たけがはなじょう

竹ヶ鼻城

岐阜県羽島市

別名 : 竹鼻城
旧国名 : 美濃

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歴史民俗資料館の西前に建つ解説板と石碑
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カズサン

南美濃未踏の城探訪1/7竹ヶ鼻城 (2024/10/14 訪問)

 秋日好天続きで急ぎ未踏の空エリア南美濃の城探訪へ、浜松より高速を飛ばし岐阜羽島ICを出て北に約2km程の竹ヶ鼻城へ初登城しスタートを切りました。

 駐車場:羽島市歴史民俗資料館駐車場を利用。
 参考資料:城郭放浪記さん古城盛衰記さんグーグルマップに依る。

 城郭風建物の羽島市歴史民俗資料館が故地に成り、西側の道側に案内解説板と「史蹟 竹鼻城本丸之趾」石碑が並んで立っている、西側には立派な東本願寺竹鼻別院が建ち、門前横にはお城地蔵菩薩立像が建立されている、この地蔵は竹鼻城玉砕の風雪忘れ去られた戦没者の供養をと、昭和に入り町内某氏が供養塔建立発起したが戦時下の情勢悪化で中断、戦後町内有志でこの意志を継ぎ昭和25年お城地蔵菩薩を建立したと案内板に記載されている。

 朝8時半に着きました、歴史民俗資料館は9時より開館でしたが係りの方が出勤しており早めの入館と成りました、入館料大人300円、丁度1階の企画展示室ではこれから訪ねる八神城の「八神城と毛利氏」題して企画展示が令和6年10月5日~12月15日まで開催中でした。
 清和源氏を祖とする名家毛利氏、当代の提供を受けてこの展示となった、八神城の江戸期絵図と立体模型、毛利氏系図では八幡太郎源義家からの系図が展示、古文書、古文書写真写し、菩提寺金寶寺に在る歴代城主の墓の写真など展示。
 尚展示の資料は「八神城と毛利氏」展示会の案内パンフレットとA4の配布資料のみ、係りの方に今回の展示の小冊子を訪ねましたが無いとの事で残念がって居ましたら、展示会が終了後に羽島市歴史民俗資料館のHPにアップするそうです。

 又2階の資料展示室の奥角に「竹ヶ鼻城」の展示がされて居ます、ここも秀吉の水攻めが小牧長久手の戦い時あった様で、一夜堤の跡地を示す石碑の写真展示3ヶ所(竹鼻町今町、市営斎場前、羽島郵便局前)。
 関ケ原の戦いでの前哨戦で東軍と戦い落城炎上した旨の解説がなされています。
 尚帰宅後に羽島市歴史民俗資料館のHPを開くと「竹ヶ鼻城」の解説説明がA4で4~5頁ほどの解説が掲載されいました。

 また、羽島市歴史民俗資料館には映画資料館も併設されて2階には懐かしい映画ポスターが貼られて美空ひばり、大川橋蔵などの人気俳優を久しぶりにポスターで眺めました、映写機などの機材も展示、視聴室も併設で鑑賞会も有る事でしょう、昭和の時代を内蔵してる異空間でした。

 行き帰りに竹鼻町の狭い道を通り抜けましたが古き良き時代を彷彿させる伝統的建物群が連なって居ました、良い街並み家並みです。
 
 この後は約1.4km程北西の一夜堤秀吉本陣の太閤山砦を目指します。
 

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しんちゃん

実は歴戦の城。 昭和が懐かしい‥ (2024/03/30 訪問)

竹ヶ鼻城は応仁年間(1467~1469)の築城とされています。小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉の水攻めにより開城したとされています。当時の城主は不破広綱とされています。関ヶ原の合戦では織田秀信の重臣・杉浦重勝が城主を務め8月22日に東軍に包囲され降伏を勧められるも拒否し、大身槍を奮って奮闘し城に火を放って自害したと有ります。翌日には岐阜城は陥落し、織田信秀は高野山に送られた後、慶長10年5月27日(1605.7.13)に高野山から下山させられ山麓にて死去と伝わります。享年は25とされ自害とも伝わっています。怪しすぎますね。
本丸と二の丸の中間あたりに城郭風の歴史民俗資料館及び映画資料館が立っています。定期的に昭和の名作映画を上映しているようです。入館料は300円くらいなので格安です。メチャうらやましい‥。昭和の時代はメチャクチャでしたが、歪んだ綺麗ごとをむりやり押し付けられる今の時代は正直息苦しくてたまりません。たまらなく昭和の時代が懐かしくなったりするのも齢をとってきたせいなのでしょうか。多少理不尽であろうと範を通そうとするものがいなくなってしまったのは残念ではあります。

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ぴーかる

竹ヶ鼻城 (2023/07/15 訪問)

【竹ヶ鼻城】
<駐車場他>羽島市歴史民俗資料館に駐車
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾ラストの13城目。竹ヶ鼻城の築城は応仁年間(1467~1469年)に竹腰尚隆によって築城されました。その後土岐氏や長井氏が入城しました。信長が美濃を攻略後は織田氏の支配に移ります。小牧長久手の戦いで織田信雄の配下の不破広綱が城主の時に羽柴秀吉によって水攻めに遭い落城します。関ヶ原の戦いの時は岐阜城主織田秀信配下の杉浦重勝が城主として籠城していました。八神城主の毛利広盛が援軍として二の丸・三の丸に詰めていましたが福島正則の降伏勧告に応じてしまったために落城しました。竹ヶ鼻城はその後廃城となったようです。
 城跡に遺構は残っていないようなので先にイオさんに倣って羽柴秀吉本陣の間島太閤山跡を訪れました。ここには小山が残されています。その後に羽島市歴史民俗資料館前の城跡説明板を撮影して資料館に行きました。資料館内は竹ヶ鼻城の資料・ブラタモリで放送していた木曽三川の輪中の資料が展示されています。映画館と古い映写機が十数台展示されていて興味が無くても十分楽しめます。
 北隣にある、はしま観光交流センターには葛アイス(味5種程)が販売されており夏場の城巡りの一服にはサッパリ最高です。
 この日のプランは終了し時間が少し余りましたが10城目の大野城跡で自家用車の運転席側のサイドミラーが急に故障してしまい気分がへこんでいたのでこのまま帰路に着きました。第2弾に続く…走行は事故無く400㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:竹ヶ鼻城 (2023/04/27 訪問)

加賀野井城からの転戦です。羽島市歴史民族資料館駐車場(35.324096、136.701879)に駐車しました。

築城年代は諸説あり定かではないようですが、応仁年間(1467年~1469年)に竹腰尚隆によって築かれたと云われています。
文明年間(1469年~1487年)頃には長井利隆が城主となりましたが、1497年(明応6年)加納城へと移っています。
長井氏の後は不破広綱が入城し城を改修するとともに城下町の形成を行ったが、小牧・長久手の合戦で落城しました。
最後の城主は杉浦重勝で10,000石を領したが関ヶ原合戦で岐阜城の織田秀信に呼応したため、東軍の攻撃にあい自刃して落城しました。

遺構は残っていません。現在は、羽島市歴史民族資料館前に石碑と説明板があります。
攻城時間は15分(羽島市歴史民族資料館の見学時間含む)くらいでした。次の攻城先=伏屋城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 竹腰尚隆
築城年 応仁年間(1467〜1469)
主な改修者 不破広綱
主な城主 竹腰氏、不破氏、一柳氏、杉浦氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 消滅
指定文化財 市史跡(竹鼻城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 岐阜県羽島市竹鼻町丸の内3
問い合わせ先 羽島市役所教育委員会生涯学習課
問い合わせ先電話番号 058-393-4672