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黄金虫

【お城川柳】

美白度の 代表格は 白鷺城

白さではダントツの1位。修復でなおさら白くなった。

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黄金虫

【お城川柳】 熊本城・松本城

漆黒美 競う熊本・ 松本城

真っ黒度ナンバー1は熊本城か、烏城禁止の松本城か。

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黄金虫

【お城川柳】

どっち好き 白黒つかぬ 城の色

黒=豊臣系、白=徳川系とか、どっちも好きでいいよ。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:鳥羽山城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の6城目は鳥羽山城です。
二俣城から転戦。公園駐車場(34.857371、137.805959)に駐車しました。

鳥羽山城は徳川家康が二俣城攻略のため、1575年(天正3年)に築かれた付城です(それ以前に1560年(永禄3年)の桶狭間の戦い後に今川方が築いていた説もある)。
1572年(元亀3年)から1575年(天正3年)の間、徳川家康と武田信玄・勝頼親子との攻防戦が繰り広げられた城として著名です。
徳川氏の関東転封で豊臣方の堀尾氏が、1590年(天正18年)から1600年(慶長5年)の間、城主だったそうです。
天守台や石垣は、堀尾氏によって築かれたものと推定されています。
発掘調査の結果、鳥羽山城は二俣城と同規模、またはそれ以上の城郭があったことが判明し、各曲輪・枡形門跡・庭園・石垣・井戸・排水溝などの遺構が発掘されました。
また、染付・天目茶碗・鉄釉仏飯器なども発見されているそうです。

現在は鳥羽山公園になっているので登城路はしっかりしているが、雨で石段が滑る。縄張りがわかるように整備されています。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:二俣城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の5城目は二俣城です。
笹岡古城から転戦。城駐車場(34.862929、137.810352)に駐車しました。

二俣への築城は、戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、今川氏が拠点とするために城館を築いたのがその初めといわれます。
ただし、それは後のように山城ではなく、北東の平坦地にあったと考えられています(現在の浜松市天竜支所周辺。笹岡古城の名が残る)。
1572年(元亀3年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃しました。
二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、12月23日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突、武田軍は大勝しました。
しかし、上洛そのものはまもなく信玄が発病したために中止となり、信玄は帰国中に死亡しました。
その後二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主として入りました。
1575年(天正3年)5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗しました。
家康は直ちに反攻を開始、同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退しました。
家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせました(武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しませんでした)。
そのまま大久保忠世が城主を務めたが、本能寺の変後の家康の勢力伸張に伴い忠世自身が信州惣奉行として小諸城に在番することが多く、二俣城にはあまり在城していなかったそうです。
1590年(天正18年)、家康の関東転出に伴い堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となりましたが、1600年(慶長5年)に堀尾氏が出雲に転封すると廃城となったようです。

二俣城といえば、1579年(天正7年)家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られています。
現在、城址には天守台・石垣・土塁などが残っています。また、井戸櫓が清瀧寺に復元されています(自分は時間の都合で行けませんでした)。
本丸跡の天守台は圧巻です。また、所々に石垣が残っており、堀切はよく形を残していました。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:城びと未登録(静岡県浜松市)笹岡古城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の4城目は笹岡古城です。
高根城から転戦。浜松市天竜区役所駐車場(34.872753、137.815890)に駐車しました。

笹岡古城についての詳細は不明ですが、文亀年間(1501~1504年)に二俣昌長が築いたと伝えられています。
松井宗信がのちに二俣城を築いて移動した為、笹岡古城は廃城となりました。築城されるまでは、二俣城と呼ばれていたようです。背後の山(本城山)に詰め城がありました。

旧天竜市役所庁舎建設により、城址の遺構は消滅しましたが、浜松市天竜区役所の駐車場入口に城址碑と説明板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:高根城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の3城目は高根城です。
和田城から転戦。県道389号線の林道立山線入口(35.152191、137.876308)から林道に入り、そのまま車を進めた終点が駐車場です。

1414年(応永21年)後醍醐天皇の孫・尹良親王を守るため、地元豪族・奥山金吾正定則によって築かれ、水窪川対岸には親王のための仮宮が建てられたそうです。
戦国時代には駿河今川氏に属したが、今川氏が衰退すると、武田信玄の遠江侵攻が始まり、1569年(永禄12年)城主・奥山民部少輔貞益の時、姻戚関係にあった信州遠山氏に攻められ落城しました。
落城後、武田方により改修が行われ、1572年の遠江侵攻においては武田軍の拠点となったようですが、長篠の戦い後、武田氏の遠江からの撤退により廃城となりました。
2001年(平成13年)に主殿・城門・井楼櫓・柵条が復元されました。

自分が駐車した場所から城址までは比高を意識せず、ほぼ横移動で行ける為、初心者にも城好きにもオススメです。
手入れが行き届き堀切や曲輪跡など遺構が程よく残っており、戦国時代の中世山城の雰囲気を感じることができます。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:城びと未登録(長野県飯田市)和田城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の2城目は和田城です。
城びとに登録されている和田城は「長野野県小県郡長和町和田」ですが、こちらは「長野県飯田市」にある和田城です。
飯田市の和田城の方が名前が知れていると思いますが、こちらは城びと未登録です。
遠山郷土館 和田城駐車場(35.320862、137.935161)に駐車しました。

和田城は遠山景広によって築かれた城です。景広は武田信玄に従って各地の合戦で活躍しましたが、その子・景直は徳川家康に従属し「大坂の役」にも参加しました。
その後、景広死去後にお家騒動が起き、信州遠山家は改易されることになりました。
現在、城址には城郭風建築物である遠山郷土館和田城が建てられており、霜月祭り(遠山祭り)のお面などが展示されています。
隣には遠山一族の墓を祀る菩提寺である龍淵寺があります。また遠山郷は「日本の秘境100選」のひとつに数えられています。

遠山郷土館和田城は朝早い為、入れませんでしたが、徳川家康と和田城主の対面像は確認しました。
日本の秘境100選だけあってとても遠いです。飯田から来る場合は秘境らしさは感じませんが、ここから静岡県浜松市に向かう道はまさに秘境そのものです。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目:飯田城 (2021/06/30 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り4日目の1城目は飯田城です。
朝食前に宿泊先のホテルから徒歩2~3分くらいで、庁舎駐車場(35.513778、137.828865)に着き、赤門撮影後、長姫神社(35.511876、137.832695)方向へ進みました。

飯田城は鎌倉時代に坂西氏が飯田に入部し、はじめ松原宿(飯田市上飯田)のあたりに住居をおき、のちに飯坂(飯田市愛宕)に愛宕城(飯坂城)を構えたとされています。
坂西氏の出自ははっきりせず、地頭として飯田に来たとも言われるが、南北朝時代まで飯田郷の地頭は阿曽沼氏であり、坂西氏は庄官ですらなかった可能性もあるそうです。
室町時代に坂西氏はより広い用地をもち展望のきく要害の地を求めて、飯田城を築いて移った。このときその地は山伏(修験者)の修行場となっていたので、愛宕城の土地と交換したといわれています。
1554年(天文23年)武田信玄が下伊奈に侵入し、以後30年間武田氏の領となります。武田氏は南三河国に侵攻するため高遠・大島・飯田を拡張して重要な本拠地としたので、飯田城には武田氏式築城様式が残っているようです。
1582年(天正10年)織田信長が武田氏を滅ぼし、伊奈郡を手に入れました。
「関ケ原の戦い」後は、小笠原秀政、脇坂氏、堀氏と城主が代わりますが、このうち小笠原氏は松本に転封となっており、現在の松本城の天守は飯田城の天守を移したものであるという説もあります。

現在、本丸跡は長姫神社境内となり、石塁、空堀と土塁の一部が残っているそうですが、自分は見つけられませんでした。
二の丸には飯田市美術博物館が建ち、藩主の居館のあった桜丸は県合同庁舎として利用されています。
攻城時間は20分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

あら不思議お花を入れるといい感じ

( *´艸`)クスッ♪

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カズサン

【お城川柳】熊野山中の城で一句 (2013/05/02 訪問)

 ・ 高虎の 初の作品 赤木城

 ・ 天空の 棚田と並ぶ 石垣の群れ

 紀伊の国熊野の山深くに在る赤木城、車で浜松より赤木城を目指す高速道を利用して遠路訪ねましたが熊野市街地からも安物のナビでしたので不安の中の道中でしたが日本棚田百選の丸山千枚田にも遭遇し更に日本に何か所か在る天空の城の一つ絶景の赤木城を堪能しました。

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】勝山館跡ガイダンス施設のスタッフが言うにはな… (2021/07/09 訪問)

「懸仏 出土し注目 洲崎館」

懸仏(かけぼとけ)とは,手のひらサイズの石仏のことです。本土から津軽海峡を渡って来る際に,大きな石仏は運搬できずにこんなサイズになったんだろうと伝わります。勝山館跡ガイダンス施設には展示コーナーがありますが,まさか洲崎館で出土するなんて…ということで,函館新聞に掲載されたとのこと。私はタイミングが合わずに目にすることができませんでした…。
最寄りのバス停は,「北村」です。ちょっと戻りますが,徒歩約5分で到着します。「大留」の次になります。

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うっちー信繫

犬山城天守は現存最古!最近の城ニュース②

現存最古の天守と言えば丸岡城。しかし最近松本城が現存最古なのではないかと注目を浴びていたところでした。
そんな中、犬山城天守の建造年ははっきりとわかっていなく、専門家が木の年輪を調査し、割り出したところ、なんと最古ということになり、新たな大発見となった。

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小城小次郎

山上には磐座もあるようだ (2021/05/02 訪問)

宇喜多家の重臣となった明石氏の一族である明石景行(明石全登の息子の景行とは別人)が居住したとされる。和気富士と呼ばれる美しい山の上には磐座もあるようで、和気清麻呂も参拝したかも、などと思うとちょっと楽しい。

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にのまる

【お城川柳】

顔ハメにご当地個性あふれ出る

意外なところにもある静岡県
手づくり感がたまらない高岡城
自撮りができる小田城
櫓門、北櫓、南櫓がハメられる上田城

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:駒場城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の23城目は駒場城(3日目のラスト)です。
久米ヶ城から転戦。案内標識分岐点(35.441051、137.743560)に路駐して徒歩で攻城しました。

駒場城の築城年代は定かではないが、応永年間(1394~1428年)頃に林氏によって築かれたとされます。
天文年間(1532~55年)に武田氏によって修築され、1573年(元亀4)上洛の途についた武田信玄が病のため信濃へと撤退する途中、この駒場にて死去したといわれています(浪合や根羽とする説もあります)。
1582(天正10)年、織田信長が武田勝頼の領国信濃へと攻め入った際、信長は川尻秀隆に命じて駒場城を修築させています。
1676(延宝4)年の絵地図には「城山,御公儀林,松立」と書かれていて幕府の天領「御林」として存在していたようです。
現在城址は「阿智公園」として整備されており、土塁や空堀などの遺構を確認することができます。
長岳寺には信玄を火葬したときの遺灰を弔った供養塔信玄供養塔があるようですが、自分は行っていません。

公園駐車場はあるが、悪路との事前情報より案内標識分岐点より徒歩で17~18分くらいで着きました。
車で上がれなくもないが、途中全面通行止めになっていました。
攻城時間は10分くらいでした。

3日目の攻城徒歩数=21531歩、攻城徒歩距離=16.79Kmでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県飯田市)久米ヶ城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の22城目は久米ヶ城です。
伊豆木陣屋から転戦。城山公園駐車場(35.462777、137.780942)に駐車して攻城しました。

久米ヶ城は1345年~50年(貞和年間)に松尾城主小笠原貞宗の弟小笠原彦次郎貞長が築城しました。東平の麦種城、西平の西平城を支城としていました。
貞長を初代とし、長高・氏長・満長・村長・持清・正長・尚清・植盛と9代200年に亘って小笠原氏が在城し、戦国時代中期まで続いていましたが、身内の争いにより松尾城とともに落城したと伝わります。

現在城址は城山公園として整備されており、櫓台には物見櫓風の展望台が建てられています。
たまたま対向車はありませんでしたが、道は細いです。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:城びと未登録(長野県飯田市)伊豆木陣屋 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の21城目は伊豆木陣屋です。
鈴岡城から転戦。小笠原資料館駐車場(35.446872、137.796769)に駐車して攻城しました。

伊豆木陣屋は、交代寄合旗本小笠原氏の陣屋です。
1600年(慶長5年)小笠原長巨(ながなお)は徳川家康から秣料として千石が与えられ、翌1601年に伊豆木に屋敷を構えて居住しました。この屋敷が伊豆木陣屋です。
伊豆木陣屋は小規模な城郭の構えであったが、明治5年に帰農する際に書院と石垣を残して取り払われたようです。
現在は重要文化財にも指定されている書院を指した「小笠原書院」の名前で知られています。
また、太鼓門が市内にある専照寺に移築されていますが、自分は見ていません。

江戸時代初期の建築の書院が現存していて、それだけで充分価値があると思います。専用駐車場もあります。
受付時間(~16:30)に間に合わず、書院の中には入れませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:松尾城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の20城目は松尾城です。
鈴岡城から転戦。車はそのまま鈴岡城址公園第1駐車場において、徒歩で鈴岡城の出丸を下り、毛賀沢川を渡ると松尾城址公園に着きます。

松尾城は小笠原三家のひとつ、松尾小笠原氏の居城です。
小笠原貞基は府中小笠原氏の小笠原長朝と信濃守護および小笠原惣領職の座を争ったが敗れ、甲斐国に逃れて武田信玄に臣従しました。
1554年(天文23年)の武田氏による伊那侵攻では小笠原信貴・信嶺父子が信濃先方衆として活躍し、松尾城主に復帰しました。
信嶺はその後、織田信長の甲州征伐では織田氏に降伏し、さらに「本能寺の変」後には徳川氏の家臣となっています。
徳川家康の関東移封にともない本庄城に移り、松尾城は廃城となりました。

現在、城跡は松尾鈴岡公園として整備されています。
お隣の鈴岡城の出丸から松尾城へ行く橋まで、結構な階段を下りて行きます。橋は水道橋であり歩行者のみ渡れます。川からの高さがかなりあります。
攻城時間は20分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:鈴岡城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の19城目は鈴岡城です。
上野城から転戦。鈴岡城址公園第1駐車場(35.482810、137.825977)に駐車しました。

築城された年は不詳ですが、南北朝時代に小笠原貞宗の次男・宗政により築かれたようです。
宗政は分家としての鈴岡小笠原家を興したようで、後に小笠原政康が居城としますが、宗政の子孫ではありません。政康は府中小笠原氏の三男なので、養子として鈴岡城に来たと考えられるようです。
1442年、守護・小笠原政康が没すると府中(深志)小笠原氏、松尾小笠原氏、鈴岡小笠原氏に別れて対立しました。(100年近く内紛は続きます)
1554年(天文23年)の武田信玄による伊那侵攻のときに、落城しました。
1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされ、越後に逃れていた小笠原長時の弟・貞種が、上杉景勝の助力を得て深志城に復帰しました。
同年、織田信長が本能寺の変で自害し、甲斐・信濃両国では周囲の徳川家康、北条氏直、上杉景勝らによる争奪戦が繰り広げられました。
深志城は徳川家康の意を受けた小笠原貞慶(長時の子)が叔父・貞種から奪いました。松尾城の小笠原信嶺は武田氏滅亡時から徳川家康に仕えており、所領を安堵されています。
1590年、鈴岡城は廃城となりました。
松尾城の小笠原信嶺が徳川家康の関東移封に伴って武蔵本庄へ移りました。小笠原氏が移った後は、豊臣秀吉の家臣・毛利秀頼が飯田城10万石の領主となりました。

現在は鈴岡城址公園として整備されており、曲輪や堀の案内板が多く歩きやすいが、急な強雨の為、急ぎ足で見学した。
攻城時間は25分くらいでした。

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