内牧城からの続きです。今度は(牛方馬方騒動)で敗れた清正の重臣「加藤正次」の居城「南関城(鷹ノ原城)」を訪れました。
清正の肥後入国後、肥後の北の守りを任された正次は大津山城に入りますが、1600年清正に進言して新たにここに城を築き1604年に完成します。縄張りは、清正が実際ここに来て自ら考えたとされています。しかし正次は1618年に騒動に敗れ、幕府の命で家臣ともども流罪となり、一国一城令で南関城は破却されました。正次の謀反は本当だったのでしょうか? それとも正方のでっち上げだったのでしょうか? 尾張の時代から清正に仕えた正次にとっては、さぞかし無念だったであろうと思いました。
大牟田駅から南関行のバスに乗り50分、終点の南関町役場で下車すると、南関城が見えてきます(写真①)。ここから麓の「御茶屋跡」まで徒歩10分、そこから山頂本丸まで10分の軽い登りで行く事ができました。山は扁平に削られ、そこに本丸・二ノ丸・三ノ丸があり、4つの堀切でこれらは分断されていた、難攻不落の城だったようです。しかも築城当時は、肥前名護屋城に匹敵するほどの巨大な城だったとされています。御茶屋は江戸時代に入り建てられた、参勤交代のための宿だそうです(写真②)。
この茶屋の横から登城開始します(写真③)。官軍墓地(写真④)に着いたらその背後が本丸です(写真⑤)。墓地には西南戦争で亡くなった官軍兵士77名が眠っているそうです。南関城の最大の見どころは、その先にある「本丸西虎口」です(写真⑥)。高石垣跡とその下には、二重三重にも折れをともなった堀跡が残っていて、これは必見です!(写真⑦)
南関城は築城からわずか14年後の1618年に一国一城令で破却が行われ、さらに島原の乱の翌年1638年には二回目の破却が大規模に行われています。ここでの破却はとても特異な形で行われています。その様子をこの西虎口で見る事ができます。この写真⑧⑨を見て下さい。真ん中に7m21段の石垣が残っていますが、ここは一番上の本丸までかつて石垣があったようです。つまり推定約15mの石垣が、本丸までを覆っていたと言う事になり、その石垣の石を下まで破却して、それを何と登城路を兼ねた堀の中に落とし、その上から土をかぶせて埋めてしまったのです。
よって堀(登城路)も相当深かった事になります。さらにこの両側には塀があり櫓門や隅櫓があったので、元々はかなりの鉄壁な防御が施された城だったと推測されます。それをここまで壊したのは、島原の乱では先陣を切って戦った細川忠利です。
忠利は従兄弟の三宅藤兵衛や多くの家臣を島原の乱で失いました。ゆえに一揆軍をかなり憎んでいたと思います。私は西虎口から破却跡を眺めていると、原城のようにキリシタンに利用されてなるものか! という忠利の強い意志が伝わってくるような気がしました。
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