(17人目)は「本多忠勝」です。
関ケ原の「本多忠勝 陣跡」を訪れてきました。
東軍随一の勇猛果敢な武将で知られた本多忠勝ですが、兵の数はわずか500、ちょっと少ない気もしましたが、徳川秀忠と行動を共にしている長男の忠政に兵の大部分を預けていたためのようです。忠勝は軍監として参加し(つまり作戦参謀でかつ豊臣恩顧の大名の監視役)そのせいか最初はあまり目立った活躍はありませんでした。次男の忠朝に戦は任せ、自らは家康陣(桃配山)と前線の中間に陣を敷き、前線で戦う福島正則や背後にいる南宮山の毛利軍の監視をしていたようです。現在の忠勝の陣跡は、何やら民家の裏庭みたいな所にあり、見学していたら住民のおじさんらしき人からじーっと見られまれました(勝手に人の庭に入られていい迷惑なのかも?)。静かに見学しましょう。
本多忠勝は今まで57度合戦をし、一度も怪我をした事がなかったようです😲! 腕には死者を弔う大数珠を下げて今回も家康の前方を守りました。14才で大高城の戦いから家康に仕え、大河ドラマでは山田裕貴さんがもうすっかり人気者になっていますよね! 三方ヶ原では叔父の忠真が、「行け平八郎~! おまえはおまえの好きな殿を守れ~!」と叫んで盾となって亡くなっっていったシーンには、ちょっと泣けてしまいました😭~!
忠勝は数々の戦で功を上げましたが、特に「伊賀越え」では家康を最後まで守り抜き、無事岡崎まで帰還させました。家康にとっては最も頼りになるボディガード的な存在だった事でしょう。ここを「どうする家康」ではこの後どのように描かれるのか? 私は楽しみにしています😊!
関ケ原の戦いの終盤、島津義弘が猛スピードで自陣の前を横切ります(島津の退き口)。それを追う井伊直政と松平忠吉も目の前を駆け抜けます。それを見た忠勝は自らもその後を必死で追いかけます。しかし途中で愛馬が撃たれ、それ以上は追うのはやめてしまいました。代わりの馬で追おうと思えば追えたはずです。なのにやめてしまいました。それは何故だったのでしょうか?
私は本多忠勝の陣に立ち、島津義弘が横切ったという目の前の道を眺め、考えてみました。それはきっと、忠勝の心の中にあった「武士の情け」がそうさせたのではないでしょうか?・・・🤔
次は、忠勝の関ケ原後の居城「桑名城」に続きます。
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