みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

くらのり

山吹城 (2017/04/01 訪問)

1309年(延慶2年)頃、石見銀山が発見され、その防衛用の城として、周防・長門国の大内氏当主・大内弘幸によって築城されたとの伝承がある。標高414mの要害山上に築かれた山城で、その規模は要害山全体に及ぶ。
頂上付近に南北52m東西32mの主郭を配し、19本以上確認できる畝状竪堀群や土塁、空堀、石垣等で防衛線をなしている。なお、大森の集落に面している主郭北側のみに石垣が築かれていることから、"集落側に見せるための構築物"を築いていたためと考えられている。周囲には、石見城・矢筈城・矢滝城があり、共に石見銀山遺跡に登録されている。

+ 続きを読む

くらのり

熊本城 (2016/12/23 訪問)

別名「銀杏城」と呼ばれ、加藤清正が中施城郭を取り込み改築した平山城になります。加藤氏が改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城となっていました。
西南戦争直前に大小の天守、御殿など本丸の建築群は焼失してしまうものの、宇土櫓などの櫓・城門・塀が現存し13棟が国の重要文化財に指定。また、国の特別史跡にも。
現在ある天守は1960年に鉄筋コンクロートで外観復元されたもの、2016年の熊本地震によって、熊本城の多くの石垣が崩落し、宇土櫓なども文化財建造物も被災したため、復旧作業が進められ、2021年3月に天守閣が完全復旧しました。

+ 続きを読む

くらのり

津和野城 (2016/11/03 訪問)

城跡は国の史跡に指定されており、別名「三本松城」「蕗城
」と呼ばれています。町の南端に位置する標高370mの霊亀山の山上にあった山城で、南北3kmに伸びる丘陵上にあり、中世に全山が城塞として使用されていました。
江戸時代には津和野藩亀山氏の居城でしたが、藩庁は急峻な山城を避け山麓に置かれていたそうです。明治時代に廃城となるものの、山上には現在でも石垣、堀切、堅堀、連続堅堀などが残っています。また山麓には馬場先櫓、物見櫓も現存しており、庭園は嘉楽園となりました。昭和46年には山上への観光リフトが完成しており、日本100名城にも選定されています。

+ 続きを読む

くらのり

松山城 (2016/05/20 訪問)

勝山の標高132mの山頂に本丸があり、西南麓に二の丸、三の丸を構え、姫路城と同じく連立式天守の広大な平山城。わが国最後の完全な城郭建築である天守は「現存12天守」の中で唯一、築城主として新藩・松平家によって建築された広大な城で、「葵の御紋」が付された国の重要文化財。日本で現存数の少ない望楼型二重櫓の野原櫓の「野原櫓」や倭城の防備手法の「登り石垣」、深さ44mにもなる本丸の井戸なども現存。
現在は城跡主要部分は公園として整備されており、天守最上階からの展望は素晴らしく、瀬戸内海なども見渡すことができる。

+ 続きを読む

くらのり

備中高松城 (2016/02/11 訪問)

城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず、土塁によって築城されました。城の周囲は低湿地になっており、それらが天然の堀の役割を果たしたそうです。築城時期は未明ですか、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城。織田信長の家臣であった羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、1582年4月に 備中高松城の戦いに。
周囲は沼地になっていて難攻不落とされていたため、攻城戦は持久戦となり、5月に入り城を堰堤で囲む土木工事を行い、低湿地にあった備中高松城を水没させようと企てたのです。これが世に言う「高松城水攻め」で有名なお城です。

+ 続きを読む

くらのり

備中松山城 (2016/02/11 訪問)

現存天守の中で唯一の山城で有名。そそり立つ自然の巨岩を巧みに活用した城塁の壮観は他に類がない。1240年(延応2年)秋庭重信がこの地に城を築いて以来、山陰・山陽を結ぶ要衝の地として700余年にわたる興亡の歴史を秘めている。現在の天守は1683年(天和3年)水谷氏により修築されたものであり、小松山に本丸、二の丸、三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構があります。戦に備えて建設された「詰の城」であり、普段はあまり使われていなかったと記されています。その後2001年からの平成大修理を経て往年の姿によみがえった。

+ 続きを読む

くらのり

赤木城 (2014/11/01 訪問)

城跡は「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」の名称で国の史跡に指定。北山郷の丘陵に築かれた平山城で、標高230mに位置しています。天正17年頃に一揆勢力を抑える目的で藤堂高虎によって築城されたと言われて、主郭を中心として三方の屋根に郭群が設け、その配置は中世山城の形態をしているものの、その一方で高い石垣、発達した虎口など近世城郭の要素も見られるお城です。
慶長19年に行った北山一揆で、総勢3000人が新宮城に信攻使用としたが壊滅し、353名が処刑され、その翌年、高虎が築城した赤木城の落成披露の際にとらえられた。

+ 続きを読む

くらのり

勝連城 (2014/09/30 訪問)

勝連半島の南の付け根部にある標高60~100mの丘陵にあり、南城、中間の内、北城で構成。北城は石垣で仕切られた一、二、三の曲輪を備えており、一から三までの曲輪が階段状に連なり、一の曲輪が最も高いです。
また城の南側には南風原集落が広がり、交易のための港を備えていたそうです。14世紀初頭に、勝連按司によって築城されたと諸説。城内からは中国、元代の陶磁器が出土しており、当時の繁栄を見ることができます。2000年には首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録、その中では最も築城年代が古い。

+ 続きを読む

くらのり

座喜味城 (2014/09/29 訪問)

1416年~1422年にかけて読谷山の按司護佐丸によって築城されたと言われており、城門のアーチには楔石が用いられています。沖縄戦前には日本軍の砲台、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたので、一部の城壁が破壊されましたが、現在では城壁は復元。
2000年に首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産にも登録され、城跡の高台からは残波岬、慶良間諸島などを眺めることができます。また、城内で演劇が行われるなど、広く利用されているため、沖縄の人々にとっては馴染み深い場所になっています。

+ 続きを読む

くらのり

今帰仁城 (2014/09/29 訪問)

沖縄本島北部の石灰岩丘陵上に位置し、琉球王国統一前に覇権を争った3国の一つで、三代続いた北山王の居城。城の創建は明確でないが、発掘調査で発見された城郭跡は12~13世
紀頃の築城で、城内からは中国、東南アジアなどの陶磁器が多く出土しており、その当時の繁栄をうかがわせます。
石垣などの整備が進み、1416年、後に琉球全土の統一を果たした中山王尚の攻撃を受けるも耐えたが、調略によって城は陥落し、北山王統は途絶えた。城の遺構は御嶽・拝所として機能・存続し、2000年には琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産へ登録。

+ 続きを読む

くらのり

首里城 (2014/09/28 訪問)

那覇港を見下ろす標高130mの丘陵地に築かれた城で、創建以来数度に渡り拡張され東西約400m、南北200mの規模を誇る。正殿をはじめ主要な建物が配置された内郭と、それを囲む外郭で構成され、琉球の島々を治め、国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、王とその家族等が住み、華麗な王朝文化に彩られた空間であった。
焼失・再建を繰り返し、太平洋戦争で灰燼に帰し、その後1992年(平成4年)正殿等建物が再建し、2000年(平成12年)年12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として日本で11番目の世界遺産となる。

+ 続きを読む

くらのり

高知城 (2014/05/16 訪問)

関ヶ原戦の功績により初代の土佐藩主として入封した山内一豊が1603年(慶長8年)築城した。この地には、元々南北朝時代に大高坂松王丸によって築かれた大高山城という居城があったという。
1727年(享保12年)天守閣をはじめ大半の建物を焼失したが、1753年(宝暦3年)全域郭が再建され、創建当時の古い様式の姿に戻すことに成功し、特に四重六階の望楼型天守・御殿(懐徳館)・櫓・門などがほぼ完全にそろっている本丸の遺構は全国にも例がなく価値が高い。望楼型の天守閣は現存12天守の中でも比較的古い。豪壮な追手門は創建時の遺構である。

+ 続きを読む

くらのり

岩国城 (2020/11/22 訪問)

山口県下唯一の城である岩国城は、横山の山頂に要害を築きその南麓に平生の居館を構え両者を合して岩国城を構成していた。1603年(慶長8年)の春夏の頃、吉川広家が起工し、1608年に完成したが、幕府の一国一城の令により1615(元和元年)10月に惜しくも破却された。
その後350年の間山頂の城は廃墟のままであったが、1962年(昭和37年)桃山風南蛮造りの天守閣が再建した。天守からは、清流錦川に映える名勝錦帯橋をはじめ市街地や米軍基地、瀬戸内海の島々が一望される光明媚な城である。

+ 続きを読む

くらのり

吉田郡山城 (2020/11/08 訪問)

南北朝時代の1336年(建武3年)毛利時親が郡山南東に小規模な山城を築いたのが始めといわれる。16世紀中頃、毛利元就は標高390mの郡山全体を要塞化し、山頂の本丸を中心に多くの尾根に270もの曲輪を配した西日本最大級の中世山城に拡張改造した。その後、元就の孫の輝元も城の整備を行ったが、山城の限界から広島城を築いて1591年(天正19)本城を移した。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は大きく所領を削られ周防・長門へ移り、広島城・郡山城を含む安芸は福島正則に。江戸初期に廃城となり、石垣や土塁の一部や曲輪の跡がある。

+ 続きを読む

新ろくべえ

甲府城に行ってきました

甲府城に行ってきました!
 
先に写真を投稿するので、あとで文を投稿することをご了承ください

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城好きのメガネ

「番神山城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
番神山城は太田道灌が江戸城の出城として築いたとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東京メトロ 日比谷線 神谷町駅 徒歩10分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「伝目黒氏館」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
目黒氏館は武蔵横山党の目黒氏の館跡とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東急電鉄・東京メトロ日比谷線 中目黒駅 徒歩10分

+ 続きを読む

城好きのメガネ

「伝大平砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
大平砦は武蔵吉良氏の家臣であった大平氏の砦跡とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
東急電鉄 田園調布駅 徒歩10分

+ 続きを読む

イオ

とことん江戸城(浅草橋門~両国橋) (2022/06/24 訪問)

(続き)

3日間の出張を終えて、東京駅から新幹線で帰る前に浅草橋門に向かいます。当初は外郭めぐりはできる範囲で、くらいに考えていましたが、あと一箇所だけとなると行かずには帰れません。

浅草橋駅から南に進むと浅草橋の北詰に浅草見附跡の石碑があります。浅草橋門の遺構は消滅していますが、神田川を渡った南詰の浅草橋南交差点あたりにあったようです。浅草橋門の西側には関東郡代の役宅があったことから、浅草橋南詰の植え込みには郡代屋敷跡の説明板が建てられています。また、開智日本橋学園の南東隅には浅草橋門西側の柳原土手から出土した石垣石が移設されています。

明暦の大火では浅草橋門周辺で多くの死者が出たことから、隅田川に両国橋が架けられ、橋の両側には火除け地が設けられて、両国広小路として江戸有数の盛り場となりました。両国橋西交差点北西の中央分離帯に両国広小路の石碑が建てられています。時間があれば両国橋を渡って回向院や吉良邸にも行きたいところですが、3日間の疲れも溜まっているのでここまでにして、神田川の河口部に架かる柳橋から居並ぶ屋形船と、隅田川との合流点の両国橋を眺めて外郭めぐりを終えました。

…ということで、行けなかったところもいくつかありますが、都合4日間で内郭・外郭ともにほぼひとめぐりすることができました。ちょうど夏至の頃だったこともあり、日中は仕事でも朝夕に活動できる時間を長くとれたこと、出張の翌日から東京は連日猛暑日だったことを思うと、曇天続きで写真映えはしなかったものの、暑くなる前にめぐれたのはラッキーだったな、と。

今回は、内郭はもちろんながら、外郭(外堀)をほぼ全区間歩いて江戸城の縄張を体感できたのが一番の収穫であり、その結果として(今さらながらですが)江戸城が名実ともに日本一の城であることを思い知らされました。でも、まだまだこれで終わりではありません。皇居部分をはじめ今回行けなかったところは次の機会の楽しみにしたいと思います。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:大峪城 (2022/07/31 訪問)

富山城からの転戦です。まず、呉羽山にある佐々成政剃髪趾を見学する為、考古資料館駐車場(36.709692、137.189131)に向かいました。
その後、シルバー人材センター駐車場(36.698951、137.182653)に駐車させて頂き、付近を散策しましたが、何も見つかりません。

築城年代は定かではないようですが、神保長職によって築かれたのがはじまりと云われています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による佐々成政征伐で、秀吉が白鳥城に本陣を置くと前田氏の家臣片山伊賀守が白鳥城より大峪城へ移り出城として守備、成政が降伏した後は延高が城主となります。
1599年(慶長4年)延高は利長の命を受けた石川源太、松田直憲によって大坂で殺害されました。利家の死から僅か七日後の事でした。
利家の遺言状には延高には謀反の気配があるから油断しない様書かれており、それに従ったものと思われます。徳川家康が延高を高く評価し手を回していたからと云われています。
延高の後、大峪城には代官が置かれますが、その詳しい時期は不明ですが、関ヶ原の戦い前後までには廃城となっていたようです。

佐々成政が豊臣秀吉に降伏した際、呉羽山にある佐々成政剃髪趾で髪を剃り僧衣をきて服従の意思を示したそうです。
大峪城跡は五福小学校の移転後、スポーツ広場になっており、何も残っていません。案内板も見つからなかった。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=白鳥城に向かいます。

+ 続きを読む

ページ717