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ys11

川柳投稿

川柳作品
出すゴミも 慎ましやかな 城下町

城下町は、どこに行っても、出されているゴミが少なくて、質実剛健の気風が残っている。それが好印象。町の掃除も行き届いています。

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にのまる

【お城川柳】

祝日を避けて行ったら休城日

だいたい火曜日

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:桑原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の19城目は桑原城(2日目のラスト)です。
金子城から転戦。登り口空スペース(36.02808、138.13810)に一旦駐車しましたが、車で登れそうなので、そのまま中腹まで車で登りました。。

桑原城は築城時期等については不明ですが、桑原氏によって築かれたと伝わり、諏訪総領家の本拠・上原城の支城としての役割を果たしていたようです。
1542年(天文11年)武田信玄が諏訪へ侵攻し、上原城の諏訪頼重を攻めると、頼重は上原城を焼き払って桑原城へ退却し籠城しました。
しかしその後、頼重は降伏し甲斐へ連行され、切腹することとなり諏訪氏は滅亡し、桑原城はまもなく廃城となったそうです。
現在、城跡は標高981m(比高差約190m)の山頂や尾根に、本丸跡、二の丸跡、東郭、西郭、土塁、空堀などの遺構が残り、本丸跡、二の丸跡からは諏訪湖が一望できます。

右足膝痛なので、県道沿いの登り口から続く細い道を中腹まで車で行きましたが悪路です。空濠、堀切などが残されています。
途中、本丸下に首塚があります。
攻城時間は25分くらいでした。(今日はホテルでマッサージかな?)

2日目の攻城徒歩数=20603歩、攻城徒歩距離=16.07Kmでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県諏訪市)金子城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の18城目は金子城です。
大熊城から転戦。標識説明板前(36.011139、138.113898)に路駐しました。

金子城は諏訪神社上社に近く、諏訪の名族大熊城の千野氏の居館があったと云わっています。
「天正壬午の乱」の際に諏訪氏の旧臣である千野昌房が蜂起すると、諏訪頼忠を擁立して諏訪氏再興のため徳川氏に臣従しました。
頼忠は家康から所領を安堵され、1584年(天正12年)この城を改修して、茶臼山城から移り居城としましたが、徳川家康の関東移封に伴って諏訪を去ると廃城となりました。
代わって、諏訪に入った秀吉の武将・日根野織部正高吉は、茶臼山城に入り、1592年(天正20年)高島城の築城に掛かった際に、金子城を破却しその石材を舟で運び、石垣の一部にしたそうです。

宮川の屈曲部を天然の堀として活用した平城の縄張りです。宅地の真ん中に説明板がぽつんと立っているだけで、遺構らしきものは皆無でした。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県諏訪市)大熊城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の17城目は大熊城です。
有賀城から転戦。攻城は西側から。ナビで東側から案内されても西側から入るべし。東側は車が通れる道ではありませんので、(36.004955、138.103774)を経由して、城址入口(36.004399、138.104921)に駐車し、攻城しました。

大熊城の築城年代は不明だが、諏訪上社大祝氏の一族である千野氏の居城として知られています。
諏訪神社上社側に属する山城で、1483年(文明15)上社大祝家の一門・千野氏と下社大祝(惣領家)金刺興春との攻防の場となり、結果として大祝諏訪頼満(継満の父)は討ち取られました。
1542年(天文11年)に武田信玄と高遠頼継の連合軍が諏訪へ侵攻した際、千野伊豆入道と千野南明庵の兄弟が立て籠もっていましたが、武田氏に攻められ落城しました。
その後、頼継が反乱を起こすと、千野氏は武田氏に従って諏訪衆として働き、さらに武田氏滅亡後は千野房清が諏訪頼忠の家臣として徳川氏に従属する使者をつとめています。

城址の南側は中央自動車道建設により消滅しています。ほんのわずかですが北側に土塁や空堀などの遺構を確認できます。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:有賀城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の16城目は有賀城です。
高遠城の移築搦手門から転戦。江音寺墓地(36.018369、138.082363)に駐車し、墓地(36.017975、138.082362)から登城しました。

有賀城は、承久年間に有賀氏によって築かれました。有賀氏は諏訪一族で諏訪頼忠から分かれたとされ代々有賀の地を領していました。
1542年(天文11年)に高遠頼継が挙兵した際は武田氏に味方するも、1546年(天文15年)に有賀泰時は木曽義昌に通じたため武田氏に滅ぼされました。
その後は原虎胤、千野靭負尉が城主となりました。江戸時代には諏訪頼水の家臣である千野丹波守房清が城主をつとめています。
現在城址には土塁や堀切などの遺構が残っており、北麓に千野氏の菩提寺である江音寺があります。

痛い右足を引きずりながらの攻城でした。
豪快な堀切に横堀+竪堀という複雑な縄張。主郭前後の堀切は規模が大きいです。
攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:高遠城の移築搦手門(長野県岡谷市) (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の15城目は高遠城の移築搦手門(長野県岡谷市)です。
花岡城から転戦。久保寺駐車場(36.043480、138.058848)に駐車しました。

有賀城に向かう途中なので、高遠城の移築搦手門を見学しました。
大手門は高遠城址(長野県伊那市)にありますが、搦手門は長野県岡谷市の久保寺に移築されています。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:花岡城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の14城目は花岡城です。
岡谷城から転戦。花岡公園駐車場(36.052460、138.0512)に駐車しました。

『諏訪旧跡年代記』によると、城主は目まぐるしく変わったようで、承久の頃(1219-21)は有賀四郎、応永年中(1394-1427)には有賀美濃入道性存の一子豊後の守、天文年中(1532-54)有賀備後守、その後浜氏になったといいます。
武田信繁が領し、板垣信方が湖尻の砦を構えたということは『箕輪記』にもあるらしい。
1567年(永禄10年)の『諏訪五拾騎面々』の中には、花岡藤兵衛の名があり、同氏は武田信玄に従っていたことが分るが、花岡城在住は不明です。
これより先、諏訪西方衆である花岡氏は1542年(天文11年)に諏訪に侵攻した武田信玄に臣従しましたが、1548年(天文17年)に信玄が「上田原の戦い」で村上義清に敗れると、花岡忠常も小笠原長時や藤沢頼親などに呼応して反乱を起こしています。
しかし武田軍に制圧されて、花岡城も落城し、そのまま廃城となったようです。

現在城址は「花山公園」として整備されており、土塁の遺構を確認することができます。また諏訪湖が一望できます。
攻城時間は15分くらいでした。

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肉球

赤い瓦と緑の瓦 (2021/06/24 訪問)

何度か訪れたことがある福井城ですが
山里口御門が復元されてからは初めてです。

小さな門ですがここだけで薄緑色した瓦と
枡形を囲う赤瓦と2種類の瓦を楽しめます。
笏谷石に狭間を加工し土塀に張られた部分や
円柱状に加工された瓦が目を引きました。
 

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赤い城

菅寺尾城 (2021/06/27 訪問)

横浜の寺尾城と区別するため菅寺尾城とも呼ばれています。
寺尾台団地になっていて遺構はほとんど残っていません。
城址にあたる部分は遊歩道になっています。
曲輪や空堀の跡っぽい部分が残っていました。
諏訪氏一族の寺尾氏よって築かれ、戦国期には北条氏の配下となりました。

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にのまる

【お城川柳】

陸の孤城難攻すぎてギガなくす

ただの迷子

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イオ

【お城川柳】

在りし日に 思いをはせる 城の跡

物理的存在としての城ももちろん好きなんですが、自分がよく知る歴史(思い入れがあればなお良し)の舞台となった城では、まさにこの地に信長が、長政とお市の方が、大谷刑部がいたんだなぁ…などと、往時に思いをはせるのも大きな楽しみになっています。

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肉球

北ノ庄城 福井県福井市 (2021/06/24 訪問)

福井城見学したあと柴田神社に向かう途中の歩道脇に
福井城百間堀の石垣の一部が窓越しに覗くことができるところがありました。
窓が汚れていてよく見えませんでしたが。
20数年ぶりに訪れましたが社殿も建て替えられ綺麗に整備され
福井城の日向門石垣や北ノ庄城の石垣一部など
以前にはなかったものが見学できました。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県岡谷市)岡谷城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の13城目は岡谷城です。
高山城から転戦。花見ヶ丘児童遊園地駐車場入口(36.060745、138.042333)から入り、駐車しました。

築城時期など不明であり、城主としては大熊城と同じく、上社大祝家の一門・千野氏と云わっているそうです。

明確な遺構は見つけられませんでした。公園と墓地です。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県塩尻市)高山城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の12城目は高山城です。
北熊井城から転戦。通行止め橋付近路肩(36.114855、137.984402)に駐車しました。

史実は不明。花岡城に行く途中で寄ってみましたが、曲輪が見れるくらいですね。
橋前で工事中。橋を渡っていいか確認して攻城。橋前の交通量は多いです。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県塩尻市)北熊井城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の11城目は北熊井城です。
高島城(常光寺山門)から転戦。北熊井城説明板前(36.129828、137.982265)に着きました。

北熊井城の築城時期は不明ですが、埴原牧の別当から武士になった村井氏が築城したとされます。
戦国時代には小笠原氏の家臣の城であったと考えられるが、「塩尻峠の合戦」で小笠原長時が武田信玄に大敗を喫すると、ほぼ同時期に落城し、武田家によって改修されたと考えられています。
その結果、1万程度でも収容できる城となり、恐らく松本侵攻への拠点にも一時なったものと推測できるようです。
高白斎記によると1545年6月15日頃に、熊野井の城が自落とあるので、武田勢の侵攻の際に、降伏したと考えられています。
現在城址には土塁や堀切が残っており、とくに本丸東側に設けられた三重堀切は良好な状態で保存されています。

歩きやすい平山城で、耕作地に囲まれていますが、深い空堀が非常に良く残っており、見応えがあります。
北熊井城は本城の他、東1~東2、竹の花、西1~西3で構成されていますが、右ひざ痛の為、本城付近の見学だけしました。チラシや杖なども用意されてます。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:高島城(常光寺山門 移築門) (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の10城目は高島城(常光寺山門 移築門)です。
赤木北城から転戦。常光寺駐車場(36.133598、137.978986)に駐車し、常光寺山門(高島城の移築門)を見学しました。

高島城自体は長野県諏訪市にありますが、ここ常光寺(長野県塩尻市)山門は高島城から移築されたものです。
北熊井城に行くついでに寄ってみました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:城びと未登録(長野県塩尻市)赤木北城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の9城目は赤木北城です。
埴原城から転戦。城址入口の空スペース(36.162879、137.972080)に駐車しました。

戦国時代、小笠原氏の城として赤木氏により赤木南城と共に使用されたと考えられています。

攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目:埴原城 (2021/06/28 訪問)

JR飯田線/身延線沿線城巡り2日目の8城目は埴原城です。
水番城から転戦。蓮寺華・埴原城駐車場(36.187055、138.008412)に駐車し、獣除けフェンス(36.188080、138.010250)まで200mくらいでした。

埴原城は信濃国の守護・小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)が拠った城で、埴原勅旨牧(御牧)が荘園化された頃(鎌倉時代)に牧場地帯から 西の松本盆地の南部に下り、村井に館(小屋城)を構えて村井氏を称したようです。
その頃に要害城として埴原城を構えたのが この城の始まりとされています。
室町時代に小笠原氏が信濃守護職として入部した為、その支配下に入りました。
戦国時代に入ると甲斐の武田氏が 信濃に侵攻を始め、小笠原氏は本城の林城の南にある埴原城の整備強化をはかりました。
1548年(天文17年)塩尻峠の戦いの後、1550年(天文19年)武田晴信により真っ先に攻撃され落城しました。
この後、林城など小笠原氏の諸城は続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになります。
武田氏滅亡後、小笠原長時の三男である小笠原貞慶が徳川家康の支援を得て深志城などを奪還した際にこの城も取り戻して改修しています。
現在城址には石垣や土塁、畝状竪堀群などの遺構を確認することができます。

主郭より各尾根に遺構が残る大きな山城で城域が広すぎます。若干の右ひざ痛が残る中、90分かけて攻城しましたが半分も見学できていないと思います。
主郭付近は石積も良好に残っていますが、登城路にマウンテンバイク跡が残っていたのには驚きました。
攻城時間は90分くらいでした。

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にのまる

【お城川柳】

蜘蛛の巣をリンボーダンスでくぐり抜け

ぎっくり腰注意

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