でわまるおかじょう

出羽丸岡城

山形県鶴岡市

別名 : 丸岡城
旧国名 : 出羽

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北側水堀
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朝田 辰兵衛

todo94さん,ご返信ありがとうございます。 (2023/01/14 訪問)

todo94さん,ご返信ありがとうございます。フライングのカズサンさんに気を使われたのでしょうか…。考える気が失せたか…?
ま,私としては,todo94さんが「暫く考えてみます」とのことでしたので,じっくり待つスタンスでいました。よって,この投稿にて解答します。
解答は,「出羽丸岡城」!
この城の最初の投稿がtodo94さんでした。一番最近の投稿はチェブさん。カルビンさんは鶴岡駅からのレンタサイクル情報を書き込まれていました。たぶん,チェブさんとカルビンさんはわかっていたのでは…と,推察します。
詳細情報は,先日のカズサンさんの投稿を参照ください。全くそのとおりで,北側の水堀を西側から撮影した画像になります。冬場の景色ということで,水堀の水位が上がり凍っています。これだけで印象が変わるかと思います。
実は,藤棚橋のある大手側(東側)は,全然除雪してなくて,吹き溜まり放置状態でした。土塁上を通って大手側に出ました。今なら,私がつけた道が残っているかと思います…<笑>。
なお,清正閣エリアは,ほとんど積雪がありませんでした。

にのまるさん,瞬殺でしたね…(ホントは私がこうなると思ってました)。実は,私もすぐわかりました。たぶん,野口雨情の歌碑から跨線橋を渡っている途中に見える景色かと思います。

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カズサン

加藤忠広公配流の地・出羽丸岡城跡 (2018/04/16 訪問)

 朝田辰兵衛さんがtodo94さんへ「この城はどこ?」と瞬殺希望の1月16日投稿(1月14日訪問)と成って居ましたが、todo94さん、にのまるさんも夫々反応が1回有りましたので、皆さんで投稿交流もいいのかな?と割り込んだ形ですが推定回答いたします。

 投稿写真は出羽丸岡城の北側水堀を西から俯瞰した写真と推定します。

 この出羽丸岡城へは5年前の平成30年(2018年)4月16日訪問して居ます、出羽未踏の城廻りで15日は70歳の誕生日、山形駅前のスナックで同年のママとお客さんで祝ってもらい、翌日月山麓の道ではみぞれ交じりでノーマルタイヤの愛車で冷や冷やした思い出が過って来ます。

 朝田辰兵衛さんの写真を見て、出羽丸岡城と佐久の伴野城が頭をよぎましたが13重の石塔が目に入り、出羽丸岡城の脳内メモリーには石塔のイメージが無く、城びとの昌官忠さんの投稿写真で石塔を確認、私の撮影写真でも石塔を確認し、此処だなと推定に至りました。

 出羽丸岡城は加藤清正公の嫡嗣忠広公の配流先、曇りで雨模様気味と物悲しい気持ちにも成った所でした、でも桜は綺麗に咲き出羽山地の残雪に相まって物静かでも綺麗でした。

 割り込んで申し訳ない、でも出羽丸岡城跡を5年振りに振り返る事が出来て楽しい事でした。
 

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チェブ

加藤 清正さんのお墓の巻。 (2020/09/21 訪問)

「丸岡城」の予習もせず、車を走らしていると道路脇に多きな「加藤 清正公 墓所」の案内板を見かけました。
「丸岡城」に到着するとお隣の天澤寺が清正さんの墓所のようです。

清正さんが亡くなり忠広さんが庄内藩の酒井家にお預けになりました。30歳代の頃です。
理由は忠広さんの息子 光広さんが謀反の連判状を作って遊んでたそうです。光広さんは蟄居し翌年に病死します。
他にも忠広さんが徳川 家光さんの弟と仲が良い等々です。
次男 正良さんは真田家にお預けの身になりました。
後に父、忠広さんが亡くなると正良さん自刃ました。

清正閣という小さなお社の下からは 加藤 清正さんの甲冑が出てきたそうです。
清正閣で使われている石は熊本産です。
遺骨は「丸岡城」でもある忠広館の庭に埋葬したようです。
忠広さんのお父様への想いが強いです。
清正さんの朝鮮出兵の時の虎退治は有名です。石製の、かわいい虎がいます。清正さん、虎之介ですしね。
そして、酒井家の懐が深いって思いました。

実は「丸岡城」より清正さんのお墓の方が観光客が多かったです。
さすが、加藤 清正さん!です。

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チェブ

秀吉さんに反発した百姓と豊臣恩顧の加藤家。 (2020/09/21 訪問)

山形県鶴岡市の「丸岡城」で、加藤 清正さんの名前を見つけビックリしました。

前に投稿した「尾浦城」城主 大宝寺氏の弟、丸岡 義興さんが築城したようです。
山形県鶴岡市のお城は、だいたい豊臣 秀吉さんの検地に反発して、やっつけられてしまってます。
尾浦家が滅亡すると上杉家→最上家→一国一城令で廃城しました。
庄内藩 酒井氏の領地になります。
そして、加藤 清正さんの子 忠広さんが11歳で家督を継ぎました。
いろいろ事件があり熊本から庄内藩にお預けの身になりました。
事件の内容を読むと、忠広さんが若いからって言うより、豊臣恩顧の加藤家が邪魔だったんだと思いました。

「丸岡城」は丸岡城跡史跡公園です。
忠広さんの館を「丸岡城」に建てたので、館跡の方が想像できました。
土塁や水堀があります。芝生が青々して穏やかな気持ちになりました。
と、写真④⑤⑥を見つけ忠広さんが 、どのような気持ちで熊本から来たのか、どんより。
メジャーなお城、そうでない お城。
メジャーな武将、そうでない武将。
たくさんの武勇伝と、選ぶ事が許されなかった生き方を覚えておこうと、改めて思いました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 押切備前守
築城年 戦国時代
主な城主 押切氏、丸岡氏、武藤氏、上杉氏、最上氏、酒井氏
廃城年 元和元年(1615)
遺構 土塁、堀
指定文化財 県史跡(丸岡城跡及び加藤清正墓碑)
再建造物 石碑、説明板
住所 山形県鶴岡市丸岡字町ノ内68他
問い合わせ先 山形県文化財保護推進課
問い合わせ先電話番号 023-630-3341