大峪城は戦国時代に神保長職によって築かれたのが始まりとされています。天正13年(1585)に羽柴秀吉が富山城に佐々成政を攻めた際に本陣が置かれた白鳥城の出城であったとされています。昭和44年の旧五福小学校の校舎が建てられるまでは、四方を巡る土塁と北東隅と北西隅の櫓台が残っていたようです。すでに五福小学校は移転しており、案内板によると、東土塁は五福芝生スポーツ広場の走路下に保存されているとのことです。
要は埋めちゃったということでしょうか?
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2025/03/13 21:33
時代 (2025/03/10 訪問)
大峪城は戦国時代に神保長職によって築かれたのが始まりとされています。天正13年(1585)に羽柴秀吉が富山城に佐々成政を攻めた際に本陣が置かれた白鳥城の出城であったとされています。昭和44年の旧五福小学校の校舎が建てられるまでは、四方を巡る土塁と北東隅と北西隅の櫓台が残っていたようです。すでに五福小学校は移転しており、案内板によると、東土塁は五福芝生スポーツ広場の走路下に保存されているとのことです。
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2022/08/29 07:31
2022夏の青春18キップ12日目:大峪城 (2022/07/31 訪問)
富山城からの転戦です。まず、呉羽山にある佐々成政剃髪趾を見学する為、考古資料館駐車場(36.709692、137.189131)に向かいました。
その後、シルバー人材センター駐車場(36.698951、137.182653)に駐車させて頂き、付近を散策しましたが、何も見つかりません。
築城年代は定かではないようですが、神保長職によって築かれたのがはじまりと云われています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による佐々成政征伐で、秀吉が白鳥城に本陣を置くと前田氏の家臣片山伊賀守が白鳥城より大峪城へ移り出城として守備、成政が降伏した後は延高が城主となります。
1599年(慶長4年)延高は利長の命を受けた石川源太、松田直憲によって大坂で殺害されました。利家の死から僅か七日後の事でした。
利家の遺言状には延高には謀反の気配があるから油断しない様書かれており、それに従ったものと思われます。徳川家康が延高を高く評価し手を回していたからと云われています。
延高の後、大峪城には代官が置かれますが、その詳しい時期は不明ですが、関ヶ原の戦い前後までには廃城となっていたようです。
佐々成政が豊臣秀吉に降伏した際、呉羽山にある佐々成政剃髪趾で髪を剃り僧衣をきて服従の意思を示したそうです。
大峪城跡は五福小学校の移転後、スポーツ広場になっており、何も残っていません。案内板も見つからなかった。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=白鳥城に向かいます。
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2022/05/23 00:35
分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 神保長職 |
築城年 | 戦国時代 |
主な改修者 | 前田利家 |
主な城主 | 片山氏(前田氏家臣) |
廃城年 | 慶長5年(1600)頃 |
遺構 | 曲輪、土塁 |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 富山県富山市五福字城 |
問い合わせ先 | 富山県埋蔵文化財センター |
問い合わせ先電話番号 | 076-434-2814 |