すえもりじょう

末森城

石川県羽咋郡

別名 : 末守城、末盛城
旧国名 : 能登

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小城小次郎

前田・佐々の戦いはここが天王山だった (2023/04/23 訪問)

小牧・長久手の戦いに連動して行われた前田vs佐々の戦いの中で天王山と呼べる戦となったのが末森城の戦い。寡兵で籠る奥村永福が佐々軍15,000を釘付けにした挙句に佐々の加賀侵攻を諦めさせたという画期的な戦いの舞台である。

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刑部

「末森合戦」の舞台 (2023/05/05 訪問)

駐車場から主郭部まで約20分程度、遺構が現れてくるとワクワクしながら登りました。ここもかなり見所があります山城好きは是非訪れてください!

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:末森城 (2022/08/01 訪問)

以前、愛知県の末森城と間違えて攻城済としていましたが、今回は間違えずに石川県の末森城を攻城しました。
荒山城からの転戦です。この地点(36.831822、136.769981)を経由して小道へ入り、橋手前の駐車場(36.833271、136.7771082)に駐車しました。
そこから、緩やか遊歩道を600m程登ると若宮丸、北へ進み三の丸➡二の丸➡本丸と続いています。

築城年代は定かではないようですが、畠山義続の家臣で地頭職であった土肥親真によって築城されたとされますが、詳細は不明のようです。
1577年(天正5年)越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏し、斎藤朝信らが末森城に入ったとの記述があり、その後、そのまま親真が城主として配されたようです。
1580年(天正8年)加賀国の一向一揆を鎮圧した織田信長家臣の柴田勝家らが侵攻してくると、再び降伏しました。
前田利家が能登に入封となると、家臣奥村永福が城番となり、土肥但馬の一族が附属したようです。
1584年(天正12年)越中国の佐々成政は能登を急襲して末森城を囲みますが、前田利家軍数千の急援により、成政軍は撤退しました(末森城の戦い)。
この勝利が前田利家の能登・加賀統治の基礎となりましたが、1615年(慶長20年)の一国一城令により廃城となりました。

橋手前の駐車場から国道上に架けられた橋を渡って城山に入って行くと、「末森城合戦の碑」という大きな石碑があります。
緩やかな遊歩道を登って行くと、若宮丸があり、そこより北に登ると三の丸、二の丸、本丸と段々に高くなって曲輪があります。
若宮丸手前と、三の丸と二の丸間に堀切が確認できます。
末森山頂上の本丸跡の中央付近に案内看板があります。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=御舘館に向かいます。

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前ちゃん

奥村助右衛門と佐々成政の攻防戦 (2022/04/04 訪問)

花の慶次ファンは立ち寄ってほしい
JR七尾線、宝達駅から歩き、国道沿いを北に歩くと看板(駐車場)が、登城後は、敷浪駅まで歩き七尾へ

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城
築城主 土肥親真?
築城年 不明
主な城主 土肥氏(畠山氏家臣)、斎藤氏(上杉氏家臣)、奥村永福(前田氏家臣)
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(末森城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 石川県羽咋郡宝達志水町竹生野
問い合わせ先 石川県教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 076-225-1841