(20人目)「山内一豊」の続きです。
山内一豊と言えば、本人より妻「千代」の事を思い浮かべる人の方が多いのではないでしょうか? 大河ドラマ「功名が辻」でも有名になりましたよね! 私個人としてはゴクセンより千代役の仲間由紀恵さんの方が好きです(そんな事はどうでもよい!😩)。
高知城の追手門を入ると右手に千代の銅像があります(写真①②)。また本丸御殿には、実際に仲間由紀恵さんがドラマで着用したという着物も展示されていました(写真④)。
千代は郡上八幡城主「遠藤盛数」の娘と伝わっています。そう言えば岐阜城を訪れた時、一豊と千代が婚礼をしたという場所がロープーウェイの下にあった事を思い出しました(岐阜の写真⑤⑥)。
一豊がまだ信長の一家臣であった頃、馬揃え(出陣前の馬の検分)があるも一豊はいい馬を持っていませんでした。馬売りが連れてきた見事な馬を見て欲しいと思うもお金がありません。それを見た千代は父の盛数からもらった大切な10両(=250万円)を一豊に渡したとのことです。その見事な馬が信長の目を引き、一豊は信長から一目置かれるようになったそうです。また小山評定の時には、大坂の様子を一豊の元へいち早く知らせ、大坂に人質となっている自分の事は構わず家康様に忠義を尽くすようにとの手紙を書き、それが小山評定の最中に家康の目にとまったようです。これで妻子の事を心配していた他の諸将たちも家康につく事を決断できたとか・・・ 掛川城を差し出した件とこの二つの内助の功で一豊は出世できたようです。
一豊は当時としては珍しく側室を持ちませんでした(それだけ千代の事を思っていたという事ですね🤔)。しかし千代との間に男子には恵まれませんでした。一豊が1605年に没した後、一豊の弟康豊の子である忠義が家督を継ぎます。千代は見性院と名乗りしばらくは後見人となり、忠義の成長を見届けた後、京都妙心寺の近くに身を寄せ1617年に没したそうです(享年61)。
次は(21人目)に続きます。
【余談】二十四万石御膳
夜に「はりまや橋」にある店に入り、名物「二十四万石御膳」なるものを食べてみました。高知名物「かつおのたたき」「まぐろの刺身」「まぐろ丼」「土佐地鶏」などがセットになったボリューム満点の定食で大満足(大満腹)でした!😊(写真⑦)。
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