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ヒロケン

日本最古の木造再建城 (2022/08/15 訪問)

郡上八幡城は、岐阜県郡上市八幡町八幡山山頂にあり、戦国時代末期に築城された平山城です。

中世よりこの地方を治めていた東氏とその家臣・遠藤氏が郡上支配をめぐり対立。その戦いの際に東氏の居城、赤谷山城と対峙する八幡山の山頂に砦を築いたのが郡上八幡山城の起源とされています。遠藤氏の勝利の後、遠藤盛数の子遠藤慶隆が築城。更にその後に入部した稲葉一鉄の子稲葉貞通の改修により本格的な山城となった。
明治廃城までの約300年間に渡り、遠藤氏・稲葉氏・井上氏・金森氏・青山氏の居城でした。

現在の郡上八幡城は、石垣・曲輪が残り、日本最古の木造再建天守・隅櫓・正門・塀などが再建されています。何より、4層5階の木造模擬天守は姿が美しく、郡上八幡に訪れた観光客の皆さんを楽しませています。
また、郡上八幡城は建物に目が奪われがちですが、石垣等の城跡は、県指定史跡に指定されており野面積みで積まれている石垣も見所の一つです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:小松城 (2022/08/01 訪問)

御幸塚城からの転戦です。来生寺移築城門前(36.415156、136.453167)に駐車し移築城門確認後、小松城跡西側階段前(36.412341、136.443202)で本丸➡小松市立図書館駐車場(36.410110、136.446831)に移動して三の丸を攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)初期に若林長門守によって築かれたと云われています。
若林長門守は一向一揆の部将で、1579年(天正7年)柴田勝家によって攻撃され落城し、村上頼勝(義明)が城主となりました。
1598年(慶長3年)村上頼勝(義明)が越後国本庄に移封となり、丹羽長重が十二万石で松任城から入城しました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて西軍に与した丹羽長重は改易となりましたが、1603年(慶長8年)常陸国古渡に一万石で大名に復帰しましたた。
丹羽長重の代わりに前田利長の所領となり、城代として利長の義兄の前田長種が置かれました。
1615年(慶長20年)一国一城令により一旦廃城となりました。
しかし、1639年(寛永16年)加賀藩3代前田利常の隠居城として再び整備されました。
1658年(万治元年)利常が没し、以降明治まで城番が置かれ維持されました。

来生寺に鰻橋御門が移築され現存しています。
「県立小松高等学校」グランド西に本丸石垣、天守台石垣が残されています。
三の丸跡に芦城(ろじょう)公園があります。 
園内には小松城三の丸跡の石碑や前田利常像があるようですが、確認していません。
攻城時間は20分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:御幸塚城(今江城) (2022/08/01 訪問)

波佐谷城からの転戦です。付近の空地(36.378363、136.436090)に駐車し、城山公園入口(36.378805、136.436104)から攻城しました。
グーグルビューでは空地だったのですが、昔の映像のようで現地についたら民家の駐車場でした。走って公園入口に向かい、速攻で攻城して、走って帰ってきました。

1335年(建武2年)富樫高家が加賀国の守護職となり、その後築城しましたが、富樫氏が野々市に居館を移すと、一向一揆勢の拠点となりました。
1576年(天正4年)織田信長の武将柴田勝家の家臣佐久間盛政に攻略され、盛政が城主となります。
1580年(天正8年)盛政は尾山御坊を攻め落し金沢城と称します。
1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が討たれると、再び一向一揆が占領しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉に攻められ、落城しました。
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの際、前田家の一部隊がここに布陣し西軍の丹羽長重と浅井畷で戦いました。

市立今江小学校一帯が城跡とされ、南側の城山公園に「今江城趾」の石碑が建てられています。
攻城時間は5~6分くらいでした。次の攻城先=小松城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:波佐谷城 (2022/08/01 訪問)

和田山城からの転戦です。波佐谷公民館駐車場(36.343030、136.481914)に駐車しました。裏手に登城口があります。

築城年代は定かではないようですが、宇津呂丹波によって築かれたと云われています。
波佐谷城の地には、かつて本願寺蓮如の子蓮綱が創建した波佐谷松尾寺があり「三山の大坊主」と呼ばれたそうです。
松尾寺は1531年(享禄4年)超勝寺方によって制圧され消失しましたが、その後に波佐谷城が築かれたと考えられているようです。
1580年(天正8年)柴田勝家の軍勢によって落城し、宇津呂丹波、藤六父子は討ち取られ首は安土に運ばれました。
この後、村上頼勝が小松城主となり、その一族の村上勝左衛門を波佐谷城主としたそうです。

波佐谷公民館のところに案内板があります。時間の都合で登城はパスしました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=御幸塚城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:和田山城 (2022/08/01 訪問)

松任城からの転戦です。資料館駐車場入口(36.442240、136.505159)から進入し車を駐車後、登城口(36.442157、136.505658)より攻城しました。

1506年(永正3年)和田坊超勝寺によって築かれたと伝えられ、それが和田山の起りと云われています。
天正年間(1573~1592年)に越前一向一揆を破り加賀国に侵攻した織田軍により平定され、北庄城の柴田勝家の部将安井家清(左近)が城主となりました。

最初、攻城口からの場所を間違えて古墳の奥(和田山城の北東方向)に進んだ為、城跡を見つけられませんでした。
諦めて資料館駐車場に戻る時、忠霊塔の近くの配置図、説明板見つけました。古墳群の途中にある城山方向の標識に翻弄されました。
資料館駐車場の東に「和田山・末寺山(まつじやま)古墳群」の入口があります。
城跡は和田山古墳群のある和田山の南側部分にあります。本丸の中央に櫓台(和田山9号墳)があります。
全体的に空堀や土塁がよく残っています
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=波佐谷城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:松任城 (2022/08/01 訪問)

安吉城からの転戦です。市民工房うるわし駐車場(36.524987、136.566454)に駐車し、松任城址公園に向かいました。

鎌倉時代初期に松任範光が、築城したと伝えられています。
長享年間(1487~89年)の時に鏑木繁常が松任城主となっています。
1577年(天正5年)鏑木頼信の手取川の戦いの際に上杉謙信が攻略して落城したとも、織田軍によって落城したともいわれています。
1580年(天正8年)柴田勝家が松任城を落城させ、家臣徳山則秀が入城しました。鳥越城主・鈴木出羽守がこの城に呼び出され謀殺されました。
1583年(天正11年)前田利長が40,000石で越前府中から移りましたが、1587年(天正15年)豊臣秀吉の直轄領となりました。
その後、丹羽長重が城主となりますが、関ヶ原合戦後に再び前田利長に加増され赤座吉家が城代となり、1615年(慶長20年)一国一城令により、廃城となりました。

本丸跡は、「松任城址公園」となっており、「松任城本丸址」の石碑や「松任城略年表」の石碑が建てられています。
公園東側に内堀跡、橋が復元されています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=和田山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:安吉城 (2022/08/01 訪問)

岩倉城からの転戦です。白山市山島公民館駐車場(36.483573、136.565549)に駐車しました。

1487年(長享元年)大窪源左衛門家長によって築かれたと云われていますが、定かではないようです。 大窪家長は一向一揆河原組八千騎の旗本で川筋一帯に40,000石を領していたといました。
1550年(天文19年)頃に家臣窪田大炊介に城を譲り、仏門に帰依し浄土寺を建立しました。窪田大炊介はその跡を継ぎ本願寺派に属し、加賀国総代となり一向一揆軍を率いました。
1580年(天正8年)柴田勝家の軍に敗れ窪田大炊介は自刃しました。

遺構は残っていないようで、山島公民館に石碑が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=松任城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ14日目:岩倉城 (2022/08/01 訪問)

鳥越城からの転戦です。遊歩道入口標識付近(36.373968、136.548766)から進入しましたが、辿り着けませんでした。
遊歩道入口標識の200m先を横道に入って200mと間違って判断してしまい、横道に入りましたが進入できませんでした。
鉄門の先には道があるので進入できたら行けたのかもしれません?
後からわかりましたが正解は国道360号線を東に200m行った先に駐車場がありました。
遊歩道入口標識付近に着くまでトンネル工事で待たされたり、GPS座標の投入ミス等、到着時間を大幅オーバ。
心がおれてしまい、登城を断念しました。

築城年代は定かではないようですが、享禄年間(1528~32年)に一向一揆が朝倉宗滴の攻撃に備えて築いたと云われており、 城主は沢米左衛門、家老は勘右衛門・惣左衛門と伝えられています。
1570年(元亀元年)鈴木出羽守の守る鳥越城の出城として三坂峠を守ったようです。1575年(天正3年)織田信長の再度の攻撃により落城しましたが、再び奪還しました。
その後、両軍の最前線基地として攻防を繰り返しますが、1580年(天正8年)鳥越城の落城により、役割を終えました。

攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安吉城に向かいます。

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朝田 辰兵衛

豊川の流線が自然に見えない… (2020/02/23 訪問)

水門跡はちょっと見つけづらいです。水門跡を見落とさないため地図を眺めていると,城の間際まで人工的に(グイっと)豊川を引き込んでいるように見えます。手持ち資料では,川の歴史までわかりませんでした。
治水対策により豊川放水路ができたことで,水位が下がったところまでは想像できましたが…。
この点は,歴史的資料を確認しないと判明しませんので,ここで止めます。

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多賀サービスエリア (2022/09/03 訪問)

 名神高速道路多賀上り線サービスエリア近郊が城址です。土塁が一部残っています。車でサービスエリアに止め見学される方が多いと思いますが、自分は近江鉄道多賀大社駅から徒歩に登城しました。徒歩約15分で行くことができます。

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髙島城 (2022/08/31 訪問)

続日本百名城

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山崎源太左衛門賢家 (2022/09/03 訪問)

 荒神山城を下山して荒神山神社遙拝殿に来ると山崎山城が近くに見えます。徒歩10分くらいで登城口にある駐車場に行くことができました。道は整備されて歩きやすかった。主郭の北側には堀切があり土橋、竪堀がありますが、藪になっていてよく見えません。
主郭周囲に石垣を一部ですが見ることがきます。

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新府城 (2022/08/31 訪問)

続日本百名城

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甲府城 (2022/08/31 訪問)

日本百名城

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躑躅ヶ崎館 (2022/08/31 訪問)

日本百名城

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高取城 (2022/09/01 訪問)

日本百名城

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大和郡山城 (2022/09/01 訪問)

続日本百名城

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宇陀松山城 (2022/09/01 訪問)

続日本百名城

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彦根八景「うみ風渡る荒神山」 (2022/09/03 訪問)

 荒神山は標高284mとありますが、城址である荒神山神社までは林道が整備され車でも行くことができます。ハイキングコースも整備されていて、この日も多くのハイカーが楽しんで登ってみえました。神社の石垣はすばらしいのですが、城として使われた時代のものではないとの情報でした。古墳の近くには帯曲輪と思われるような地形があります。参道に石垣があるとの情報でしたが、どの石垣かよくわかりません。参道は石畳の道ですが苔が生えていて滑ってしまいましたね。帰るときに本坂を下りて荒神山神社遙拝殿に向かいましたが、いつのものかわからない石垣が途中にありました。念のため撮影しました。神社にあった石垣の他に参道などにあった気になった石垣の写真を添付しておきました。しかし、どの時代のものかはわかりません。

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小城小次郎

他のどこでもない。ここが新城だ。 (2022/02/23 訪問)

もともとは長篠城に対する奥平信昌の新城という意味だそう(異説あり)だが「どこの」新城でもなく「ただの」新城であるところが実に潔い。しかもそれがそのまま地名となり平成大合併を乗り越えて今も市の名である。実にいい。

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