おおつやまじょう

大津山城

熊本県玉名郡

別名 : つづら嶽城、つづらが岳城、舞鶴城、南関古城
旧国名 : 肥後

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織田晃司

インター降りて (2023/09/16 訪問)

近くの大津山阿蘇神社の裏山になります。
大津山自然公園となっており遊歩道が整備されております。

しかし写真の石垣を見ようと思えば遊歩道を脱線するようになります。(見学は自己責任で…)

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大津山阿蘇神社 (2023/02/24 訪問)

 南側の大津山阿蘇神社側には曲輪が展開し、北側は堀切で防御されています。北側の登城路になる案内板では堀切は3ヶ所と記載されていましたが堀切に架かった橋は4本ありますので堀切は4カ所ではないでしょうか。最も主郭側の堀切は2重堀になっていて見ごたえがあります。
道は南北とも整備されていますが、ほとんどは階段路です。主郭からは眺めがよく阿蘇山や雲仙普賢岳が見えるとのことですが、あいにくの雨で見えませんでした。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:大津山城 (2022/06/08 訪問)

女山神籠石からの転戦です。大津山公園駐車場(33.069161、130.550184)に駐車しました。

1396年(応永3年)に大津山資基によって築かれたと伝えられ、その後代々大津山氏の居城であったと云われています。
豊後の大友義鑑は肥後の菊池義武を鎮圧すると、1555年(天文23年)に小原城主の小原鑑元を城代として置きますが、1556年(弘治2年)謀反の疑いで鑑元は討たれ、再び大津山氏が城主となりました。
薩摩の島津氏の勢力が北上すると、小代氏とともに大津山氏も島津氏に降りますが、1587年(天正15年)の豊臣秀吉の九州征伐では開城して出迎え所領を安堵されました。
しかし、その後、肥後に入封した佐々成政によって所領を奪われ、一揆を起こしたが滅亡しました。
佐々成政に代わって加藤清正が北肥後に入封すると、加藤直政、加藤正次が城代として小代城より入りますが、1600年(慶長5年)鷹ノ原城を築いて移り廃城となりました。

大津山公園駐車場から遊歩道を登って行きました。遊歩道を少し甘く見ていました。段木あれど急こう配箇所が多く、汗びっしょりになりました。。
見所は巨大な竪堀と堀切です。主郭の先に堀切に架かる資基橋➡家稜橋➡新蔵橋➡鑑元橋が続きます。
鑑元橋に行く途中に大きなハチに遭遇してしまい、怖くて引き返した為、鑑元橋は見ていません。ビビりです。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=田中城に向かいます。

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零汰

別名:藟嶽城(つづらがだけじょう)、ナビの検索は大津山城で。 (2019/09/16 訪問)

9月に熊本県の大津山城に行ってきました。城域の南側にある大津山阿蘇神社から登城しました。北側にも駐車場のあるルートがあり、途中に4か所の堀切に通行用の橋が架かってるようです。標高256m地点まで約800m、南北に延びる本丸は2段に分かれており建物の基礎が残っています。石積みは少なく2か所見る事が出来ました。北側の堀切は見ていませんが(北側ルートと堀切の存在を知ったのは攻城した後でした、リサーチ不足は毎度の事です)、南側には二の丸・三の丸がありなかでも何本もあるワイルドな竪堀がおすすめです。

こちらの大津山は城域と神域を兼ねているようで、お年寄りの参拝者が毎日のように本丸まで登って来られるようです(私が登城した時は終始ひとり)。本丸には参拝者名簿が置いてあり、木漏れ日溢れる遊歩道には「出会いの小路」なる魅惑ゾーンが。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 大津山(日野)資基
築城年 応永3年(1396)
主な城主 大津山氏、小原氏、佐々氏、加藤氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 曲輪、石垣、堀切、竪堀
再建造物 説明板
住所 熊本県玉名郡南関町関東字城平、井手ノ上