ひだじょう

肥田城

滋賀県彦根市


旧国名 : 近江

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①肥田城跡碑1
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)16日目:肥田城 (2024/10/07 訪問)

越川城(城びと未登録 滋賀県彦根市)から徒歩10分ちょっとで、城跡説明板前(35.201349、136.207394)に着き、その後、土塁豪跡(35.199217、136.205128)➡水攻堤(35.206342、136.204678)の順番で廻りました。

築城年代は定かではないようですが、大永年間(1521年〜1528年)に六角氏配下の高野瀬隆重によって築かれ、隆重・秀隆・秀純(秀澄)が居城としたと云われています。
高野瀬氏は代々六角氏に仕えていたが、高野瀬秀隆の代に浅井氏に付き、1559年(永禄2年)の「肥田城の水攻め」、1560年(永禄3年)の「野良田表の合戦」の2度にわたり、六角定頼・義賢(承禎)父子に攻められました。六角義賢は城の周囲に土塁を築き、肥田城を水攻めにしたが、土塁が崩れ、水攻めは失敗に終ったそうです。
浅井氏が織田信長によって滅亡すると、高野瀬秀隆は柴田勝家に仕えますが、1574年(天正2年)越前一向一揆に敗れて自害したそうです。
その後、1574年(天正2年)蜂屋頼隆が城主となり、1584年(天正11年)には長谷川秀一が城主となりますが、長谷川秀一が朝鮮の文禄の役で病没すると廃城となったそうです。

城址は、田んぼの中にあります。山王祠があり、城跡碑、説明板もありました。
移動時間を含め、攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=山崎山城へは徒歩で向かいました。

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カズサン

水攻め合戦の肥田城 (2024/06/24 訪問)

 近江未踏城廻りで肥田城を初登城しました、水田の中に城址小公園が有り案内板、石碑、駐車場が揃っており大変ありがたい。

 駐車場:グーグルマップの肥田城跡マーク地(35°12'05"N 136°12'27"N h=100)、肥田城跡小公園約1反くらいの広さ余裕有り。
 参考資料:城郭放浪記さん城びと投稿の皆さんグーグルマップに依る。

 グーグルマップの肥田城跡目標に合わせて到着、新しく小公園として整備されたらしく駐車場がよく整備されている、北西奥に山王祠が祀られている。また大きな自然丸石に肥田城跡と刻んだ石碑(H22.11、記)、整備されて14年経っていたのですねでも真新しく感じます、肥田城跡の案内解説板、小解説板も有り分かり易くなっています。
 県道204号線から駐車場へ入る時にチラッと見た城名碑と小案内板の確認探訪から開始、ここは県道204号線北側沿道沿いに肥田城跡石碑と小立案内板がある、ここは城びとの肥田城指示マーク地となります。
 そこから県道を西に戻り南西に約150m進み、住吉神社の斜め南にグーグルマップ史跡マーク地肥田城土塁豪跡が在り、土塁と改修されていますが堀跡を確認できます、後で案内板の肥田城跡地図を確認したら南西角の土塁と濠らしく、ここ辺りを起点として南側に環濠土塁が約480m東に伸びて北にクランクして約280m環濠土塁が続き宇曽川に繋がっていた様です。
 そこから戻り県道204号線へ、東へ進み城郭放浪記さんの肥田城マーク地である肥田町公民館へ駐車場も有ります、月曜日で休館、案内板に解説シートを置いてありますと有りましたがゲットできず、公民館隣の歴史資料館・崇徳寺へ山門が茅葺で趣がある、中に入って肥田町歴史ロマンロードめぐりMapが張って有り撮影、崇徳寺は歴代城主菩提寺の様です。西町大通りに出て宇曽川に架かる高橋より上流下流を眺める、高橋の南に豊穣の石碑、城下町肥田の立小看板、肥田町歴史ロマンロードめぐりマップ大案内板が有り、西町大通り東町大通り登町大通りの通りと町屋往来は昔のままだそうです。
 駐車場に戻って車で、北西に在るグーグル史跡マーク「肥田城水攻堤」聖泉大学の北側に在ります、そこには立派な自然石「史跡肥田城水攻堤」碑と小立看板がり堤も確認。秀吉の水攻めより早い段階で堤を築いて水攻め合戦が有った様で新知識を得ました。
 
 案内解説板によると
 肥田城は土着の豪族高野瀬隆重が六角氏の命により築いたと伝えられる平地城館です。以後長く六角氏の配下にあった高野瀬氏でしたが、秀隆の代に浅井長政と通じます。そのため、永禄2年(1556年)の「肥田城の水攻め」、翌年の「野良田表の合戦」と2度に渡り六角承禎の大規模な攻撃を受けましたが、浅井方の援軍により勝利。
 高野瀬秀隆亡き後、肥田城には織田信長・豊臣秀吉の下で蜂谷頼隆・長谷川秀一が城主となって活躍しますが、秀一の病死とともに廃城となる。
 江戸時代になり、肥田城の中心部は開墾されて「上新田」「下新田」の美田に生まれ変わります、その周辺の寺社、登町、西町、東町は城下町の町屋が整備された区域でした、今も名残があります。
  

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しんちゃん

土塁が残っていた (2023/12/02 訪問)

近くまで寄ったのでまた肥田城に行ってきました。前回大きな方の城址碑と土塁を見損ねてしまったので、もう一度行かねばと思っていたのです。肥田城の土塁跡は石碑の南東約250mあたりにある住吉神社の近くにありグーグルマップにも記載されています。
最近城びとの城がグーグルマップに出ていることが多く助かるのですが、グーグル関係にマニアでもいるのでしょうか。肥田城の土塁なんてよほどのマニアじゃないと興味はないはずですが‥。肥田城は六角氏の命により高野瀬隆重が築いたとされています。
高野瀬氏は秀隆の代に浅野氏に通じて六角氏に攻められますが浅野氏の援軍によってこれを打ち破っています。一度目は永禄2年(1559)の「肥田城の水攻め」で二回目は永禄3年の「野良田表の合戦」になります。(by現地案内板)

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しんちゃん

六角氏家臣 高瀬野氏の居城跡。城址碑は二つあり。 (2023/04/09 訪問)

肥田城は宇曽川を隔てて隣接する高野瀬城を本拠とする土豪、高野瀬隆重が
六角氏の命により築いたと伝わる平地城館です。(彦根観光ガイドより)
このあたり畑地や公民館を中心に平城が広がっていたようですね。
どうやら城址碑は二つ存在するようです。公民館に行ったのですが
写真を撮り損ねたようです。
かつての堀跡を車で回って、肥田城跡を後にしました。
おっちゃんさんの投稿された現地案内板をみるとかつての
縄張りや堀跡が良くわかるようです。
今回は少し調べがたりなかったようです。近くによったら再度、土塁跡や城址碑を
チェックしてみようと思います。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 高野瀬隆重
築城年 大永年間(1521〜1528)
主な城主 高野瀬氏、峰屋氏、長谷川氏
遺構 土塁、堀
再建造物 石碑、説明板
住所 滋賀県彦根市肥田町(地図は石碑の場所を示す)