なんかんじょう

南関城

熊本県玉名郡

別名 : 南関新城、鷹ノ原城
旧国名 : 肥後

投稿する
①	南関町役場から南関城を見上げる
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

トク

南関城【牛方馬方騒動-②】加藤正次 (2025/11/21 訪問)

内牧城からの続きです。今度は(牛方馬方騒動)で敗れた清正の重臣「加藤正次」の居城「南関城(鷹ノ原城)」を訪れました。

清正の肥後入国後、肥後の北の守りを任された正次は大津山城に入りますが、1600年清正に進言して新たにここに城を築き1604年に完成します。縄張りは、清正が実際ここに来て自ら考えたとされています。しかし正次は1618年に騒動に敗れ、幕府の命で家臣ともども流罪となり、一国一城令で南関城は破却されました。正次の謀反は本当だったのでしょうか? それとも正方のでっち上げだったのでしょうか? 尾張の時代から清正に仕えた正次にとっては、さぞかし無念だったであろうと思いました。

大牟田駅から南関行のバスに乗り50分、終点の南関町役場で下車すると、南関城が見えてきます(写真①)。ここから麓の「御茶屋跡」まで徒歩10分、そこから山頂本丸まで10分の軽い登りで行く事ができました。山は扁平に削られ、そこに本丸・二ノ丸・三ノ丸があり、4つの堀切でこれらは分断されていた、難攻不落の城だったようです。しかも築城当時は、肥前名護屋城に匹敵するほどの巨大な城だったとされています。御茶屋は江戸時代に入り建てられた、参勤交代のための宿だそうです(写真②)。

この茶屋の横から登城開始します(写真③)。官軍墓地(写真④)に着いたらその背後が本丸です(写真⑤)。墓地には西南戦争で亡くなった官軍兵士77名が眠っているそうです。南関城の最大の見どころは、その先にある「本丸西虎口」です(写真⑥)。高石垣跡とその下には、二重三重にも折れをともなった堀跡が残っていて、これは必見です!(写真⑦)

南関城は築城からわずか14年後の1618年に一国一城令で破却が行われ、さらに島原の乱の翌年1638年には二回目の破却が大規模に行われています。ここでの破却はとても特異な形で行われています。その様子をこの西虎口で見る事ができます。この写真⑧⑨を見て下さい。真ん中に7m21段の石垣が残っていますが、ここは一番上の本丸までかつて石垣があったようです。つまり推定約15mの石垣が、本丸までを覆っていたと言う事になり、その石垣の石を下まで破却して、それを何と登城路を兼ねた堀の中に落とし、その上から土をかぶせて埋めてしまったのです。

よって堀(登城路)も相当深かった事になります。さらにこの両側には塀があり櫓門や隅櫓があったので、元々はかなりの鉄壁な防御が施された城だったと推測されます。それをここまで壊したのは、島原の乱では先陣を切って戦った細川忠利です。

忠利は従兄弟の三宅藤兵衛や多くの家臣を島原の乱で失いました。ゆえに一揆軍をかなり憎んでいたと思います。私は西虎口から破却跡を眺めていると、原城のようにキリシタンに利用されてなるものか! という忠利の強い意志が伝わってくるような気がしました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ろっし

お城探訪 (2024/01/02 訪問)

南関御茶屋敷の駐車場から登りました。

登りきるまでは屋敷の庭園ですが、登った先には立派な石垣を見れます❗

官軍墓地もある激戦の地だったみたいなので手を合わせて帰りました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

織田晃司

インター降りて (2023/09/16 訪問)

近くにあります。

+ 続きを読む

加藤清正の縄張り (2023/02/24 訪問)

 一国一城令により破却されてしまいまたが、案内板には「その縄張りの規模は、近世の宇土城跡や肥前名護屋城跡に匹敵する大きさを持つ近世城郭でした」とあります。天候もよくなかったので、あまり周囲を散策しませんでしたが、どのように石垣があり、どのような規模であったのか、在りし日の姿が気になる所です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 山城
築城主 加藤正次
築城年 慶長5年(1600)
主な城主 加藤氏
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、石垣
再建造物
住所 熊本県玉名郡南関町大字関町字城ノ原