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赤い城

緑ヶ丘霊園 (2022/07/09 訪問)

この日は溝の口駅から徒歩。
20分くらいですが最寄は南武線の津田山駅。
緑ヶ丘霊園に城跡があります。
とはいっても石碑と説明板があるのみ。
霊園なので周りは墓地で写真も憚られます。
鎌倉時代からの城で戦国時代には扇谷上杉氏に備える北条氏の城として機能していました。
遺構は残っていないようです。

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チェブ

出直したものの、、、。 (2022/05/06 訪問)

新城市に入ると、緑色の兜に黄色三日月の前立てのマークが目につきました。
市章がまさしく、兜です。
ちょっと、伊達 政宗さんの兜にも似てますが、三日月が小さめサイズです。
長篠の合戦があった町ですからね、カッコいいです。

そして、私のカッコ悪い「新城城」攻めは、Googleまかせ。到着したのは新城小学校の校庭の隅。もう日が暮れて暗く、不審侵入者になってしまいます。
翌日、再訪問しましたが、新城小学校の正門で キーンコーン カンコーンのチャイム。そして、大勢の小学生が休み時間で、校庭に飛び出してきました。
もう、退け退け~と退却しました。

GWで浮かれてましたが、6日は平日でした。
戦で大勢でわーっと攻め掛かられるのって、慌てるものですね。←戦じゃないのに。
小学生たち、全然っ 私には眼中に なかったですけど。

「新城城」の石碑や遺構は見れませんでしたけど、正門は雰囲気があって歴史がありそうです。

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ヒロケン

蘇る戦国の山城 (2022/07/16 訪問)

足助城は標高301mの真弓山の山頂を本丸として、四方に張り出した尾根を利用した連郭式の山城です。真弓山は、足助の街並みを見下ろす要害の地で、15世紀以降に鈴木氏が築城したと考えられています。鈴木氏がいつ頃、足助に入ってきたかは不明ですが、足助を本城として周辺の土豪衆を配下に治め、戦国時代足助地方で権力を奮っていました。16世紀に入ると、岡崎の松平氏(徳川氏)との間で、従属離反を繰り返しますが、1564年以降は松平氏のもとで高天神城の戦い等に、武勲をあげています。その後、1590年徳川家康公の関東入国に従って鈴木氏も足助城を去り、廃城となったと考えられます。(パンフより抜粋)

足助城は、戦国時代の鈴木氏の城を発掘調査により検出された建物跡を、戦国時代の生活を浮かび上がらせるくふうをするということで、数々の建物が復元されています。本丸には高櫓(天守)・長屋、西の丸には西物見台、南の丸は台所の役割をもつ曲輪で、建物2棟、高台には南物見台が、戦国時代の山城をそのままに復元されています。

足助城には7度目の訪問ですが、この季節に行くのは初めてです。と言うのも、真弓山と対面する飯盛山の麓には、愛知県でも指折りの紅葉の名所、「香嵐渓」があり紅葉の季節には、他県からも大勢の方が押し寄せています。
また、足助街道沿いの民家では、3月には雛人形が軒先に飾られ、観光客の目を楽しませています。この、街道からも足助城の高櫓を見ることが出来ます。

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橋吉

本丸から見える外ノ浦は絶景 (2022/07/16 訪問)

まずは、続日本100名城スタンプをもらいに、浜田市浜田城資料館に訪れました。
2019(令和元)年に開館したと聞いていたのですが、なんだか古い建物。
御便殿といって、明治40(1907)年、皇太子(後の大正天皇)が山陰を行啓された際、浜田での宿泊施設として、建築されたものです。
近代和風建築物で、「御殿」と呼んでも差し支えのない規模と構造をもっており、建物自体が大変価値ある上に、展示物もしっかりしており、入場無料には思えない資料館でした。
浜田城に関するVTRも大変参考になりましたが、これはYou Tubeでも見ることができます。

浜田護国神社の駐車場まで車で登りました。
かつては、浜田城の二の丸でした。

護国神社脇から本丸に向かいます。
移築された門は、もともとは津和野藩庁の門でしたが、1870(明治3)年の浜田県設置にともない、その県庁正門として使われていたものです。

いろいろ城をまわってきましたが本丸から見える外ノ浦は一二を争う絶景だと思います。

所要時間:45分

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カズサン

釣鐘門復元工事中登城 (2008/04/27 訪問)

 福知山城の釣鐘櫓門が復元中の情報も有り14年前の平成20年、家族で母の見舞い帰省の途中、中国道から舞鶴若狭
道経由し福知山城に寄りました。
 駐車場は福知山城堀外東側、ゆらのガーデン駐車場を利用。

 コンパクトデジカメの写真データーが30枚ほど残って居ましたので投稿させて頂きます。

 今回は娘は初めてでしたので天守閣に登り、本丸を廻り、釣鐘櫓門は工事の仮設支柱、シートに覆われて良くは分かりませんが平成22年には完成しています。東側の堀に架かってる太鼓橋なる昇龍橋の駐車所側に遅咲きか桜が咲いて居ましたので最後10枚目に掲載します。
 何時の城廻りも楽しいですね❣

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mhina

桜に映える春のひろさき (2020/05/03 訪問)

修理中のため地面におろされ天守閣

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おっちゃん

富田城跡復元鳥観図 (2017/04/01 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

鬼ノ城案内図 (2016/12/24 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

烏城公園案内図、御城内御絵図 (2013/05/10 訪問)

現地案内板より抜粋。

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POYO58

熊野・新宮日帰り旅行③ 新宮城 石垣が特徴的 (2022/07/17 訪問)

赤木城の次に新宮城へ行ってきました。
新宮城は1600年に浅野忠吉が修復工事を行います。そして大坂冬の陣の時、北山一揆が起こり、一揆勢が新宮城を攻めてきますが、熊野川を渡れず、浅野勢の反撃で撤退し、浅野氏の勝利に終わりました。しかし、幕府一国一城令により廃城となります。しかし、浅野忠吉がもう一度修復工事を行い、完成させます。その後、紀州徳川家である水野重仲が入城します。それから相次いで地震が起きて破壊したり、修復を繰り返して明治維新にいたります。そこで廃城令を出され、石垣だけの城となりました。

この城は数カ所枡形虎口が設けられ、とても堅固な城となっています。石垣はほどんど切り込みはぎで登りにくくなっています。(一部野面積みがあります)新宮城は熊野川に面し、和歌山県と三重県のターニングポイントにあります。

和歌山県は日本100名城、続日本100名城が和歌山城とこの新宮城二つしかないので和歌山県としては結構貴重な城です。

評価
遺構:3
行きやすさ:3
全体:3

攻城時間
40分くらい

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赤い城

アメリカ領事館が置かれていた (2022/07/03 訪問)

東神奈川駅から国道1号線を渡ると本覺寺。
そこが青木城跡となります。
遺構はありませんが幕末にはアメリカ領事館が置かれていました。
その石碑はあります。
権現山合戦の後に築かれたとされます。
かつては権現山城とも尾根続きだった僧ですが今では見る影もありません。
ただ、本覺寺からは線路越しに権現山城を望め、往時のイメージはできるかもです。

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チェブ

説明板に目を凝らす。 (2022/05/05 訪問)

前回、投稿した「牛久保城」から国道151号を「長篠城」方面に進みます。途中に「牧野城」がありました。
皆さんの情報通り、ビニールハウスと「牧野城」が共存してました。
土塁も高く残ってます。
説明板がありました。背の低い草木が土塁を覆い進入を拒み続けてます。
説明板を読もうと、目を凝らしてみると、4代将軍 足利 義持さんの命で讃岐国から移った、牧野氏の最初のお城なんだそうです。
「今橋城」(後の吉田城)に移ると廃城しまいました。
私は牧野氏の、新しいお城からお邪魔した事になりますね。
因みに、足利 義持さんは9歳で4代目を就任しました。お父様も御健在なので、苦労したのではないでしょうか?
、、、感染症が原因で亡くなってます。お尻のイボが、、、。
失礼しました。大きく脱線しました。

「牧野城」は広かったようです。大きな土塁から推測できます。宅地と農地の開発の波は、土塁が阻止してます。

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千種顕経 (2022/07/23 訪問)

 南北朝時代の公家、千種忠顕の子、顕経が築いたとされています。案内板のある所にある階段を上がっていくと東西の二郭があり、その間には堀があり土橋でつながっています。東郭は藪になっていますが、西郭には石碑があり土塁を見ることができます。西郭の石碑の裏には、大空堀があります。一番の見どころと思える見事な空堀ですが藪になっていて少し残念な状態でした。大空堀には踏み跡があり容易に降りて行くことができます。

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菰野町立菰野小学校 (2022/07/23 訪問)

 菰野小学校付近が跡地です。学校の南に石碑と案内板があり、近くに角櫓跡の案内板を見つけました。石碑しかないかと思っていたので、土塁、堀跡の存在に気が付いていませんでした。

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カズサン

【安芸・大和ミュージアム】広島県呉市 戦艦大和10分の1模型展示 (2008/08/02 訪問)

 広島出張の後同僚仲間と夕食懇親の翌日、JR呉線で呉れに向かう、平成17年4月に開館した大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)を訪ねたいと、14年前の平成20年8月上旬、呉駅を降りて港の方に約500m程歩き初入館しました。
 住所:広島県呉市宝町5番20号  駐車場有普通車65台

 城びと投稿どうかなと思ったのですが、城、古戦場、武器、要塞などの繋がりも有るかなと、来月には戦後77年になる現在です、安芸の城廻りの途中にでも、寄って頂いたらと投稿致しました。

 10分の1の戦艦大和模型でも、迫力ある模型展示です、コンパクトデジカメの広角いっぱいにしても、収まり切れず、部分部分の撮影、2階から展示を眺めるとかしますが、上手く撮れません。1階から4階と廻り展示コーナ閲覧、ゼロ戦の実物の展示も有り、大和など戦艦使用の砲弾等の展示も有りました。
 野外展示では大和波止場に戦艦大和デッキを模した実物大展示も有り砲塔の大きさも実感し、呉軍港の潮風に当たりながら、係留されてる海上自衛隊艦船、海上保安庁艦船を遠く眺める事も出来ます。
 
 又大和ミュージアムの北前に「てつのくじら館」(海上自衛隊呉史料館)も有り機雷掃海と潜水艦あきしお艦内見学も出来ます、狭い艦内でしたが初めての経験、見れる所を見学しました、国家機密潜水艦の内部見学を公開して良いのかなと思いながら、楽しく見学。

 戦艦大和の模型10/1を見学して大変満足な探訪でした、拙い写真ですが思いを見て頂けたら幸甚です。

 
 

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にのまる

浦ノ城(福岡県太宰府市・浦ノ城公園) (2022/06/08 訪問)

西鉄太宰府駅から徒歩圏、少弐氏居城跡と伝わる住宅街の小さな公園で、説明板、区画整理の碑のほかに祠などがありました。城びと未登録城址です。
ここから先、基肄城で使わなかった時間と体力を使って、写真⑥の『←』の城へ向かいました。

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橋吉

龍福寺 (2022/07/16 訪問)

南北朝時代の1360(正平15/延文5)年、大内弘世はに本拠を山口へ移転しました。
このときの居館跡が大内氏館で、「西の京」とよばれた山口の街に似つかわしく、城ではなく館として建てられたそうです。

毛利隆元は、山口進行後、大内氏の菩提を弔うために、館跡に龍福寺を移しました。
現在も龍福寺の境内でありますが、復元された池や建物跡が見られます。

また、龍福寺資料館もありますが、内容的に大したことことなく、200円は高いかな?
一番すばらしいのが、入り口に置かれた大内義興像だったりします。

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橋吉

糸米川砂防園の駐車場から歩きました (2022/07/16 訪問)

高嶺城は、1556(弘治2)年、戦国大名大内氏最後の当主、大内義長によって築城がはじまりました。
しかし、1557(弘治3)年、毛利氏が山口に侵攻しはじめ、義長は未完成の高嶺城を放棄して長門国の且山城へと逃れ、その地で自害することとなりました。
大内氏滅亡後、高嶺城の築城は毛利氏によって再開され、完成することができました。

木戸神社西から山道を740kmクルマで2分、糸米川砂防園の駐車場にとめました。
三段あり20台くらいとめられそうでした。
ここから1500mは、緩い登りの舗装路を歩きました。
クルマで行けなくもなさそうでしたが、待避場所はなく、すれ違いができないので歩くべきです。
案内板にも「歩くこと」と手書きされていました。

ようやく電波塔まで23分かかりました。
ここはすでに、城内です。

霧雨の中、曲輪を一通りまわって所要時間約1時間30分でした。

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小荷駄

勝沼氏館 (2022/07/17 訪問)

駐車場は館跡北側旧甲州街道沿い古屋ぶどう園さんのとなりでした。トイレは館跡入口に休憩所て併設されており中にパンフレットが有りました。下草は綺麗に刈りとられていてしっかりと維持管理してありました有難いです。遺構は東側北側の土塁と堀は見応えがありました。館内も建物跡や工房跡水路跡など分かりやすくなっていて説明板や発掘調査で出土した品の写真パネルなどもあり充実した内容で一時間半ほど行ったり来たり暑さも忘れて散策して来ました。

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しだみゅう

松本城 (2022/01/01 訪問)

絶妙なバランス

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