雨山城は阿知波氏の城とされ、作手の城主奥平貞勝を後ろ楯にして織田方に属し
今川方と対峙していたと宝篋印塔近くの案内板に書かれています。弘治2年(1556)8月、
今川方の野田城主菅沼織部正定村と弟の宇利城主新左衛門、山吉城主半五郎定満らが
長山より風吹峠を越えて攻め込んで来たとあります。(雨山合戦)今川方の三将は
この戦いで討死し、奥平・阿知波方の勝利となりましたが、最終的に今川方の大軍に
阿知波氏は敗れたとあります。雨山城へは主郭の後ろから回り込むように登城道が
ありましたが(21年5月時点)主郭は物見のような郭くらいしか確認できず全体は
不明のままでした。単郭の城郭というよりは砦のようなイメージです。城跡のすぐ近くに
雨山合戦場跡の石碑と、この戦いで討ち取られたという菅沼定村の宝篋印塔があります。
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