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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:勝間田城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の3城目は勝間田城です。
小山城から転戦。城址駐車場(34.781425、138.159098)に駐車しました。登城口まで徒歩10分くらいかかりました。

鎌倉時代初期からこの地を領した勝間田氏が南北朝時代に築城したとされているが、詳細はわからないようです。
1476年(文明8年)勝間田氏は横田氏とともに見付で今川義忠と争って敗れ、勝間田氏は一族離散となって滅亡したそうです。
その後、戦国時代に遠江に侵攻した武田氏によって、北の曲輪(二の丸)一帯が改修・増築されたと考えられています。
現在城址には縄張りがほぼそのまま現存しており、中世山城と戦国時代の山城それぞれの特徴がよくわかる遺構が良好に保存されています。

県道233号に勝間田城の看板があり判りやすいと思います。駐車場があり5台くらい停められます。
綺麗なトイレがあり、トイレのポストにパンフレットがあります。アスファルトで舗装された道を歩いて10分程で城址に辿り着けます。
たくさん写真を撮りましたが、強雨の為、ほとんどの写真に大きな雨粒が写り込んでしまい投稿できません。
攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:小山城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の2城目は小山城です。
相良城から転戦。駐車場入口(34.778582、138.2478)から侵入して駐車しました。

小山城の築年は不明ですが、武田四天王のひとり馬場信春によって築かれた城で、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされます。
今川義元が桶狭間の戦いに敗戦して以降、武田信玄と徳川家康は、大井川を境界として駿河を信玄、遠江を家康が領有することを約束していました。
しかし1568年(永禄11年)12月、信玄がその約束を破って侵攻し、今川氏真を討って山崎の砦を攻略します。
対して家康は松平真乗に城砦周辺の領地を与え、1570年(元亀元年)4月に城砦を落とすことに成功します。
1571年(元亀2年)2月、甲州から2万5,000人の兵を率いて攻め入った信玄はこれを真乗から奪取して「小山城」と名付け、大熊朝秀(長秀)を城主におき遠州攻略の拠点としました。
それまで小規模の城砦にすぎなかったものが、武田方の改築によって本格的な築城がなされたとされています。
小山城築城は大井川西方の防衛ラインを形成し、武田方にとって高天神城攻略の為の拠点となり、信玄は三河にて足助、田代、二連木を取ったとされます。
武田勝頼が長篠の戦いに敗退、諏訪原城も落城し、残兵が逃げ帰った先が小山城でした。
勢いに乗った徳川軍は小山城を攻撃したが、城番の岡部元信らの防戦により落城は免れた。小山城は堅牢であったため、滝堺城を通じて武田方の最前線である高天神城への補給路の要となっていました。
これに対し徳川軍は、城の南方にある吉田田んぼの青田刈りで食糧攻めを行い、1581年(天正9年)3月に高天神城が落城、翌1582年(天正10年)2月に織田・徳川軍による甲州征伐が開始されると、戦況をみた兵たちは城を捨て小山城は自落したそうです。

現在は能満寺山公園として整備されており、甲州流築城術の特徴である丸馬出し、三日月堀が史料を元に復元されています。
また、かつて物見台があったとされる三の丸跡に犬山城天守をモデルにした模擬天守(展望台小山城)が建てられています。
たくさんの写真を撮りましたが強雨の為、ピントがずれたもの多く残念。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:相良城 (2021/07/02 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の1城目は相良城です。
牧之原資料館P(34.685970、138.198127)に駐車しました。

相良城は1768年(明和5年)老中・田沼意次によって築かれました。
その前身は甲斐国武田氏によって築かれたもので、後に徳川氏の領する所となり、鷹狩りに使用する「相良御殿」となっていました。
江戸時代になると陣屋・城主格の大名が次々と入れ替わったが、本格的に城が築かれたのは、将軍の側用人から後に老中まで出世した田沼意次によってだそうです。
田沼は老中時代に5万7000石を領していたが、老中を辞して失脚すると家督を継いだ孫の意明は陸奥国下村で1万石となり、相良城は破却されました。
1823年(文政6年)意次の二男意正が相良に1万石を与えられ、相良城の二の丸に相良陣屋を築き明治まで続きました。
1868年(明治元年)徳川宗家が駿府70万石に移ったため、相良藩田沼意尊は上総国小久保へ転封となって移ったそうです。

朝早いので牧之原資料館は開いていませんでした。どしゃぶりの中、石垣を見落としました。
史料館前に、田沼意次像と徳川家達書の城址碑がありました。そこから、徒歩で約5分のところの相良小学校校門のところに、土塁と松がありました。
攻城時間は20分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

廃城を知らぬが如く聳え立ち

これまでも、これからも。。。

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にのまる

【お城川柳】

願わくは平和の徴となりますよう

このすがたのままで。

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赤い城

富士山と相模湾の眺めが良い。 (2021/07/18 訪問)

港に駐車場があり石碑と説明板が立っています。
登城口から登ると第四曲輪と第三曲輪の間の堀切に出ます。
第三曲輪と第二曲輪の間の堀切には跳ね橋があったとされています。
第二曲輪には土塁が残り、主郭との間にも堀切の跡。
展望台も建っていて富士山と相模湾の眺めは絶景でした。
主郭から相模湾に向かい、段になった腰曲輪がありました。
南側には竪堀が一条、その下には安宅船の船族が復元展示されています。
北条氏が武田水軍に対する防衛拠点として機能し、梶原景宗が守った城です。
整備もよくされていて歩きやすい城でした。

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小城小次郎

難読地名はさすがに由緒正しき地名のようだ (2021/05/02 訪問)

周匝を「すさい」とすらすら読める人は地元の方か難読地名に強い方だろう。スサノオ伝説≒砂鉄(スサ)生産地に由来する由緒正しき地名なのだそうだ。模擬建築に惑わされることなかれ。いい遺構が残っている。

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まっぴー

【お城川柳】お城好きあるある?

①外眺め 見えた地形が 城のよう 

ドライブなどでぼーっと外の景色を見ている時、土の盛り上がりだったり、凹みを見ると、ついつい土塁や堀に見えてしまいます。
もう城好き末期なのかもしれません。(笑)

②楽しみは 城巡り前の 計画時

城巡り中はもちろん楽しいですが、なんだかんだ、どこに行くかを考える計画する時間が一番楽しいんじゃないかと感じる時がよくあります。

③予定なし それでも常備 スタンプ帳

たとえお城に行く予定がなくても、スタンプ帳はいつの間にかバックに入れてしまっています。
いつでもバックに入っていないと不安になってしまいます。

④虫苦手 それでも城なら 平気かも!?

相当虫は苦手ですが、お城のためなら山城の草むらにでも突っ込んでいけます。
好きって凄いですね。(笑)

以上4つの城好きあるある川柳を作ってみました。
自分のことで作ったので「それはないでしょ!」というものはあるかもしれませんが、皆さんは当てはまるものがありましたか?あったら嬉しいです。

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ぴーかる

ありがとうございます

「いいね」を押していただいたフォロアーの皆様、
にのまるさん 朝田辰兵衛さん お祝いのお言葉・祝桜の御写真ありがとうございます。とても嬉しいです。

 一級の受験に際して城びとの皆様方の投稿や記事・特集で得た情報や知識が大変役立ちました。当サイトがなかったら到底無理だったかと思います。加齢による記憶力の低下でなかなか覚えられず苦労しました。一級合格が一つの大きな目標だったのですが、これからも日々精進してまいりますので今後もよろしくお願い致します。

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にのまる

【お城川柳】

夏の日に突如現る模擬天守

2021年TOKYOの夏は…。

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イシテル

【お城川柳】

コロナ禍も 厚いもてなし 城施設

観光客が少くなり、閑散とした城施設に入ると、展示品をご説明いただいたり、多くのパンフレットをいただいたりと、厚いもてなしを受けてます。感謝、感謝。
コロナ禍で対応が大変な全国の城施設を応援します。

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にのまる

【お城川柳】

人流について行ったら違うとこ

みんなお城に向かっているのだと思ったら違った。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:朝比奈城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の22城目は朝比奈城(5日目ラスト)です。
八幡平城から転戦。旧妙音庵薬師堂駐車場(34.661632、138.145264)に駐車しました。

朝比奈城の詳細は定かではありませんが、小笠原与八郎長忠の家臣である曽根孫太夫長一の居城と伝わっています。
長一は高天神衆のひとりとして、武田勝頼が高天神城を攻めた際には本丸に入って守備しましたが落城後は大須賀康高に仕えたようです。
現在城址には堀切などの遺構を確認することができるようです。

薬師堂隣接の金比羅神社お堂の右背後を登ると1分で尾根筋に到着するとのことで、トライしましたが、雨でぬかるんだ斜面で滑ってしまい下半身泥だらけになり撤退しました。
攻城時間は15分くらいでした。

5日目の攻城徒歩数=19796歩、攻城徒歩距離=15.44Kmでした。(本日の攻城は雨に祟られました)

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:城びと未登録(静岡県御前崎市)八幡平城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の21城目は八幡平城です。
横地城から転戦。八幡平城説明板(34.682472、138.130613)に駐車しました。大手道登城口のGPS座標は(34.682196、138.129327)。

八幡平城の詳細は不明ですが、この地の土豪である新野氏の居城だったと推定されています。
新野氏は室町時代中期から後期に舟ケ谷城(新野新城)を築きましたが、その後も詰城として維持されました。このため新野古城とも呼ばれます。
天正年間初期に武田勝頼によって、高天神城への軍道の抑えの城として改修されましたが、1581年(天正9年)に高天神城が落城するとともに廃城になったと考えられます。
現在城址には連続堀切や馬出しなどの遺構が残り、武田氏独特の築城術を確認することができるようです。想慈院の駐車場に説明板が建てられています。

事前調査だと攻城時間は45分くらいかかりそうなのと雨の為、攻城を諦め、説明板の写真のみを撮って撤収しました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:横地城 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の20城目は横地城です。
斯波武衛邸宅から転戦。千畳敷(34.727308、138.115574)に車を駐車しました。

南北朝時代に10代・横地家長が城を築いたとされます。以後、14代・横地秀国の代に滅ぼされるまで、横地氏の本拠地でした。
1476年(文明8年)今川義忠に焼き討ちされ落城。城主横地秀国は討死しました。現在はわずかな遺構が残るのみです。

千畳敷で雨が止むのを暫く待ちましたが、止む気配はなく、かえって強くなった為、諦めて撤退しました。千畳敷まで車で上がれますが、かなり道が狭いです。
攻城時間は20分くらいでした。(ほとんど雨待ち時間です)

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:城びと未登録(静岡県菊川市)斯波武衛邸宅 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の19城目は斯波武衛邸宅です。
藤丸館から転戦。標柱前(34.725877、138.108782)に路駐しました。

築城年代は定かではないが室町時代中期に横地氏によって築かれたと云われています。
1441年(嘉吉元年)今川氏が遠江国を横領したことによって、遠江国守護の斯波武衛が下向、この時に横地氏が武衛家を向かえた所といわれています。

雨の中、車の中から写真を撮りました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目:城びと未登録(静岡県菊川市)藤丸館 (2021/07/01 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り5日目の18城目は藤丸館です。
黒田代官屋敷から転戦。説明板前(34.724996、138.106370)に路駐しました。途中、横地一族の墓(34.725395、138.105203)があります。

築城年代は定かではないが室町時代中期に横地氏によって築かれたと云われています。
1476年(文明8年)今川義忠よって横地氏・勝間田氏は見付城を攻められ横地秀国は討死します。その遺児が藤丸と伝えられています。

攻城時間は5分くらいでした。

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うっちー幸村

【お城川柳】

想像で ビル街狙って 射撃する

ついつい妄想が進みます。

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うっちー幸村

【お城川柳】

在りし日に 栄華を極めた 天守閣

在りし日の姿を想像し。

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うっちー幸村

【お城川柳】

ゆうゆうと 武骨にそびえる 高石垣

かっこいいですよね。

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