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前ちゃん

春日山城跡② (2022/07/10 訪問)

100名城、86城目の登城。埋蔵文化財センターで展示会も

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にのまる

⑤東門・鍛冶工房・第5水門 (2022/06/07 訪問)

 第4水門を過ぎると間もなく東門です。城門自体は西門・南門より小ぶりだったそうですが、谷に向かって巨大な姿を呈する岩盤と一体化しており、城門構築に最適な場所だったことが伝わってきました。
 鬼ノ城の登山口はビジターセンター経由しかないと思っていたのですが、ここから阿弥陀原登山道が奥坂休憩所まで続いているという案内板がありました。東門の説明板には鬼ノ城がつくられた当時の登城道と重複している可能性が高いとあります。東門へダイレクトにつながる登城道。いつか登るチャンスが巡ってきたときのため頭の片隅に記憶しておくことにします。
 3時間のタイムリミットが迫るなか、とにかく一周して振り出しに戻らねばと先へ進みます。
 岩肌露出の道を抜けると1999年に存在が確認された鍛冶工房跡に出ました。2009年の発掘調査で鍛冶炉や作業痕が見つかったのだそうです。現場は草に覆われていましたが、炉のあった場所が示されており、石の成型などの作業風景が目に浮かんできました。人の気配が感じられる場所、大好きです。屋外展示として復元されたら面白そうだなと思いました。
 鍛冶工房からアスレチックのような道を数分進んだところの分岐がちょうど外周の真ん中あたりのようでした。ここから中心部の礎石建物群を通るコースもありましたがそちらへは向かわず第5水門へ。水門背後の土手状遺構は説明板に従い下りてみました。石垣は草の下のようでしたが、水場の証だろうと納得しました。
 第2展望(屏風折れの石垣)まであともう少し!

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T-Shionoya

北条水軍の拠点を感じに三崎城へ (2022/05/29 訪問)

小田原北条氏の支城巡りの一環として、5月末に神奈川県三浦市の三崎城を訪問。

三浦半島の南端、海岸線が複雑な海食台地の一角に築かれた三崎城。
海路では相模湾と東京湾の境にあたり、城ヶ島が天然の防波堤となるこの地は現在も漁港の町。

築城時期は不明ながら戦国期に三浦氏が水軍を置いており、北条時代には安房の里見氏と戦ってきた水軍の城。
4代氏政の時代からは、弟で韮山城主の氏規が城主を兼務しました。

現在、東エリアは市役所が残るものの、他の公共施設は解体されほぼ空地状態。
西エリアには小学校と2つの寺院があり、江戸中期に移転してきた本瑞寺は元々源頼朝の別荘地。
光念寺は鎌倉初期の創建とのこと。

実際に訪れると、やはり城の雰囲気は薄く、土塁と堀と土橋の面影がある慰霊堂付近が最も色濃い場所でしょうか。
掘れば馬出などの堀が出てきそうで、今後の土地利用が気になるところ。
こちらも土塁が残る2つの寺院は、弁天堂や江戸期の門と鐘があるキレイなお寺。現在は住宅群で半分遮られていますが、まだ城ヶ島の嘗ての景勝ぶりが感じられました。

ついでにマグロを味わえればベターでしたが、食より次の目的地へ向かった私の城巡りの127城目でした。

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カズサン

白漆喰壁リニューアルまだまだ真新しい天守閣 (2022/05/23 訪問)

 平成30年に天守閣外壁が白漆喰壁、内部展示もリニューアルオープンしました、同年5月に下総の国未踏の城廻りの帰り新幹線で小田原に途中下車して、真新しい白亜の天守閣を眺めました、前回も今回も天守閣内部には入って居ませんが、4年経過していますが天守閣の白さはまだまだ真新しいままです、太陽の光に依りますが何処から眺めても絵になる天守閣です。
 
 昼も1時過ぎに成り本丸の茶屋に空きも出来て居り、昼食を頂きました冷たい北条そばが、炎天下巡って身としては大変体に良い心地で、ゆっくり昼食時間を過ごせました。
 
 天守閣、本丸、常盤木門、常盤木櫓門内部の売店、本丸東掘赤い橋、本丸東掘り、今は花菖蒲畑、本丸南側下に廻り関東大震災で崩落滑り落ちた本丸鉢巻石垣の崩れた現状を観察、南曲輪の二重櫓石垣、馬屋曲輪を内から外濠越しに眺め、二の丸隅櫓を馬出門より眺めて、今回の探訪としました。 月曜日でも人が多いです流石小田原城。

 次に陽もまだ有り石垣山城を目指します。
  

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カズサン

復元馬出門枡形 (2022/05/23 訪問)

 馬出門桝形は平成21年(2009年)に復元されて居ます、平成23年10月に復元直近の復元馬出門を観察見学しましたが、写真データー保存したDVDの読み取り不可と成り、今回の登城で11年振り再度の観察撮影ともなりました。

 山中城を岱崎出丸を含めて約3時間探訪し、県境を越えての移動自粛が有りましたが連休の移動も全国活発に成って居り、箱根峠を越えると相模の国、麓は小田原城と近く箱根バイパス国道1号線を進行、箱根峠はまだツツジ新録も美しく良い眺め、カーブ道を慎重運転し小田原城の二宮神社側の有料駐車場を目指し南曲輪壕南藤棚南の駐車場に駐める。

 駐車場から御茶壷橋、御茶壷曲輪、馬屋曲輪を経て目的の復元馬出枡形を観察見学撮影、馬出門土橋側、馬出門表裏、枡形内、内冠木門表裏、銅門枡形の住吉橋堀端と銅門枡形の北直ぐ傍の堀端から、馬出門枡形が開放してる西側を狙って撮影。

 馬出門枡形も復元されて12年も過ぎ、門、土塀の使用木材も経年変化で其れなりに古びて来ており貫録を増してきたようにも感じられます、また小田原城の正面入り口にも当たり、登城日は月曜日でしたが人出も多く、人を入れないで撮影するのには根気が要りました。

 撮影観察を終えて次に白壁リニューアルした天守閣を目指す。


 

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しらさぎ

丹波三大山城の一角 (2022/04/09 訪問)

丹波富士(高城山)に築かれた波多野秀治の居城
1.岡田丸跡
2.二の丸跡
3.三の丸跡
4.本丸跡
5.本丸東面石垣
6.中の壇北側の竪堀
7.芥丸北面堀切
8.池西番所南面堀切
9.朝路池跡
10.城山

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前ちゃん

春日山① (2022/07/10 訪問)

春日山城跡ものがたり&林泉寺へ

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ろっし

お城探訪 (2022/07/09 訪問)

石垣、堀など見れます
武家屋敷もありますが中は見れません。

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チェブ

鬼美濃の緊迫感。 (2022/05/05 訪問)

キラキラした「名古屋城」の後に「古宮城」に転戦しました。
浮わついた気持ちで攻め込むと、やられます(笑)

奥平氏の地に、1572年武田 信玄さんの命で三河侵攻時、馬場 信春さんが「古宮城」を築きます。
翌年、信玄さんが亡くなると、奥平氏は徳川 家康さんに内通しました。
その後、武田家は衰退します。
「古宮城」、3年位しか使われてないのに、馬場 信春さんの緊迫感が今も伝わります。

作手歴史資料館で続100名城スタンプと、資料をいただき出陣しました。
資料館の方と、奥平氏の話しで盛り上がり、なんとなく『長篠の合戦』をイメージしていました。
白鳥神社に説明板があり、三河侵攻最前線の「古宮城」だと再認識。
神社からも戦う城の雰囲気があり、入城すると深い堀や大きな竪堀が今も戦闘態勢を整えてます。
堀と土塁が重ねてあり、馬場 信春さんの三河侵攻への想いが「古宮城」の遺構から解ります。
私有地だと言う事もあり、無理に奥まで進みません。
が、何回か位置が分からなくなり、戻りました。
竪堀は大きすぎ、写真で写しましたが入りきりませんでした。

「古宮城」、どのような気持ちで 馬場 信春さん、築城したのでしょうか?
信玄さんの急死、その後の武田家衰退。
それとも、信玄さんの死期を感じていたとか?
今も「古宮城」は鬼美濃と言われた、馬場 信春さんが睨みをきかせて死守しているようでした。

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イオ

藤島の戦い (2022/06/05 訪問)

築城時期や築城者など詳細は不明ながら、南北朝期には足羽七城のひとつに数えられた北朝方の城で、藤島城攻略のためにわずかな手勢で督戦に向かった新田義貞が燈明寺畷で討死するきっかけとなった城です(藤島の戦い)。その後、城跡には超勝寺が創建され、本願寺の東西分裂に伴い西超勝寺となって現在に至ります。

西超勝寺の山門脇には藤島城の石碑と説明板が建てられ、かつては北側と東側に土塁や堀があったようですが、現在では本堂の裏手に土塁の一部が確認できるのみです。

なお、藤島城から西に約5.5kmには国史跡の燈明寺畷新田義貞戦没伝説地があり、江戸前期に義貞のものとされる冑が水田から発見されたことから、新田塚とも呼ばれています。発見された冑は藤島神社が所蔵していますが、形状などから戦国期のものと考えられるようです。伝説地には祠堂のほか、石碑や説明板が建てられています。
 

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にのまる

④南門~第4水門 (2022/06/07 訪問)

 南門は復元された西門と同程度の規模や構造だったと推測されているそうです。
 階段状に敷設された石敷きの通路を下りきると急斜面が待ち構えていました。そこで振り返ると天然の壁が覆いかぶさるように迫ってきます。この通路や両側の門礎、柵列からかつての大きな門をイメージ再建すると、残された空間は歩いてきた園路だけです。逃げ場はない感じでした。
 先へ進み少し下ったところに再び高石垣が現れました。整地のおかげで難なく歩けましたが、岩盤の露出も多く、版築には向かない場所だったのではないかと思いました。高石垣を上から覗き込むのは無理でした。
 さらに進むと木橋の架かる小川に出ました。小川は池へ続き、谷筋に第3水門があります。その先の高石垣上は列石が続いていましたが、中には人工的に配された感じのする石も。視線の先には小さく東門も見え、物見台か何かだったのではないかしらと思う雰囲気でした。あたりの石を見ると或いは祈りの場だったのかもしれません。
 ビジターセンターから第4水門まで約1.5km。まだ全行程の半分も来ていません。
それなのに残された時間は1時間を切ってしまって、ちょっとヤバいかなぁという気がしてきました……。

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モト

曲輪、空堀が確認でき縄張りがイメージできます (2022/05/24 訪問)

川中島の戦いで上杉軍の拠点として活躍したそうです。
読み仮名がわからなかったのですが、まさかみかぶりとはなかなか読めませんよね。
曲輪や空堀などから城の全体図である縄張りがイメージしやすい城跡でした。

車が10台くらい停められる駐車場がありました。
そこから城跡を目指して本丸までは15分くらいでした。
途中、鎧井戸があり雰囲気があります。
さらに奥に進むと土塁とわかる遺構や少し広くなった場所に池、曲輪、空堀がありました。
空堀に挟まれた本丸への道のりは雰囲気満点です。
また、本丸に吹く風は気持ちよく、景色もきれいでした。

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ぴーかる

松倉城 (2022/05/22 訪問)

【松倉城】
<駐車場他>登城口前10台程度駐車可能
<交通手段>車

<見所>曲輪・門跡
<感想>1泊2日富山城の旅10城目。松倉城は越中三大山城の1つで、南北朝時代の1335年、普門利清(井上俊清)によって築城されたとされる。南北朝時代後は椎名氏の居城となり、松倉金山を擁して政治・軍事の中心地として栄えた。戦国時代には城主の椎名康胤が、上杉氏から武田氏に寝返り、上杉謙信に攻められたが1度目はこれをを防ぎ、1572年信玄の西上作戦時には上杉氏に敗れ開城した。その後は上杉氏の家臣河田長親→須田満親が城将を務め、佐々成政→前田家の治領となり廃城となりました。
 城跡入口まで車で行けます。主郭は南北に広く、最奥に巨石群があります。巨石群から立入禁止となっていました。主郭の奥に堀切がありもう一つ曲輪があるようです。主郭から北に4郭まであり3郭4郭は土居があります。駐車場から下っていくと大見城平という広い曲輪群があります。現地の説明板が剥がれて読めないのですが武家屋敷跡のようです。大見城平に残る城門跡は石積みの残る城門跡で見応えあります。
 松倉城群の中心部としてはやや小さい印象ですが、このあと投稿する獄門原や武隈屋敷跡の遺構や城びと登録・未登録の支城群を合わせるととてつもないスケールでとても1日で巡りきれない見応えある場所です。

<満足度>◆◆◆

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赤い城

子孫の方がお住まい (2022/06/26 訪問)

早朝の訪問、個人宅なので門のところの写真を撮って引き上げようと思っていると散歩中の近所の方に声をかけられました。
日課としている散歩ルートとのことで一緒に敷地内に入って頂けました。
城跡には立派なお宅が建っていて四方を空堀が囲んでいます。
西側の堀を見学、北側には土塁もありますが、ここから奥は遠慮しておきました。
南側の門の脇にも空堀がありました。
川島氏館とも呼ばれ、見学はウエルカムっぽいですがやはり一声かけてからにしましょう。

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カズサン

岱崎出丸跡 (2022/05/23 訪問)

 岱崎出丸は岱崎砦とも言われ、山中城本郭群の南西尾根上を西側の旧箱根街道を進軍する豊臣軍を狙撃するように約400m程の細長い出丸です、内先端から200m程に畝掘りで有名な一の堀が出丸切岸下に備わっています。 
 先端からすり鉢曲輪、すり鉢曲輪の東対に武者溜り跡、中間に細長い岱崎砦がありすり鉢曲輪側に見張台、北側にも見張台、其の前面西向きに長い土塁が控え西を狙って居ます、中間から北側に御馬場曲輪長く二段に備わっています、御馬場曲輪の南側に深い切岸と一個の畝が有る畝掘りで東西を守ってる。
 土塁上から切岸、一の畝掘りの眺めが圧巻です。 草も刈られ綺麗に清掃されて気持ち良く探訪出来ました。
 
 山中城13編の投稿拝読頂き有難うございます。

 次は越境して小田原城に向かいます。
 

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名鉄お城めぐり切符

 名鉄の駅で「名鉄お城めぐりきっぷ」のポスターを見つけました。名古屋近郊の城(岐阜城、犬山城等)の入場券や割引券などがついた1日もしくは2日の名鉄電車のフリー切符ということです。詳細はHPをみてください。公共機関で名古屋周辺のお城巡りをされる方の参考になればと投稿させていただきました。

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織田信興 (2022/07/09 訪問)

 織田信長の弟信興が一向門徒との戦いで戦死したと伝わる城です。城址碑と案内板がありました。
 周囲は森川花はす田というレンコン畑で、訪れた日は「蓮見の会」というイベントが開催されていて多くの人が楽しんでみえました。蓮の花がきれいに咲いていました。ちなみに隣の城址碑のある富岡神社(蓮の畑の先に見えている林の所)を訪れていたのは自分ひとりでした。

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橋本一巴 (2022/07/09 訪問)

 織田信長の鉄砲師範として知られる橋本一巴の城です。遺構はありませんが、石碑が立っていました。

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雨の中 (2022/07/09 訪問)

城址碑がありました。遺構はないようです。

この日は天候が不安定で雨の中写真を撮ってさっさと退却しました。

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カズサン

三の丸跡と武将の墓 (2022/05/23 訪問)

 三の丸跡は本丸駒形諏訪神社南下から本丸、二の丸南下、箱井戸、田尻の池、三の丸堀、三の丸駐車場間を南側を通る旧箱根街道沿いに囲まれた地域に在ったようです。
 
 現在遺構として残ってるのは、西側の三の丸堀で縦に畝を設け東側は水堀、水路、西側は長い空堀、中の畝が登城路で二の丸、西の丸、西櫓への通路。水堀の続きとして、田尻の池、箱井戸が残って居ます。
 
 又三の丸跡には宗閑寺に小田原征伐山中城合戦の両軍戦死者の墓が有ります、山中城将松田康長、副将間宮康俊、隣に少し立派な豊臣方攻撃軍武将一柳伊豆守直末と並んで祀られて居ます、秀吉は勇猛な一柳伊豆守が戦死した事を大変嘆いたと言われて居り、美濃出身の同輩である堀尾吉晴、田中吉政などは関ヶ原後、数拾万石の太守と成って居り惜しまれる戦死でした。
 
 三の丸跡旧箱根街道を歩いていると路傍に芝切地蔵尊が土塁櫓台かと思う所に有ります、その傍が南櫓跡、大手門跡とグーグルマップの史跡マークに出て居ましたが、案内板等は確認して居ません。
 
 三の丸駐車場に戻り山中城本郭は終了し、岱崎出丸、岱崎砦の探訪に向かいます。
 
 

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