ひぢかじょう

日近城

愛知県岡崎市

別名 : 名ノ内城
旧国名 : 三河

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しんしんちゃん

麓編 奥平於ふう・貞友公の墓 武家屋敷跡 (2024/03/17 訪問)

今回はお墓の話ばっかりになります。日近城は林道でもいけますが、道がとても悪いので麓の廣祥院あたりから登って行った方が良いでしょう。車で来られた方は日近の里の駐車場が隣にあります。廣祥院の左(西)側に日近奥平氏の墓所が有りました。
寺の右手には武家屋敷跡があり、そのあたりから城址に行けるのですが、周辺で崩落している場所があるので注意が必要です。登城道から一段下がったあたりに於ふうさんの父、貞友公のお墓が有ります。向かって右の崩れているお墓がそうです。
武家屋敷の上段が貞友公が剃髪して居住した屋敷跡になるのですが、その片隅に於ふうさん、その祖母の貞子さん、仙千代さんのお墓があります。コオリ坂で処刑されたあと鳳来寺山麓にさらされた首を於ふうの祖母・貞子が持ち帰って埋葬したと伝わっています。そういえば虎千代の首はどこにいったのか?どこか別の場所に埋葬してあるようです。なんか生々しい話になって申し訳ないです。

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しんしんちゃん

於ふうさんの父・奥平貞友公の城 (2024/03/17 訪問)

日近城は長篠・設楽原の合戦の悲劇の人、於ふうさんの父・奥平貞友の居城です。天正期に徳川方によって改修を受けているようですが、あくまで地方の小城に過ぎず、また挟撃が出来るような城も近くに無いため羽柴の大軍には対抗できなかっただろうと思います。
また貞友公は於ふうさんの首を弔った墓の近くに剃髪して居住しており、そんな可哀そうな人を(家康公が)無理に戦に引きずり込もうとしたかは不明です。
城址近くまで林道が続いていますが、道は悪いし廣祥院近くの日近の里駐車場に車を停め下から歩いて行った方が良いと思います(自車で来られた場合)。ちなみに自分は林道途中の停めれそうな場所に車を停め歩いていきました。帰り道に、行きには無かった新鮮な熊のフンを発見しました(しかも二頭ぶん)。
ちょっとタイミングがずれていたら遭遇していたかもしれないです。今はどこの山でも熊スズは必須のようです。城址の話に戻りますが、本丸の西側に曲輪を二つ配しており街道が良く見えます。本丸には土塁が残っており南側には馬走りが東西に伸びています。本丸東には堀切が二つありその先はトイレになっており、トイレの状態はなかなか良い方です。堀切の間は大きな土塁が横たわり二つの堀の間を四方に遮断しているようですが土塁の上は確認していません。

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小城小次郎

人質の命と引き換えに (2022/02/23 訪問)

日近には日近奥平氏がいたが日近城の縄張は地方小領主のそれではないようだ。人質おふうの命と引き換えに徳川への忠誠を誓った見返りに、徳川が武田の攻撃にも耐えうるお城を日近奥平氏にプレゼントしたと考えたら考えすぎか。

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キンヤ

コンパクトながらテクニカルな遺構が良く残る城 (2021/03/07 訪問)

日近奥平氏の城ですが、発達した構造であることから、天正期の徳川氏による改修ではないかともいわれます。

二の曲輪への虎口から本曲輪南西下の帯曲輪への虎口の間は城道がクランクしています。
また、本曲輪を囲む土塁は東側で屈曲していますし、本曲輪の北東下と北西下には横堀があり、確かにテクニカルな縄張りです。

帯曲輪東側の土塁は大きく、その大土塁と本曲輪の間の堀切も大きく、見応えがありました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 奥平貞昌
築城年 文明10年(1478)
主な改修者 奥平貞直
主な城主 奥平氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、土塁、堀切
指定文化財 市史跡(日近城跡)
再建造物 説明板
住所 愛知県岡崎市桜形町般興
問い合わせ先 岡崎市教育委員会事務局社会教育課文化財班
問い合わせ先電話番号 0564-23-6177