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もふもふ

《お城川柳》

箱根山 背に守護神の 小田原城

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もふもふ

《お城川柳》

松山城 令和に響く 蝉時雨

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もふもふ

《お城川柳》

鶴ヶ城 飯森山に 夏が来る

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もふもふ

《お城川柳》

アップルパイ 片手に歩く 弘前城

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T-Shionoya

【お城川柳】

城跡で 今日は歴史の 学者気分

お城好きはなぜ城に行くのか?
その答えは・・・

その城でどんな合戦が行われたのか?
石垣の上は、どんな城だったのか?
ここで武将はどんな生活をしていたのか?

人それぞれ異なるでしょうが、想像を膨らませ歴史家気分にさせてくれるところではないかな~。

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小城小次郎

織豊系以前の石垣の城だ (2021/05/02 訪問)

さすがは備前守護代浦上氏が本拠としていたお城だけのことはある。大手の石垣や、土塀だった可能性もある一直線の土塁には今もなお風格が漂っている。織豊系以前の石垣の城であることは疑いなかろう。もっと知られてよい城だ。

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もふもふ

《お城川柳》

百名城 一城ごとに シンデレラ

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肉球

織田陣屋・福井県越前町 (2021/06/23 訪問)

越前大野藩の飛び領を管理するために築かれた陣屋ですが
遺構や跡地を示すものは見つかりませんでした。
陣屋門は禅興寺に移築されています。

町内には剣神社がありここの神官が織田信長の御先祖様のようです。
神社に織田一族発祥の碑と町内に織田信長像が建てられています。

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肉球

陣屋のほうだけです (2021/06/25 訪問)

前回錦城山を登りましたので今回は陣屋跡付近だけの散策にしました。
小学校が藩邸跡、学校前を流れる川に石積みがありましたが当時の物かはわかりません。
江沼神社にある庭園は少し荒れ果てた様子。ちょっと残念。
国道305号線にあったとされる関所跡その門が市内の宗寿寺に移築されてます。

錦城山には猪出没注意の看板があります

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赤い城

ジャイアンツ球場の隣 (2021/06/27 訪問)

京王の稲田堤駅かよみうりランド駅が最寄りですがこの日は寺尾城から徒歩。
南側の登城口から登りました。
主郭には浅間神社の祠があり、東側の二郭との間に堀切。
二郭の下をぐるっと回ると北側の土塁との間に堀状になった部分も見られます。
主郭から西側に伸びる尾根道には井戸、その先に物見台がありました。
物見台西側の堀切は竪堀となって南北に落ちています。
観応の乱では足利直義が籠城、戦国期には北条氏と上杉氏が戦った交通の要衝にある城です。
さらに西側に進むと石碑と説明板があり、天竺坂を下るとジャイアンツ球場への坂道に出ます。
私はアンチGですがたぶん三軍の練習試合?を少しだけ見て行きました。
若武者の一所懸命さは見てても気持ちいいですね。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:殿島城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の6城目は殿島城です。
福与城から転戦。城址公園駐車場(35.805921、137.961970)に駐車しました。

殿島城の創立は南北朝時代にまで遡るといいます。
歴史が明らかになるのは戦国時代になってからのことで、春日城主伊那部重成の次男重国が殿島氏を名乗り殿島城を居城としたということのようです。
武田信玄の伊那侵攻で殿島氏も武田氏に降るが、1554年(天文23年)に伊那衆は武田氏に対して叛旗を翻しています。
伊那衆の反乱はすぐに鎮圧され殿島重国は処刑されています。
その後は武田氏によって接収され武田氏滅亡の混乱の後に廃城となったらしいです。

現在城址は本丸跡が「殿島城址公園」として整備されており、殿島城大手口に模擬城門が建てられています。
土塁、堀が保存されていますが、 そのすぐ外側は住宅地になっています。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:福与城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の5城目は福与城です。
箕輪城から転戦。福与城跡説明板前(35.894389、138.0002)に駐車しました。

福与城の創立は鎌倉時代から南北朝時代にまで遡るらしいが具体的な出来事は伝わっていないようです。
戦国時代は藤沢頼親の居城だったが、高遠城主・高遠頼継とともに「宮川端合戦」で武田信玄と戦いましたが、これに敗れて信玄に降りました。
その後、頼親は反旗を翻し、1545年(天文14年)に信玄に攻められ落城しました。このとき福与城は焼失し廃城となりました。
1582年(天正10年)織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、頼親はこの城を奪還しましたが、高遠城を奪還した保科正直に攻められ落城し、藤沢氏は滅亡しました。

城址は整備されており、土塁や空堀などの遺構を確認することができます。
10台くらいは停められそうな駐車スペース有ります。
空堀(土橋)下のトンネルにビックリしました。
攻城時間は20分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

遊歩道と侮るなかれここは城

↓ほぼ崖

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:箕輪城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の4城目は箕輪城です。
上ノ平城から転戦。養泰寺駐車場(35.900965、137.983192)に駐車し、養泰寺西側の城跡標識(35.900952、137.982176)に向かいました。
当初は上ノ平城➡大出城➡松島城➡箕輪城の順で攻城する予定でしたが、千沢城での脱輪影響で大出城と松島城は城びと未登録でパスしました。

箕輪城は木曽氏の一族である箕輪氏代々の居城です。
戦国時代には福与城の支城として木下総蔵が城主を務めましたが、木下氏が下伊那に移ると福与城主・藤沢頼親の養子である藤沢左衛門尉重時が城主となりました。
その後、1545年(天文14年)の武田信玄による伊那進攻により落城すると、頼親らは伊奈の地を追われています。

現在城址は養泰寺の墓地になっていますが、周囲に土塁と空堀を確認することができます。
堀と土塁が良く残っています。 お墓なので踏み荒らさないよう気を付けましょう。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:上ノ平城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の3城目は上ノ平城です。
藤沢城から転戦。城標識説明板前(35.930997、138.001507)に路駐しました。

上ノ平城は平安時代後期に信濃国伊那谷に土着した源為公(伊那馬大夫為公)によって築かれたと伝えられていますが、定かではありません。
以後、為公の嫡流が代々居住したが、鎌倉時代に諏訪氏の一族にあたる知久氏(為公の後裔とする説もある)の居城となったようです。
従来、鎌倉初期に城主であった知久信貞が承久の乱の後に下伊那の知久郷へ退去して以降は、改築されることなく廃城となったと考えられてきましたが、発掘調査の結果、戦国時代にも城として機能していたことがわかりました。
おそらくは天文年間に武田信玄が伊那へ侵攻した時期に使われたものと思われるそうです。

現在城址の大半は農地となっており、遺構はほとんど残っていませんが、堀や土塁などで構成された曲輪跡を確認することができます。
台地上の丘に広大な郭が広がる。郭は東西、南北の空堀で区切られている。三の堀(標柱)前のポストには現地マップも用意されていました。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:藤沢城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の2城目は藤沢城です。
干沢城から転戦。国道152号線の藤沢城案内板付近空スペース(35.927390、138.098468)に駐車しました。
居館跡地?(35.927692、138.097516)まで20mくらいでした。

藤沢城の築城時期についてははっきりしていませんが、元暦・文治年間(1184年~1190年)に諏訪の社領に属していた藤沢盛景が城主だったと伝わります。
その後、1549年(天文18年)には武田信玄の家臣である保科正直が城主をつとめています。
保科氏は武田氏の滅亡とともに1582年(天正10年)に高遠に移ったといわれています。
その後の藤沢城の経緯は定かではないが、藤沢城は諏訪から杖突峠を越えて高遠との中間地点で、杖突街道を監視する目的で築かれ、利用されたと考えられています。
現在城址には土塁や堀切などの遺構を確認することができ、標柱と案内板が建てられているそうです。

案内板を西へ折れると、藤沢川に架かるコンクリート橋先が登城口です。有刺鉄線等で塞いでますが、端部が外れ通る事ができます。
千沢城での脱輪影響の為、時間短縮上、登城口付近で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目:干沢城 (2021/06/29 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り3日目の1城目は干沢城です。
林道入口(35.985728、138.140217)から進入して、終点の貯水タンク前に駐車する予定でした。

干沢(樋沢)城は諏訪大社上社大祝の諏訪氏が築城した上社前宮の東隣に位置する山城です。
諏訪氏は大祝(おおほうり)として信仰を集めたが、神郡である諏訪郡から外に出ることは禁忌とされていました。
このことから幼少時に大祝なり、長じるとその職を辞して惣領を相続する慣わしであったが、南北朝期から室町期の戦乱に際して郡域外への出陣が増えたため、諏訪満有の子、信満の系統が惣領家を、頼満の系統が大祝を嗣ぐこととなった。
当初両家は諏訪大社上社前宮の神殿(ごうどの)に居住していたが、1456年(康正2年)惣領諏訪安芸守信満と大祝諏訪伊予守頼満が対立して兵火を交え、惣領諏訪家は上原に居を移した。
上原城の原型はこの頃築かれたと思われる。一方の大祝諏訪家は干沢城を築いたとされます。
1483年(文明15年)正月8日、大祝諏訪継満は惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応して酔いつぶれたところを謀殺しました。
しかし継満の行為は諏訪大社の社家衆の反発を招き、継満を干沢城に追い詰めます。
干沢城は落城し、継満の父・伊予守頼満は戦死、継満は高遠へ追放された。
継満は翌1584年(文明16年)5月3日、小笠原貞宗ら下伊那の豪族の支援を得て諏訪に侵攻し武居城に陣取って干沢城と対峙したが、大祝の地位は奪還できず、惣領政満の次男・宮法師丸(碧雲斎頼満)が惣領と大祝を相続したそうです。
その後、1542年(天文11年)に 武田信玄が諏訪に侵攻した時、 干沢城は武田勢と呼応する高遠勢に占領され、安国寺付近は焼き尽くされるなど、戦乱に巻き込まれた城のようです。

貯水タンクに向かう林道で脱輪してしまいました。警察/レンタカー会社/レッカー会社に連絡し3時間かけて脱出。
雨が降り濡れた落葉&急坂の悪条件。警察の方も「晴れた日なら大丈夫なんでしょうが、こんな日は四駆でないと無理かも」と言われてました。
以上より、今回のルートは晴れた日&普通車(軽はお薦めしません)で攻城することをお薦めしますが、本当は山麓の諏訪大社方向から登るのが正規ルートだと思います。
攻城時間は3時間くらいでした。(攻城は途中で断念しましたので、脱輪脱出の時間です)

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フーマー

お城川柳

げんこつを舐めて眺める犬山城


銘菓「げんこつ飴」

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車窓からでも (2021/07/10 訪問)

 近鉄名古屋線線路沿いに「茂福城跡」と書かれた看板を見ることができます。近鉄富田駅より徒歩10分くらいの所にあります。土塁の一部と思われる土壇があり案内板があります。

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暁学園 (2021/07/10 訪問)

 暁学園の敷地となっています。「髪のびの井戸」などの遺構があるようですが、門の近くには関係者の姿もなく敷地内へ入ることはしませんでした。

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