日本100名城 現存12天守

こうちじょう

高知城

高知県高知市

別名 : 大高坂山城、河中山城、鷹城、高智山城
旧国名 : 土佐

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高知城
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トク

52【関ケ原の26人】 (20) 山内一豊 (山内一豊の妻「千代」の物語) (2023/06/10 訪問)

(20人目)「山内一豊」の続きです。
山内一豊と言えば、本人より妻「千代」の事を思い浮かべる人の方が多いのではないでしょうか? 大河ドラマ「功名が辻」でも有名になりましたよね! 私個人としてはゴクセンより千代役の仲間由紀恵さんの方が好きです(そんな事はどうでもよい!😩)。

高知城の追手門を入ると右手に千代の銅像があります(写真①②)。また本丸御殿には、実際に仲間由紀恵さんがドラマで着用したという着物も展示されていました(写真④)。

千代は郡上八幡城主「遠藤盛数」の娘と伝わっています。そう言えば岐阜城を訪れた時、一豊と千代が婚礼をしたという場所がロープーウェイの下にあった事を思い出しました(岐阜の写真⑤⑥)。

一豊がまだ信長の一家臣であった頃、馬揃え(出陣前の馬の検分)があるも一豊はいい馬を持っていませんでした。馬売りが連れてきた見事な馬を見て欲しいと思うもお金がありません。それを見た千代は父の盛数からもらった大切な10両(=250万円)を一豊に渡したとのことです。その見事な馬が信長の目を引き、一豊は信長から一目置かれるようになったそうです。また小山評定の時には、大坂の様子を一豊の元へいち早く知らせ、大坂に人質となっている自分の事は構わず家康様に忠義を尽くすようにとの手紙を書き、それが小山評定の最中に家康の目にとまったようです。これで妻子の事を心配していた他の諸将たちも家康につく事を決断できたとか・・・ 掛川城を差し出した件とこの二つの内助の功で一豊は出世できたようです。

一豊は当時としては珍しく側室を持ちませんでした(それだけ千代の事を思っていたという事ですね🤔)。しかし千代との間に男子には恵まれませんでした。一豊が1605年に没した後、一豊の弟康豊の子である忠義が家督を継ぎます。千代は見性院と名乗りしばらくは後見人となり、忠義の成長を見届けた後、京都妙心寺の近くに身を寄せ1617年に没したそうです(享年61)。

次は(21人目)に続きます。

【余談】二十四万石御膳
夜に「はりまや橋」にある店に入り、名物「二十四万石御膳」なるものを食べてみました。高知名物「かつおのたたき」「まぐろの刺身」「まぐろ丼」「土佐地鶏」などがセットになったボリューム満点の定食で大満足(大満腹)でした!😊(写真⑦)。
 

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トク

51【関ケ原の26人】 (20) 山内一豊 (山内一豊と高知城) (2023/06/10 訪問)

(20人目)「山内一豊」の続きです。
一豊が築城した「高知城」を訪れてきました。
高知駅前から「とさでん」に乗り(写真⑦)「はりまや橋」(写真⑧)で運賃200円を払い乗り換え券をもらって乗り換え「高知城前」で下車すると高知城が見えてきます。

高知城の登城口である追手門(写真③)の向側には「高知城歴史博物館」があります(写真⑨)。ここには土佐藩の歴史や山内家の資料などが展示されています。高知城を見学する前に、博物館を先に見学される事をオススメします(天守とのセット券もあります)。また3階からは高知城を眺められる場所とレストランがありました。私は高知城を眺めながらそこでゆっくりと遅めの朝食をとり、それから登城しました(写真⑩:3Fから見た景色)。

追手門の入口では一豊の銅像が出迎えてくれます。(写真①②:一豊様~!)何とも勇ましい顔です。

そして門をくぐり、板垣退助の銅像前を過ぎると、階段と高石垣がありその上に天守がそびえる、この下から見上げた姿に、私はすでに圧倒されてしまいました(写真④)。攻め入る気持ちで入りましたが、天守まで辿り着く前にここで戦意喪失してしまいました(笑)(さすが一豊様!お見事です)。

一豊は、すぐに掛川から土佐へ入国する事ができませんでした。「一領具足」と呼ばれる長宗我部の残党が一揆を起こし、入国を阻止しようとしたからです(浦戸一揆)。この一揆は、井伊直政の援護を受け、首謀者273名を斬首し鎮静化。やっとの思いで一豊は入国する事ができました。

浦戸城に入ってから3年後、本丸と二の丸が完成し1604年一豊は高知城へ移ります。いつ命を狙われるかわからず、5人も影武者を用意していたようです。だから高知城はこのような強固な作りにしたのかもしれません。しかしその翌1605年、一豊は天守が完成する直前に突然没してしまいました(享年61)。死因は不明とも、何とも皮肉なものです。

一豊はどんな思いで完成した天守を見る事なく、亡くなっていったのでしょうか? 私は高知城の天守に立ち考えてみました(写真⑥)・・・

本当は、この天守が完成したら、そこから高知の町を眺めながら、これまで支えてくれた千代に、一番感謝の気持ちを伝えようとしていたのではないでしょうか?・・・

次は、(山内一豊の妻(千代)の物語)に続きます。
 

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かんちゃん

【かるた】

高知城。

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にのまる

【かるた】高知城の読み札と写真

・武装して かくも麗し 高知城

・このトゲトゲが 目に入らぬか! 高知城

・飛び込み台 みたいな石樋 高知城

・物見窓 チェックされてる 高知城

・積み方が 名刺がわりの 高知城

・天守まで 近そで遠い 高知城


過去の自分の投稿写真を見て思い出しながら考えました。

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概要

関ヶ原合戦後、山内一豊が旧城のあった大高坂山に新たに築いた近世城郭。山頂の本丸と二の丸を分断する堀切部分には、侵入を防ぐ櫓門である詰門が置かれ、その上の渡櫓は家臣詰所と通路になっている。三層六階の望楼型天守は寛延期に再建されたもので、現存する貴重な御殿遺構である本丸御殿(懐徳館)と接続している。

イベント情報

  • 2023年09月16日(土)~2023年12月10日(日)

    高知城

    特別展「高知公園150年 高知城~未来へ伝えたい地域の宝~」

    高知城の公園化が明治政府に承認されてから150年を迎えた節目を記念し、江戸時代の高知城についての特別展を開催。ゆかりの資料や古写真・復元イラストなどを通じて、高知城の築城から焼失・再建、そして廃城・公園化までの歩みを振り返ります。開催日時:9月16日(土)~12月10日(日)9:00〜18:00(日曜8:00〜)観覧料:700円

※ 内容は変更となる可能性があります、予めご了承くださいませ。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 慶長8年(1603)
築城者 山内一豊
主要城主 山内氏
文化財史跡区分 国重要文化財(天守等15棟)、国史跡(高知城跡)
近年の主な復元・整備 山内豊敷
天守の現況・形態 独立式望楼型[3層6階/1601年築/焼失(火災)]、独立式望楼型[4重6階/1749年再/現存]
主な関連施設 石碑、説明板
主な遺構 曲輪、天守、御殿、櫓、門、石垣、横堀(水堀)
住所 高知県高知市丸ノ内1
問い合わせ先 高知城管理事務所
問い合わせ先電話番号 088-824-5701