ふなおかじょう

舟岡山城

石川県白山市

別名 : 舟岡城、剣城、鶴来城、八幡城、白山城
旧国名 : 加賀

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小城小次郎

手取川扇状地の扇の要 (2023/04/22 訪問)

白山信仰の中心たる白山比咩神社がこの地に創建されたのは紀元前とも言われ、手取川扇状地の扇の要に位置するこの丘は要害である以前に重要な信仰の拠点だった。前田家重臣の高畠定吉が築いた織豊系城郭が植林の中に見事に残る。

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しんしんちゃん

想像以上に広く、手が込んでいる。 (2021/11/20 訪問)

舟岡山城は丘陵地一帯に築かれた平山城(山城)で主要部は南側から南東側にまとまり
北側一帯には広大な外郭が広がり、折れ曲がった進入路がついています。
南東側に続いている道が大手のようで、なかなか立派な石垣が出迎えてくれます。
東側の郭は南北二郭に分かれ、土塁を設け、その間を石垣で補強された立派な土橋で
渡ります。その先に白山比咩神社創祀の地の石碑があります。向かってその西側の郭が
主郭のようで、周囲を石垣で補強された土塁で囲みます。主郭の北側にも折れ曲がった虎口を
持つ郭(四郭)があるようで、主郭の西側にもいくつか郭が続きます。(二~三郭らしい)
入って見ると想像以上に手の込んだ造りになっていて(しかも広い)驚かされます。
舟岡山城は源平の争乱の時代には林六郎光明の居城であったとされ、戦国期には一向一揆の
城として機能していたようです。天正8年(1580)佐久間盛政が謀って守将の若林長門を殺し
城を奪ったとされています。別の資料では柴田勝家が長門と、その子二人を謀殺したと
あるそうなので、信憑性には乏しいのですが、一向一揆の城が織田方に奪われ、改修されたと
解釈してよいのだと思います。この時期には織田方の山城の築城技術(現地改修)もかなり
向上して来ているようです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:舟岡山城 (2022/08/01 訪問)

槻橋城からの転戦です。「白山青年の家」駐車場入口(36.442905、136.633056)から進入し車を駐車後、建物南側に廻り、登城口(36.442197、136.632928)より攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、 織田信長の加賀に侵攻に対応して、白山麓山内衆の大将鈴木出羽守の守る鳥越城への入口を固める為に修築されたといわれています。
1580年(天正8年)織田軍の加賀平定作戦で鳥越城とともに落城したようです。その後は丹羽長秀の家臣早谷五左衛門が城主となりました。
1585年(天正13年)前田利家の家臣・高畠石見守定吉が城主となりますが、1602年(慶長7年)定吉が死去すると、廃城になったようです。

建物南側の登り口に案内図があります。
空堀、土橋、櫓台(石垣あり)、虎口や土塁などが確認できます。
「白山比咩神社創祀之地」の石碑と由来碑が建っている場所は、本丸か2の丸か不明(復元図ではよくわからない)
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=二曲城に向かいます。

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またカモシカと遭遇 (2018/11/09 訪問)

 白山青年の家の裏手より登城しました。土塁や堀が残っていて、所々石垣も見ることができます。11月半ばに行きましたが草が多く茂っていてわかりにくと所もありあました。また案内標識はありましが、曲輪にも場所を示す標識があるといいと思います。もう少し整備していただけると、もっと遺構がわかりやすく、すばらしい城址になると思います。周囲が道路に囲まれたところなので油断しているているとカモシカと出会ってしまいました。他にも遭遇された方いるようなので、城址に住んでいるのでしょうか。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 不明
築城年 天正年間(1573〜1592)
主な城主 若林長門守、早谷五左衛門(丹羽氏家臣)、高畠定吉(前田氏家臣)
廃城年 慶長5年(1600)頃
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(舟岡山城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 石川県白山市八幡町
問い合わせ先 白山市教育委員会文化財保護課
問い合わせ先電話番号 076-274-9579