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チェブ

標高30,1m地点から江戸をにらむ。 (2023/02/04 訪問)

どーも、お城の裏側から お邪魔するクセがあるようで、しばし江戸川を眺めてから近くの階段を使って入城しました。
散歩されている方々が多い「国府台城」です。
どの辺にいるのかわからないけど、高い方に向かって歩きました。

太田 道灌さんの弟、資忠さんが築城しました。
その後、里見氏VS北条氏の第一次・二次国府台合戦では戦場の舞台になってます。2回とも北条氏が勝利しましたが、「国府台城」のあるこちらの公園は『里見公園』というお名前。
里見氏は千葉県のヒーローです。
「国府台城」は家康さんが関東に入った時に廃城になったようです。
、、、江戸を一望できてしまうから。が理由のようです。
大きな石がゴロゴロしてるな~と思って歩いていると『よなきいし』の案内。先に「国府台城」のお名前が入った説明板や碑を見つけようと後まわしに。
先に言ってしまえば、見逃しました。きっと姫の悲しい物語があったにちがいありません。

土塁だな、と思い先端部まで歩くと古墳でした。堀だな、と思うと小さな滝。「国府台城」の遺構を更に何かに使った感じがしました。
あれ、古墳は逆ですね。土塁の為に土をいじったら、石棺が出たんだとか。
高い所に標柱があり、行けば『市川市最高標高』の地点標柱。
はたして、この場所から江戸は一望できたのか?

家族連れが遊ぶ広場方面に行く途中に詩人 北原白秋さんの離れがありました。
そして、『里見公園』の正面入口があり、「国府台城」の説明板を見つけました。
江戸川方面に、外側を歩くと『羅漢の井』があります。合戦中には飲料水に使用したそうです。

現在は「国府台城」から富士山やスカイツリーも見える事を、家康さんに教えてあげたい城攻めでした。

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スティクラ

雪で天守跡まで行けず (2023/02/04 訪問)

雪が残る福井城へ。

天守跡までは雪の影響で行けなったが、凍った堀を見ることができた。
別の季節に行く機会があれば天守まで。

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スティクラ

雪化粧の丸岡城 (2023/02/04 訪問)

JR西日本サイコロ切符で加賀温泉が当たったので、丸岡城へ。

天守や一部の堀が残るだけで散策範囲は広くので、少ない時間で十分に楽しめる。
先日の雪がかなり残っていたが、歩くには困らない程度に除雪されていた。

天守からは四方を見渡せることができ、眺めは格別。
近くに来るまで城が見えなかったが、城からは遠くまで見ることができた。
天守は、階段は急で注意が必要。

天守を散策した後に歴史資料館に。
天守の入場券があれば無料。

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赤い城

駅近物件だが遺構は微妙 (2023/01/28 訪問)

この日は電車で宇都宮線沿線の城をめぐりました。
矢板駅から徒歩で10分くらい。
土塁状の高台に石碑が立っていて神明大権現が鎮座しています。
遺構はほぼ無く、この高台が土塁なのでしょうか。
住宅街でもあり他に城を感じさせるものは無さそうでした。
塩谷氏の城で川崎城の支城として機能していたようです。
少し雪が残っていました。
朝一番の登城だったので寒かった。

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ぴーかる

能見城 (2023/01/08 訪問)

【能見城】
<駐車場他>穴山さくら公園駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>新春1泊2日甲府盆地の旅ラスト6城目。能見城は1581年に新府城の支城として築城されました。城というよりは新府城の一部として七里岩台地の北端の防塁といった目的で築造されたようです。武田氏滅亡後、本能寺の変を経て天正壬午の乱の時に新府城に徳川軍が陣を置いているのでこの能見城も手を加えていると考えられえます。
 西側の登城口からはスロープ状の道路を登って行くと簡単に頂上に着きます。北側の斜面は段状の曲輪になっており東側最奥にいくと木々の隙間から秩父山地の絶景が望めます。北の段の下の方は曲輪壁がコンクリート壁になっているので現代の手が加えられています。山頂の長靖寺の南下段は少し切岸や堀になっていますが、その下の段からもコンクリート壁になっています。城跡の東側はスロープ状になってはいますが改変時の重機の通り道であったかもしれません。ちょっと遺構は不明瞭でしたが段状曲輪の遺構をそのままの状態で曲輪壁だけコンクリートにしたならば構造はなんとなく分かりました。北麓が穴山氏の本拠地になっていました。
 これにて終了。32年ぶりの山梨県、城と食を楽しみ思い出残る旅になりました。また今回は雨にも遭遇せず良かった。915㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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三浦の晃ちゃん

御城印だけ (2023/02/04 訪問)

着いたのが、夕方だったので、山頂までは、行きませんでした。御城印は、津久井湖観光センターというところでで、購入できます。また、城山公園のパークセンターには、詳しい展示があります。

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赤い城

清流柿田川 (2023/01/22 訪問)

柿田川公園が城跡で駐車場もあります(200円)。
柿田川の湧水群が有名で訪れる人も多いようです。
駐車場やお土産物屋さんがある部分が主郭で説明板が立っていました。
北側の庭園を通って公園部分に行くとここにも説明板があります。
遊歩道に沿って空堀も残っていました。
南側、貴船神社横にも堀が残り、駐車場から下の部分に二重の堀切を見ることができます。
駐車場側は通路となっています。
湧水群は第二展望台のみ見学、流石に天然記念物。
綺麗に透き通った感じでした。
湧水はお持ち帰りも可能です。

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高石垣が見たくて (2023/02/04 訪問)

 高石垣が見たくて久しぶりに登城しました。迫力ある石垣はいつ見ても楽しいですね。

模擬天守はあまり好きではありませんが、この天守閣は木造でもあり味があります。地元出身の衆議院議員、川崎克氏が私財を投じ「伊賀文化産業城」という名称の模擬天守を建設したということですが、このエピソードがおもしろいなと思っています。今では伊賀上野市を象徴する建物になっていると思います。

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天正伊賀の乱 (2023/02/04 訪問)

天正伊賀の乱のときに伊賀衆の拠点となった城のひとつで、本能寺の変の後にも伊賀を追われていた浪人たちが立て籠もったとされています。堀切や土塁を見ることができます。
 以前に伊賀に来た時に行こうと思っていましたが、登城口がわからず断念しました。城びとの「あ」さんや「YAICHI」さんの投稿を見て登城された方がいることを知り、また「東海の名城を歩く」にも掲載されていたので思い切って登城してきました。西蓮寺のお墓の北から登城しました。最初は倒木はあるものの道らしき場所があり、「意外と楽勝かも、、」と思いましたが、道はしばらくすると不明瞭になりなり登城路を探すのに少し難渋しました。甘かったですね。Google mapの位置情報を頼りに2つの池の間を抜け、主郭へ向かいました。思ったより藪でない場所が多かったです。城域に入ると藪は予想よりありませんでしたが、空堀には倒木などもあり少し残念でした。諸先輩方が登城された後に少しは手入れされたのかプレートも古いものも残っていましたが、新しいものが木に付けてありましたね。縄張り図とにらめっこしながら城域と思われる場所を行ったり来たりしましたが、今一つ把握できません。帰りは「ふるさと芭蕉の森公園」の方へ降りようとしましたが、道に迷ってしまい沼地へ出たりして難渋しました。結局、出てきた所は長田保育園でした。こちらからの道の方がわかりやすい気もしますが、、、。

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POYO58

日本100名城スタンプ巡りNo.5 岡崎城 (2023/01/29 訪問)

遺構★★★★☆
3回目の岡崎城です。
岡崎城は西郷氏が築き、松平氏、田中氏、本多氏へと城主を変えました。岡崎城は家康が有力ですが、今残っている遺構は田中氏と本多氏によるものだと推測できます。岡崎城は昔に建てられた城ではありますが、今は石垣や櫓台などの江戸時代を思い浮かべる城郭になっています。
岡崎城にも結構遺構が残っています。

清海堀
まずはこれ、本丸への行手を阻むように大きな堀切があります。曲線を描いているためとにかく攻めるのがめんどくさい。また家康がかつてここに土橋を築き、敵がきたらすぐに攻められるようにしたそうです。とは言っても慎重と言われる家康にとってこれは家康にはふさわしくない戦法ですね。

外堀の水堀
これもいいですね。岡崎城の石垣は野面積みがほとんどですが、外堀付近の石垣は算木積みや打ち込み接ぎが用いてあります。かつて櫓が建っていたそうですが、今はその面影を失っています。春になると桜が咲き誇り、綺麗ですよ。

清海堀以外の堀切
堀切は清海堀以外にもたくさん設けられています。とくにすごいのがUの形のように曲がった堀切。どうやって作ったの?って感じの凄さです。おそらく三日月堀に大きな土塁を築いてこのような形にしたのだとおもいます。また石垣が用いられ絶対登れないような感じ。

岡崎城は本当に行けばすぐ天守で攻めやすそうですが、そこにはだかる壁というものが大きく簡単には攻められません。岡崎城は戦国時代から徳川家康のために多くの人が改修を積み重ねながら城を守っていたそうです。その方たちの思いが伝わってくるお城でした。

大河ドラマ館行ってきました。いやすごかったです。行列だったんですけど思ったより早く行けました。中も結構変わっててびっくり‼️ドラマで使われた甲冑や再現映像など面白いものがたくさんありました。浜松城のはいけなくて残念でしたが、岡崎で楽しむことが出来ました。

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朝田 辰兵衛

長岡城二の丸で,冬の風物詩開幕! (2023/02/04 訪問)

長岡城二の丸の甘味&茶処『美松』。1959(昭和34)年2月4日創業。本日で64年となりました。毎年2月の創業月に「美松のサンキューまつり」を開催しています。シュークリーム1個39円(税抜)で,10個単位での販売です。税込で1箱420円となります。
今年は,鳥インフルエンザの蔓延で卵の単価が高騰し,開催が危ぶまれましたが,伝統を守ることを重視したとのこと。1日2万個限定で開催です。
数年前はJR長岡駅のほうまで長蛇の列ができていて話題になりました。土日は1時間待ちが当たり前です。
本日,ダメもとで行ってみたら,(雨天のせいか)駅まで列が続いていませんでした。並んでみたら,約35分で順番が回ってきました。無事に2箱購入できました。
興味のある方は,ぜひお越しください。

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赤い城

不思議な形の展望台 (2023/01/22 訪問)

北駐車場から登って行きました。
公園になっていて整備された登城路です。
途中斜面の下を覗くと何かありそう。
で、降りて見ました。
すると竪堀や土橋を発見。
冬ならではかと思います。
元の登城路へ戻り、本丸を目指します。
本丸は公園になっていて眺望も良い。
そして皆さん話題とされる展望台が、キノコですかね~。
西側へも進んで見ました。
八幡社の裏手に竪堀と横堀がありました。
やや藪ですが。
石も転がっており、良い感じで遺構が残っていました。
ここも国境の城、武田氏と北条氏による争奪戦があった城です。

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侍ホリタン

大和大納言と尊称された秀吉公の弟秀長公の居城を訪ねて (2022/07/11 訪問)

大和・紀伊・和泉の3ヶ国に河内国の一部を加え、約110余万石の大大名となった豊臣秀吉公の弟秀長公の居城です。秀長公の跡を継いだ秀保公が没すると増田長盛公が城主となりました。長盛公改易後、一時廃城となりましたが水野勝成公入封時に徳川幕府による改修が行われ、以後譜代大名の居城として明治まで続きました。
駐車場は追手門前に6台程度駐車できる無料駐車場あります。行き方は市役所方面からの場合、郡山高校手前の堀沿の細い道を進んでいきます。 ただ台数少ないので満車時は「やまと郡山城ホール」駐車場を利用すると良いです。こちらは2時間無料です。

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侍ホリタン

藤堂高虎公が手掛けた高石垣が残る名城を訪ねて (2022/07/11 訪問)

現在の天守は昭和10年、地元の代議士川崎克氏の寄付により建てられた木造の模擬天守です。大和国から伊賀国へ移動となった筒井定次公が現在の天守の東側に三層の天守を築いたのが伊賀上野城の始まりです。筒井氏に代わり伊予宇和島城から移動してきた藤堂高虎公は大坂城の豊臣方に備えて本丸を西へ拡張、現在も残る高さ30mの高石垣を築きました。ただ新たに築いた5層の天守は竣工直前に暴風により倒壊、以後再建されることはありませんでした。
駐車場は上野市駅前にある24時間営業の駐車場を利用するのがおすすめです。1時間無料で30分毎に100円加算されます。上野公園まで徒歩5分程です。あと少し離れますが城北駐車場は平日無料で開放されています。

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小城小次郎

変わらない思い? (2022/09/18 訪問)

10年ぶりにサイトを更新してみたら、加筆したものと前回のものとがほぼ同じ内容・・・進歩がないのかぶれがないのか(笑)。こんなところまで武田が勢力を広げたのも脅威ならこの模擬天守がかわいいと思う気持ちも変わらない。

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赤い城

三国境目の城 (2023/01/22 訪問)

駿河、甲斐、相模の境目の城で武田氏と北条氏による争奪戦が繰り広げられた城です。
現在は民家と農耕地になっていますが見学は可能。
石碑の前にスペースがあり、車を停めさせて頂きました。
石碑の背後には三日月堀があり、さらに進んで行きます。
番犬に吠えられながら馬出を見学、さらに二の丸へと進みます。
二の丸手前には深い堀がありますが藪でした。
二の丸の先にも馬出があり、周囲を空堀が囲んでいます。
この堀もかなり深く掘られています。
本丸へと土橋がかかり、本丸からは富士山が望めます。
雲もとれて雄大な姿を拝むことができました。
この日の目的はほぼ達成でしたがもっと大きな姿が見たく、河口湖まで足をのばしてしまいました。

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todo94

新年2日目の攻城②【上野松山城】(群馬県高崎市(旧榛名町)) (2023/01/02 訪問)

鷹留城への登城ルートが分からずさまよっているうちに偶然見つけてしまいました。群馬県にも松山城があるとは思ってもみませんでした。武蔵松山城城主の嫡子・上田信善による築城で、上田氏の本城に因んでの命名だとのことです。主郭には金比羅神社が鎮座しています。城びと未登録の城ですが、郭の見栄えが良く訪れる価値はある城のように感じました。城びと登録の城の中には「なんだかなあ」という城が結構あるので、こういう城をカバーしていないのは少しもったいない感じがします。

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トク

⑱【関ケ原の26人 】(9)宇喜多秀家 (宇喜多秀家陣跡) (2022/10/30 訪問)

(9人目)「宇喜多秀家」の続きです。
関ケ原の「宇喜多秀家陣跡」を訪れてきました。

宇喜多秀家は、西軍副将を務め、西軍最大勢力17,000の軍勢を有していました。そして先鋒として、東軍の先鋒「福島正則」と対峙します。東軍には井伊直政・松平忠吉が加わり、西軍には小西行長が加わり、一進一退を繰り広げます。しかし、背後の大谷吉継が崩れると、宇喜多隊・小西隊も総崩れとなりました。

宇喜多秀家は、伊吹山中から京都に隠れたあと、島津氏を頼り薩摩まで逃げ延びます。そして3年後、秀家が生きている事を知った家康と秀忠は身柄を要求。当時の当主の島津忠恒(義久から家督を継いだ義弘の子)は助命を条件に引き渡します。そして八丈島へ流罪となりました。なぜ死罪にならなかったのか不思議でしたが、よく考えてみればもうその時は関ケ原から3年も経ち、徳川政権も安定してきた矢先なので、今さら死罪にするのは返って徳川の印象を悪くしかねないと思い、このような寛大な措置をとったのかもしれません(逆に言えば秀家は逃げ延びた甲斐があったという事でしょうか?🤔)。

宇喜多秀家の陣は、南天満山の麓の杉木立の奥にある天満神社の中のひっそりとした所にありました。秀家の忠義心は、この時の豊臣家臣の中では群を抜いていたようです。よって、三成のためや自分の損得と言うような私利私欲はなく、むしろ「家康の好きにさせるは豊臣の為にあらず」という五大老としてのプライドと、「純粋に豊臣を守りたい」という思いの方が強かったように思います。

そして結局、秀家は流罪先の八丈島で84才まで長生きし、関ケ原の大名の中では最も長生きした大名になりました(何か皮肉なものですね~🤔)。 時はすでに5代将軍徳川綱吉の時代、元禄文化が栄え庶民は娯楽を楽しみ、江戸は最も平和な時を迎えていました。

次は、(10人目)へ続きます。
 

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侍ホリタン

秀吉公が陣を敷いた場所に建てられた名城を訪ねて (2022/07/02 訪問)

平成に入ってから犬山城をモデルにして建てられた模擬天守です。現在の名称は「河原城」として親しまれてますが、ここにははかつて「丸山城」という山城があり、豊臣秀吉公が鳥取城の兵糧攻めをした時に陣を敷いた場所です。
通常使用されてきた登城口が土砂崩落のため通行止めになっています。期間は令和4年9月15日までとなっていました。 河原城に行くには1キロ程先の河原市民プール前の道を進んで行く事になります。詳細は鳥取市のHPより確認して下さい。迂回路は見通しの悪い所ありますが、道幅は十分あります。 河原城の最上階からは鳥取城跡がある久松山が確認できます。山頂の石垣もバッチリ見えます。

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侍ホリタン

鳥取藩32万石の名城を訪ねて (2022/07/02 訪問)

織田信長公より「堅固な名城」と評され羽柴秀吉公の兵糧攻めの舞台となりました。この戦いは毛利方吉川経家公の徹底抗戦により日本十大籠城戦の一つに数えられています。戦い後は秀吉公の側近宮部継潤公が入城、石垣や天守を築き近代城郭に改修しました。江戸時代の鳥取藩誕生に伴い池田光仲公を藩祖とする鳥取池田家12代の居城として明治時代まで続くことになります。
土日祝は最寄りの県庁北駐車場が終日無料開放されています。 2022年7月2日現在、大手門入り口付近で復元工事中のため通り抜けできません。城内に入るには県立博物館方面へ迂回する必要があります。 天守台跡がある山頂からは鳥取市内、大山、鳥取砂丘、日本海の展望が楽しめます。

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