追われ、佐々成政に与した中山国松は浅井城を退去し、その後、間もなく廃城になったようです。

清水山から南東に延びる尾根先端に位置するようです。
時間の都合で登城しませんでしたが、林道終点まで行けばよかったと悔やんでいます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=赤丸城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:惣領砦 (2022/07/31 訪問)

飯久保城からの転戦です。
ナビが示した道(氷見南IC付近から進入)にはコンクリート塊にポールがついたものでガードしてあり進入できず、しかも誤って国道160号(高速?)に乗ってしまい、氷見ICまで行って戻ってしまいました。
ふたたび戻ってきて、現地付近より北側から駐車場に行けることがわかり向かいました。30分以上ロスしました。
駐車場入口(36.807812、136.945433)から進入して、90mくらい先の駐車場に駐車しました。

戦国時代に築かれ、氷見南部地域の在地領主狩野氏の出城と考えられています。
狩野氏は1560年(永禄3年)頃には越中守護代の神保長職に属していましたが、神保氏の勢力が衰えた天正はじめ(1573年~)頃からは上杉氏に属したようです。
1578年(天正6年)上杉謙信没後には、いち早く織田方に通じました。飯久保城の詰城として、家臣の大前左近と奥野主馬が在城したそうです。
狩野氏は1585年(天正13年)富山の役で佐々成政の降伏後、飯久保城を離れたと推測され、惣領砦はこの頃廃城となったようです。

時間ロスを取り戻す為、遊歩道入口で引き返しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=浅井城に向かいます。

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